解説に戻る          (街談文々巻2 第六話ー第十話)    前のページ    次のページ  Home

第6

         第六  延命綴婬犯
一  文化二乙丑四月二日     内藤山城守家来
                            井上権兵衛
       押込
   右者延命院住寺日當女犯の一件を著述して貸本
   屋え遣(つかわ)し、貸本ニ致候段露顕ニ及び御咎被仰付(おとがめおうせつけられ)候也。 御掛り
   根岸肥前守様御番所ニて

註 延命院事件
  享和三年(2年前)谷中延命院の住職日道が祈祷に事寄せて、信者の女達(実は大奥の女中達)59人と密通した事件で日道は死罪になった。 日道は当時40歳。(武江年表)

第7

          第七  鬼坊主行罪
一  文化二乙丑四月廿六日鬼坊主清吉といふ盗賊江戸送り来る
   去年より鬼坊主清吉といふもの、所々にて盗をなし又ハ途中ニて
   追剥などして、殊ニ術を得しものにて、今江戸に居るかと
   思へば忽(たちまち)十里廿里先え走り、一向おふやけ(公)にて召捕かね
   られし。 依之(これによって)所々え人相書を出し、きひしく(厳しく)御詮義ありける
   御威光いちし(著)るしく、勢州にて召捕られし由。 世上ニて専ら
   噂ありて、けふハ勢州より鬼坊主江戸え引かれ来るとて、
   日々ちまた(巷)に人あつまり、見物せん事をあらそひて群
   集せしが、唯噂のミ毎日同し事なりければ徒然
   草ニ書けるいせの国より女の鬼になりたるを (率い)てのぼり
   けるとて、日毎に噂セしハあとかたもなき事にてありける
   よし。(註1) これも其如なんと思ひいたるに四月廿四日異に二十六日、彼者
   江戸え引かれ来り、入牢被仰付(にゅうろうおうせつけらる)。ついに六月廿六日同類
   共三人町中引わたされ、千住にて獄門に行(おこなわ)れける。
   清吉がよめる狂歌
   武蔵野に色もはびこりし鬼あざミ
      けふの暑さにやがてしほるる       
   今壱人
   浄(じょう)ばりの鏡にうつる紙のぼり
      けふの噂は天下一面
   今壱人
   死ぬ時も生るる時も紙のぼり
   鐘旭ハなくて鬼の供する
   
   かかる悪徒とも御仕置被仰付(おうせつけられ)町々も静謐ニなりけるも
   ひとへに御恵の程と有がたき
  御代なりける(註2)

    浅草新鳥越妙光山円常寺
    当寺乱(卵)塔の内ニ鬼坊主清吉墓アリ、脇辞世切付し有
    此寺日蓮宗にて往古は本堂の脇に大甕二ツ埋メアリ、是ニ
    罪人の首を納(おさめ)、首級一千ニ積時ハ是を埋メ千人塚ト唱へ供養アリ
    毎年七月施餓鬼の節、首二ツ取出し経を読誦ありしが天保度
    御改革より此事絶し。 鬼坊主墓も文化ノ頃迄
    乱塔ニならびありしニ、何(いずれ)の頃ニや雨覆出来諸願の利益も
    ありしが清吉大明神ト書(かく)幟数本建てあり。 いつ神号をとりしや
    甚だしきこと也

註1 徒然草五十段に、応長の頃(1311−12)、伊勢国より女の鬼に成ったものを連れてくるという噂が京に広がり、二十日間ほど京中の人々は右往左往したが、噂ばかりで結局事実ではなかったという話が載っている
註2  抬頭 敬意を表して通常の行より高く書き始める

第8

          第八  山下實事論
一  文化二乙丑九月霊岸島長崎町忠右衛門店、山下飯之助
   といふ浪人、世間の放蕩者或ハ悪党なりとも篤実にす
   る事をなす。 是ハ右山下飯之助の門弟と成り、何ヶ日の間と定、
   其間ハ山下方え引移りて、書を読(よま)せ或ハ諸禮を習わせ、
   右日限の間にハ自然と悪念をはらひ、真實の者になして
   かへす(帰す)よし。 いかなる教へ方あるにや、廣き大江戸の事ゆへ
   親兄弟の申事を聞入ざる不禮の族(やから)をハ連来り、相願候者数多(あまた)有ト云々。
   其家造りハ玄関をかまへ、實事論会学堂ト書し看板を
   出し、槍鉄砲弓具足櫃(ぐそくびつ)其外武具の類ひをかざり、
   門弟多く皆袴を着し玄関に相詰居候よしなり。

