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          捕影問答 全文翻刻       捕影問答 現代語訳
p140
或問曰いきりすといふハ地名のよし、これ迄舶来之品々イキ
リス物と唱ふるにても聞知れり、此地何れの方角に在るの
国なりや、むかしハ本邦へ渡来りしやうにも承り伝へたり
叉近来ここかしこの浦へ漂着セるといふ船、多くはイギリ
スといふ噂をも聞けり、吾子知る事あらハ詳ニ告よ
答曰、諭の如く地名にて、むかしハ船の渡来もありしと
聞たり、其頃彼に成し下されし御朱印には伊祇利
須と書せ給ふと之由、本名ハアンゲリヤといふよし、明人
これを漢个利亜叉諳厄利亜と音訳す、和蘭にてハ
エンゲランドと呼ぶ其国人をハエンゲルスと称する也、我邦
   1.イギリスの由来
質問
 イギリスと云うのは地名とのこと、これ迄各種外国製品をイギリス物と云うのを聞いている。 これは何所にある国だろうか。 昔は日本にも渡来したと聞くが最近では彼方此方の港へ漂着する船の多くはイギリス船と云う噂も聞く。 貴方がご存じなら委しく教えて欲しい。
回答 言われるように昔は同国の船も来たと聞く。 貿易の許可証をイギリスに発行したと聞く。 正式名はアンゲリアと云うらしい。 中国(明)人はこれを諳厄利亜と音訳している。 オランダではイングランドと呼び、その国民をイングリッシュと云う。

註1 5世紀頃ゲルマン民族のアングル人やサクソン人がイングランド島に移住しイギリスの基礎を作った。 アンゲリアとはこのアングル人の音訳と思われる
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の人これを誤りて伊祇利須叉伊毛蓮須なとゝも
通称し来ること見ゆ、総海全図を按ずるに、地ハ和蘭
近傍に在り、即欧羅巴大州に係る一大島なり、其地
三州に分る、「エンゲランド」「スコットランド」「イヽルランド」と
いふ、然れとも惣名をエンゲランドといふ、我長崎を距ること
西海凡七千六十里余ありといふ、北極出地五十一度より
五十五度余に在り、気候和適土地肥沃、諸穀野菜を
産し、海辺にハ魚塩の利あり、山谷にハ銀錫銅を出し
且良馬を産す、就中錫ハ最上とす、叉毛織類ハ他国
に勝れり、土俗天性勇悍最水戦に習ひ、俗常に舟を
操る、且天文暦学を始め学術諸芸を積究し、皆他の

邦人に勝れり、亜墨利加等他の三大州、中にも併せ有いの
属国多し、是其内説なり、我邦慶長五年泉州堺
の浦に阿蘭陀の加比丹ヤンヨウスと同船し、其国人
アンジといふ者乗来り、言上之上江戸江入り御目見、交易の
願申上、願の如く免許被仰付、九ケ年滞留
(ヤンヨウスは今の
八代洲河岸に旅館を賜ふ、其名によりて今地名となる、アンジは日本橋、
今の安路丁にて居宅を賜ふ、故に後々町の名となるといふ、
両人共に御神祖御側近く時々召せられ、外国の珍話、殊に各国の
治乱興敗の事など御尋問遊ハされしと也、深大の遠慮恐入奉候御事
なり因てにいふ御遺訓、本多殿に御物語の中に、日本ハ武道の捨らざる
様にするが本意也、太平にても武道を怠れハ、異国ゟ日本を伺ひ、異国
太平にして武道怠れハ日本よりも伺ふ、彼秀吉の朝鮮の軍も是也
然れハ日本の武将ハ此以第一也  神慮の遠大なる事仰丈てもいや
高く今の世上も思ひ合ハさるを多かりけり)

御朱印成し下され、貿易阿蘭陀同様肥前平戸へ来津せりと
阿蘭陀へは慶長十四年御朱印下し置れしよしなれハ
我国ではこれを聞き違えイギリス、叉はエゲレス等とも通称してきた。 世界地図を見るとこの地はオランダの近くにありヨーロッパ州に属する大きな島である。 三つに分かれておりイングランド、スコットランド、及びアイルランドだが全体をイングランドと云う。 長崎からの距離は西方凡そ7,060里あり、北緯51度から55度にある。 気候は良く土地は肥沃で色々な穀物野菜を産し、海辺では魚塩が豊富である。 山谷には銀や錫を産し良馬も育つ。 特に錫は最上の物である。 叉毛織物製品は他国を圧倒する。 国民は先天的に勇敢で海戦に勝れ常に船を操る。 天文学や暦学を始めてとして学術面でも他国人に勝っている。 叉ヨーロッパ以外のアメリカ、アジア、アフリカ等の三大州中にも有為な属国が多いと云う。

我国には慶長五年(1600年)大坂の堺港にオランダ船の船長ヤンヨウステンに同行し、イギリス人のウィリアム・アダムスと云うものが渡来した。 江戸で家康公に面会し貿易の許可を与えられ九ヵ年日本に滞在した。 (ヤンヨウステンは八代洲河岸に居宅を貰い、その名前から地名になった。 ヨウステン、アダムス両人共に家康公の側近として召抱えられ、外国の状況特に治乱・興敗について質問された。 その後本多殿に語られた事は太平でも日本は武道は捨てない事、武道を怠れば必ず外国が日本を狙う。 外国が太平で武道を怠れば日本がこれを狙う、秀吉の朝鮮侵攻が良い例である。 よって日本の武将にとって是が最も大切である。 公の教示は今の世にも重なる事が多い)
貿易許可が与えられたイギリスもオランダと同様に肥前(長崎)の平戸に来航した。 オランダへの許可は慶長14年(1609年)の様なのでイギリスへの許可も同時期の筈である。

註1
 アダムス等の船はリーフデ号と云うオランダ船で豊後(大分)に漂着した。 当時豊臣政権の五大老筆頭だった徳川家康の指示で江戸に回送
註2 平戸(長崎県)は西洋諸国との貿易港で16世紀中頃からポルトガル、スペイン船が来ていた。 17世紀初頭からオランダ 、イギリスがこれに代わる。 1641年平戸は閉鎖されオランダのみ出島に移される。
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同時なるべし
  頃日「ケエムヘル」が日本誌を閲するに、彼一千六百九年
  我慶長十四年 神祖より和蘭加比丹「ヤーコツ  
  プスベクス」に信牌を賜ふとあり、按に我方の人 
  「ヤンヨウス」と覚来りしハ、この「ヤーコツプスベクス」
  といふ転声なるへし
此国ハ慶長十七年壬子より平戸へ船を来して交易す    
同十八年之秋、国王始て書を捧す、御返書をなさる其
八月二日江戸着三日
朝見献上之品々ハ猩々緋
十間、弩一張、象限入鉄炮弐挺
遠眼鏡
長壱間程六里ミゆるといふ 六日夕於二丸花火を立て、
入上覧云々の事

ありとぞ、同十九年叉使者いたる、元和二年八月廿日五ケ 
条の御朱印成し下さるとなり
問曰阿蘭陀は於今渡来あるに、伊祇利須ハ来らず
何ぞ故ある事にや
答曰阿蘭陀ハ百有余年来舶連綿たり、伊祇利須ハ
其後年々渡来せしに、交易利潤少きよしにて、元和七  
年より彼より辞して来らぬ事となりしとや、然るに
夫より三十五年を経て、寛文十三年五月伊祇利須     
船一艘来津す、これ其加比丹「セイモンゲルホウ」再び交易
願のために来りしに、此度ハ如何成事にや相叶はず、向
後渡海の事永く停止とありて、七月廿六日帰帆せりと
    「今ケンペルの日本誌を見ると、西暦1609年、和暦慶長  14年 に家康公よりオランダ船長ヤーコップス・スペクスに免許証を賜るとある。 思うにヤンヨウステンと覚えてきたのはこのヤーコップ・スペクスが訛ったものではないだろうか。」(作者註)

イギリスは慶長17年(1612年)より平戸に渡来して貿易を行うが慶長18年の秋始めて国王の書簡を呈し返書もなされた。 8月2日に江戸到着、3日に朝見、献上の品々は猩猩緋十間、弩一張、象眼入鉄砲二挺、望遠鏡(長さ一間程、6里見えると云う) 六日夕方二の丸で花火を揚げ上覧に供したと言う
慶長19年(1614年)叉使者が来る、元和2年8月20日(1616年)には五か条の貿易許可証が与えられたと言う

質問 オランダは今も渡来しているのにイギリスは来ていないのは何か理由があるのだろうか
回答 オランダは100年以上渡来が続いている。 イギリスも当初毎年渡来していたが、貿易の利益が少ないと云う事で元和7年(1621年)先方より断ってきたという。 ところがそれから35年後、寛文13年5月(1673年)イギリス船が一艘入港した。 船長セイモンゲルホウは貿易再開を願ったが何故か許可されず、以後来航禁止と云う事で7月26日帰帆した。

註1.日本誌のヤックス・スペックスはリーフデ号船長
初代平戸のオランダ商館長となった。 ヤン・ヨウステンはリーフデ号のオランダ人航海士でイギリス人ウイリアム・アダムス(日本名三浦安針)と同役だった。 作者の誤解と思われる。
註2.慶長18年(1613)イギリス東インド会社のジョン・セーリスがイングランド王ジェームス一世の親書持参。 朱印状により平戸に商館許可。
 
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なり、於其志の止まりしにや、叉其後十六年を経て其
国の使者、我邦への書翰を持て暹羅へ
(応帝亜即天竺なり
我播州之舟子徳兵衛等往来の地也とぞ)

来り、其守護に託し日本へ伝達すへき由の沙汰
すれども達せず、是我元禄元年にあたれりとぞ、叉  
宝永五年羅馬人を送りて薩州屋久島へ来りしも    
此国の船なりしと聞ゆ
問曰 近来亦所々漂着或ハ薪水を乞ふ為とて船を寄
するもの多くハ此国の様に聞ゆ、其詳なる事いかにぞや
答曰、我邦四面の遠洋眼の及ざる海上ハ、蛮船毎々往
来す、和蘭人いひたりと是所謂沖乗にて、近くハ子年 
来津の魯西亜船にても知られたり、薩摩潟に船を

入れざる前ハ沿海の地見受たる噂も聞ざりき左もあるべきか
たまたま地方へ船を寄るものハ水木を乞ふに託し、若しく
ハ思ふ旨ありてする所ならんや、艱辛を経たる漂着船と
ハ見えさるもの多しと聞ゆ、寛政三年辛亥紀州熊野
浦へ着せし船、蛮文と漢文との書付を出せしハ、地名船
印・刀剣等見請たる所を以て考ふれハ、伊祇利須なり
清人一人乗組し故漢文を添へ、船主堅徳力と書せりと
きけり、是即蛮人の名と見ゆ、横文字通ずべからずされ
とも伊祇利須文と見えたり
其頃蘭葮堂主人何れより得たりしにや、左の書付を
写示セり、是亦紀州へ着せる船より出せるものといふ、横文
しかしイギリスは対日貿易の志を捨てず、その後16年を経て使者が日本への書簡を携えシャム(インドの辺で播磨の徳兵衛等が鎖国前往来した地)に達し、そこで日本への書簡伝達を地元の責任者に依頼したと云うが日本には到達していない。 これは元禄元年(1688年)頃の事である。 叉宝永五年(1708年)ローマ人を送り、薩摩の屋久島へ来たのもこの国の船だと聞く

     2.近年日本周辺で見られる異国船
質問 最近所々に漂着したり或は薪水を貰う為と云う理由で船を港に寄せる多くはイギリスの様に聞こえる。 この理由を委しく知りたい。
回答 我国は四面が海であり、沖の目に届かぬ所には毎日外国船が往来しているとオランダ人は云う。 これは所謂遠洋航海であり、直近では子年(文化元年、1804年)のロシア船の来航が知られる。 薩摩の種子島に外国船が来る前はこれと云った噂も聞かなかった。 我国の陸地に近付く者は薪水を貰うという名目で何か外に目的を持っているのではないだろうか。 辛酸を舐めた漂流船とは見えないものが多いと聞く。 

