解説に戻る         (街談文々巻2 目次ー第五話)     前のページ      次のページ   Home

巻2

街談文々集要 二巻

   文化二乙丑
第壱  賜賞魯返翰
第弐  賊蔵屋根穿
第三  侠者争角觝
第四  鬼瓦看発病
第五  富山捕怪魚
第六  延命綴婬犯
第七  鬼坊主行罪
第八  山下實事論
第九  驕非人三助
第十  奉漆塗古書
第十一 椿木生手形
第十二 古骨の霊験
第十三 浅草地中調
第十四 雲州慎蟄居

絵本大小記(文化二)
一  二月四日狸閑居の事
      付二月十八日、八月廿八日彼岸の事
一  八十八夜の衆四月五日に、五月十九日へ入梅の事
      付半夏は六月六日の事
一  月番とく六月十六日、同廿四日土用の事
      付八月十日大風雨の事
一  小寒十一月十七日、大寒十二月二日の事
      付十七日立春の事


         第壱  弘賢(ひろかた)認魯書(ろしょをしたたむ)
一  文化二乙丑正月魯西亜人に下さるる文、書(かく)へきよしうけ
   給ハりし時、絶域につたへ(伝え)らるる事ハみちのめいもく(道の面目)に侍(はべ)り、と
   人々賀しあへるを、それハさしおきて弘賢ほと(程)のものの
   手の御らんに入(いれる)へきか、先(まず)いとかたじけなきことと、きよ〈浄〉
   まハりて、かきて奉(たてまつ)りけれハ、はたして御らんしつるる
   よしにて、かしこき事とも、うけ給ハりぬるのミか、此文〈このぶん)
   書下(かきくだ)さるるにつきて、よろつととこほりなくて、見奈月(みなつき)
   末の二日、その賞としてしろかね〈白銀)三十両たま〈賜)ハリぬ。 そもそも
   異国の牒状といふハ入木の道〈書の道)にとりてハことなる式
   ある事なるに、いへさき(家先)うけつたへ〈伝え〉ぬるをことしくもえ
   はからざるに、筆とりぬるはいといとおぼろげならぬ身の幸
   ぞと、その式に心にこめつつものしけるかひ(甲斐)ありて、こと由へ(事故)
   なかりしをよろこひをるに、やことなき仰(おうせ)ことにて賞をさへ
   かうふりぬるなん、かしこしともいともかしこかりける。 されハ此
   たま(賜)ハりしもののはつほ〈初穂〉とて、先師のミたま〈御霊〉にそなへて
   かん(翰)のくだりの事とも告なるとて。
   わたの外〈海外〉に書なか〈流)しつる水くきのあとにもかかる恵ミを思ふ。
   去ル九月六日長崎着岸の魯西亜国船ト彼国(かのくに)の王え返翰を屋代
   太良弘賢へ被仰付書(しょおうせつけられ)、御褒賞として銀被下(くだされ)しと云由
   筆まかせより抄出ス

   註 上記の文体は擬古文(或いは雅文)といわれるもので平安時代の文体を真似て江戸時代の人が書いた形式。 変体仮名が多用されている。
   絶域 : 遠い異国
   水茎の跡:筆跡
第2