   右飯之助御咎被仰付(おうせつけらる) 霊岸島長崎町
                              忠右衛門店
                                 山下飯之助
一  其方儀町方住居(すまいおる)浪人の身分ニて玄関に槍、長柄等を飾り、
   具足櫃、弓、其外鉄砲と相見へ候品袋ニ入飾置(かざりおき)、實事論会学
   堂と申看板を差出し、新規異流の儀を相企(あいくわだて)、乱心者又ハ
   放蕩者を教諭ヲ以(もって)相直(あいなおし)候様奇怪ヲ申触、其上自分取綴
   候鏡学経と申板本ヲ拵(こしらえ)へ弟子共へ為読(よませ)候のみ申立候へとも、
   不容易義ニ候処相認メ、学堂取建(しゅけん)候迚(とて)弟子共より金子為差出(さしださせ)
   本湊町ニて屋鋪買求、作事場為見廻(みまわらせ)、町人の弟子共え苗字
   為名乗(なのらせ)、利欲ヲ以(もって)蒙昧の者ヲ為迷(まよわせ)金子徳用致候始末不届至
   極ニ付遠嶋申付候
       江戸払       同人倅 山下武三郎
                        三好忠兵衛
       所払         弟子二人 幸三郎
                          金蔵
       科料 五貫文ツツ        名主
                          家主
        同 三貫文ツツ      五人組
                          安五郎
                          吉三郎      
                          多右衛門
   御月番        御詮議役
     根岸肥前守様     安藤小左衛門殿
    按(あんずる)ニ山下氏道二翁の心学ニ准(なぞら)えて、如斯(かくのごとく)乱心者放蕩者ヲ書
    物ヲ以て教へ諭し、此教へニ従ひ悪心をひるかへ(翻)し善心ニなりし
    者もありしト云々、 然る時ハ無益トいふともあらず。 此上利欲を捨(すて)、山師ニ
    無之様(これなきよう)物事質素ニ致(いたす)なば、かかる御咎はあるまじき哉(かな)

第9

           第九 驕非人三助
一  文化二乙丑九月三十間堀六丁目、ひ(非)人小屋頭三助事三右衛門
   家作普請、二階付三十坪余の居宅二重なけし、玄関、客間、茶
   座敷、庭ハ川端迄泉水築山手を尽し、召仕男二人、女弐人、女
   髪結一人、囲者弐人、按摩糸治宇田川町住居よし、是ハ娘の琴の師匠なり。
   外三十人程居候(いそうろう)有之(これあり)
   かかる廣大の奢由へ、被召捕(めしとられ)遠島被仰付之(これをおうせつけられる)。 音羽名主弥兵衛、
   木挽町名主治右衛門、外陸尺、手廻り、鳶の者入牢五十人余、預ケ六十人
   逃去三十余人ト云々。
   下々なるひ人の身を不顧(かえりみず)住居の美々敷事、諸事是にならひ
   妾も多く町宅させ、総(すべ)て奢ニ長ずるも人外の業ニて金銀
   沢山に取入る事故、 如斯(かくのごとき)災ひをなす。 非人ハひ人
   の身相応に勤べき事なり

第10

           第十  奉漆塗古書

一  文化二乙丑四月十日頃、武州草加宿百性大岡八郎右衛門ト云
   者、町御奉行所より御差紙ニて御呼出し有之(これあり)。 其趣(そのおもむき)
   昔安宅丸御船出来候節、右大岡先祖此御船を塗たる
   よし、其節の漆調合の技今以(いまもって)書留有之(かきとめこれあり)候哉(や)との御尋なり。
   しかるに右八郎右衛門事今ハ百性なれば、一向右様の書物(かきもの)なと
   有無共(うむとも)相知れ不申(もうさず)、何レ相尋候上ニて御請可申(もうすべく)候とて、夫より
   家内に往古より持傳へたる箪笥等吟味したるに、其中より
   右あ宅丸漆塗し法書と其外右ニ付たる書物出たれば大
   きによろこひ、早速御上え差出したり。 右書ものニて考れば
   平常家内にて数多(あまた)遣ふ給仕盆三枚、硯箱壱ツ、硯蓋
   一面とも昔の漆のあまりニて塗たるもののよし。 即(すなわち)此三品を
   御上え差出し候得共、給仕盆壱枚御上え上り、残りの品は
   随分大切にいたし置候様被仰渡(おうせわたされ)候と也、
   且右漆の法書ニて塗方出来候様猶又工夫を以(もって)出来候ハバ、
   其旨可申出(もうしいづべく)候とも仰渡(おうせわたされ)候といふ事、本町三丁目小西九郎兵衛
   手代の物語なり。 此小西ハ大岡縁者なれハ此一条虚説
   ニは有まじく、例の筆まかせニ載(のせる)ト云々

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