寛政3年(1791年)紀州(和歌山)熊野浦に着岸した船は外国文と漢文の書面を出している。 地名、船印、刀剣などから察するとイギリスである。 清(中国)人一人乗組み漢文を副え船長は堅徳力と書いている。 これは将に異国船で横文字は分らぬがイギリス文と見える。 その頃友人が何所から得たのか上の書面写しを示した。 これは紀州へ着岸した船から出したものと言う。

註1 宝永五年のローマ人宣教師シドッチを送り込んだのはイギリスではなく、スペイン船と云われている。 日本におけるキリスト教の再布教を狙ったもの。 新井白石の調書→こちら
註2 子年ロシア船とは1804年ロシア使節レザノフがナジェージダ号で長崎に来航し交易を申入れた事を指す。→こちら
註3 日本に最初に来た西洋国は1543年薩摩の種子島に漂着したポルトガル船で鉄砲が伝えられた事で有名
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字ハ書法を弁へざるもの再字せしと見え、字体を為さず
是必イギリス人なるべし、傍書の漢字ハ彼乗組の清
人書する所なるべし、地名ハいまだ暁るべからず
  本船是亜馬利干拿遅七月之間回来
  上看皮草帯回来売

   紀州浦蛮船漂着
寛政三年三月廿六日夕方、熊野之内大嵩浦へ蛮船弐 
艘来、壱艘長十間計り、本邦之三百石積程、壱艘長八間
計弐百石積位、形紅毛船に似て小型也、同晦日夕大砲三
十程放候て酒を呑ミ踊様の事いたし候、晦朔の礼と相
見候、朔日頃小船をおろし、魁首者赤装束緋羅紗之由

十四五人端船にて磯辺乗廻り、小鳥銃にて鴎を十五六打
候よし、此鳥梅へ落候へハ直に水犬飛込捕来候由、
其後大島
の水有之所にて水を取申候、端船を磯へ付置、白き木綿を
長く引はへ水源より木綿極にて端船へ水をやり申候由
漁船を招き一短書を贈り申候、本船是紅毛と有之候へ共
紅毛とハ不相見候、
ムスコヒヤ、ヲロシヤの類と相見候、横文字
も有之候、「去年本船是アメリカ」と記置候書面と一様に
相見申候、積荷物銅鉄大砲五十と有之、船中鍛冶三五人
細工いたし居候由、其外いろいろ漁人共之見候事故、わかり
兼候へ共、怪敷程之事も無之候、然共晦日晩火砲二三十も
放候義注進申来候間、少々此方ニも御備有之、拙者同役共
横文字は書法の分らぬ者が書写したので字体はなしていないが、これは間違いなくイキリス人の書である。 漢文は乗組みの中国人が書いたものだろうが、地名は明確でない。
  本船ハアメリカ船であり7ヶ月かかり到着した。

      紀州浦外国船漂着報告
寛政3年3月26日(1791年)夕方、熊野地方の大嵩浦に異国船が二艘渡来、一艘は長さ10間計り、日本船の300石積程、一艘は長さ8間計り、同200石積位である。 形はオランダ船に似ているが小型である。 同30日夕方大砲30発ほど打ち、酒を呑んで踊っているようであるが月末月初の慣わしか。 1日頃小船をおろし首領は赤い羅紗の服という。 14-15人ボートで磯の辺りを乗り回し鳥銃で鴎を15-6羽打ったという。 鳥が海に落ちると直ぐに犬が飛び込み鳥を捕まえて来るという。 その後大島の水が在る場所で水を取る。 ボートを磯に付けて置き白い長い木綿で水源からボートに水を送っていた。
  漁船を呼び書面を渡し本船はオランダと言うがオランダ人には見えなかった。 ロシア人の類に見え横文字で「去年本船アメリカ」と書いた書面と同じ様である。 積荷は銅、鉄、大砲50とあり、船中に鍛冶職3-5人作業をしていた。 その他色々漁師達の見た事で良く分らないが怪しい船でもなさそうである。 しかし月末に大砲2-30も打ったと報告があり、こちらの対策も必要故、私と同役共々出張した。

註1 アメリカ船であるから、人種的にはイギリスと同じアングローサクソン人で文字もイギリス語である。 この時代はアメリカ東部13州がイギリスから独立して未だ20年足らずである。
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両人取越申候、地士二十人召連
其外少々参候へ共六日ニ出帆致
し候而、間々相不申ハ何分小船ニ而大砲を放候手段、商船
にてハ無之かと被存候、やはり諸国を見積り候船と被存候
紅毛人も五六人中華人五人程、黒坊廿人ほど乗居り申候
其余者ムスコヒヤ之類にて可有之哉と被存候、中華人ハ
通詞と相見候、鳥銃を以飛鳥を打候手段妙ニ相聞申候
各剱を帯し居候、剱ハ薄きものにて撓ミ申候由、是ハ
先年見及候紅毛剱と相見候、右之外別而怪き事無之候
以上
  此書紀藩へ申来る紅毛人と見へたるハイキリス人
  なるべし

     四月十日大坂来状
先月廿七日南風之節熊野大島浦樫之崎と申候辺に蛮
船弐艘漂着仕候由、釜山と申候所之湊汐懸り、元船
大サ遠見にてハ此方五六百石積位、帆柱三本てんま船
四艘有之候、薪水など取ニ上り申候、山へ上候も此方の人
よりさかしく相見候、船中獣類沢山相見候由、小杓之如き
もの海中へ入候て魚を捕セ申候由、人物衣装ハ大方黒
色惣髪と相見候、紀州大騒動之由、郡代御目付衆追々
大島浦へ被詰候由

    指出候短書写
本船乃是紅毛船地名花其載貨物乃是銅鉄及
足軽20人その他少々連れて出張したが船は6日に出帆したので間に合わなかった。 兎に角小船で大砲を打ったことから商船ではないと考えられ、やはり諸国を調査している船と思われる。 オランダ人も5-6人、中国人5人程、黒人20人程乗り合わせ、残りはロシア人ではないかと思われる。 中国人は通訳と思われる。 銃で飛ぶ鳥を撃つとは不思議に見える。 各々が剣を吊るしており、剣は薄く撓むもので以前に見たオランダの剣の様に見える。 上記以外に特に怪しい事もない。 以上
   「この書面は紀州藩への報告書である。 オランダ人と見えたのはイギリス人に違いない」(作者註)

     四月十日大坂からの書状
先月27日南風の際に熊野の大島浦樫野崎と云う所に異国船二艘が漂着したと言う。 釜山と言う所の港で汐待ちをしている。 船の大きさは日本の5-6百石積位、帆柱3本、端舟jは4艘装備している。 薪水を取に上陸し山にも上ったが、この辺の人より賢しく見えた。 船の中には動物が沢山いるのが見えた。 小さな柄杓の様なものを海中へ入れて魚を取っている。 人物、衣装は大方は黒色で惣髪に見えた。 紀州では大騒動との事、郡代官やお目付衆が続々大島浦へ出張の様子である

註1 この船はアメリカ船でレディ・ワシントン号(全長20m余、210トン)、小さい方はグレース号と云い日本に来た最初のアメリカ船と云われている。 船長はジョン・ケンドリックと云い、ボストンの船で米国太平洋岸と中国広東の間で商売をしていた。 日本に立寄った目的は商品の毛皮を売ろうとしたと言われている。
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火砲五十員、在中華国赴皮草国而厺無経貴地
偶遭風浪、漂流至此左貴地不遇三五日之間不好
風而左此好風即日厺此本船人率百口貨物実
是銅鉄並無別物、船主堅徳力記
  按に是乗組の唐山人作れるものと見ゆ、紅毛船
  とハ怪し
(花其ハーガなるべし和蘭王都の名 皮草ヒワサヲ
  という地名の事か)
  
漂流至此も偽りなるべく思ふ旨ありて船を寄せしなるべし
  次の横文字の短書をミれハ全く伊祇利須なり

  いきりす文解すへからず、諳厄利亜辞語の書に
  就てこれを重訳すれハ左の如き事にもやと
  思はる
亜墨利加之内新諳厄利亜のホストンの地へ行く官
船也、船師イヨアンヘンゲリキ
  按に堅徳力ハ此ヘンゲリキなるへし、別に船の図
  あり、ここに略す
文化丁卯長崎へ来舶するボストン船と思ひ合さる 
なり、是必漂着の船とハ聞へず、怪しき船にハあらさるへ
      提出した短い文書写し
本船はオランダ船であり地名はアメリカ、銅・鉄及び大砲50を積み、中国からボストンに行く途中だが大風に遭遇、漂流して貴地に到着した。 風の状態が良くないので数日待機し風が好転次第出帆する。 人員100人貨物は銅・鉄外になし。  船長ケンドリック
  「思うにこれは乗組みの中国人が書いたものでオランダ船というのは怪しい。 漂流したというのも嘘で何か理由があって着岸したのだろう。  横文字の文書をみれば全くイギリスである。
イギリス文は分らないがイギリスの辞書で調べると次の様になるのではないか。」 (作者註)
アメリカの内のニューイングランドのボストンへ行く政府の船である。 船長はジョン・ケンドリック
    「思うに堅徳力とはこのケンドリックの事だろう、別に船の図があるが略す」(作者註

文化4年(1807年)に長崎へ渡来したボストン船と比較できる。これも決して漂着とは見えず怪しい船ではないかも知れないがこの辺の地形を調査する為に船を寄せたのだろうか

註1 花基は中国でアメリカの事をこう書いた、皮草国はボストンか?
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けれ共、此辺の地形を見ん為に船をよせしなるか、世界
を周廻して其諸国沿海の地図を作るハ彼輩の常
にする所と聞ゆ、何地にても如斯なるべし、但申立ハ漂
着水木を乞ふといふを以て名とする也、我邦ハ諸
蛮の船御停止といふをも知る故に地名ハいろいろに
紛らかすと覚ゆ
同八年丙辰八月十五日東蝦夷地アフタと云所へ泊セし  
大船長
三十間余、幅六間余、大砲二十四門、鉄砲三百挺、檣
三本、帆十、四千石積程、端船五艘、其中革船二艘、乗合
人数百十人内夫人一人あり、本国はエンゲレシユと申せ
し由、四月中本国を出帆し、南亜墨利加州の伯西(ふらしる)

児等を経て北亜墨利加州の
角利勿爾厄亜(カリホルニヤ)に至り
これよりハ広東へ至る申セし由
翌九年丁巳七月十九日叉同地エトモ江着岸、これ広東の
帰船なりといふ、但船ハ別船にして小型、人数も減じ
たり、長十三尋幅壱丈壱尺檣二本帆七火砲十二門、人数
二十四人梯船弐艘、小鉄砲百挺余あり、去年の大船ハ西
南をさして帰帆セり、此船ハ荷も仕分け北を廻りて帰
帆すといふ、是亦いかにや、外に類船多くありて人のミ
此小船に乗かへたるも知へからず、両回共に薪水を増加る
ために船を寄せしと申立し由、去年と所を替しも
怪し、船印をミれハ全く伊祇利須なり、松前の加藤
世界中を廻り諸国の周辺海域の地図を作るのは彼等の得意とする所と聞いているので、どこの地でも廻るのだろう。 しかし理由は漂着で薪水の供与を願う事を名目としている。 我国では外国船渡来は禁止している事を知っているからこそ、地名を色々紛らすものと思われる。
寛政8年8月15日(1796年)北海道東部のアフタと言う所へ渡来した大船は長さ50m余、幅10m余、大砲24門、鉄砲300挺、帆柱3本、帆10、四千石積程、端船5艘その中皮船2艘、118人内夫人1で本国はイングリッシュと云った由。 4月に本国を出帆し南アメリカ州のブラジルを得て北アメリカ州のカリホルニアに至り、これから広東へ行く所と云っていたという。

翌9年7月19日(1797年)北海道の東岸のエトモに広東からの帰りという船が着岸した。 但し前年の船とは別で小型で人数も減り、長さ24m幅3.6m帆柱2本帆7火砲12門人数24人端舟2艘、鉄砲100挺余あった。 去年の大船は西南に向けて去ったが、この船は荷物も分けて北へ向けて帰るという。 どういう事だろうか、外に仲間の船がいて人だけがこの小船に乗り換えたのかもしれない。 2回共薪水を追加する為に着岸したというが去年と場所が違うのも怪しい。 船のマークからは明らかにイギリスである。