        第二   賊蔵屋根穿
一  文化二乙丑二月廿九日の夜、南茅場町米問屋石橋弥兵衛の
   土蔵の家根より盗賊入て、金九百五十両盗取る。 同三月
   朔日、此事露顕して此賊忽(たちまち)被召捕(めしとらえられ)たり。 此賊ハ神田囃子町
   挑灯屋(ちょうちんや)ニ寓居セるもののよし。 生国ハ上州ニて拾壱ケ年以前迄右
   石橋方ニ勤居(つとめおり)たるよし、 其親ハ今に弥兵衛方へ穀物送り遣し、
   取引なとして相応に暮し居るものなりし。 此賊上州にありし
   時ハ質商売をせしか寒夜に夜具を質ニ入(いれ)る者あり、 此賊
   つらつら思ひけるハ、此寒夜ニ夜具をも着ずしてハいかにやあらん、
   嘸(さぞ)寒からん、我も夜具を着ずして凌(しの)き見んとて、三夜迄は
   夜具なしにしのき(凌ぎ)たるが、寒サたえ〈堪え〉かたく夜のものを着すにハ
   しのかるるものにはあらじ、嘸(さぞ)かし質入したる人ハたへがたくや
   あらん、我が商売ハ人の難儀をするを利とする家業な
   れハ、心あるもののなすわざにあらずとて、彼夜具をも其主
   へかへしあたへ、是より此質商売をやめたりト云々。 此外貧者の
   人にハものを与へ、橋なき所は自分一人の金銭を出して橋抔(など)
   かけて、とにかく仁心なるもののよし。 かかる人物にて此賊をなす
   ハいかなる因縁のしからしむるにや、嗚呼(ああ)押しむべし

   因(ちなみ)ニ云去々年の春、大坂鹿し満や久右衛門の土蔵の屋根を崩し、
   是より忍び入(いり)て金四千両盗取し賊も至〈いたっ)て仁心あるものニて、
   これもおのれが家業ハ質商売にてしかも土蔵造りにて、
   召仕も大勢あり、相応に暮らし居たるが近所にても賊といふ
   事ハしるものなし。 此賊貧窮の者にハ金銀をあたへ、又ハ
   利分も取らず質物とりて貸あたへたり。 召捕るる節も
   所々より取置たる証文をも残らず火中したれハ、何方(いずかた)へも
   後難かかる事なく相済(あいすみ)、御仕置被仰付(おうせつけられ)候節も所々より
   助命願ひニ出たれども、天下の御法なれば願不叶(かなわず)、 後日ニ
   追善を懇(ねんごろ)にいとなミしと云々。 此度石橋の賊によく
   似たる事由へ爰(ここ)にしるす。
   
   又此賊ニ付一話あり、 當春狂言市村座壱番目吉例の曾我、
   弐ばんめハ大坂鹿島屋の賊の事を淀屋辰五良のことに
   仕組、松本幸四郎 賊となり土蔵の屋根よりしのび
   入、金四千両盗ミ取狂言評判よかりし所、此度石ばしの
   賊の事ありし由へ、市むら座 町司より内々ニ御沙汰ニても有之(これあり)
   候か、右の賊後ハ土蔵の仕懸ケを止メ、 板壁を切破り
   忍び入候仕組に作りかへたり、此節大名題ハ「花雲曙曾我」(はなぐもりあけぼのそが)トす。
   
第3

       第三 侠者争角觝
一 文化二乙丑二月上旬より芝神明社地ニおいて勧進大相撲
  興行あり、追々日数取上ケ十六日ニハ八日目と相成り、十日の
  内一番の見物事にて早朝よりの群集、桟敷も追込も
  押合へし合、人の波打大入なり。 然る所水引といふ角力(すもう)
  と鳶(とび)の者と口論を相初メ、双方立会争ふこと由へ、見物の
  人々大騒きニ相成りしが、鳶の者ハ其ノ場を立去り仲間の者
  一統呼集め、火事場仕度に身拵へして鳶口、梯子、えもの、えもの
  携へてエイエイ声して角力場へ押来り、先ツ木戸を打
  こわし、此物音に見物の人々さわぎ立(たち)右往左往に
  散乱す。 鳶の者大勢込入、乱妨(らんぼう)しけるを四ツ車大八ト云
  力士、桟敷ニ掛ケ有りし三間梯子をおっとり、りうりうと振
  廻し大勢ひの中へ打て入、力ニまかセて打倒す。 水引も
  自分より起りし喧嘩由へ、四ツ車に怪家(けが)させじと命
  かぎりにはたら(働)きて、鳶の者を門より外へ追出し
  又々門前にて闘争及し所、鳶の者の内大勢商家の屋根ニ
  上り瓦をめくり雨のふる如く打付し。 其瓦四ツ車の眉
  間に當り、血流るるもいとわず大勢を打(うち)ちらし(散)ける、殊(こと)
  角力うちニても大兵ニして色白美男なりし。 此疵癒へても
  面部耳其跡ハ残れり。 
  其後文化四卯とし牛込神楽坂牡丹やしき稽古角力の節、予叔父の方へ度々来りし。

