解説に戻る      (街談文々 第十六話ー第二十話)  前ページ    次ページ     Home

第16
     第十六 寿支干四度
一 文化元甲子四月廿日より堺町狂言座中村勘三郎(座)芝居起原は
  寛永元甲子なり貞享元甲子延享元甲子。此度四度めの支干ニ相当り年歴一百
  八十有一年永続の寿として、元祖勘三郎道順も勤し狂言ノ内
  猿若太平綱引、新発太鼓、門松、右狂言三ケ日の間興行の由を
  摺物にものして江戸中江配ル。 又元祖より伝来の宝物を舞台に
  おいて披露す。 此口上は代々市川団十郎相述る、当時五代目市川
  鰕蔵俳名白猿隠居致居、七代目団十郎いまだ幼年といへ共、御披露の口
  上相勤。 又座頭坂東三津五郎罷出(まかりいで)ともども口上を述る。 引幕柿色
  寿ト云文字白上り、紋處舞鶴薄鼠色の仕立。 寛永元甲子歳中
  橋ニおいて始て芝居興行、當文化元甲子年迄及百
  八十一年

  元祖猿若勘三郎
  拝領の品々於舞台(ぶたいにおいて)披露
  ○ 金麾(きんき)
  寛永九壬申年伊豆国よりアタケ丸ト云大船入湊の節
  綱引の音頭相勤候砌(みぎり)拝受の品
  ○ 猿若衣裳
  慶安四辛卯年
 御城様へ被為召(めしなされ)候節拝受青地金入紫裾濃(すそご)
 禁庭ニ被為召(みしなされ)候砌(みぎり)丸ニ三ツ柏紫糸縫紋
  裾耳立浪水玉金銀糸地黒びろーどノ品拝受す
  ○ 御簾(みす)の阿希(あげ)まき
  明暦三丁酉年勘三郎より親子上京
 叡聞ニ達し高貴ノ御方ニて新発太鼓と申狂言、又猿若と申狂言相勤候砌(みぎり)
  上帯を失念し、ひ間取りし候折節、是を拝受し首尾よく相勤候
  右何(いず)れも紫縮緬(むらさきちりめん)の袱紗(ふくさ)ニ包黒塗の蒔絵の箱ニ入、
  浅黄絹の升袱紗三方ニ飾り付けたり
  右披露口上ニ親子上京セし砌、狂言乍恐(おそれながら)
 叡覧ましまし、見るにあかじとて明石と申名を倅に被下置(くだしおかれる)となり
  披露口上ハ先ニ市川海老蔵、相勤より百五十年寿の年内
  安永年中四代目海老蔵
  五粒(ごりゅう)五代目団十郎白猿両人相勤
  当時七代目団十郎十四歳ニて口上相勤、誠ニ役者冥加ニ叶ひ
  候段難有(ありがたき)仕合奉存ま印(ま)ス。 舞台ニて
  述し弁舌、替紋(かわりもん)の鯉瀧を流すがごとし
  舞台正面松を画キ能舞台のごとし。 寿狂(言)三弦四人、歌唄二人、笛二人
  小鼓、大鼓(おおかわ)、 太鼓二人上下、 役処寿ノ字模様鶴ひし
   寿 於登里(おどり)に兔子役座付紅梅の枝を持の五人

   千代八ちよいろもかわらぬ
   常盤木のといふ出しの唄也
   寿 女舞 女形七人
   寿 門松 太平綱引 新発替太鼓
  寿キや十一代の家さく羅  十一代目勘三郎観子
  うちつづく家を継穂(つぎほ)や花の枝   明石

