解説に戻る      (街談文々 第十一話ー第十五話)  前ページ     次ページ    Home
第11

       第十一  羽丹大地震
一  文化元甲子五月廿日六月四日出羽丹後大地震御届
   私領分の内、相洲庄内田川郡飽海(あくみ)郡の内と当月四日夜より同
   七日迄地震甚しく所々裂(さけ)候而(そうらいて)泥多湧出。地形或ハ高く或ハ低く
   相成候所数ケ所有之(これあり) 右ニ付破損所の覚
一  御米置場柵拾五六間、其外所々倒、同所土居廿間半引申候
一  亀崎城館玄関、廊下、台所向震、多門櫓(たもんろ)痛。礎(いしずえ)沈。 堀橋所々
   痛(いたむ)。 地面三四尺計(ばかり)長五七間づつ裂、泥水湧出。 土居百間程の所
   泥大手掘土置場長百間程の處岡ニ相成。 其前土井切石下
   堀土置場岡ニ相成候
一  侍屋敷 潰(つぶれ) 廿軒  一 同長屋 潰 八棟     一 給人家 潰 弐軒
一  同痛家 百三十五軒     一 町家 潰四百十三軒   一 同痛家四百廿四軒
一  寺 潰 廿七ケ寺       一 同 痛十六ケ寺      一 衆徒 潰四十七軒
一  同衆徒 イタミ七軒      一 社家  七軒        一 社(やしろ) 潰 壱社
一  修験  潰 三軒        一 同痛  三軒        一 道心寮 潰 壱軒 
一  民家潰二千八百廿六軒    一 小屋  九軒       一 土蔵 百八十弐
一  土蔵イタミ三百九十三軒   一 番所潰 拾ケ所     一 同痛 三ケ所
一  死人  百五十人       一 蔽馬 百四十弐疋
  右の通御座候。 田畑破損所の義追々猶又可申上(もうしあぐべく)候。 此段届申候成
    六月   右山焼崩レ海上ニ相成、出羽国死人数不知(しらず)
             酒田湊半分程海ニ相成、死亡人数六万人余
          酒井左衛門尉

  五月廿日
   丹後国    千石  最上監物     三千五百石   松平伯キ守
  六月四日
   出羽国  三万石  酒井左衛門尉   千五百石    上杉弾正大夫
                            千三百石    佐竹壱岐守
         弐千五百石 松平右京大夫   弐千石     上杉駿河守
         八百石    酒井石見守    八百石     戸沢上総介
         千七百石   六郷佐渡守   千四百石     岩城左京介

  土居 土盛り、土手
  文末の石数は災害に対しての緊急寄附か?

第12

        第十二  娼妓采女墳
一  文化元甲子六月浅茅ケ原鏡ケ池に傾城(けいせい)采女(うねめ)碑建
          采女塚
   寛文の頃、新吉原雁可年(かりがね)屋の遊女采女(うねめ)がもとに
   ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長かたくいましめて
   近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪へず采
   女が格子窓のもとに来りて自害せり。 采女その
   志を哀ミ、 ある夜家をしのび出て浅茅ケ原のわたり、
   鏡ケ池に身を沈めぬ。 時に年十七にして此里(このさと)
   美人なりしとぞ。 かたへの松に小袖をかけて短冊を付たり。
     名をそれと志らずともしれさる澤の
         あとをかがかがミが池に志つめは
   そのななきがらを埋しところ采女塚とてありしに、
   寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、 札に書しるして
   建置しに、それさへ失(うせ)ぬればこたび兄の志を継(つぎ)て
   石ふミにえり置ものなりし切
      文化元年甲子六月  駿洲加島郡 
                        石川正寿建
   碑陰
   金之竟合水也 相比采之無絲嬉而不喜 土可以封
   言可以已 車之所指毎田郎是一人 十口(劫)潭辺無水
  