  文化二丑年二月於芝神明社内勧進大相撲興行
  東 大関  平石七右衛門  四ツ車大八 東幕ノ内末より二枚目
                羽州秋田ノ産
  西 大関  雷電為右衛門  九龍山扉平 二段目六枚目
                筑後久留米産 前名水引波右衛門
  世話役 雷 権太夫    勧進元  藤島甚助
      待乳山楯之丞   差添   粂川福次郎
  此時角力勝負附ニ
    初日   四ツ車 見えず     五日目 四ツ車 千田川ニ負 
    二日目 四ツ車 水海ニ勝   六日目 四ツ車 真鶴ニ引分
    三日目 四ツ車 滝ノ上ニ勝  七日目 四ツ車 鳴滝ニ負け
    四日目 四ツ車 雷電ニ負

頃は文化二うしのとしの春、すもふ芝神明社内において興行
ある。 如月五日初日にして、追々日も取上けしが兎角雨しげしげ
降りて、日送りなり三(二)月十六日ニ至りやうやく相撲七日目なり。
この日は稀(まれ)なる見物にて、桟敷も追込も人の山なす大入にて、
桟敷もゆらめき小屋も崩るるばかりなり。 此日宇田川町(ニ)住(すみ)ける
町火けし、め組の頭取辰五郎、長次郎といへるものハ、いろは組の
内にても誰しらざるものもなく、兄き兄きとたてられ、よわ(弱)きハ
たすけ、強きものとて恐れず、男の中の壮子(おとこ)と云いそやしける。 此日
両人すまふ(相撲)見物して酒肴取ちらし、向ふ鉢巻片肌脱、肘をはり膝を
立て、拳を握り力士の勝負に目を付、眉をそらし肩頭を廻らし
(い)たりしが、風与(ふと)セし事より職人躰のものと口論におよび、すでに
双方立あがり、抓(つか)ミかからん勢なり。 夫(それ)と見るより世話役の年
より共、すハ喧嘩なり宥めよ、と折から九龍山扉平立入(たちいり)、かれこれ
宥めしといへ共、聞入ず、そやつを外へ引ずり出せと呼ばハる声々、
一ツ方は静まりしかど、鳶の者さらに聞入ず、無是非(ぜひなく)両人を桟敷
より引おろさんとす。 元より気はやき長次郎いたくいかりを
生しつつ、此ふんとしかつぎめが、と拳をあげて打てかかるを九龍
山其身をひねり、帯際とり苦もなく外へ付出したり。 辰五郎ハ
ものをもい(云)はずうしろより打てかかるを、居合セたる四ツ車大八とて、
こハ九龍山の兄弟子なれば、見るに忍びず襟首つかんて引もとし
小脇にかかへてもろともに木戸の外面(そとも)へつき出したり。 二人りは中々
(てき)しかたき事故(ことゆえ)、なまじいの(事)したならバ恥じの上のはぢ(恥)ならん此仕返し
をいかがせん、と小屋をにらんて立さりしが、夫よりおなじ地内に
ありける芝居江這入(はいり)見物す。 此の座本ハ江戸喜太郎といふ太夫なり。
四ツ車、九龍山は相撲を仕舞(しまう)ト此芝居江来り見物して居たり
しか、鳶長次郎ハ夫と見るより辰五郎に斯(かく)としらせ、直(すぐ)
其場を立かへりて、仲間の勇士(いさみ)五六人を引連れ再び爰(ここ)ニ
来りて勢いこんで矢庭(やにわ)に飛こミ、手に棒をひらめかし
二人リのすまひ(相撲)にうつてかかれば、心得たりと四ツ車、九龍山
ツッ立上がり大手をひろげかひくぐり、一人りの棒を握りこふしで
打おとし、帯をしつかとるよく見へしが四五間さきにほうり
だされ起る事さえならざりし、 跡大勢一度に打てかかるを
四ツ車、九龍山の二人りハ事ともせず勢いはげしく働らきける、 相手
も名におふ(負う)め組の兵(つわ)もの、喧嘩になれしもの共故、いさミすすんで
打(うち)ツうたれつ、力士と勇壮(いさみ)勝負ハさらに見えざりし。 此騒動市
中に聞えければ、焚出しの喜三郎、とふふや(とうふや)熊蔵、ぬかや市五郎何れも
此喧嘩の中にわけ入、左右を宥め双方無事におさまり、物わかれ
となりければ、力士二人りも直ニ宿所へかへりける。 其宵六つ半頃、一人りの   
小すまふ(相撲)走り来り、二人りに向(むかっ)て云やうハ、先程の喧嘩一旦は
喜三郎外二人りか扱ひにて済(すみ)しといへ共、手打ならねば辰五郎、
長次郎等ハ未タこころも打とけず、今度ハ大勢引つれて相撲