註1 エトモ 絵鞆 現在の室蘭付近。 この船はアメリカ船で。 ロシア領のアラスカのシトカやカムチャッカのカムチャッキーから毛皮を積んで広東や咬瑠吧に行き、帰りには食糧など運ぶ交易に従事した。
p148
某ハ頗る魯西亜云を知る、幸ひに其船中の料理人に
魯西亜人ある故に通弁かなりに出来て、其大略を聞
しに、右のごとくといふ、其申口実否わかりかたし、且
魯西亜人同船せしも怪しといふべし
同年十月中旬房州長狭郡川下浦といふ所より二
里許沖へ異船来泊す、漁船数艘漕付見たるに、彼人
より魚を所望之由故、有合の魚を遣し候へハ、砂糖を贈り
横文字の小書付渡し其写の文をミれハイギリス文也
誠にこれを重訳すれハ「フロデンセ」
(北亜墨利加州の内の
小島の名なり、諳厄利亜国の併せ有つ所なる)
に至りし官船なり、
一千七百九十一年
(按に我寛政三年辛亥にあたるなり)
十一月十日(按彼月日也我十月ニあたる也 )日本の地に在りと
いふ事と聞ゆ、叉別に

一漢文の得たる書付あり、是亦同断なれとも其文義
なり、叉一漁夫の得たるものイギリス暦の残偏なり、
此船ハアプタへ着せるものなるへきか、同九年六七月之頃
異船房総海を通船し、下総銚子浦ニ而漁船これを見
置たりしが、叉イギリス暦残偏を船中に投込去れり
と叉奥海にて漁人異船を見懸たりときけり、これは
エトモ来泊之往来なるにや、心ありて通船せし事なる
べけれは往来之度々定て地形方緯度数を量り、尤
海路の険易浅深、且里程等迄も測量しなるへし
此国諸邦に勝りて航海の理を窮め、其術に長じ
諸蛮も彼を師とし、習ふと聞けハ、うかうか
松前の加藤某はロシア語に堪能だが、幸この船中にロシア人のコックが居たのでかなり通訳ができた。 大凡の事を聞きだしたところ前記の通りである。 但し受け答えの実否は分らないし、ロシア人が同乗しているの怪しい。

同年10月中旬(1797年)安房長狭郡川下浦という所から二里程沖に異国船が碇泊している。 漁船が数艘様子見に行くと彼等から魚を所望されたので、有り合せの魚を与えたところ砂糖を呉れた。 その時横文字の小さな書付を呉れたがその写しを見るとイギリス文である。 これを訳すとプロビデンス(北アメリカ州の小島の名)に向う官船(商船か)である。1791年(寛政3年に当たる)11月10日(日本の10月に当る)に日本に来た事があると聞く。

叉別に漢文の書付がありこれも同じ内容である。 叉一漁師が得たのは西暦の断片である。 この船はアプタへ着岸したものだろうか。 寛政9年(1797年)6-7月頃異国船が房総沖を通過し、下総銚子の漁船がこれを見ているが、西暦断片を船中投込んで去ったという。 叉陸奥の海でも漁師が異国船を見たと言う。 これはエトモに渡来した船の往復だろうか。 目的があって渡来しているのであれば往来の度毎に地形、方位、度数を測り、海路の危険度、浅深、更に距離など測量していると思われる。 イギリスは諸国に勝れ航海技術に長じており、他の諸国もイギリスを師として習うと云うのでうかうか安心できない。イギリスは日本の廻りを4回廻ったと以前聞いたが、最近では益々熟知したと考えられる。 

註1 プロビデンスはアメリカ建国13州の内ロードアイランド州にある都市
註2 長狭郡川下浦 千葉県鴨川市付近(房総半島太平洋側)
p149
按せざるべし、伊祇利須ハ日本の周回を四遍巡りしと
かねて聞しが、近来に至りてハ数回にいたり漸々熟
知せるなるべし
扨近来長崎へ来たる船之中も名ハ別にして伊祇利
須船来津するかと思ハる、阿蘭陀船といふも船形む
かしとハ相違、乗組之者も蘭人ハかりにハなきと聞ゆ
冠帽の形も和蘭と相違せるあり、これ多くハイギリ
ス辞の名にて言語通じかぬるもありと也、且貨物
もイギリス物多し、其国印行の書籍も見へたり
其船直にアメリカ船と称し叉和蘭もアメリカ船
を雇ひ積荷し来るといふもあり、これ迄聞及ハざる

アメリカ船といふも不審なり、叉其前後他国の名を
唱ひ来津せる者等皆イギリス船かと疑ハる、其証一
二なきにしも非ず、取留難き臆説の沙汰なれとも
左に弁ず
寛政八年丙辰阿蘭陀船入津なし           
 翌年の風説書に其申立あり
同九年丁巳六月廿八日阿蘭陀船一艘入津、船頭ウイ
ウレムステワルト風説書申立
  五月廿四日咬留巴出帆、外ニも類船無御座候、去々年
  帰帆之船十一月十七日咬留巴着船仕候
払郎察臣下之者徒党仕、国王并王子を殺し、国中
     3.長崎へのオランダ交易船不審の15
ところで近頃長崎へ渡来した船の中でも名前は別としてイギリス船が来ているのではないかと思われる。 オランダ船と云っても船の形も昔とは異なり、乗組員もオランダ人のみではないと聞く。 帽子の形もオランダとは違い、多くはイギリス語の名で言語も通じない事もあると言う。 その上貨物もイギリス物が多く、イギリス語印刷の書籍もある。 その船はアメリカ船と称し、オランダもアメリカ船を雇って積荷してくるとも云う。 今まで聞いた事のないアメリカ船と言うのも不審である。 叉その前後に他国の名を言って渡来してくる者達も皆イギリス船かと疑う。 その証拠も幾つかない事もない。 取りとめない推察であるが次に述べる。

寛政8年(1796年)オランダ船渡来なし
翌年の風説書にその理由が述べられている。
寛政9年(1797年)6月28日オランダ船一艘入港。 船長のウィリアム・スチュワートによる風説書
  五月24日咬瑠吧出帆、外に連れの船は無い。 一昨年帰帆の船は11月17日に咬瑠吧到着

註1
咬瑠吧とはオランダの東インド会社のあるジャワ島を指す。 首都はバタビア(現在のジャカルタ)
註2
オランダ風説書は江戸幕府が交易の代償として、毎年入港するオランダ船に義務付けた報告。 船長が口頭で語るのを日本の通訳がその日の内に文書化して江戸に早飛脚で報告した。
p150
及乱妨、阿蘭陀其外近国ゟも同所に押寄及合戦
候段、去ル寅年申上候処、臣下逆徒之者共追討仕、王孫
之内国主を立、旧臣之者守護仕、国中漸平和相成候付
近国和睦仕候、然所諳厄利亜国ゟ大軍を発し
阿蘭陀商館へ向乱入仕、剰弁柄并コロマンデルコス
ト等之商館押領仕候に付、戦争相募り申候、右之通
両国戦争ニ付ても咬留巴表へ通船難成委敷民何分
難相分御座候、就夫専防戦之手当仕候義ニ御座候間、前
件申上候通、既ニ印度辺之商館所々諳厄利亜国奪取
候義御座候、右ニ付而者本国并印度商館共不穏候
ニ付而者咬留巴表へ廻着不仕候義者勿論、大船之分者

何れも軍船ニ相備、敵船を為相防候、所々出張仕候へ者
去年之義何分御当国へ出船之手当難相成、仕出不申
義ニ御座候、其余今以戦争愈増ニ罷在、殊ニ大船之向候
者過半去年来之戦争ニ付而者破損仕、其上咬瑠吧
乗筋へ数度多く兵船を伏せ罷在候へハ、容易ニ難乗渡
ニ当年之儀も咬瑠吧仕出候義、難相成程之義ニ御座候得共
引続両年渡来不仕、殊更外国筋右躰之風説不申
上候義、於頭役共も甚以恐多奉存候、依之色々評議仕候所
迚も是迄乗渡候通之大船ニ而、例之乗筋乗出候ハヽ敵船
襲候義必定之儀
ニ而、無難ニ而者乗通之儀相叶間敷奉存候
ニ付、例之乗筋ゟ東南之方へ針路を求め、乗通候様頭役
フランス国の臣下が反乱を起し国王父子を殺し、国中混乱に陥れたので、オランダその外の近隣国もフランスに押寄せ戦争となった事を寛政6年(1794年)に報告した。 反乱者を追討し国王の一族を王に立て、旧臣の者達を復帰させ漸く国中が平和になったので近隣諸国も和睦した。 ところがイギリス国が大軍でオランダ商館を攻め、インド付近のベンガルやコロマンデルコーストの商館を横領したので戦争となった。 両国が戦争状態なので咬瑠吧への航行も難しくなり詳細は不明である。 しかしてオランダ本国及びインド商館が穏かでなく、咬瑠吧への航行出来なかった事は勿論、大船は軍用に転用し、敵を防ぐ為各地に派遣されており、昨年は日本へ渡来する事が出来なかった。 今現在も戦争は更に続いており、大船の多くは昨年来の戦争で破壊され、その上咬瑠吧への道筋に敵船が多く配置されているので、簡単には渡航できない。 今年も咬瑠吧出船は難しかったが2年続けて渡来せず、特に外国関係情報を報告しないと云う事ではバタビアの総督筋も大変申訳なく思う。 そこで評議の結果、是までの様な大船で何時もの航路では敵の標的となる事は間違いないので、通常の航路より東南に進路をとり渡航する事になった。 

註1 歴史的にはフランス革命が1789年に起り1791年国王の処刑まで行った。 近隣諸国は一斉にフランス革命国家に干渉したが、 これに対し革命軍が逆襲しオランダはフランス革命軍に占領され、1795年にバタビア共和国としてフランスの衛星国となった。 フランスと敵対するイギリスは此の機に乗じて旧オランダの海外資産を押さえに掛かったのが実情。 風説書では微妙にオブラーとが懸けてあると云える。
p151
共ゟ申付候、猶叉別而暗礁多き場所も御座候へハ、其辺案
内之船方之者共新に抱入、有合之荷物積込咬瑠吧出帆
仕、今日着岸仕候義御座候、且亦当年加比丹交代期年
に候得者、是非新加比丹渡来可仕筈御座候所、前件申上候
通、所々及大乱候ニ付敵船防之ため諸商館へ罷越、役応之
者多死失仕、誠に不慮之患により無拠仕合、無是非新
かひたん乗渡不申義ニ御座候云々、
       かひたんげいすべふこへむみひ  
    巳七月   

  按に此年之船形例年の如くならず、アメリカ船と
  いふ、乗組異躰の人々もアメリカ人と称セし由伝聞

  船首にエリサオフねヲヨルクと顕せり、エリサは船
  之名、オフはのなり、ねヲヨルクは亜墨利加州の一
  地名、諳厄利亜国の所領なりと
(下に詳にす)即ねオヨ
  ルクの某船の義なりとぞ、船中阿蘭陀人両人其
  余者アメリカ人と申立、船頭ステツルトモ其一人
  ねオヨルクの者也といひし由、惣人数ハ拾余人也、右
  両人の阿蘭陀一人ハ船頭
(ロイト是迄弐度来る者也と) 
  一人ハ
(ジーぺンべーキ案針役)
  スヽワルトハ服船頭と唱し由、両人之外ハアメリカ人と
  称せしかとも、ステツルトの類三人なり、其一ワツソン
  表向外科と称したれとも荷主と見へたるよし 
  其二シーモント 其三スミツトと
  いふ、此四人之者イキリス辞也、水夫ハ数十人莫臥児
なお新たな航路は暗礁も多い場所なので、海域を案内できる船員を新しく雇い、有り合せの荷物を積込み咬瑠吧を出帆し本日着岸した。 それから今年は商館長の交替時期であるが、前に者べた様に各地商館が敵に襲われ適格者の多くが死亡した。全く不慮の災害の為止むを得ず此のたび新商館長は渡航できなかった。  
   商館長 ヘイスベルト・ヘンミー
  1797年7月

