解説に戻る      (街談文々 第廿一話ー第廿四話  )  前ページ     次のページ    Home

第21

        第二十一 魯船瓊浦(けいほ)着
一  文化元甲子九月六日オロシヤ国船壱艘長崎野母(のも)御番
   所より七八里沖合ニ着船ス。 早速御奉行所へ注進有之(これあり) 御見分
   同八日暁七時御奉行所より諸家へ聞役(ききやく)御呼出し御達の趣(おもむき)

     今日異国船壱艘渡来ニ付相糺(あいただし)候所、去ル丑年於蝦夷地(えぞちにおいて)信牌(しんぱい)
     御渡有之(これあり)候オロシヤ船ニて、願の筋有之(これあり)致渡来(とらいいたし)候趣、別に疑敷
     筋(うたがわしきすじ)も相聞不申(あいききもうさず)候、 江戸えの御注進明日申上候
       九月七日

  オロシヤ王日本国王江交易ノ願、 貢として○象作物時計仕込有之(これあり)
  ○大鏡○猟虎(らっこ)皮○象牙細工物○鉄砲大小色々、 其外奇品数々
  此度日本人四人連来(つれきたる)也。 此者共ハ仙台男鹿郡石巻濱より八百石積の船ニて
  御城米江戸廻シ積十六人乗の処、寛政五丑十一月廿七日難風ニ逢、 同
  六寅正月十日彼地へ着内、三人死去、九人彼国止ル、四人帰国す、 津太夫
  儀平、左兵衛、太十郎   