小屋をうち毀(こばす)との風聞あり、御用心あるべしとしらせに驚く
四ツ車、九龍山ニ申けるハ喧嘩のもとハ其方、我等ハ兄弟固
の縁(え)にしなれハ見捨ハせぬ、と二人りはりりしく支度して相
撲小屋ニ至りつく。 小屋の入口に追込ニ敷(しく)畳ミを積かさね、中にハ
焚火をして、今哉(いまや)来りと威義堂々として待うけたり。 されハ
め組の侠客(いさみ)等ハ子分子方の人数を繕(つくろ)ひ、火装束にぞ身をかた
め、えいえい声にて群来り、長き鳶口打ふりて小屋の木戸え近付
(ちかづくところ)を四ツ車、九龍山の二人り木戸を開きて踊り出(いで)、つミたて(積立て)たる
畳をとつて群がる中へ投つけれバ、是にうたれて数多(あまた)の人々
将棋だおしにばたばた打たをされてはたらきえず(働きえず)。 此畳ニ
辟易して一丁余り引上たり、其時藤松といへるもの所詮只でハ
叶ひがたしと、傍(かたわら)なる火の見に欠登(かけのぼ)り晩(半)鐘をけわしく打鳴らし
ける由へ、近辺の火けし人足何レも爰(ここ)に集来て、火事なりと
思ひの外喧嘩の様子、 辰五郎子細を語り加勢いを頼ける
由へ、仲間同士の事我も我もといさミすすんで押よセたり。
中にも藤松、真先きにすすミ木戸を目がけ、かぎ打ち振
り、只一と揉(もみ)に打破らんときおひ(気負い)かかる。 四ツ車ハことともせ
ず、己(おのれ)ら如き蚊とんぼめら何ン万人来る共何ニほどの事あ
らん、と腰に帯セし脇差、抜手も見せず真先ニすすミし藤
松を殻竹(からたけ)わりにきり倒す。 辰五郎、長次郎ハ是を見て大ニ怒り
藤松の敵、のがすなと大勢いちどにうってかかるを、大八ものの数
ともせず、血しおしたたる一刀をひらめかしつつ、右に当り左に
ささえ、多勢を相手に打合しは目覚しき働きなり。 九龍
山ハ小すまふ二十人ばかり引連れ来り、一人りも残らず打ころせ、
と声はけま(励ま)して下知しつつ先ニすすんできり立(たて)れバ、さすがめ
組の大勢も右往左往に散乱して、いとも難義のありさまを
辰五郎ハきつと見て、大音声をふりたててミなミな夫(それ)てハ手ぬ
るきぞ、 屋根え上りて瓦を投よ、と我ニつづけと云よりはやく
三間の端子を軒に掛、早くも屋根へ飛乗れバ我も我も
と一統に屋根え飛乗り瓦をめくり投つける。 其さまハ風ニ
木の葉、小鳥などの群飛如く、火事場に馴しはたらき(働き)
に小相撲四五人頭を討(うた)れ面部手足ニ疵をうけ、ほとほと難
儀ニ見へたりける。 四ツ車ハ事ともせず、軒にかけたる三間はし
こ取(とる)よしと見えしが、りうりうと振まわし屋根ニ群居る数多(あまた)の人
足をばらりばらりと打払ふ、 其勢ひ獅子奮迅虎乱入の勢ひと云
譬(たと)へハ是らの事なるべし。 されども此方大勢なり、又入替り猶も瓦
を投げるが四ツ車の眉間ニ当ル、 血しほ流れ眼ニ入ルをもいとわず、
猶(なお)をも階子にて鳶人足を打落しける。 かかる所え柏戸宗五郎
駈来り四ツ車、九龍山を救ひ、自分もはたらき双方互に
力労(ちからつか)れて、暫く息を休め居(おり)ける。 然る處ニ其頃此近辺
清五郎といふ若ものあり、其とし漸(ようやく)十七歳の少年なれと器量
骨柄世の常ならず、 此争動を聞くや否や双方を宥め、め組の
頭取善太郎、又右衛門と相計りて和睦内済相成べく處、四ツ車
九龍山の師匠柏戸一向ききいれず、是程の喧嘩を内済ニして
後日ニお咎めのある時は我々曽(かっ)て言訳なしといふ。 年寄雷権
太夫もいかさまにも、とて仲人ニことわりける故、仲人無是非(ぜひもなく)手を
引たり。 相撲の方ニては早速寺社御奉行松平右京亮様へ此
趣を訴へ、め組の方も町御奉行根岸肥前守様へ此趣を云上ケ、
双方御呼出しニて入牢被 仰付之(これをおうせつけられる。 同年九月廿一日北御町奉行小田
切土佐守様其外御掛り御列座ニて、四ツ車九龍山二人、火消辰五郎
長次郎を始メ以上四十五人御白洲へ召出され、銘々の遺恨より市中
をさわがせ争動ニ及び不届の段御叱り、当人四人江戸構(かまい)、四十三人の者
夫々御咎有之(おとがこれあり)て一条落着なり。 