   「調べると今年の船の形も例年と異なりアメリカ船と言う。 乗組の人々もアメリカ人と称していると聞く。 船首にはイライザ オブ ニュウヨークと書いてある。 イライザは船名、オブはの、ニューヨークはアメリカ州の一地名であり、これはイギリス国の領地である(下に詳しくする) 即ちニューヨークの船であるが船中オランダ人2名、残りはアメリカ人と云う。 船長ステュワートもニューヨークの者と言う事で総人数は14人である。 前記オランダ人の一人は船長(ロイト、過去2回来た者)今一人は航海士のシーペンベーキ。 スチュワートは副船長と云っている由、 両人の外はアメリカ人と云うがスチュワートの仲間が三人いる。 ワトソンは表向外科と言うが荷主の様である、 外シーモント、スミスと言う。 この四人はイギリス言葉である。 水夫は数十人モール人の由で皆黒人である。」(作者註)

註1 莫臥児人、 モール人と振り仮名あるが、ムガール人(この頃のインドは南インドの一部を除いてムガール国と呼ばれた)
註2 オランダ国が消滅してフランスの衛星国バタビア共和国となり、イギリスと敵対関係となったため海上交通が出来ず、中立国アメリカ船を雇った。 この船はアメリカ、ニューヨークのエライザ号、船長はウィリアム・スチュワート
p152
  人のよし、皆黒人なり、これ等衣服・言語大ひに異
  ひたり、是尤初て渡来する所也、同く頷ふに前文
  風説書のこと、阿蘭陀国はイギリスに戦ひ負て
  印度の諸商館も奪れ、去年ハ渡海なりかたき
  折節なれハ、右ステワルトといふ者此年咬瑠吧在留
  の蘭人に請て日本交易を組合せしか、叉別に荷
  主を拵へ、弁柄辺之商館ゟアメリカ往来有合の
  船に貨物を積入、其国勝利の勢を以て日本へ  
  申訳之為、両人を為乗組、且頭役ゟ押而送状を取
  乗来、蘭船ニ紛らかしたるか、有合のアメリカ往来の
  船を用ひたるも、本国の名を避んとせしにハあらずや

  必ずアメリカ人にハあらず、四人共にイキリス人なる
  べし、水夫のモール人なるも即弁柄辺の者成べし
  榜葛刺(ベンガラ)ハ大莫臥児の属州なり 相対整し
  が如くにて、実ハ押てかく
  なせし所か、和蘭人もとよりこれを知り居る事な
  るべけれとも、我邦に恥を掩ひ、且彼に勢を呑れ、己
  事を得ず前文の如き風説書も申立しか、と疑ハる
  
(ステワルト実ハ船主なりと聞ゆ、性柔和に見へ人ハ小男也、
   沈勇奸智ある者と見ゆと再渡の客子にても知るべし、彼も自ら
   いふ、蝦夷地へハ両度到りたり、
  日本東海を通りしと)  
是全くイキリス船イキリス人
  なるへきかと追々疑ひを起せし、不審の最初の一ツ
  叉按に去ル八年ハまさしくイキリス船其八月我
  蝦夷地アフタ江来泊し九州豊前の沖にも異船
彼等の衣服・言語はオランダ人と大ひに異なっており、初めて渡来するものである。 同様に頷けるのは前文の風説書の事である。オランダはイギリスと戦って負け、インドの各所の商館を奪われ昨年渡来できる状態では無かった。 そこでスチュワートなる人物に咬瑠吧のオランダ人が日本との交易を委託したか。 叉は別に荷主を頼みベンガル辺の商館からアメリカと往来する船に貨物を載せ、日本への口実の為オランダ人を乗組ませ、更に咬瑠吧の総督の送り状を無理やり出させてオランダ船と見せかけたか。 有り合せのアメリカ往来の船を使ったのも本国名を隠す為ではないだろうか。 決してアメリカ人ではなく、四人共イギリス人に違いない。 水夫のムガール人達もベンガル辺の者だろう。 ベンガルはムガール国の属州である。 辻褄を合わせたように無理やりこのようにしたものか。 オランダ人は事実を知って居る筈であるが自国の恥じを隠し、彼等の勢いに呑まれて止むを得ず前文の風説書となったのではないかと疑われる。(スチュワートは実は船長とあろう、性格は穏和に見え小男だが沈着勇敢で知恵のある者と見える。 彼自身も蝦夷地には二度行き日本の東海を通過したと云っている) これは明らかにイギリス船でありイギリス人だと益々疑いが深まる。 これが不審の第一である。
更に考えると去る寛政八年にはイギリス船が8月に蝦夷のアフタに渡来し、九州豊前沖でも異国船が見え、東海でも見えたと云う事は不思議ではない。 叉翌9年には前に述べた様にエトモに渡来は全て符合する。

註1 オランダはフランス革命軍に占領され、バタビア共和国としてフランスの衛星国となりイギリスとは敵対関係となった。 イギリスに海上封鎖されたので旧オランダ東インド会社は中立国であるアメリカの船を雇い対日貿易を続けた。 作者の疑いはアメリカ船と云うのは実際はイギリス船でイギリス人が乗っているのでは、と云っている。 言語、習慣、人種共にアメリカ人は元々イギリス人である。 アメリカに就いての情報はこの頃殆んどなく区別は難しかったと思われる。
註2 是迄のオランダ交易船は長崎と咬瑠吧の往復であり、本州や北海道の西岸東岸を通る事がなかった。 しかしアメリカ船を雇えばアラスカやカムチャッカとの往復も加わるので必然的に日本各地で異国船を見ることになる。
p153
  見へたり、東海にも見ヘシ云々ハ怪しむべき事なき
  にあらず、叉翌九年ハ前にいふごとく同国の船蝦夷
  地エトモへ着云々、是叉思ひ合する事あるがなり
    寛政九年丁巳九月七日対州ゟ之御届    
去ル八月廿四日之夜中、朝鮮国釜山浦と申所へ異国船
壱艘乗込候而相見へ、同廿五日致繋船候ニ付、従朝鮮間情
仕候所、言語者素より一躰文字等不通御座候、日数七日
程ニ相成候へ共出帆不仕云々
十五六歳之小童乗組、人数大勢人躰筋骨逞く、顔色
不常、頭ニ被り物を致し、衣服異なる絹を着す、一躰色
赤黒叉者青色之様子類も有之候、 彼方ゟ格別宜く

見へ候、紙を出し鳥之羽毛之様成物を持出し、何やら
書候へ共、文字ニ而者無之
  按に鵞翮を殺キたる筆ニ而横文字を書せる故、文字
  にてハ無之と申せしなるべし
廿六日四人端舟にて乗組、釜山浦近所斗岩浦と申所
之近所出島江乗付致揚陸、山へ登り目鏡と思敷品を以、四
方を見渡し在之云
   按に地形方位を図に模せる為なるべし
船長十八尋程有之、木厚丈夫成方、檣弐本、絹にて作り候
色々之旗を建居、武器をも致所持居。乗組人数凡五十
人程も有之様子、船之者壱人火打様之物持出音も無之指
  寛政九年(1797年)九月七日対馬からの御届     
去る8月24日の夜中、朝鮮国釜山浦というところへ異国船が一艘乗込むのが見え、同25日にそこに碇泊した。 朝鮮から事情問合せたが、言語は勿論、文字も通じない。 滞留7日間程になるが出帆しない。 15-6歳の子供が乗っており、人数は多く筋骨は逞しく、顔色も変わっており帽子を被り、衣服は異なる色の絹で赤黒叉は青色もあり、遠くから特に良く見える。 紙を出して鳥の羽の様なものを持ち何か書くが文字ではない。
  「推察するに鵞鳥の羽を使った筆であり、横文字を書いたので文字でないと云ったものだろう」 (作者註)
26日四人が端舟に乗り釜山浦近所の斗岩浦という所の出島へ乗りつけ上陸。 山に登り望遠鏡らしきもので四方を見渡していたと言う。 
  「これは地形、方位を模写する為だろう」(作者註)
船の長さ33m程で木は厚く丈夫に造られ、帆柱2本、絹地で作った色々の旗を立て、武器も所持している。 乗組人数凡そ50人位の様子。 船の者が一人火打のような者を持ち出し、音もなく合図すると大砲が鳴り出した。
9月朔日4-5人端舟で釜山城の沖から坂ノ下と言う所の沖へ漕ぎ回り、下げ球を使い海底の浅深を測っている。 坂ノ下の浜辺に上り、浜の周辺その外様子を調べてから本船に戻ったと言う。
p154
合候と見へ候所、大筒鳴出候云々
九月朔日四五人端船ニ乗釜山城之沖手より坂之下と申所
之沖手を漕廻り、下ケ玉を以水底之浅深を試、坂之下之
浜辺江上り、浜之廻り且其外之様子を考候上、本船へ帰候

一何方へ出帆致候
宜き風合御座候而も致出帆候様子無御
 座候ニ付、自朝鮮人品々致、帰帆候様仕形致し見せ候
 へ者、北之方を指し出帆難成様子を致し、叉自分之船
 を擲指を出し仕形仕、類船四五艘之事ニも候哉、此浦へ
 乗来候者待受居候仕形など致候由、右之通ニ而只何と
 なく繋船仕居候由、去朔日迄右之通と申来候
  九月十日
  按に七月蝦夷地エトモへ着岸のエゲレス船も類
  船なるか、同年の事にて月日も符号、且右仕形も
  似つかハし
一当月十五日夜対州領内遠見嶽と申所之沖ニ
 地方より十里程之所ニ異様之船数艘つゝ三ヶ所ニ集り各別
 大船と相見漂候躰ニ候所昼頃より海上霞ミ船幽に相見、夜
 分ニ至り通船先不相見候所、同夜右近所綱浦と申所之  
 沖手ニ当り大筒を四放放し聞へ、山谷へ強く響き、其
 翌十六日明方
ニ而も可有之哉と申程朧相見居候所
 卯之下刻頃俄ニ雷雨甚く、右之暴雨
ニ而何方へ致通船候
〇何方へ出帆するにも都合の良い風なのに出帆する様子が無い。 朝鮮人より色々方法で手真似して立去る様に伝えた所、北の方を指して出帆が難しい様子をした。 叉自分の船を指し身振りで仲間の船4-5艘の事だろうか、この浦へ来るのを待っている様子である。 以上の通りでただ何となく碇泊しているという。 去る朔日迄以上の通りと報告あり 
  9月10日 (寛政9年)

   「思うに七月蝦夷地エトモへ着岸のイギリス船の仲間だろうか。 同年の事で月日も符号する。 叉手真似のやり方も似ている。」(作者註)
〇当月15日夜対馬領内の遠見嶽と云う所の沖に陸より10里程の海上に異様な船が数艘つつ3ヶ所に集まっている。 特に大船に見え漂っている様子である。 昼頃から海上に霞が掛かり船影もかすかになり、夜になり何所へ向うか見えなくなった。 同夜近くの綱浦と言う所の沖で大砲を4発打つのが聞こえ、山谷に音が響いた。 翌16日明方に船かどうかおぼろげに見えたが朝7時頃急に雷雨が強くなり、その後船は何方へ行ったか雷雨が止み海上もはれたが全く船影は無かった。
    9月

註1 江戸時代を通じて朝鮮国釜山には倭館という日本人居住区があり、10万坪の敷地だったと言う。 対馬藩からの駐在員が滞在し対馬経由日本との貿易業務を担当していた。 その関係で対馬には朝鮮国の情報が入っていた。 
p155
 哉無程雷雨ハ晴れ海上も晴候へ共、
一向不相見候由申来候
     九月
  按に右書付之船ハ数艘ツヽ三ヶ所ニ見へしといふ、是
  釜山浦へ来泊せる類船なるべし、此辺之地海
  を見積りし事と思はる、如何様之計議かある、是
  前文条々を考るに必ずイキリス船成へし
 同十年戊午六月十日去年の如き船長崎入津、ジャガ   
 タラ仕出しにて、去年の御請書も持参、アメリカ人といふ
 者上乗して来る、船頭ウイルレム・ステワルト其外
 シーモント・ホラム両人、水夫ハ去年之通之モール人にて
 同じ者共也、此船阿蘭陀人ハ壱人も乗来らず
   風説書写
一去年申上候通、エケレス国より大軍を発し阿蘭陀
 国江押寄、及合戦罷在候
一当年者新かひたん乗渡交代可仕筈御座候処、去年
申上候通、本国筋并印度辺諸商館之向者戦争相募候
付、敵軍防之為、諸商館江被越居候役懸之者共未帰国
仕候付、かひたん職之者共咬瑠吧表ニ居合不申付、無是非
当年もかひたん乗渡不申候、役人れをぽると・ういるれむ
らす  *レオポルド・ウイレム・ラス(1798-1800)
  此年阿蘭陀人壱人も来らざる事尤怪むべし、按
  にこれ、ステワルト船にて去年の如く相対にて
  「思うにこの文書にある船は数艘づつ三ヶ所に見えたと云うが、これは釜山浦に来た船の仲間に違いない。 この辺の地形、海域を調べているものと思われるが、何の目的だろうか。 これは前に述べた状況から判断して必ずやイギリス船だろう。」(作者註)
寛政10年5月10日(1798年)昨年と同じ様な船が長崎に入港した。 咬瑠吧を出て昨年の書類も持参したアメリカ人と称する者が乗っていた。 船長はウィリアム・スチュワート外、シーモントとホラム、水夫は昨年同様ムガール人で同じ者達である。 オランダ人は一人も乗っていない。