  註   瓊浦  長崎のこと 
       信牌  長崎への入港許可証 1793年ラクスマン(大黒屋光太夫達を送り届けた)に渡した

第22

        第二十二 於松ケ場敵討
一  文化元甲子十月廿六日朝讃州奈賀郡与木田村政所(まんどころ)
             高畠勘右衛門倅
              討手  同苗  安蔵 廿壱才
          同国高松家中
             江崎宇平太養子当時浪人
              敵   同苗  三蔵 三十四歳
   此敵討来由ハ讃州与喜田村ハ高松領ニて政所役相務候、高
   畠勘左衛門と申者有之(これあり)。 身上も宜敷仁心厚キものなり此国ニては大庄やを政所トいふ
   然る處、河州浪人野島喜八郎同倅三蔵と申者右与喜田村ニ
   住居罷在(まかりあり)候処、親喜八郎病死いたし三蔵義孤子(みなしご)と相なり
   難義におよび候処、右勘右衛門不便(ふびん)ニ思ひ色々と世話いたし候上ニて
   勘左衛門親分ニ相成、高松家中江崎宇平太と申仁へ養子に
   遣(つかわ)し候処、三蔵義生得(しょうとく)力量強く剣術ハ一傳流の達人にて
   養父殊之外(ことのほか)寵愛致候内、程なく宇平太病死ニ付三蔵へ家
   督相続被仰下(おうせくだされる)。 其已後段々身持あしく、大酒を好ミ不行跡
   多く、度々勘左衛門方へ金銀の無心申故、随分と用立遣候へ共
   毎度の事故、勘左衛門愛相(あいそう)をつかし、強く異見致候を遺恨ニ
   思ひ、夫より不和ニ相成罷在候所、寛政四巳年六月廿
   五日勘左衛門事年貢皆済の為高松表へ罷出候処、町合ニて
   三蔵と行逢(ゆきあい)(さや)あたりしを、三蔵日頃意恨(いこん)を含居(ふくみおり)
   故、不礼を咎メ悪口ニ及びけれ共勘左衛門義は自分せ話
   致し候三蔵なれ共、当時諸士と政所の義なれば卑下
   し、段々詫(わび)いたしけれ共、一向不聞入(ききいれず)(あまつさえ)棒打いたし、大ニ打
   擲(ちょうちゃく)ニ及びし故、勘左衛門も政所役ニて帯刀の事故最早(もはや)
   簡(りょうけん)相成がたく抜合候へ共、三蔵ハ剣術の達人終ニ勘左衛門を切
   伏セ其まま大目付迄届ニ出候処、御吟味の上日頃不行跡の
   事故、御耳ニ達し入牢被仰付(おうせつけられ)、 其後追放ニ相成。 然る處
   勘左衛門ニ倅壱人有之(これあり)、安蔵と申当時よふよふ十三才ニて幼年
   の儀ゆへ政所役も外へ被仰付(あうせつけられ)、平百性ニ相成罷在候所、右倅
   安蔵幼年ながら親の敵討度(かたきうちたき)望ミ有之(これある)也。 成長ニ随ひ百性を
   嫌ひ、高松家中へ奉公ニ罷出、江戸表ニて剣術稽古いたし
   時節相待居候。 扨又(さてまた)三蔵義追放ニ相成候得ば阿州予州を
   巡り遊處、博亦(ばくえき)場をねだり渡世ニいたし、喧嘩口論を事とし
   ける故、住居も定まらず去年より讃州(ヘ)立帰り原田村ト云
   所ニ親類在之(これある)ニ付、当分掛り人ニ相成剣術指南致し候処、元トより
   達人故門人も多く出来候得共例の不行跡者故、門人ももてあまし
   此所ニも居がたく、或ハ金毘羅町、又は善通寺等の茶屋、不実
   場へ入込(はいりこみ)無体を申掛(もうしかけ)、あふれ歩行、言語同断の曲者なれとも、
   手利(てきき)ニて相手ニ相成がたく候故、皆々恐れよけて通し置候故
   段々募りける。 此高畠安蔵江戸表より罷帰り、大塔供養の
   大法事ニて殊之外(ことのほか)群集の折柄を見掛ケ、三蔵其辺の茶やへ
   ねだり込例の大酔ニてあばれ歩行致は皆々恐れて見
   合居候処、阿波の国の者三人三蔵壱人ニ打擲(ちょうちゃく)に遭ひ群衆
   中故殊之外(ことのほか)大騒動、 三蔵夫(それ)より金毘羅町へ罷越、此處も
   当月会式ニて芝居、かる業、芸子、おやまなど数多入込
   繁昌のおりゆへ、茶屋へ立入酒をねだり呑、剰(あまつさえ)虎やト云
   茶やニて芸子を無体ニ掛り喧嘩ニ相成、刀を抜(ぬき)(ふすま)、障子(しょうじ)
   膳碗等をうちわり、一向狼藉の振舞。 当所ニては大和の丑を
   初メ諸国の侠者、浪人共数多居候事故、此者立会大喧嘩ニ
   相成、廿五日の夜八ツ時頃ニ相済。 然る処、高畠安蔵此頃より三
   蔵を付ねらひ、右善通寺の騒動を聞付、駈行(かけゆき)候得とも
   最早(もはや)三蔵立去りける故、直(すぐ)ニ金毘羅へ追かけ来りし処、又々
   右の仕合ニて差控(さしひかえ)、相待居候処よふよふ相済。 三蔵ハ只壱人
   黒羽二重の小袖八丈しまの羽織脇差ハ無之(これなく)、二尺五六寸
   斗(ばか)りの大刀壱腰(ひとこし)ボツ込、但朱鞘 原田村の還り道松ケ
   端と申所ハ金毘羅街道にて、一方ハ平地小松原ニて
   一ト筋道並木ニて、此處迄来る所を安蔵ハ跡より
   見へ隠れニ付来り、此処にて声をかけ名乗り合、勝
   負ニ及(および)ける。 元来一傳流の達人にて指南致居候程の者故
   彼(かの)弐尺六寸抜(ぬき)かざし、みじんニなさんと討てかかる。 安蔵ハ小兵
    ニて殊ニ未タ廿壱才の若者只一ト打ニも成べく処ニ、安蔵も多
   年江戸表ニて手練(てれん)致し年来の敵(かたき)、少しも恐れず必死ニ
   なつて戦ひけれ共、大敵の事ヤヤもすれば請大刀(うけだち)にて
   数ケ所手を負へ今は危く見得たる處、金毘羅大権
   現の加護にやありけん、 御山の方より一ト筋の光
   もの飛来り、敵(かたき)三蔵の眼前をさへぎりければ
   不敵の三蔵光りに驚き、うしろへひらく足を松の
   根のからミし間へ踏込進退自由ならず、 かかる所を
   安蔵得たりと踏込て大袈裟に切倒し、首尾よく本
   望を達し積年の鬱憤をはらしける。 亡父勘左衛門
   の恨も散セしなるべし。 早(はや)夜も明はなれ参請の群集
   弥が上ニ乗り見物す。 安蔵は直(すぐ)さま駕籠ニ打乗り
   高松表へ罷越、右一条司所(つかさどころ)へ訴へ被仰渡(おうせわたされ)を相待
   けるト云々。