文化二乙丑年二月吉展
大関  丸亀  平石七右エ門    新板歌仙すまふ評林に云
関脇  江戸  柏戸宗五郎      宝暦六丙子仲夏 板元
小結  久留米 荒馬源弥      作者能見角觝  舟屋五市右衛門
前頭  庄内  大綱七郎治
前頭  久留米 揚羽空右エ門    四天王金将
前頭  白川  音羽山峯右エ門   生国羽州秋田  四車大八
前頭  秋田  四ツ車大八       すわりよく重荷を引や四ツ車
前頭  羽州  大響山又五郎     此書ニ四天王ト云ハ同国秋田金将
蒙御免 當二月五日より於         大鳴戸淀右衛門
芝神明社内   式守鬼一郎
晴天十日勧進    木村庄之助 式守与太夫
大相撲興行   木村庄太郎
大関  雲州  雷電為右エ門      同国秋田金将 磯碇平右衛門
関脇  同   千田川吉五郎     四天王随一巻軸角行
小結  南部  錦太塚右エ門      生国肥前唐津 鰭之山浦右衛門
前頭  雲州  鳴滝文太夫      右四天王の内ニて随一トしるセり
前頭  同   佐渡嶽澤右エ門     又関取宗祇巻頭飛車
前頭  因州  山颪 源吾       生国羽州弘前 源氏山住右衛門
前頭  同   荒岩 亀之助      弓八幡神もひいきな源氏山
前頭  南部  階 玉右エ門   右此頃の大関ニて日ノ下開山ト称セし也