      風説書写
一昨年報告の通りイギリスが大軍でオランダに押寄せ戦争になり、続いている。
一当年は新商館長が到着して交代する予定だったが、昨年の報告の通り本国及びインド辺りに商館のものが戦争に巻き込まれ諸商館から帰国していないため、商館長の適格者が咬瑠吧に居ない。 止むを得ず今年も商館長は来なかった。
    役人 レオポルド・ウィレム・ラス
  「この年オランダ人一人も来ないのは怪しい。 思うにこれはスチュワートの船で昨年同様雇われて来たものと考える。 これは即ちイギリス船でイギリス人の再来ではないか。 これが不審の二つ目である。」(作者註) 

註1 オランダ商館長ヘンミーは1798年夏江戸参府の帰路で病没しており、上記風説書の時は商館員だったウイレム・ラスが商館長代行(1798-1800)をしたものと思われる。 
p156
  来ると見ゆ、是全くイギリス船イギリス人再来 
  なるべし、是不審の二ツ、此船十月帰帆之節、神崎沖
  ニ而沈船ニなり曳き揚候而叉湊入修理を加へ、翌十
  一年己未四月帰帆す、此船咬瑠吧半途迄行き
  叉大風ニ遭ひ帆柱三本共に吹折、便る島なく送
  風にて長崎へ吹戻せしよし、依而再び修理を加へ
  同秋出帆之阿蘭陀船と一同に出帆
同十一年己未小船壱艘拾弐人乗ニて渡来、此年和蘭人
ヘンデレキドーフ
(筆者頭なり「ンキリーバ」といふ)一人其余者
船頭初め何れもアメリカ人といふ申立テ、船もアメリカ船
之由、去年之帰帆着岸なき故、如何之事と当役より
ヘムシイへ書簡遣ハせし

とぞ、ドーフは滞留し、貨物御取捌何れも帰帆す
  按にこれ亦相対にて蘭人壱人乗組、本船ハイギ
  リス貨物、イギリス人なるべし、アメリカ船アメリカ
  人といふハ仮称なるべし、是不審の三ツ
同十二年庚申閏四月四日小船来津、船頭ステワルト蘭
人一人も乗組なし、其申立に曰、去冬帰帆之節ボルねヲ近
辺ニ而叉々難風に逢ひ、終に破船、乗組人数計端船ニ而
助命、数度之難船ジャガタラ江無申訳、ボルねヲより船を
借り相応之貨物積入来候由、ジャガタラ仕出しに無之
を以て加比丹願之上、秋中蘭船着津迄御差留
  按に此ステワルト申立尤怪むべし、矢張印度地
     「この年オランダ人が一人も来ないのは怪しい。 思うにこれはスチュワートの船で昨年同様雇われて来たものと考える。 これは即ちイギリス船でイギリス人の再来ではないか。 これが不審の二つ目である。 この船は10月帰帆する時、神崎沖で浸水したので引上げて港に戻り修理し、翌11年4月帰帆した。 更に船は咬瑠吧に向う途中で大風に遭い、帆柱3本共折れ、寄り付く島もなく、追い風で長崎に吹き戻されたと言う。 従って再び修理し同11年秋出帆のオランダ船と一緒に出帆した」(作者註)

寛政11年(1799年)小型船一艘に20人乗って渡来があった。この年オランダ人はヘンドリック・ドーフ(書記長という)一人、その他はアメリカ人と云い、船もアメリカ船との事。 去年帰帆が無いので如何したのか、と咬瑠吧支配人からヘンミー(商館長)に書状が届いたという。 
ドーフは滞留し貨物を捌き、何れも帰帆する
  「思うにこれ叉相談の上オランダ人が一人乗組み、本船はイギリスの貨物でイギリス人だろう。 これが不審の三つ目である」(作者註)
寛政12年閏4月4日(1800年)小型船が入港した。 船長はスチュワートでオランダ人は一人も乗っていない。 報告では去る冬帰帆の際ボルネオ付近で大風で終に破船した。 乗組員だけ端船で命は助かったが、度重なる海難で咬瑠吧に申訳ないので、ボルネオで船を借り、相応の貨物を積み込み渡来したと言う。 咬瑠吧出帆ではないので、商館長の要請で秋にオランダ船が来るまで指し止めをした。
   
註1 1799年入港のアメリカ船はフランクリン号、デブロー船長。この時同乗のドーフは荷物処理後咬瑠吧に戻り、翌年再渡来し
1803から17年間商館長を勤める
p157
  方イギリス所領の国より仕出せしなるべし、是不審
  の四ツ
同年秋和蘭船来津、船ハ所謂アメリカ船なり、加比
ワルデナール、船頭スミツト度々来りしものなり外ニ蘭人四五人
あり、其余者水夫にて所謂アメリカ人也、黒人も少々ありと
  按に此時亦阿蘭陀・伊祇利須相対之上、乗組来
  たるか、熟談之上か、談て組合し来るや、其相対の
  程如何ニや、是不審の五ツ
享和元辛酉阿蘭陀船弐艘来津、一艘は不残阿
蘭陀人、一艘ハ不残アメリカ人なり、船ハ所謂アメリカ也
  按に此年の風説書失す、此節の事委敷聞かず
  
  アメリカ人といふハ矢張イキリス人なるべし、是不審
  の六ツ
同二年壬戌阿蘭陀船入津、阿蘭陀アメリカ乗組
  按に此年の風説書并に一体見聞を欠く、乗合と
  いへハ是亦伊祇利須なるべし、これ不審の七ツ
同三年癸亥七月六日入津の阿蘭陀船風説書、アメリ
カ州之内パルテモールと申所之船を借り咬瑠吧より仕出
し申候、船頭ヤアメレデアレ
  按に阿蘭陀人アメリカ船を借来しといふもの此
  時を初めてするか、此船イキリス船ニ而其国人阿蘭
  陀人を載来たり入津せるか、其疑ハしきハパルテ
  「思うにこのスチュワートの報告は非常に怪しい。 矢張りインド辺りのイギリス領の国から出帆したのではないか。 これは不審の四つ目である。}(作者註)

寛政12年秋(1800)年オランダ船が入港したが、船は所謂アメリカ船である。 新商館長はウィレル・ワルデナール、船長はスミスで渡来している。 外にオランダ人4-5人、其外水夫は所謂アメリカ人で黒人も少し居るという
   「思うに今回もオランダとイギリスの相談の上に編成したものか、これが不審の5つ目である。(作者註)
享和元年(1801年) オランダ船弐艘入港、一艘は全員オランダ人、一艘は全員アメリカ人で船は所謂アメリカ籍である。
   「この年の風説書は入手しておらず、詳細も聞いていないが、アメリカ人と言うのはイギリス人だろう。これ不審の六つ目」(作者註)
享和2年(1802年) オランダ船入港、オランダ・アメリカ乗組み。
 「この年の風説書及び見聞を欠く、乗合といってもイギリスだろう。是が不審の七つ目」(作者註)
享和3年7月6日(1803年)入港のオランダ船風説書
アメリカ州の内ボルチモアという所の船を借りて咬瑠吧より出帆した。 船長はジェームス・マクニール

註1 バルチモールはBaltimoreで東部メリーランド州にある古い港町。 ボストン、ニューヨークと共に建国当時からの要港で同名の町はアイルランドにもある。
 
p158
   モールといふ国土、與地の全書を考ふるに、亜墨利加
   州中に其名見へず、イキリス国を三州に分てるの
   其一意而蘭太といふ州内に属する地に「パルチモレ」
   といふ港あり、恐らく此所の船ならんか、しからバアメ
   リカ州内にあらず、矢張ひろくイキリスと称すべし
   これ亦聞なれざる名を称して紛らかせるものな
   らんか、これ不審の八ツ
同年同月八日入津アメリカ船、アメリカ州之内ニウウエオ
ルクと申所ゟ仕出し、船形同断、船頭ウイルレムステワルト
  按にステワルト渡来四度に及ぶ、此時四十余歳と
  見ゆ、ニウエエウイオルクの名を称せしハ全く偽ニて

  印度地方イキリス所領の地より仕出せる船なるべし
  ニウウエエウイヲルクは北亜墨利加州之内加奈太と
  いふ国に属する地なり、惣国をエウイオルクといふ、イギ
  リスに服属すと與地書に見ゆ、即ち己が所領也
  然れども数万里外のアメリカ州エウイオルクよりはる
  ばるこゝに積来るものに非らず、貨物は悉く
  印度産物ときけり、妄に地名を託してイギリス
  の名を隠せるなるべし、船ハ御指戻となる
(天鷲絨張り持参
   自分商売願指出す尤御取上なしといふ是阿蘭陀人不請合故と
   なり
)   是不審の九ツ
同年同月廿四日入津ベンガラ船、ベンガラ国之内カルキユツ
テと申所より仕出、船頭エミストウヲイ、船頭同断
 「思うにオランダ人がアメリカ船を借りてきたと言うが、イギリス人が同国船でオランダ人を乗せてきたのではないか。 パルテモールとはアメリカ州には見当たらない。 イギリスのアイルランドにパルチモンという港があるがこれではないか。 これ不審の八つ目(作者註)

享和3年8月8日(1803)入港のアメリカ船はアメリカのニューヨークと云う所を出帆し、船形は前と同じで船長はウィリアム・スチュワートである
  「思うにスチュワートの渡来は4度目であり、この時40歳程に見える。 ニューヨークの名を称するのは偽りでインド辺のイギリス領から出帆したのではないか。 ニューヨークは北アメリカ州のカナダという国に属する地でありイギリスに服属する。 いくらイギリスの自分の領地といっても、数万里離れたアメリカより貨物をここに積んでくる訳がない。 貨物は全てインド産物と聞く。 色々地名を付けてイギリスの名を隠しているのだろう。 船は差し戻された。(この時ビロード張りを持参し、自分の商売を願って指出したが商館のオランダ人も引受なかったので拒否) これが不審の九つ目である」(作者註)

享和3年8月34日入港のベンガル船はベンガル国のカルカッタと云う所を出帆し、船長はエミストーオイ

註1 この頃オランダ船として長崎に渡来したアメリカ船は、1800年マサチュウセッツ号、1801年マーガレット号、1802年サミエル・スミス号、1803年レベッカ号  
p159
   按に一説に船形異に記号もなし、人ハ弁柄とハ
   見へず、一躰衣服・言語印度之模様にあらず、全く
   欧羅巴様也辞多くハ伊祇利須也
佝僂の男一人稍々和蘭語
  をつかふものありたりとぞ
これ亦所謂アメリカ人也、但水夫ハ
   ベンガラ人也と見へしとなり、榜葛刺(ベンガラ)ハ
   大莫臥児に属する大国にして印度諸州中有名の
   美国なり、
和蘭・諳厄利亜二国の人皆こゝに至りて交易し
   大利を営むといふ
此弁柄に和蘭置く所之商館を近来
    伊祇利須奪取しといふ 
カルキユ
   テは加力鳩多なり、南印度の麻辣襪爾といふ国
   に属する大国の也、固より榜葛刺に属する地にハ
   あらず、ベンガラ船カルキュト仕出しといふ事右のごとく