第23

       第廿三  贋物百両包
一  文化元甲子一二月
   湯島中坂下浪人岩垂隼太ト云者百両包の贋物を作リ、大塚
   音羽町豊田屋といふ両替屋へ遣し、豊田屋より同町山崎ト云へる
   両替屋へ遣したるに、南鐐(なんりょう)有合(ありあわ)さず、よって両替所三谷三九良
   方へいだし(出だし)、南鐐と引(ひき)かへる後、三谷にてあやしく思ひ封印切
   見るに贋物ゆへ、驚きて同商売へ其趣(そのおもむき廻状ニ認メて廻す。
   山崎も同商売故、此廻状を見ると両替ニ遣したる男の衣
   類人躰(いるいじんてい)我召仕ひニ相違なし、又引かへ来たる南鐐包の員
   数迄も少しも違ひなければ扨(さて)は豊田屋より受取たる包は
   贋物なるかと驚き、直ニ町奉行所へ訴へ出(いで)たるに岩垂隼
   太早速召捕られけるト云々

註 百両包 当時廿五両、五十両、百両の包があり、特定の両替屋で包みにし、封印したままで通用した。 一旦封印を切ると再度包みにしてもらわねばならなかった
   南鐐  南鐐二朱銀のこと  八枚、十六朱で金貨一両に相当

第24

       第廿四 難波十奇談
     文化元甲子歳浪速奇談(なにわきだん)

    森之宮社内の松 鶴来りて巣を掛る事
一 森之宮ト申ハ大坂御城東南の隅にてわずかなる小宮なり
  尤(もっとも)四天王寺古跡にて本社ハ用明天皇之御縁也。其処を元
  天王寺とも申由(もうすよし)。亀井水の井戸も在(あり)何様由緒有之(これあり)げに見え申候。右
  申上候通り古跡といへ共、世の盛衰にて神仏も及ハすして、至って困
  窮にて常にハ誰あって弔らへる人もなければ、御初穂壱つ上る事
  もなし。 神主も近辺諸社何ニよらず賑ひの折ふしハ雇われ行、又は
  日夜鈴をふりて、森之宮本社再建を呼(よば)われあるき、 よふよふ其日其日
  を過キ計(ばか)り。 然(しかる)に當二月下旬、社内大木の松の枝に鶴来りて巣を
  かけし沙汰、日々ニ高く也(なり)、弥生の初メ東野辺の桃の花見物を掛(かけ)
  出る程ニ見物の群集ニさんもつ十二銅の上り高、毎月毎月五六貫文づつ
  是より日々ニふへて、三月節句四日両日ハ十五六貫文も納り、ぐるりハ
  鶴見処正面などと張札出シ小屋掛の煮売店軒をならべ、覗キ見勢
  物類口上懸声林ニひびき、寄進所ニは采銭の山をなし日を経ずして
  集る銀高五貫文目余也。 右の評判より世話人も追々出来、亀井水の風呂
  壱人入十二銅なんどと、又外ニ銭の落る工夫をめぐらし、年久敷(としひさしく)出来難成(できなりがたき)
  作事(さじ)此節成就して、銀三貫五百文を世話人え預ケ置、神主も寛楽の
  身と也(なり)、終ニ巣をなす鶴の齢ひを経らるへしとの沙汰也