第4

            第四  鬼瓦看発病
一  文化二乙丑(きのとうし)夏頃、京都三条の辺りなる売薬屋の
   屋根の鬼瓦を殊の外大きく作りたり。此向ふの家の女房
   此鬼瓦を一ト目見るより心悪(こころあ)しく、ついに病に臥し
   医療手を尽(つくす)といへ共しるし(験)なけれハ、いかなる事にやあ
   らんと、是にハ何か催したる事もあらんかと女房に尋(たずね)
   ければ、最初ハ向ふの鬼瓦見たより心地あ(悪)しくなりしト
   噺しける。 医者これを聞て、是等の事何条おそ(恐)るるに
   たらん、是にハ我工風(われくふう)有りとて、深草の焼物やへ誂(あつら)えて
   瓦にて鍾馗の像をこしらへさせ、こなたの屋根へ出しけれハ
   程なく此女房の病気全快セしとそ(ぞ)

   按するに此女房鬼瓦を見て心悩まし病床ニ伏す。 医
   者其もとを聞、 鍾馗を作り此病難を除きしハ古き噺しより
   思ひ出して斯(かく)はからひしや、右病気全快セしハ妙なり。
   因ニ云、擬難病抄ニ ○大酒ハわさわい(禍)のもとい、ことに酒狂
   大なるきず(疵)なり、 難病同前由へ病症ニ擬(なぞ)らふ昔より断酒の
   法ハあれど、自心より止ねば虎の皮黒やき(焼)、馬道具程
   のミ、鷹の糞、糧に用ふとも詮なし。 併(しかしながら)一方有、是を記す。
   一曼荼羅花 てうせんあさがほ花共に、花なき時ハくき葉ばかり黒焼にし用(もちい)、
         此草植木やニあり薬店ニなし、桐の葉ニ似て花ハ白百合の半開の如し
   此黒焼日中前後ニ酒少々ニて用い、直ニひと寝入して其夜又一チ度
   用い直臥(すぐふす)べし、其間に酒かたくのまず是を日数用ゆれば
   大酒せず、酒狂もやむ(止む)なり。 或人曰、此やうにすれば千金方
   にある虎の皮の黒焼もきく(効く)道理なり
   ○ 家中同役の内にて私欲がましく見ゆる時、同(おなじく)けが(穢)るる
   も本意なし、又いささかのことにかどたつるもいかがなり、さ
   やうの時一ツの妙術有、公用をのぞき日夜数珠を持、何(いず)れ
   の仏にても心次第ねんずべし。 此時花(華)厳般若のお経
   も史漢左国の四角な文字も用にたたずト云々
   ○ 是も婦人の難病ニ擬(なぞ)らへて世事の難病と述る也
   男親の継子をにくむハなく、舅親父の嫁をにくむまれなり、
   女ハ陰屈の徳ある由へ、若き時姑にそねまれたる女、年寄
   て又嫁をにくむ者多し、 まれに嫁のあ(悪)しきもあれと下手(したて)
   なればもつハら(専ら)ならず、姑とにくむに濃薄きあれど大抵
   つよき(強き)せつしやうほどの事也。 かわゆき子捨て帰るを
   見るべし、常につき合し人の娘も我嫁にすれハ自然
   ににくむ(憎む)心いつる(出づる)也。 書載(かきのせ)るものの法として此おやなり
   いかほどつら(辛)くもこらえ仕るが孝行、とおしゆ(教ゆ)べきに見るも聞(きく)
   もたへがたきを、所々にて見およびたり。 法ハ孝行心はたえ
   がたき世事の難病ハ是那り、 諺に守り人のひま(隙)ハあれ
   ど盗人の隙奈し、といふごとく嫁姑ひと所に居て見れハ、目
   にふれ、耳にふれ間違(まちがい)念たらぬ故、様々のきず(疵)を見出し、
   夫が基(もとい)になり、ためによ(良)きこともあ(悪)しくおも(思)はる也。是らハ
   大抵智恵の有(ある)女ものが(逃)れがたし、 家内にとりなす者あ
   れば、善人までやしん(野心)におもはるるなり。 此難病さまざま考(かんがゆ)れ 
   ともよ(良)きしかた(仕方)もなし、 およそ病の凝滞(とどこおり)たるは一概にせむ
   べからず、廻らし任すへし、 右難事きさ(兆)しあらバ後のう
   れい(憂い)をおもひ、少(ち)とついへをいだし(出し)姑に物なと調遣し、それも
   嫁の心づきの様ニしなし、物詣ごと随分すすむべし。 嫁にハ
   古郷より届(とどき)してい(体)にて時々物調遣し、もとより姑へも
   一品あしらい、舅も夫ももつぱら(専ら)姑を大切に致し、気に
   入より外なしとひたすら教ゆべし。 後の斯(この)うれへを
   早く療治すべしト云々。 予も此仕方第一の要用と思わる。
   病ひは気より生ずる物とあれハ、男女とも常に五常の
   道を守り、心正しくする時ハ祈(いのら)ずとても神や守らんと
   の御神詠なれハ、心ハ正直ニすへきことなり 穴賢々々