     賀章
  茂山をいくつ越けんホトトギス   三升
  わさおき(俳優)の本卦(ほんけ)かへりや辻の花  白猿
    右すり物ニ載せし句なり
  当座、 春狂言不入の處(ところ)市川八百蔵、岩井粂三郎スケにて出、
  村玉置の狂言大名題「罷出村助花」出村新兵へ、八百蔵、小女良、粂三良
  玉や新兵へ、大ニ評判よかりし處八百蔵、粂茶三良退社し又々不入
  に相成りける。 然るに三月十七日より一ばん目、 一の谷ニ熊ケ谷
  直実さつまの守忠度三津五良、第弐ばん目 長者丸鐘鋳楼ニ
  道玄坂の道玄、 白拍子撫子、 三津五良大切(おおぎり)鹿子(かのこ)道成寺
  所作事(しょさごと)古今大当り。 五月狂言一番目替り道成寺其まま
  六月迄相勤大出来、 大ニ当り坂東三津五良大評判なり。
  此度、亡父元祖三津五良二十三回忌追善狂言なり。 此節
     わさをきの道なり寺の鐘乃声
     よそにもきかず三津といわまし
  蜀山人斯認(したた)メ秀佳におくりしなり

註 わざおき 俳優

第17

       第十七 両国川情死
一  文化元甲子五月四日の頃にかありけん、両国川に身をなげ心中
   あり。 男ハ廿一二、女ハ十六七対のゆかたにて互ひに抱合ひ、緋
   縮緬(ひちりめん)の志ごきにて結ひ合溺死してあり。 女の髪の飾りも  
   銀鼈甲(ぎんべっこう)の楴枝(こうがい)簪にて、二人とも甚だうるわしく見へけるにや
   江戸中大かたの評判となりて、皆船にて是を見に出る者
   多し。 汐のさし引によりて、源平堀のあたりより新大橋の辺
   ゆきかへり流レしを、船にて乗りまわしてこれを見る。 初メ一人
   前八文づつにて見せるが、後ハ十六文或ハ廿四文より三拾弐文
   のちのちハ半百ニ及ぶ。 此見物を乗せたる舟幾艘ともしれず、
   船頭ハ情死(に)よりて思わぬ銭まふけしたり。 三四日斯の如く
   漂ひたれど志るべのものも出ず、 何ものの仕業にや浴衣、髪の道
   具ハ夜の間に盗居たりとぞ。 尤(もっとも)由か多の下ニ絹布の袷(あわせ)(ひとつ)づつ
   着し居るをも剥とり、されどさっするに不憫(ふびん)にやおもひけん、縄
   にてもとのごとく二人一所ニ繋ぎ置たるよし。 はや五六日に及べど、
   誰引取者もなき所に、大川端の廻船問屋仲間中にて
   引上ケ、深川浄心寺へ葬たるよし かかる事仕出セしハ
   甚(はなは)だ不了間の様に思わるれど、其者の心にハいかなる義
   理にせまりしか、大切の命を失ふ程の事能々(よくよく)の事なるべし。
   定めしゆかりの者もあらんに、志らぬ顔にて居るハいかなる心ぞや。
   又、死の晴着ニしたる衣類を剥取心鬼なるべし。水死のものの衣類を剥とるもの俗ニ川剥ト云々
   縁もなき廻船問屋の引きとりたる事ハ実に奇特なる心なるべし
   又、死人を五十文づつも出して見る人の心、是又いかならん
   かし。 此節文宝亭 二代目蜀山人 此心中を憐ミて一章を賦ス
     共迷生死両国川  (共ニ生ヲ迷ヒ両国川ニ死ス)
     相対斃身尤壮年  (相対シ斃レル身尤壮年)
     紅帯纏繋流不離  (紅帯ニテ纏繋ギ流レニ離レズ)
     所謂水中是腐縁  (所謂(いわゆる)水中是腐縁)

   付札写
   男女水死の節、着類木綿ききやうしまゆかた、 尤両人共紫鹿の子
   しごきにくくり、両人抱合ひまん中を締め、裾褄(すそつま)共縫合セ、男さらし
   の手拭をはちまきにいたし、緋ちり里めんの下帯、 女も晒の手拭
   を鉢巻いたし下帯白縮めん。 女子方至てうつくしく若衆顔、男より
   ハまさりし方女子帯黒濡子、 男ハ碁盤しま真田帯。 引上ケたる
   せつハ女子ハさのミ替る義もなく、男の方髪うすく候や。 又々
   永くの漂ひ候事故か、髪かしらハやかんの如く相見申候。
   川通りへ漂ひしは五月六日より三四日の内、 大川端へ引上しは
   十一日、日数六日の間。