    産湯稲荷開帳の事
  御案内ニも御座候哉小橋(おばせ)墓所東南ニ当リ産湯の清水あり、是も太子の
  御誕生の節より始めて湧出(わきいで)し、と専(もっぱ)ら申セど元ハ誰しる者もなし。是も
  近来世話人出来て社を造立(ぞうりゅう)し、籔かげに在りし狐穴をひろげ戸びら
  様の物を拵(こしら)へ抔(など)して、市中の人をばかさん々と計り、今年ハ神宝を披
  露せんと神職の座敷ニておがませ、狐穴を二十間計り奥深く掘抜(ほりぬき)
  畑の中へ通ひ候様ニ、土中の穴拝見の切手ハ六銅づつ野懸(のがけ)場所由へ、相応ニ
  群集ハ候ヘ共小屋掛煮店ハ大損のよし噂御ざ候
  註:野懸 野掛、野駆 山野を遊びまわること
    

    豊前国宇佐八幡江御勅使御参向の事
  今年甲子六拾壱卦節ハ任先御例(さきのおんれいニまかせ)諸国神社え御勅使御参向有之(これあり
  當二月廿四日同日六ケ所へ御勅使御発下(ごはつが)被遊(あそばされ)候迚(とて)伊勢、南都春日、
  加茂、八幡外ニ壱ケ所失念、扨(さて)豊前宇佐八幡、筑前香椎ノ宮は為
  御勅使(おんちょくしとして)四辻中将様御参向、三月十四日未明御参内、昼八ツ半時御
  所御出立、伏見宿御泊リ、十五日大坂御泊リ、宿仕(やどつかまつ)り候は今橋二丁目鴻
  池善五郎也。 先年飛鳥井様住吉へ御参向と違ひ、長旅の故にや
  御同勢も少く、上下八拾弐人と申沙汰、大坂へ暮過御着、翌日明ケ七ツ
  時御出立ニ付拝見の者稀ニ御座候。 大坂より兵庫御泊り、夫より先ハ不承(うけたまわらず)候。
  御同人様と備前内税頭様姫路より二り半上、豆崎と申宿ニて
  御出合被成(なされ)候節、備前様御附廻り大混雑の由。 尤近き御親類ニ
  候へば途中ニて逢候ても不苦候(くるしからず)処、此度は依勅令(ちょくれいによる)参向致候へば、
  御控被成可召(なされめすべし)と御案内ありし故、急キ近在の内へ逃隠給(たま)ふとの事
  差当り御迷惑嘸(さぞ)と奉存(ぞんじたてまつり)候、 四辻様御道中上下四十日程御懸候由。


   平野町神明造立成就して遷宮の事
  此神社は氏子もなく、諸家より願来(ねがいきたる)祈祷を修行し、亦は易道
  考へ其餘勢を以て親子三人くらしけり候。 先年上町大火の節
  類焼して、十四年計(ばかり)してよふよふ諸町の助力ニて普請成就せしかど、
  借金十弐貫文目余ありしを、宮遷しの賑ひニてせめて百両も集たくよし
  世話人の心当リニ候處、三月十七日ニ遷宮ありて三七(廿一)の間神楽修行、市
  中安全の祈祷ありとて参詣群集し、日々大賑ひ扨(さて)ハ米を車ニ積、
  又ハ青差銭何十貫文、弐朱銀ヲ以(もって)御幣を拵(こしら)へ、奉納前後ニは鳴物芸
  尽し、夏祭りよりは増(まさ)りし賑ひ、町々大道ニ杉の林をなし、お杉お玉の作り物、
  夜分ハ若者女形(おやま)の姿にて、伊勢道中の所作いろいろ仕尽し、此杉林ハ
  舟越町東堀濱より谷町筋迄四丁の間、高サ弐間位の杉ヲ植、其間々にハ
  右の形の燈篭を建る。 扨(さて)平野町筋より右同様ニ松の林を出し、間々ニ
  作りものいろいろあり、三月廿日より出し、ねり物、はやし、六十三町より出す。 神社は
  天照太神なれハ、氏地と申ハ無之(これなく)諸人神迎セし故、追々寄附ありて納
  高三六貫文目餘、雑用、借金皆済して廿二貫文目余残り、神主大喜セしとかや