   なれバ、申立怪むべし、何れに弁柄船といひて船
   形、人物、言語、衣服前にいふごとくなる時ハ、是亦
   イキりすならん、船ハ御差戻となる、是不審の十
文化元年甲子六月三日長崎入津阿蘭陀船風説書、去ル
五月十六日ジャガタラ出帆弐艘出し当月三日夕方入津仕候
一艘台湾沖ニ而見失ひ申候、当時本国戦争之事も平和
ニ及申候ニ付当年者本国船仕出申候、併印度諸地之商館
者多年之戦争故、困窮仕、未如以前相調不申候云々
   此年亦アメリカ船、水夫ハ所謂アメリカ人と唱へ辞者
   イキリス也、蘭人もありしかどもいへ共右之趣なれバイ
   キリスはかりしとしらる、是不審の十一
   「一説では船形も異なり記号もない。 人はベンガル人とは見えない。 衣服や言語はインドらしくなくヨーロッパの様で言語はイギリス語である(せむしの男一人少しオランダ語を使う) これも叉所謂アメリカ人である。 但し水夫はベンガル人に見えたと云う。 ベンガルはムガール帝国に属する大国でインド諸国の中でも有名な国である。 オランダ、イギリスの2国の人々はここで交易をして大きな利益を得るという(このベンガルのオランダ商館が最近イギリスに奪われたとの事)。 カルキュテ南インドのマラハルと言う国に属する大国である。 元々ベンガルに属する地ではないのでベンガル船がカルキュテ出帆と言う事は怪しい。 何れにせよベンガル船と言って船形、人物、言語、衣服が前に述べた様であれば、これも叉イギリスだろう。 船は差戻しとなった。是が不審の十」(作者註)

文化元年6月3日(1804年) 長崎入港オランダ船風説書
 去る5月16日咬瑠吧出帆の2艘は当月3日湯ウガツ入港した。1艘は台湾沖で見失った。現在は本国(オランダ)も戦争が治まり平和となったので今年は本国船を出した。しかしインド地方の商館は長年の戦争で困窮しており、未だ以前の様にはならない。  「この年叉アメリカ船、水夫は所謂アメリカ人と云い言葉はイギリス語である。 オランダ人も居るかとも思ったがイギリスばかりである。 是が不審の十一」(作者註)

註1
 ベンガルはガンジス川下流の地方で中心都市はKolkata(カルカッタ)でムガールの中、 カリカットはインド西南部で貿易港のCalicut と思われ、ムガール帝国外である。
p160
同二年乙丑
   此年の風説書失す
同三年丙寅長崎入津壱番船六月廿二日着風説書
一当年御当所渡来之阿蘭陀船弐艘之内壱艘四月
廿八日咬瑠吧出帆仕、海上無別条今日御当地へ着岸仕候
下略
一去年申上候エゲレス国フランス国争論之儀今以済
合兼申候趣、本国より申越候、尤咬瑠吧表之外諸商館
之向々ハ静謐ニ御座候而、当年も自国之船ニ而来朝仕候、
将叉印度辺諸商館追々再建仕候へ共、数年来戦争之
末ニ御座候へハ行届不申候

一魯西亜船壱艘広東表江渡来仕候由云々
一去年帰国仕候へとるまふてんまつく義、再渡仕候かび
 たんへんでれきどうふ
  此年も船形并に人数去年の如く蘭人ハ無人の
  由なれハ、うたがわしき事の是十三
  風説書失ひし者もあれとも、大抵右の如し、寛政
  九年以来文化丁卯迄十一年の間、右所謂アメリカ
  船と称する物計にて、獅子号の船来らすとき
  けハ伊祇利須と思わるゝ事なり、此寅年の状ハ
  唐太島へ魯西亜人来りて乱妨したりとて、夫々
  の御手当聞へしに、叉翌卯の年ハ東方エトロフ之
文化2年(1805年) この年の風説書なくした
文化3年(1806年)長崎入港一番船より6月22日着の風説書
1.今年日本向けオランダ船は2艘でその内1艘は4月28日咬瑠吧出帆、海上異常なく今日当地着岸 以下略
2.昨年報告した様にイギリスとフランスの争いは未だに終らないと本国より連絡あった。 但し咬瑠吧の外諸商館は落着いているので、今年も自国の船で来日した。 尚インド辺の諸商館は次第に再建されつつあるが、数年の戦争だったので未だに整備が完全ではない。
3.ロシア船が一艘広東へ渡来した
4.昨年帰国したヘトル(事務長)のモーテンマックは再度渡来した。  商館長 ヘンドリック・ドーフ
  「此年も船形及び人数は去年同様だがオランダ人は皆無との事。 これは疑わしい事の十三
風説書を失ったものもあるが大抵は同じ様な状況である。 寛政9年(1797年)以来文化4年(1807年)迄の11年の間、前述の所謂アメリカ船と称するものばかりで、以前の獅子の印を付けた船がこないのはイギリス船と思われる。 この寅年(文化3、1806年)にはカラフト島へロシア人が来て乱妨したと言う。 対策中と聞いていたが翌年(文化4年、1807年にはエトロフ島で騒乱があった。 その前後と思うが叉長崎へ異国船が一艘見えたとの事。 その報告を聞けば次のようである」(作者註)

註1 オランダは1795年フランスに占領され消滅したため、東インド会社は中立国アメリカと傭船契約を結び1797年日本との貿易を再開した。 その東インド会社も1799年には解散となり、咬瑠吧の商館が傭船契約を引継ぎ1809年迄アメリカ船を使う。
註2 カラフト及びエトロフの日本会所に対するロシア人の襲撃の詳細  →こちら
p161
  騒乱あり、其前後と覚えて叉長崎へ異船一艘見へ
  しと沙汰聞ゆ、其言上の趣を聞けハ左の如し
文化四年丁卯四月廿七日暁、長崎伊王島へ異船着岸
船乗す、是を糺すにアメリカ国ボストン船也、広東へ
商に行きたる帰船、水を乞候為に船を寄するといふ、乗組
二十六人、水を与へけれハ五月朔日出帆す、島原侯よりの由
届書五月九日申ノ中刻頃、野母遠見番所より巳之方に
あたり三里程に異船壱艘見へ候処、夜中何方へ走行
候哉、十日之朝ハ不見云々、これボストン船の吹戻されしもの
かといふ、長崎人曰、此船南へ走るへしと思ひしに酉を
さして出帆せり、然れハ日本西海を北アメリカのボストンへ

帰帆するにやと
  按に夏之間蝦夷地騒動之頃五月中旬前後、津
  軽と松前の間異船乗通り、叉南部佐井沖にも見へ
  しと注進あり、其頃秋田領の沖にも見へしとの
  沙汰も聞へたれハ、ボストン船なる事必せり、吾輩此
  沙汰を聞及はず、魯西亜乱妨の折柄なれハ、其類
  船西より廻りて夷地への渡り口を伺ひしものな
  らんかと思ひ過せり、但此ボストン船といふも怪し
  むべき事あり、決して水木を乞ふ為に船をよせ
  たるに非ず、我西海を巡見し、津軽松前の間を
  ぬけしハ、彼の要用の事あると知らる、人物の
文化4年4月27日(1807年)明け方、長崎伊王島へ異国船1艘着岸した。 これを検問したところアメリカ国のボストンの船である。 広東へ商売に行った帰りで水の供与を受けたくて立寄ったとの事。 乗組員26人で水を与えたら5月1日に出帆した。 島原藩の届出によれば、5月9日夕方4時頃には野母の遠見番所の南東三里程に異国船一艘見へたが、夜中にどこへ向ったか10日朝には見えなかった。 これはボストン船が吹き流されたものと言う。 長崎の人が言うには、この船は南へ走る筈と思っていたが、西に向って出帆したという。 と云う事は日本の西側を北上して北アメリカのボストンへ帰帆するのだろうか。
  
  「思うに夏の間エトロフで騒動があった5月中旬前後、津軽半島と松前の間を異国船が通過し、下北半島の佐井沖でも見えと注進があった。 その頃秋田の沖でも見えたという情報もあるのでこのボストン船である事は間違いない。 筆者はこの情報は聞いていないがロシアの乱妨を起した時期なので、その仲間の船が西から廻り北方への通路を捜したのではと思い過ごす。 ただこのボストン船も怪しい船である。 決して薪水の入手だけの為に立寄ったのではなく、日本海側を調査し津軽と松前の間を通過したのは何か意図があると考えられる。 人物の様子は聞いていないが、これもイギリス船ではないか。」
p162
  様子いまだ聞されとも、是亦イギリス船なるへし
  いかにといふに與地の書を按ずるにボストンは
  北亜墨利加州加な太の南海に在るの要港
  即イギリスの所領にして、イギリス新に名つけ
  てニウウエロンドンといふ、ニウウエは新なりロンドン
  ハ諳厄利亜の都府の名也、このボストンの惣例
  イギリスより開闢したる所にて、新諳厄利亜と
  称するなり、如此の国なれハ、自己土着のボストン人
  航海するといふ事なし、名はボストンにて実ハい
  ギリス船、イギリス人なるべし、且ボストンと申出たれ
  これもいかにや知らず、寛政三年の熊野へ来る船の

  例に併せ考ふべし、これ何くより仕出せし船
  なるや、広東の帰船といふも怪し、必ず子細の
  ありて、我海上を廻りしならんか、叉即イキリス
  船のボストンへ行くといふ事か、是不審の十四
同年六月十七日長崎入津阿蘭陀船弐艘風説書
当年之儀者弐艘共に自国之船にて渡来可仕筈之処、本
国其外諸商館へ追々指越置候組々今般咬瑠吧出帆
之頃迄帰帆不仕候付、弐艘之内壱艘アメリカ船借受、渡来
仕候
   此アメリカ船借受といふ事通詞の輩に問に亜墨
   利加北州ニウウエオルクの船咬瑠吧に来り居るを
  「なぜかと云えばオランダの世界地図によればボストンは北アメリカ州カナダの南にある要港である。 すなわちイギリスの領地でイギリスが新に名付けニューロンドンといふ。 ニューは新でありロンドンはイギリスの首都の名である。 このボストンを含む地域はイギリスが開いたものであり、ニューイングランドと称する。 この様な国であるので土着のボストン人が航海する事はない。 名はボストンでも実はイギリス船、イギリス人である。 寛政3年(1791年)に熊野に来た船の例も合わせて考えるべきである。
これらはどこから出帆した船か、叉広東からの帰り船と言うのも怪しい。 必ず意図があり我日本の海上を廻っているのではないか。叉イギリスの船がボストンへ行くと云うことか。 これが不審の十四」 (作者註)

文化4年6月17日(1807年)長崎入港オランダ船2艘
     風説書
今年は2艘共に自国の船で渡来予定だったが、本国その他諸商館へ向った船々が今般咬瑠吧出帆時期迄に帰帆間合わず、2艘の内1艘はアメリカ船借受て渡来した。
   「このアメリカ船借受といふ事を通訳達に聞いたところ、アメリカ州のニューヨークの船が咬瑠吧に来ていたのを雇ったとの事である。」

註1 作者が與地と云っているのはオランダより昔提供された世界地理と思われるが、30年前はアメリカはイギリスの植民地であるため、その頃の地図書を元にしてアメリカ=イギリス論を展開している。 風説書はオランダ本国が消滅した事は隠しているが、イギリスの海上封鎖やアメリカからの傭船は正直に述べている。 尚風説書でアメリカ合衆国の事を報告し出したのは1840年以降であるため、此頃は日本人には全く知られていなかった。
p163
   雇ひ来るといふ、按に右にいふ如くニウウエオルクは
   諳厄利亜の領地なれハ、イキリス船を借りしといふ
   べし、叉ニウウエオルク之内「ニウウエアムスルダム」とて
   和蘭の所領もありと聞、或ハ其船か、然らバ借る
   といふ断りに及ぶまじ、矢張此度ハ一艘イギリス船
   なるべし、名を避けてアメリカ船といひたるが如し
   今年ハ貨物の品々も夥しく、近年これなき上
   好の物品少なからずと聞ゆれバ、ますますイキリス
   差加りしかと思はる、和蘭彼を加へシハ拠なき
   次第ありての事成べし下に弁す、是不審の十五
猶此数ケ条の余もあるべけれども悉くこれを知らず、且この