一  霊岸寺地中浄寛院へ葬ス。 両人法名未ダ相知れ不申(もうさず)
   右相対死致し候ものハ、法名二字よりハ不相成事のよし。 此度相願候て
   四字ニ致ス由。
   なんのよしみもないものを世間へぱっと志れ候ハバ後難恐れ、注文計(ばかり)
   ニて未ダ出来不申(もうさず)。 初メ内ハ気の毒なものなど申居候。嘸々(さぞさぞ)両親のなげき思
   ひやらるる、どふしたわけやら今ニ引取候ものなく、かほど人々評判の
   在事に親の身として志らぬ顔ハどふした訳じゃ、とりどり噂致シ
   定て入用ニ難儀の上の事と。左候得(さそうらえ)ば不敏(ふびん)の事と、家内一同申居候
   所、とかく手前の川ばたのみ漂ひ居候故、かの情深き隠居ゆへ
   右の取計ひニ相成ル。 名前ハ廻船御用達筑前屋新五兵衛右手
   代半兵衛と申者一人ニて世話いたいたし候由
   中洲へ流寄(ながれより)候を不残(のこらず)世話致し、引上ケ候ハ南新堀大堀屋と申
   船宿、勿論越前や出入のものノよし

一  当日葬諸入用、法事入用当日より百ケ日迄、 非人取扱入用、
   町内家主番人入用、 水死引上ケ候迄諸かかり、
   右の外、諸入用余程の雑費なるべし

一  右相対死いた候者は  品川徒歩新宿
                水茶屋鈴木太七養女 たつ  十八才
               同町太兵衛養子
                だいや       栄次郎 廿五才
   右一件北御番所へ訴出候處前文の通り養子養女ゆへ
   御詮議六ツケ敷候由
   前書ニ(前文略之)高名輪(たかなわ)引手茶屋鈴木といへるものの娘なり、 男ハ近所
   のかんな台やの息子にて妻子もあり、尚当月妻臨月なる
   よし。 名輪志が良きといふ台屋に書置有之(これある)由。 四五日
   過て元船の船頭力合せて検使を願ひ霊岸寺へ葬
   りしト云々。 先ニ、だいやとありし故、料理の台やなりと思ひし處
   此處ニはかんなの台としるせり。 墓所初ニは浄心寺とあり、いかが

      年若きものの色情にこりてや
       水中相死セしをふひんに思ひかつハ
        其親のひたんも嘸(さぞ)と衆人是を憐ミ
         爰(ここ)に葬りけるを
         皐月雨ともに
          うかむや竹筏
            是は右手代
             半兵へと申者いたし候由

第18

       第十八  太閤記廃板
一  文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙
   絶板被仰渡(おうせわたさる)  申渡    絵草紙問屋
                            行事共
                            年番名主共
   絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣(おもむき)有之処、今以(いまもって)以何成(いかがなる)
   商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の上夫々咎(とが)申付候
   以来右の通り可相心得(あいこころえべく)
一  壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕(あらわ)シ書(かき)
   儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷(まぎらわしく)(したため)候義決而(けっして)致間敷候
一  壱枚絵に和歌之類并(ならび)景色の地名、其外の詞書(ことばがき)一切認メ
   間敷(まじく)
一  彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒(ふらち)ニ候
   以来絵本双紙等墨計(すみばかり)ニて板行いたし、彩色を加え候儀無用ニ候
  