    九修村茨(うばら)住吉の神社賑ひの事
  是も元住吉とも申由緒(ゆいしょ)ありける神社なる由、 此神主も森之宮同様の
  貧社にして誰弔ふ人もなかりし宮也。 然ルニ去年春より夏へかけて近所の
  者普請して、宮のぐるりなる池を堀ひろげ、右池へ燕花(かきつばた)など植て、八橋
  を補理(しつらえ)、去三月中頃より太々神楽修行と名号(なづけ)、人を招かん手だてなりし
  が、程よく春の野懸ケかてら立寄りて、田楽茶やニて弁当を開き候位の
  ことが次第ニ評ばんよくなり、煮売店をなし西辺の人は我も々杜若見物と
  題して野かけの休息所となり、賽銭も五百文上り壱貫文と追々
  繁昌の地となりける所へ附込、今年も三月初より本社引直(ひきなおし)再建砂
  持地築(すなもちじつき)の願相叶ひ、初日より賑ひ大方ならず、西横堀より西は茨住吉え
  奉納のねり物、船にてのはやし、東の方にては、平野町神明とはり合ニ相也、
  思ひ々趣向セり。 是又前文の通り貧社も金のつるにとり付(つき)しとの沙汰、
  又杜若(かきつばた)も去年とハ倍ましてうつくしく開き、神主の運もひらきし
  花の春の賑ひ也


    堺両所開帳繁昌の事
  泉州堺於大寺境内(おおでらけいだいにおいて)ハ西国札所槙尾寺開帳同所於天神社地(てんじんしゃちにおいて)
  南都菅原寺出開帳(でかいちょう)、右開帳群集往来道筋の寺院神社いろいろと
  号(なづけ)て開帳、宝物内拝、又一向宗ニも宝物弘道(ぐつう)と御開帳八ケ所、是も
  序(ついで)(それ)もついでと相応に参詣ありし由。 近年開帳何レ不景気の所
  今年は大当り(ニ)御座候


   生玉北向八幡社開帳
  生玉の義は御案内も御座候哉、社領三百石今ニ頂戴して先ハ大坂の大社
  去々年座摩(いがすり)の神宝為拝(おがませ)より思ひ付ニや、當三月三日より八幡開帳の
  節ニ神主於宅(たくにおいて)為拝見(はいけんさせ)候へ共、格別珍敷品も見受不申(みうけもうさず)太閤又ハ秀頼
  寄附の品類也。 珍敷(めずらしき)ハ三妙殿と申祈祷所の壇在之(だんこれあり)候、是は吉田、伊勢、
  生玉、右三ケ所の外無之由(これなきよし)、右ニ付三百石社領有之(これある)候由  