北洲列女傳 巻ノ四色道軒?爽心 采女の傳ニ云宝暦六
   延宝の頃、堺町に雁金屋といへるに采女といふ女郎あり。
   容(すがた)美しく心さま温和(ニ)して、諸芸を嗜なミ時花(ときめ)
   る故、皆人末々ハいかなる松位(しょうい)にも上りなんといい興(きょう)
   けるまま、家にハ殊(こと)のほか秘蔵せり。 然るに其頃何某
   とやらんいいし沙門、 仮染に此采女を垣間(かいま)見しより
   妄念の執心休(やすみ)がたく、 終(つい)に破戒し永く奈落に
   堕せんも此女良(じょろう)ならバ、 と隠名を忍とやらんといいて、長
   羽織脇差にて日々に通ひけるに、 此事師の上人
   ニ聞へ、浄地の穢(けがれ)、法門の恥辱と勘当し三衣を剥(はぎ)て山
   を追出しければ、年月住馴し我名の忍婦(しのぶ)が岡も今
   ハ世に忍ぶずりもあらぬ身と、 いよいよ乱れて坂本辺に由緒
   の者の方にかかりて日を送り、夜々(よなよな)采女が方へ通ひけるに
   黄金(やまぶき)用ひ尽せバそろそろと疎(うと)ましく、忍大尽と持(もて)はやし
   けるも甚(はなは)だ粗末にし、後(のち)はせき断(ことわり)て家へも入ざりし程に、
   忍ハ無念いく計(ばかり)なく、せめてハ采女が面影なりとも
   見て心をはらすべしと、夜な夜な通ひ格子に身をひそめて
   伺ひける。 采女も元より其志の切なるに感じて、深く契り
   已に常ならぬ身と迄なりしも、今ハせか流々(るる)瀧川(たきがわ)のくだく
   る心のうち露ばかりも知らせ度思へ共、親方遣り手なと制し 
   て逢さねバ、只其事のミ思ひ沈ミて人知(ひとし)らず袂を濡しける。
   中略 其後忍は夜々格子迄来り采女ニ逢たく思へ共、其よす
   がもあらざれハ男泣に泣居たりしが、おもひ廻(めぐら)せば我仏門
   に入、三衣を着ながら采女が容色に迷ひ破戒し、仏の
   誓ひに背き、師恩の忘し故にぞ、三宝の妙罰、師恩
   の報を得たるなり。 迚(とて)も生て詮なき命と脇差引抜、喉(ふえ)
   のくさりを突通し、 廿三才五更(ごこう)の夢と失(うせ)にける。 中略 采女ハかくと
   聞くよりも泣悲ミ、 二三日ハ正気も無(なか)りしが、 三日過て夜に紛(まぎ)
   廓をぬけ出、 踏(ふみ)も習わぬ道すがら浅茅ケ原に来り、 鏡か池と
   いふ古池に身を投げ死してけり。 夜明けて草刈共来り
   池の潭の松の木に白き小袖の懸りありければ急ぎ引下し
   見るに、指を喰付書しと見へ血しほニて
     いわずとも名ハそれと知れ猿澤の
        跡を鏡が池にうづめバ  と一首の歌を
   書たりけり。 憐(あわれむ)(べ)し押(惜)しむべし、 生年十七歳とかや。 鏡か池
   の庵主此をあわれミ、死骸を取あげて葬(とむらい)印の塚を立て、
   無跡(なきあと)を念頃(ねんごろ)に弔ひ続けるとなん。 今も浅茅ケ原鏡ケ池
   のほとりに采女が墓とてありとかや

   如斯(かくのごとく)あれハ宝暦の頃迄ハ墓所もありしか其後いかがなりけるや。当年
   再建なして碑銘ニ采女貞操を恵(え)りて長く其美名を残せり

   今碑銘ニある辞世と列女傳に載セしもの異同あり
   何ずれ○名をそれと志らずともしれさる澤のあとをかが
   ミが池にし志づめは  此うたのこころハ 人皇五十一代帝
   平城天皇ニ一人の采女あり。 天生無双の美女なり。 其こころ
   やさがたにして情深かりしかば帝御寵愛ふかかりしが、いつしか
   他の后に御心を移し玉へハ、采女世に心細く昼夜心にかかりて、
   何とぞ我心中の哀(かなしみ)を叡聞に達せバ昔にかへる事もやと、様々
   心を盡しけれ共、誰あつて奏する者なく閨中に独にてかなし
   めり。 思ひの数ののミ増(まさ)りしかば、世にながらへき心地になく、或夜
   風斗(ふと) 生者必滅(しょうじゃひつめつ)釈尊未(いまだ)兌栴檀之烟(せんだんのけむりをのがれず)楽盡哀来天
   人猶逢五衰之日(てんにんなおごすいのひにあう)。 此古詩思ひ窺(うかがい)宮中を忍出て、猿澤
   の池辺の柳の木に被(かつぎ)の衣になりぬ。
   ー文章欠如かー
   帝斯(か)くともし志ろしめざるを事の序(ついで)に奏しければ大ニ
   驚せ玉ひ、いたうあわれミ玉ひて彼池へ行幸あり。 人々ニ追悼
   の歌読(よま)せ玉ひ、帝も御製あり
     猿澤の池もつらしなわきもこ(吾妹子)が玉藻かつかバ水そひなまし
   又、 柿の本人麿も供奉(ぐぶ)しけるにかく詠(えい)しける
     わきもこがねぐたれかミを猿澤の池の玉藻とみるぞかなしき
   今ニ猿澤の池の辺りに采女社衣懸柳の旧跡ありト云う