   右の通り相心得、其外前々触申渡(ふれもうしわたす)(おもむき)堅く相守商売いたし
   行事共ノ入念可相改(あいあらたむべく)候。 此絶板申付候外ニも右申渡遣(もうしわたしつかわす)候分
   行事共相糺(あいだたし)、早々絶板いたし、以来等閑(なおざり)の義無之様(これなきよう)可致(いたすべく)
   若於相背(もしあいそむくにおいて)ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄(より)厳しく
   咎可申付(とがもうしつくべく)
         子五月
                  此節絶板の品々
   絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊づつ七編迄出板
   此書大(おおい)に行ハる。 夫(それ)にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス
   太閤記筆の聯(つらなり) 鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三月
   太々太平記 嘘堂山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥
   化物太平記 十辺舎一九作自画 化物見立太閤記久よし蛇はちすかかっぱ
   太閤記 宝永板 画工近藤助五郎清春なり 巻末ニ此度
           歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム
   右玉山の太閤記巻中の差画(さしえ)を所々撰(えらび)て錦画三枚つづき
   或ハ二枚、壱枚画ニ出板、画師(えし)ハ勝川春亭、歌川豊国、喜多川歌麿
   上梓(じょうし)の内太閤五妻と花見遊覧の図、う多麿画ニて至極の出来也
   大坂板元へ被仰渡(おうせわたされ)候は右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る
   分も不残(のこらず)御取上の上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文づつ過料
   被仰付(おうせつけられ)

     絵本太閤記絶板ノ話
   寛政中の頃、難波の画人法橋玉山なる人絵本太閤記初
   編十巻板本大(おおい)に世にもてはやし、年をかさねて七編迄
   出セり。 江戸にも流布し義太夫、浄瑠りにも作り、いにしへ
   源平の武者を評する如く、子供迄勇士の名を覚て合戦
   の噺なとしけり。 享和三亥年、一枚絵紅ずりに長篠武功
   七枚つづきなと出セり。 然ルに浮世絵師歌麿といふ者、此時
   代の武者に婦人を添て彩色の一枚絵をだ出セり
   太閤御前へ石田児子髷(ちごまげ)ニて目見(まみ)への手をとり給(たま)ふ處、長柄の侍女袖
   をおおひたる形、 加藤清正甲冑酒宴の片ハら朝鮮の妓婦三弦ヒキ舞たる形
   是より絵屋、板本、絵師、御吟味ニ相成り、夫々に御咎に遭候而(あいそうろうて)
   絶板ニ相成候よし。 其節の被仰渡(あうせわたされ)左の通
一  絵双紙類の義ニ付度々町触申渡之趣在之処、今以(いまもって)以如敷(いかがわしき)
   品売々致候段不埒の至ニ付、今般吟味の上夫々咎申付候
   以来左の通可相心得(あいこころえべく)
一  壱枚絵草双紙類天正の頃已来の武者等名前を顕(あらわ)
    画(かき)候義は勿論紋字、合印、名前等紛敷(まぎらわしく)認候儀決而(けっして)致間敷候
一  壱枚絵に和歌の類并(たぐいならび)景色の絵、地名又ハ角力取、歌舞伎役
   者、遊女の名等ハ格別、其外詞書一切認(したため)間敷候
一  彩色摺の絵本双紙近来多く相見へ不埒ニ候 以来絵本双紙
   墨計(すみばかり)ニて板行可致(いたすべく)
      文化元甲子五月十七日

   右ニ付太閤記も絶板の由、全く浮世えしが申口故にや惜むべき事也

第19

      第十九 奉献七星魚
  天竺龍砂川 七星魚図
  御用ニ付寛政十二甲年長崎奉行被仰付(おうせつけられし)處、今般文化元甲子年六月六日
  長崎奉行成瀬因幡守様より七疋献之(これをけんず)
   此魚干ものにて渡りしは度々ありしが、此度のごとく生(なま)にて
   わたりしハめつらしきよし。  肥田豊後守より相廻ルト云々 