数条は前後の相違もあるべく、叉考へ違て疑ふと疑
ふべからざるとの差別もあるべし、固より臆密の沙汰な
れハ、実談を取りし事にハあらず、唯これも和蘭與地の
書を読て頗る其地形・方位・古今沿革・治乱荒廃の
形勢を略々しれるに本けるの疑也、通辞輩は本務に
暇なく、多くハ地理考究の事にも及びかたし、と見へ
御停止の国の外ハ偏に和蘭之申口を其時々和解し
上つる迄かと思わる叉上に立て給ふ方々ハ他事
と違ひ外国
異方の地理・方角・所迄遠近等の事ハ不案内に在らせ
られ、彼御制禁の呂宋・阿瑪港・ほとるきす・ろうまなど
いへる国々の名
まへ耳に触れされば、其地ハ更に心にとめられ
    「前にも述べた様にニューヨークはイギリスの領地であるから、イギリス船を借りたと言うべきである。 叉ニューヨークの中にニューアムステルダムと言うオランダの領地もあると聞く。 ならば借りたという断りは不用である。 矢張り一掃はイギリス船に違いない。 名前を避けてアメリカ船といったと思われる。 今年は貨物も多く、近年珍しく上等な品も少なくないと聞けば、益々イギリスが加わっていると思われる。 オランダはイギリスを仲間に入れたのは止むを得ぬ事情かあるのだろう。 これが不審の十五」(作者註)

尚この数カ条の外にも在るかもしれぬが全ては知らない。 叉この数条も前後の相違もある筈で、元々推測によるものであれば必ずしも実談とも云えない。 唯これもオランダ與地を読み、頗るその地形、方位、古今沿革、治乱荒廃の情勢を概略知る事による疑問である。 通詞達は本来の仕事に多忙で地理を研究するまでには至らぬと見える。 渡来禁止の国以外は偏にオランダ人の云う事を翻訳して上に上げるだけと思う。 叉上に立つ人は通常の事とは違い、外国の地理・方角、遠近等の事は不案内だろう。 通行禁止のルソン(フィリピン)、アマカハ(マカオ)、ポルトガル、ローマ等の国々の名前は耳に触れる事が無いので、特に心に留められる事もなく過ぎて行くと思われる。 上に述べた疑わしいとする地名、方角、遠近等茫洋としていると思われので、ぜひ地図を見てお考え戴きたい。

註1 鎖国の直接の原因となったのはキリスト教である。 江戸時代以前から国内でポルトガル、スペインが活動していたが江戸幕府は徹底的に弾圧し、島原の乱後1639年に完全に入国禁止とし日本人も外国への渡航を禁止した。 江戸時代初期にはルソン(スペイン領)マカオ(ポルトガル領)他暹羅(たい)等へ日本人も出かけて交易に従事していた。 
p164
ず過行給ふ事と思わるゝ也、既に右に疑ひ弁する地名も
方角遠近等ハ茫洋として猶弁じ給ふまじく、宜く地
図に拠りて考へ給ふかし、西洋地方の事ハ漢書幾
百巻之諸偏にても考究しかたし、幸ひに年来御免
許渡来の和蘭もあれハ、其人に依り其書に因て、海外
諸国の大略ハ心得させ給ふハ治道の一要事たるべし、我ハ
独自ら守りて彼に用なきが如くなれとも、彼は我に志
を通せんとする事、古今かわらされハ也、是上に付記せるが
如く二百年以来既に
神祖の遠慮あらせ給ふにも率ひ由り給ふといふにもかなふ
べきか
問曰、和蘭ハ伊祇利須の為に不得止事無拠の次第と
いへるハいかなる事にや
答曰、阿蘭陀と伊祇利須とハ近国にして、昔より両国の
往来絶えず、但其交際世々ひとしからず、或ハ仇敵となり
或は和親せし事等幾度といふ事なしと聞ゆ、寛文年中
より安永・天明の比迄の和蘭船より指上る風説書を集
めしをみしといふ人の説に、或は争ひ、或ハ和睦せしとこと
度々にて、近来も同様の内其国勢を察するに、二三
十年前後ハ数度の戦争に利を失ひ、大に衰弱せ
るにあらずや、年々言上の風説書に本国と払郎察
伊祇利須と戦軍ありていふ事聞へ、さて夫故にや日本
西洋地方の事は幾ら漢書を読んでも知る事は難しい。 幸毎年渡来のオランダもあるので、その人や書により海外諸国の概要を得られのが政治に必要な事である。 我は独り自ら守り、彼には用はないようであっても、彼は我に志を伝えようとする事は古今変らないからである。 これが上記の様に200年前に既に家康公の遠い先を見て云われた事を思い起こすことが大切である。

     4.オランダとイギリスの近年の関係
質問 オランダはイギリスの為に止むを得ず拠所なき次第とはどういう事か。
回答 オランダとイギリスは近国であり、昔から両国の往来は絶えなかった。 しかしその交際はいつも同じではなく、ある時は仇敵、ある時は和親と幾度も繰り返してきたと聞く。 寛文年中から安永・天明の頃迄(1661年ー1788年)のオランダ船より提出した風説書を集めて見たという人の説では争い、和睦が度々で近来も同様である。 二ー三十年前以来数度の戦争で利を失い、国が大に衰えたのではないだろうか。 毎年報告する風説書に本国とフランス・イギリスとの戦争があったと聞こえて、その為に日本へ渡来する商船は有無、大小、異形色々あり、果々しい貨物も持って来ない事などから想像できる。

註1 オランダは17世紀初頭にはポルトガルの海外拠点を奪い、最大の海洋帝国となった。 東インド会社を設立し、喜望峰、インド東部、ジャワに多くの拠点を持つ。 17世紀後半にはイギリスが追い、3度のイギリスとの戦争で次第に衰えるが1795年のフランスの侵攻で一端全てを失う
p165
渡来の商船年々の有無大小異形等いろいろありければ
付てハはかばか敷貨物も持渡らず等にて察せらるゝ也、追
年内々の噂を聞けハ印度の内所々に構へ置く諸商人
館を伊祇利須の為に奪れしといふ、それが中「コロマンデ
ルキュスト」「ベンガラ」「セイロン」等也、叉第一亜弗利加州の
喜望峰をも奪れしとなり、此所ハ本国より船を発し
一筋に此湊に着岸、貨物も仕込来る要港と聞けり、こゝを
出帆して直々咬瑠吧の「バタヒヤ」といふ領所に到り、こゝに
セねラールといふ総督ありて、天竺地方・広東・日本へも交
易の大小船を仕出し来りしと、然るに簡要の喜望峰
を始め、印度諸商館を奪れし上ハ窮危に至るも断り也

扨本国も取乱れて総王もイキリス国へ囚れと成て居る
とも聞ゆ、これハ子年魯西亜護送の漂衆等も其噂聞来
れは、相違もあるまじ、然れとも七王持合の国なれハ、総王ハ
擒となりても滅却王ハ至らぬ趣なり、委敷次第ハ分ら
ず、何れにしても国勢大に衰弱せしとミゆ、依て思ふに
当時ハ和儀専らなれども、彼に勢を呑れて、種々難題
を受け迷惑一かたならぬにハあらずや、近頃きくイギリスゟ
喜望峰、榜葛刺の商館ハ還せしが則意蘭(セイロン)の侵地
ハ戻さず、外に代地を出せしともいふ、これも如何の子細在
るにや知らず、伊祇利須右の勢なれハ、咬瑠吧のバタビヤを
も侵奪すへけれども、此所ハ全くの和蘭所領にして年久
毎年内々の噂をきけばインド内所々に構えていたオランダ商館がイギリスに奪われたとの事。 その中にはコロマンデルコースト(インド東南部海岸)、ベンガル地方(ガンジス川下流域)、セイロン島等である。 叉一番大事なアフリカの喜望峰(ケープタウン)を奪われてしまった。 この所はオランダ本国から出帆し、真直ぐこの港に着岸し、貨物も積み込む要港と聞く。 ここを出帆し直接咬瑠吧のバタビアという領地に至る。 バタビアにはオランダの総督が居り、インド、広東、日本への貿易の為大小の船を出してきた。 ところが肝要のケープタウンを始インド地方の商館が奪われたのでは万事窮するのは当然である。

本国も混乱して国王もイギリス国に囚われていると言う。 これは文化元年(1804)にロシアが護送してきた漂流民もその噂は聞いているので間違いないだろう。 しかし7州の連合の国故国王が捕虜となっても、王家がなく成る訳ではない様である。 委しい事は分らぬが何れにしても国勢は衰弱していると見える。 思うに現在は和議が成立しているとしても、相手の勢いに呑まれ種々難題を押付けられ困っているのではないか。近頃の情報ではイギリスは喜望峰、ベンガルの商館は一部返還したが、セイロンは返さず代替地を出したと言う。 これも詳細は不明である。

註1 1804年ロシア護送の漂流民は仙台出身である事から、玄沢が藩の学者として彼等から聞取りを行い「環海異聞」を著した
註2 この頃オランダは7州の連合体でネーデルランド連邦共和国と云った。 全州の総督はウィル5世だったが、フランス革命軍の侵攻で1795年イギリスに亡命したため同共和国は消滅して、バタビア共和国としてフランスの衛星国となった。
p166
して保てる地故、要害も厳重なるべし、叉総督も有て
取押へある事故、容易にハ手に付ぬなり、但其勢を以
日本の商船は催合べしなとゝ難題し背むせざるをも
強てこれを共にし、或ハ蘭船に紛らかし他の地名抔を称
して長崎へ来津もせしかと思ふ也、右の証ハ前件に弁ずる
が如くしさまざま掲立る蘭船も他邦の船などを偽つて
伊祇利須を忍び来るかと察せらる、昔ノ渡来る蘭
船にハ船首に獅子の記号ありしが、近来此記号の船絶て
渡らずとも聞り、然らハ和蘭人此次第を日本人あらハに告ぐ
べき事なるに、今日迄よき程にいひなし、実を吐さるハいか
にといふべきに、漸々自国の衰へし恥辱を外国へ明すに忍び

ず、先ハなるたけハと蔽心なるべし、人情已む事を得ずと
ハ此次第なり、和蘭もとより小国といへとも、他の諸大国とも
比肩し、叉三大州中にも所々開拓して、我有となせし地も
多く、土俗の勇強機知他に劣れりとも聞へず、盛衰勝
敗時宜の止むべからざる所也、これ迄も敵となり味方となりし
も幾何度といふ事なしと聞ゆれハ、叉時勢を得ることもある
べく、暫くつゝミても知られざる国ならハ先ハ掩ひ隠す心にや
と思わる故に、近来長崎へ入るまじき船々の来る実ハイギ
リスたることを知りながらも明さぬ事と思ハるゝ也、これ皆
推察の沙汰と取上べき事にハあらさらん
問曰 伊祇利須いかなれハ和蘭と争ひ、我日本へ渡ら
咬瑠吧(ジャワ)のバタビアも奪取を企てるが、ここは元々オランダ領になってから長く要塞も堅固である。 叉総督が治めているため簡単には奪えない。 唯イギリスは優勢に乗じ、日本向け商船を共有すべき等難題を持ちかけ、断っても強く共有し或はオランダ船に見せ掛け他国の地名を称して長崎へ渡来したと思う。 この証拠は是迄述べた様にオランダ船も他国の船などと偽り、イギリスを忍んでくるかと察せられる。 昔のオランダ船は船首に獅子の印があったか、最近この印の船はもう渡来しないと聞く。 ならばオランダ人はこの状況をはっきりと日本人に告げるべきなのに是まで良く見せかけ真実を語らぬのはどうかと云うべきだが、自国が次第に衰退するのを外国に明かすのは忍びず、先ずは出来るだけ隠蔽するのだろう。 これは人情として止むを得ない事である。
オランダは元来小国といっても他の大国と肩を並べ、三大州内にも所々開拓して自領とした地も多い。 民族の勇強機知も他にひけを取るとも思えず、盛衰・勝敗は時の運で止むを得ないものである。 これ迄も敵となり味方となった事何度もあったと聞くので叉時勢を得る事も有るだろう。 知られてない国名を使い先ずは覆い隠す気持ちと思われ、此ところ長崎へ入港出来ない船が来ても実はイギリスである事を知りながら明かさぬ事と思われる。 これは皆推察だからと云って無視できない事ではないだろう。