   右雁金屋采女と名ハ同しけれ共、彼ハ貴(とう)とき宮女、是ハ卑
   き倡女なり。 情客零落して刃にふす、采女是に操をたて
   往古の采女の事を思ひ、猿澤池ニ准(なぞら)へ鏡ケ池ニ入水して終り
   しハ貞節と云。 末世ニ至り其名の朽(くち)ん事哀(あわれ)ミ、石碑ニ残し
   置に、向後千代を経る共其名のくつる事なし。 再び建し
   大人(たいじん)も此陰徳(いんとく)ニよって仏果を得、長く極楽に住むべし  
  
  註
  える 鐫(のみ、彫る)
  猿澤池  奈良興福寺近辺
  三衣  袈裟、衣、数珠をいう
  平城天皇 恒武天皇の第一皇子
  生ある者は必ず滅す 釈尊いまだ栴檀の煙をのが免(のが)れたまはず
  楽しみ尽きて哀しみきた来る 天人も猶五衰の日に逢へり 
                  和漢朗詠集巻下 無常より 
  五衰 一華簪(はなかんざし)が萎え二天衣が汚れ三脇の下に汗が流れ四両目が瞬き
      五今までの住居を楽しまなくなる(六波羅密教)
  わきもこ  わぎもこ、 吾妹子

第13

     第十三 還御厳雷雨
一 文化元甲子六月朔日御濱へ御成被為遊(おなりあそばしなされ)七ツ時頃
  還御御供(おとも)(ぶれ)有之(これあり)。 一番の御払出候頃より俄に暴
  風起り、土砂を吹立土煙りニて濛々とし、空の気色黒雲
  四方より覆ひ重り、恰(あたか)も闇夜のごとく、御駕御濱御殿を
  出る頃より雨降り出し、霹靂(へきれき)きびしく人々魂ひを飛(とば)
  す。 御駕脇の諸侯いかんともする事なし。 雨ハますます
  強く、いな妻眼前に遮(さえぎ)り一歩もすすむ事不能(あたわず)。 よふよふとして
  比日谷御門へ来る。 雨猶々(なおなお)はげしく御堀の水溢れ、往来ハ大河
  の如く御陸尺(ろくしゃく)の膝を隠(かく)す程なり。 依之(これにより)(ま)ヅ御駕を比日
  谷見付の御番所(ニ)舁(かき)上ケ、御駕を居(す)え供奉の面々御側へ
  囲ひ守護し奉(たてまつ)り)、暫時雨のはれ間待(また)せ玉ふ。 誠に前代
  未聞の事共なり。

  此日、小石川辺へ参りし者申けるハ秩父山の方に当り、白き
  事雪の如き雲真四角に巾壱間程に真直ニ立登る。
  凡十丈計(ばかり)其脇より三間餘の雲の如く真黒にて是も
  四角ニ立登る。 此雲見る内に四方へ散乱し、大風起り土
  沙石を飛(とば)す。  是僅二三十歩計(ばか)りの間なりしト云々

  音羽町ニて、七才の小女空中へ巻あげ、翌日死骸ハ江戸川
  の中より上りしト云々
  水戸侯御長屋下ニて小児の葬礼龕(ずし)を空中へ捕(とら)れしト云々
  其外所々怪家(けが)ありし由。 曳尾筆記ニ見へたり

註  陸尺  駕籠をかつぐ者

第14

      第十四  怪異二個話
一  文化元甲子七月廿八日松平讃岐守殿御上屋敷火之見櫓(ひのみやぐら)
   番、地に落て死去す。 総身すべて熊手を以て掻破る如く、
   面部の皮剥(はがれ)て、腸(はらわた)をだす事夥(おびただ)し。 天狗の所握か又幽霊の
   怪異とも談話せり。 又一奇事あり。 小川町辺ニて大森殿の
   飼猫変化して人を脅(おびや)かすといふ風説頻(しき)りなり。 依之(これにより)とら
   えんとするに中々手にいる事なし。 近辺の屋敷両三家ニ
   さまざまの怪異ありければ、右大森家より廻文を出す。
    以廻状致啓上(かいじょうをもってけいじょういたし)候 各々様御清栄被成御勤仕珍重
    存候。 然(しから)ば拙者屋敷黒毛之飼猫近来奇怪之義
    有之(これあり)候ニ付、捕可申(とらえもうすべく)存候處、四五日以来相見不申(もうさず)候。 若シ
    方々様へ参り、怪鋪(あやしき)義可有之(これあるべく)存候為、心得此旨申候可(もうしそうろうべく)
    以上   如斯(かくのごとく)あれば世間ニても殊之外(ことのほか)評判しけるト云々