 註  七星魚  日本ではコウタイと呼ばれる スネークヘッドの仲間
          中国南部に生息する淡水魚 体長二十―三十センチ程度
          中国では食用、漢方薬に養殖の由

第20

      第二十 當山御入峯
一  文化元申子六月廿四日三寶院御門跡
   御参内在之(これあり)。 同七月大峯山御入峯なり、 日本国中の
   配下、頭職衆、其外修徒供奉す。 夥敷(おびただしき)御人数なり。 七月
   二日卯ノ刻御発與(はつよ)、御門出二日、城洲宇治御休、長池御泊
   三日 木津御休、和洲奈良御泊 四日横田御休、八木御泊
   五日 越部御休、吉野御泊。 六日より十三日 吉野宿坊桜本坊ニ八日間
   御逗留、惣御入堂三社御社参、 鳥ノ栖鳳閣寺天ノ川御成
   十四日 小篠御成山上迄所々御行(おひろ)ヒ、小篠御泊、今日より廿四日迄十一日
   御逗留天下泰平ノ御修法アリ。 廿五日 奥通御駆路弥山御泊 
   廿六日 所々御行(おひろ)ヒ前牛御泊、 廿七日前牛御逗留所々御行(おひろ)
   廿八日 所々御行(おひろ)ヒ玉置御泊、 八月朔日紀州切畑御休、本宮御泊 
   二日 本宮より川舟新宮御泊、 三日 宇具井浦御休、那智御泊
   四日 古座浦御休、有田浦御泊。 五日 江住浦御休、スサミ御泊
   六日 富田村御休、田辺御泊。  七日 印南浦御休、小松原御泊
   八日 原谷村御休、湯浅御泊。 九日 立花本村御休、紀三井寺御泊
   十日 和歌浦御休、加田浦御泊。 十一日 山口村御休、泉州貝塚御泊
   十二日 塚口御休、摂州大坂御泊。 十三日 河州守口御休、牧方御泊
   十四日 城洲八幡御休、 當日御入京、同年十月関東へ下向ニ付
   諸国末院御供奉(ぐぶ) 

          ○此節の戯文
      呪文曰錫杖(しゃくじょう)の音がかしゃやかしゃちょんがれぶし
   帰命(きみょう)項礼どらが如来(にょらい)ヤレヤレ親玉そこにてききねへ天下泰平五
   穀成就もかげんのあるもの、あんまりいのれバ豊年ンつついて米ば
   かりやミくも下直(げじき)で諸色ハ直(こうじき)、お武家ハこじきだ。 夫でハ
   世上がつまらぬものだよ。 噂計(ばか)りの拝借御沙汰はほんに
   したいとみんながいふわな、な無三宝院内緒の噺しを
   御前(おまえ)にいふのだ。 わつちにめんじて爰(ここ)ハ一ばんすすめて
   やんねへまんざらそんにもならねへもんだよ ホウイホウイホウイ

   当時米穀相場甚(はなはだ)下直(げじき)にて、夏御借米御張紙三十両但三百俵以
   上ハ米金半分、 同以下ハ皆金渡ニ付、米受取分は冬の小切米の内
   五分ノ一御借米被仰付(おうせつけられ)候間御書付出る
   
      戯文拝借米
   一ニ 俵の拝借し       二  につこりと笑ひ顔
   三  三百以下ばかり     四  餘けいの事ハなし
   五  一向引たたず      六  む志やうにつめられて
   七  なくのハ蔵宿よ     八  屋鋪の困窮は
   九  米の安イゆへ      十  とつくと御勘弁
   拝借米を免さいナて

      同米安むだい力
   いつまて米のいつまでもなおなお安く物思ひ、 たとへセきこミ
   祓(はら)たつとても、イ時節のすへをまつ、 アーなんとセう手代の
   心うちとけて、うわべはとかぬ御對だん、 さわさりながらか
   さぬ色なき御ふぜい、頓(やが)てあげまセう、借ませふ。 恐れ札差候かしこ

   註  下直、高直     安値、高値

                    
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