   生玉の宮付覚遠院所化(しょけ)女を殺す事
  是ハ可忌(いむべき)事ニ候へ共生玉の序(ついで)なれば鳥渡(ちょっと)申上候。 此神社は前文の神職渡
  辺何某、寺ハ真言宗ニして南の坊を本坊として外九ケ寺都合十坊也。
  御案内被成(なられ)候通り、本社拝殿も北の方ハ神道、南の方ハ仏道にして、護摩
  壇飾り有。 右寺中、覚遠院ハ当時無住にして先住ハ今の南の坊方丈(ぼうかただけ)也。
  右覚遠院、當寺居として六十余才の味噌擦坊主壱人と廿六才ニ相成(あいなり)
  所化(しょけ)壱人、下男一人也、寺役有之(これある)節ハ組寺より相勤。 然ル処、若僧観明は
  馬場先遊女おき怒と申女に深くはまりて、日夜入込居けれハ其身ハ真裸
  と相成、そろそろと悪心出て仏具什物迄盗出売払、段々とつまらぬ身と
  なりしや、二月廿九日夜彼(かの)なしミのきぬを呼出し、心中せんと坊主のあるまじ
  き思ひ付にて、先(まず)ハ茶屋へ参り呼びニ遣しけるに、此きぬも秋風の方なれば
  客先へ居候由申候て参不申故ニ、両三度も呼し扇屋おもん抱の遊女さ
  くらといふ女を呼出し、座敷の酒もてふして<長じて>よひさましニそろそろあるいて
  いこふ、とふたり連レにて出かけ、源正寺坂の上の籔のかげ人通りもなき
  所にて懐中より短刀取出し、女ハ何気なく居るを突殺しとどめもさして、我も
  其侭相果んと突込短刀くれぐれと心セけば尚たたず、腹を切かけ、ふへをかき
  身をあがきても死かね、詮方なきに生玉の蓮池に飛込とも折ふし水浅け
  れば是迚(これとて)も死をとげず、我住寺へかけ戻り門の脇より高塀を乗越し
  寺内の木部屋に隠レ居ける由。 女の帰りおそければ、追々迎ニ出(いで)し人
  籔蔭なる死骸を見付胆をつぶして、追々と寄来る人とやかくと介抱す
  れど、殊きれて程過ぬれば詮方なく、先(まず)観明を尋んと覚遠院の門
  前ニ至り見れハ、高塀血に染りたるより門をたたき夫役人(ぶやくにん)と早速木部
  やニ入、からめ取入牢いたし申候。 其後乱心にて一ト先寺へ御預ケニ相成候、
  又々病気平愈して入牢致候由。 右おきぬが身替りニ桜とハ思ひかけなき
  非業の最期、花の姿も散り失しハふびんなる事共也
  註: 所化(しょけ) 僧侶の弟子、修行僧


   東本願寺御門主大坂え御下向事
  南地へ御下向は八ケ年目也、 四月朔日御発下の處御差支の義有之(これあり)
  同三日伏見より御船召され八軒家より御揚(おあがり)、今橋筋堺筋へ南九太郎町
  筋西へ御堂(みどう)御入輿、 四月十日堺御坊へ御出、 同十五日大坂へ御泊り、十六日
  能興行御覧、十九日当地夜八ツ時御出立、文略 何方(いずかた)へ御下り被成(なられ)候ても、御目見へ、
  御禮銭献上山となし、老若の悦び唱妙の声、涕催(なみだもよおし)難有(ありがたき)御門主様の御廣徳ヲ
  仰ぎ貴(たっと)ふ計(ばかり)ニ御坐候


   難波新地於角力場大仏造り物の事
  是ハ先年御地於品川(しながわにおいて)造り候由御状ニて承り居申候侭の儀奉存(ぞんじたてまつり)候由、座像御丈十六
  丈、外ハ御地作同様奉存候。表木戸口の内ニ山門二王右ハ艾(もぐさ)左ハ不(ほ)くち囲ノ内ニ
  四天王あり、毘沙門天餅くわし、地国天雑穀類、廣目天たばこ一式、増長天浅草苔壱式、其外追々
  出来の由、此余ハ未だ不見申(みえもうさず)候 是又相応ニ評ばんよく御坐候
  右申上候通り、當春ハ誠ニ東西南北共ニ賑ひ申候、何様甲子の初より如此(このごとき)(よ)キ沙汰
  見たり聞たりして何不足なき御代ニ暮シ候こそ、いきて甲斐ある楽しき
  御治世を仰ぐ候義に御座候。 以上此書状渡辺氏蔵書の内より抜写ニして
  文化元甲子としの年譜(ねんぷ)に加(くわゆ)るものなり

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