   右廻文由へ、若(もし)此猫の抓(つま)ミたるにやとの風説なり。 されハ
   即日讃侯様御屋敷へ参り右の趣(おもむき)(ならび)矢倉番の奇怪
   物語ければ、讃侯の人申けるハ朝五ツ時なり、子細ハ
   交代の足軽泊り番を譲りており下る節、右の男ハ櫓の
   端に尻掛居たる故、貴殿ハ危ふき人かなとて矢倉
   を下りけるが、程なく尻懸ケたる男あふのけさまに
   倒れ、庇(ひさし)にて顔を擦剥き三丈余り上より落たる
   事なれハ、銅瓦の窓庇(まどひさし)ニて腹を突破りて落(おち)、下ハ
   敷詰たる石なれハ五体共々疵付、腸(はらわた)夥敷(おびただしく)出たり。
   日中に天狗や猫の怪異有べき様なしと、物語りぬト云々。
   此一条、曳尾庵玄彦翁聞(きく)ままを随筆ニ記し置れしと
   斯あれバ櫓番ハ落て死せし事(こと)実ニなり、猫の怪ハ
   いかがなりしや不知(しらず)



     植崎氏御領
              小普請 富田中務(なかつかさ)支配
                    植崎九八郎 子四十八才
  其方儀御政務節ニは存寄の趣(おもむき)申上候様、其外(そのほか)軽から
  ざる義共、彼是(かれこれ)申触し候段不届の至りニ候。 依之(これにより)鳥居
  丹波守への預ケ被仰付(おうせつけられ)候とのよし
  右於(みぎにおいて)評定所井上兵庫守、小田切土佐守、石谷因幡守
  立会美濃守申し渡し

第15

     第十五 伊丹泉出掘
一 文化玄甲子四月十七日
  近衛殿御家領摂洲河辺郡御園庄有岡郷伊丹
  外崎村百性五郎兵衛所持の古城と申(もうす)田中より家普請
  の土掘取申候処、六尺計(ばかり)下から古銭出たり。 其数二万八千
  五百疋余掘出す。 板厚サ一寸程の杉桶有之(これあり)
一 同二乙丑三月廿四日同所より再度古銭弐万三千七百五十
  疋余堀出す。 此度は南蛮焼の大壷ニ入有之(これある)。 右各々石
  灰(いしばい)を以(もって)相納、銭面(ぜにめん)ニ白く毛頭腐損(ふそん)の義無之。 尤両度とも
  書付類一切不相見得(あいみえず)。 段々ニ取しらべ候所、此地累代居
  城の地にして四百四五十年の昔、康安貞治年歴にて
  即(すなわち)伊丹大和守在城ニ相当るト云々。 然(しから)ば全く伊丹家の
  軍用ニ埋置しに相遣無之(そういこれなき)物と云々。 右古銭十五泉
  政和通寳 聖宋通寳 明大通寳 元符皆宝
  皇宋通宝 政味通寳 元豊通寳 明元通寳
  至元通寳 開元通寳 大観通寳  元通寳
  嘉元通宝 嘉佑通寳 淳化通寳

 未得尊意(いまだそんいをえず)候得共一筆啓上仕候。 益々御勇健ニ可被遊御座珍重
 奉存(ぞんじたてまつり)候。 然ば先達(せんだっ)て当郷田中より古銭五百廿五貫文余掘出し
 候一件別紙ニ認上候通伊丹氏御軍財と申儀ニ付、御由
 緒の御方も御座候と御沙汰申上度(もうしあげたく)奉存(ぞんじたてまつり)罷在候處御尊名
 承り傳候間不忍心(こころしのばず)奉申して、尤段々御改も相済、此度右古
 銭手筋を以(もって)乍聊(いささかながら)拝受仕候ニ付、甚不数候得共十五泉差
 添献上仕候。 宜敷御披露奉希(こいねがいたてまつり)候 殊ニ御家号御慕しく
 奉存候まま捧愚書為差義無之御座候義奉恐入候。 恐惶(きょうこう)謹書
                       伊丹南町 古野源兵衛印
 伊丹様参人々御中 

  此伊丹家ハ当時元鳥越三筋町辺御屋鋪(おやしき)なるべし。 紋所ハ
  上りふじと加ノ字、源性ニて本国攝津当時上総国内市原郡武射郡(むさごおり)
  御三千石

  註
  泉  銭
  上記文中古銭は全て宋銭
  銭百疋 青銅百疋 銭一貫文(壱千文) 以上同 
  金一両は銭四千文に相当
  

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