   註 
   左国史漢 何れも中国古代の史書で江戸時代文筆家の必読書とされた
        春秋左氏傳、国語(春秋時代の各国歴史)史記、漢書を云う
   五常の道 儒教では人として守るべきは仁、義、礼、智、信の五つであるとしている

 第5

         第五 富山捕怪魚
一  文化二乙丑五月、越中国富山領放条津「異ニ余潟濱とも」より
   四形の濱え渡ル海、 一日ニ二三度ツツ出テ海ヲ荒シ其浦々
   漁一向無之(いっこうこれなく)、其上此魚の出ル濱村火災有之(これある)ヨシ。
   御領主え訴、依之(これにより)鉄砲数多被仰付打留ル。ウナル声三十町程聞ユルト云々
    惣丈三丈五尺、顔三尺、髪一丈四尺、脇鰭(わきびれ)六尺余
    背薄赤、腹ハ火の如し
   按(あんずるに)本草綱目有人魚二種曰異物志ニ云
   似人魚長尺餘頂エ小穿気従中出(中より出る)
   此図ハ或人のもとより写したるを爰に模写す、 彩色摺に
   して街を売歩行しハ此図とハ大同(小)異にて、面ハ般若面の如く
   鰭に唐草の如き紋有、横腹左右ニ眼三づつあり。 文宝亭曰予が
   向ふの家、松屋え佐渡国より折々来る僧あり、 此僧の物語にハ佐渡
   ニては折々猟師の網ニかかり上る事なれ共、此魚をとれハ漁なし
   とて自然とれたる時は飯をくハせ、酒を呑セて放ち
   やるよし。 尤彼国にて人魚と称するものハ長三尺も有て、
   人の面ニ似て髪の毛もすこし有るよし。 人語ヲ弁(わきま)へてうけ答へ
   くらいハするよし。 此僧の物語なりとて松屋隠居白養来りて
   かた(語)りたるまま筆ニまかす随筆ニ見へたり。 ○加州侯御屋敷
   にてハ一向沙汰もなく、甚虚説なるよしト云々。此後神蛇姫ト云あり是等の焼直しなるべし 

註 
   本草綱目 明の医者、李時珍が著した薬草学の大著52巻で1578年完成、 日本にも17世紀初期に輸入され、日本国内で 返り点などつけて復刻された

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