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                       武家諸法度
                 
  ー江戸260年を支えた憲法ー

  江戸時代の法令を整理記録したものに大成令という書物がある。 これは享保期(1716-1744)に成立した私撰の法令集と云われているが、その後の書に広く引用されている。 この法令集は八五巻四十冊から成り、冒頭の巻一が武家諸法度之部である。 戦国の世から一転、安定した二百六十余年を維持した江戸時代であるが、その憲法に相当するものが武家諸法度と云える。 元々は幕府が大名を統制するための法令で初期は将軍の代替わり毎に発令されたが、途中から幕臣の管理も合わせた武家諸法度となる。
 
     武家諸法度の発端(元和令)
  1600年関が原の戦いで徳川家康を盟主とする東軍が勝利し家康の指導力が強まるが、大坂城には豊臣家も依然として存在しており、豊臣家を内々盟主と仰ぐ大名もあった。 しかし1614、15年両度大坂の役で豊臣家が滅びると、将軍秀忠は直ちに伏見城に全国の大名を集め彼等の忠誠を求めた。 これが13か条からなる武家諸法度の始まりといわれる。 
  内容は大名の心構として、文武弓馬の嗜み、遊行の自制などから始まるが、築城禁止、隣国監視、無許可婚姻の禁止、叛逆等の犯罪者召抱え禁止等、大名の反抗、同盟及び攻伐を抑える内容からなる。 家康の指示で金地院が起草したものと云われている。 その後公儀の御大法に触れたと云う理由で、大大名の福島正則や徳川一門といえども次々改易されたので、武家諸法度は大名達に非常に恐れられたという。

     幕府による全国大名統制強化(寛永令、寛文令)
  寛永12年に三代家光によって発令された寛永令では大名の参勤交替を制度化し、全国各大名が藩内の交通、物流に制限を設ける事を禁止しており、幕藩体制の完成が窺われる。 又海外渡航を防ぐ為大船製造禁止が打ち出されている。 
  寛文令は寛永令を踏襲しているが、寛永14年に起きた天草の乱を契機にキリスト教禁止を明文化している。 一方国内物資流通の拡大に伴い、商船に限り大船制限を撤廃している。

     文治主義への移行と旗本管理の統合(天和令以降)
  天草の乱から五十年、慶安事件からも四十年の歳月が経過し、平和な時代が続くと幕府の武断色は薄れ、天和の武家諸法度はそれ以前と少し趣が変わってくる。 又天和令は幕臣管理の諸士法度を統合している。 諸士法度は寛永九年に初めて発令され、寛永十二年、寛文三年に夫々改定されている。
  天和令に続く正徳令の内容は天和令を踏襲しているものの、和文体で非常に懇切に書かれている。 文章家であり政治家だった新井白石の起草という。 内容的な特長としては諸士法度の条項をより多く取り入れ、役人の心構え等が増えている。
  享保令は天和の内容をそのまま改定せずに用いており、以後は改定が行われなかった。 唯一の例外は嘉永6年(1853年)に出された大船製造禁止の解除であるという
 

   各内容へリンク

1.各武家諸法度内容比較表

2.寛文武家諸法度原文・現代語訳

3.寛文諸士法度原文・現代語訳

4.天和武家諸法度原文・現代語訳

5.享保武家諸法度イメージ

    (内閣文庫大成令より)
 
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