註1  オランダが再び復活するのは1815年のナポレオンが敗れた後処理をヨーロッパ諸国が話し合ったウィーン会議による。 
p167
ん事を欲するや
答曰、これ前件にいへる彼が勢力に乗じて和蘭の印度
諸商館をかずかず奪ひし事を知らざる者の論也、これ
隴を得て蜀を望むの人情、印度の諸商館を奪ひし  
上ハバタビヤを侵むとす、バタビヤは和蘭商船を日本へ仕出
す地也、此地安易に手に入かたきを以て、先ず其通路を妨
げんとす、これ漸々印度商舶を絶つて後こゝに及べる也
且をりを得ハ日本の和蘭商船をも己が手に入むとし
てなるべし、我人情にてハ和蘭人に敵する志ありても他
の国に居る土地を妨くべきやうなしといわむ、彼に在て
ハ此情あることなきか如、何となれハ譬ハベンカラは大莫

臥児の地也、其中に和蘭商館あり既にこれを侵して
我が有とす、しかるに其本地の莫臥児にてハ敢てこれを
避すと見へたり、彼此類と心得しなるへし、これ東西人
情の同じからざる所なり、且此国一度ハ我国へ通商し御朱
印迄も所持の国なれハ、一たびハ辞して来らぬ共、追年
深く我国に望む所ありと見ゆる事ハ前条件々に述べた
るが如し、叉外に我国に心を寄する事あるか共思ふ一事有
問曰 我国に心を寄する類といへる事如何
答曰 若し魯西亜に党なして我邦の動静を伺
ふかと思ふ事あれハ也、これ上にいふごとく近来時々我
正面を巡行し尤怪むべきハ四五年の間此ボストン船也
質問 イギリスは何故オランダと争って我日本に渡来したがるのか
回答 これは前に述べた様に自国の勢いに乗じてオランダのインド諸商舘の数々を奪った事を知らない人が言うことである。 これは「隴を得て蜀を望む」の人情である。 インドの商館を奪ったら次はバタビアを得ようとする。 バタビヤはオランダ商船を日本に出帆させる地である。 簡単には手に入らないので先ずその通路を妨げようとする。 それには先ずインドからの商船と絶つ事である。 更に折りを見て日本向けオランダ商船も自分の手に入れようとするだろう。 我々の人情としてはオランダ人を敵とする意志があっても他国に居るものに妨害する事は無いだろう。 所が彼等にはこの気持ちは無い様だ。 例えばベンガルはムガールの地である。 そのベンガルにあるオランダ商館をイギリスは奪って自分の物とする。 しかしその土地のムガール国は敢てこれを見ぬ振りをする。 この様なものでこれは東西の人情が同じでないところである。 更にこの国(イギリス)は一度は我国と交易の免許も得た国だが、その後断って来なくなった。 しかし我国に接したい気持ちがあった事は前に述べた通りである。 叉外に我国に興味を持つ類の事が有る。

     5.イギリスとロシアの関係
質問 我国に興味を持つ類とはどの様な事か
回答 もしロシアと同盟して我国の動静を伺うのではないかと思われる事がある。 これは前に述べた様に近頃時々日本の周囲を航行する船があるが、最も怪しいのはこの四五年間のボストン船である。

註1 「隴を得て蜀を望む」出典後漢書 一つを得たら直ぐ次が欲しくなる。 中国の諺
p168
魯西亜船と申合セ西海の趣を見てオホーツカ・カミシ
ヤーツカへ至り注進セるにハあらずやとも疑ハる、伊祇
利須和蘭とハ間隙あり、魯西亜も年来和蘭を
悪むこと甚しと聞けり、且両国共に日本通市を望む
事日久敷、魯西亜ハ日本と交易して辺境不毛荒蕪の
領地を潤さんとし、伊祇利須ハ和蘭を取引しきて
其衰ふるに乗じ、日本交易を絶しめて是に代らん
とす、我国を望むことハ両国同情と見ゆれハ也、若し両国共
に其志を達せざる時ハ相与ミしてこゝに仇するも知るべから
ず、魯西亜に次きて恐るべきはイキリスなり、漸々我邦の
海上を周廻するも先其地理を知らんとの深意なるかも

知るべからず、右いふごとく長崎へハ別に名を託して度々渡
来し其地里を譜し、海外四面をも遠洋を時々通行し
千里鏡にて見やりなんとして、大抵ハ我地形を知るべし
且彼の星象と航海の術に長ずるハ諸蛮、師として仰ぐ
といふ程なれハ、千里万里の往来ハ猶我内海を廻るがごとし
婦女子の乗組居るを見ても知られたり、扨本国ハ海中
に在るの島国といへとも、毎度払郎察等の大国共戦を
挑ミ、魯西亜とも陣を交むとす、然れども魯西亜近
時の強勢にハ甚恐れて、今ハ従服セるとあり、先年
払郎察国とか合戦利を失ひて、魯西亜に援兵を
乞ひ、これによつて勝利を得しとありと、しかるに如何
ロシア船と申合わせて日本周辺の海域を調べ、オホーツクやカムチャッカへ行き報告しているのではないかと疑われる。 イギリスはオランダとは不和でロシアも長年オランダをたいへん憎んでいると聞く。 更に両国共に日本との交易を長年希望しており、ロシアは日本と交易をしてシベリア極東の不毛の地を潤そうとしており、イギリスはオランダが衰微するのに乗じて日本との交易を止めさせ自らがそれに代わろうとしている。 我国と交易を望む事に関して両国は共通と思われるからである。 もし両国共にその目的が達成されない時は共同して我国に敵対する事もあるのではないか。 ロシアに次いで恐るべきはイギリスである。 我国の海上を周回するのも先ずは地理を知ろうという魂胆ではないか。
前述の様に長崎へは別名を使い度々渡来して地理を記録し、我国の周辺近海及び遠洋を時々通行して望遠鏡を使い大方知る筈である。 更にイギリスの天体を元に航海する技術は他国が師と仰ぐ程であるから、千里万里の往来も内海を廻る様である。婦女子が乗組んでいるのを見てもそれが想像できる。 イギリス本国は海中の島国といっても度々フランス等の大国に挑み、ロシアとも対峙している。 しかし近頃はロシアの強勢には恐れて今は一目置いているようだ。 前にフランスとの戦争で苦戦し、ロシアに援兵を頼み勝利したという。

註1 ロシアはカムチャッカ半島やアラスカ(現アメリカ、当時はロシア領)の毛皮の商売強化の為、露米会社1799年にを発足させている。 カムチャッキーやアラスカのシトカには交易の為アメリカ船が多数出入りしたと言う。 1804年日本の漂流民を伴い長崎に来て交易要求したレザノフはこの会社の2代目責任者だった。 
p169
なる事にや、ある年魯西亜の新都へ攻入んとし先ツ
弟那瑪児加を打破る、数万の砲声遠く新都下迄轟
さしとかや、已に都へ入むとする時、如何なる故にや猛風大
雨卒然として起こり、其軍将悉く陸へのぼり一戦にも及
すして魯西亜人の為に諸将皆虜となりぬ、これ近き
女帝エカテリナの代也、帝大に逆鱗し過ぎし援兵の
恩義を忘却し斯の如き逆意、天已にこれを誅セし
也、其罪討さんハあるべからずと也、程々に其罪を陳謝し
逆に堅く誓約をなして長く従服する事となりし
と漂衆等の物語あり、叉漂衆等目のあたり其屈服の
状をみしハ、使節の船イキリス海上通行の節、暗にま

きれ此船に向ひ大砲を放てる軍船あり、使節人をし
て帆柱の上に登せ大声にいわしめて曰これハ魯西亜国帝
より日本使節の船なり、いづくの船なるか砲を発つ
て我に対するやと、彼これを聞て驚転し忽ち帆を
おろして、一両人端舟に乗り本船へ漕ぎ付け謝して
曰、これハイギリス軍船也、此海上動もすれハ払郎察我
を襲ふ或ハ其軍船なるやと空濛中見損ひ、貴船へ
対し斯の次第、其罪遁るべからず、幾重にも免許
給はれといひたり。 使節レザノツト更に承引かず。
依之段々人をかへ酒肴等を斉来りて其失誤を陳
謝しけれとも終に背んぜず、従者二三人を具して
ところがどうした事か、ある年ロシアの新都へ攻め込もうとして、先ずデンマークを打破り、数万の砲声は遠く新都迄轟いたとか。終に都へ入ろうとした時、何故か猛風雨が突然起り将軍達は皆陸に上り一戦もせずにロシアの捕虜になった。 これは最近のエカテリーナ女帝の時代である。 帝は大に怒り、前過去の援兵の恩義を忘れて攻込んだ事を天が代わって罰したものである。 イギリスは陳謝し逆に堅く誓約して服従する事となった、と漂民が語っている。 叉漂民達が目のあたりにイギリスとロシアの力関係を見た。 使節の船がイギリスの海上を通過した時、闇にまぎれて此船を砲撃した軍艦がある。 使節は兵士を帆柱に登らせ大声で、これはロシア皇帝の命で日本へ行く使節の船である、 砲撃するのは何国の船かと言わせた。 これを聞いて相手は驚き直ぐに帆を下し2名が端船で本船へ漕ぎ付け陳謝して云うには、これはイギリス軍艦でこの海上移動すればフランスが襲うので、或はその軍艦かと視界悪く見損じ貴船を砲撃してしまった。 申し訳ない許されたいと言ったが使節は承知しなかった。 イギリス側は更に酒肴等持って来て不手際を陳謝したがレザノフは了解せず従者2-3人を連れて相手軍艦に乗り移り、本船はイギリス某港へ回す様に言い捨て自分はイギリスの都ロンドンへ行った。

註1 漂流民の話は史実に見当たらず、ロシアの強大さを示すために脚色して教えられたと思われる。 漂流民はロシア船の日本への手土産として使節レザノフに連れられ、1803年6月ペテルブルグを出発、ロシアの軍港クロンシュタットからデンマークのコペンハーゲンを経て大西洋を南下し、南米ホーン岬を通過し太平洋に出た後北上してハワイを経由、カムチャッカに至る。 千島列島を南下して九州の南から回り込長崎に翌年9月到着した。 この時の軍艦はナジェージダ号と言う。  
p170
彼軍船へ乗移り、本船はイキリス某の湊へ廻し
置くべしといひ捨て、其身ハ彼都城ロントンへ往
きたり、日ありて待受たる湊へ出たり、其子細ハ聞得ざれ
とも定て国王に出会て其過失を責め、彼是討論
し其罪を謝するの誓書にても取来りたる様子
也、二三人を伴ひし計りにて軍船へとり乗り申ことハ敵地
敵国へ行きしといふが如し、然れど彼に在てハ聊も
無礼する事なく畏敬匍匐する事と見へたり
彼勇悍強勢なる事いきりすといへとも魯西亜
の為にハ斯く屈服し、叉これよりハ其猛威見る如し
如此の形勢なれハ、何事によらず魯西亜の令は

背く事あるまじく、叉事あらハイキリスには左袒
(さたん)
べし、事の破れに及ぶが如きハ両国必ず相党すべし、両
雄志を合するが如きハ防戦最も難かるべし、イキリス
近年我方を伺ふも既に魯西亜の素志を助る為か
とも疑はる、此国一端我を辞したる者なれハ遠さく
へし近つくべからず、薪水を乞為といひ漂着せると云
異船にハゆめゆめ油断なきやふにありたく、叉長崎来
津の蘭船も深く御吟味ありてしかるべき事なり
是を手荒く扱ふも無益なり、但彼を詳に知り
て所置ありたきなり、彼が申口をもて引あてとす
べからず、帰れハよし、払ひハやすしとして止べからず、常
日が変わりレザノフは待合せの港へ出てきた。 詳しい事は聞けなかったが国王に会ってその過失を責め陳謝の誓書を取ってきた様子である。 二三人伴っただけで相手軍艦に乗込む事は敵地、敵国へ行く様なものである。 しかし相手は少しも無礼な事をせず畏り迎えたようだ。 勇悍強勢なイギリスと云えどもロシアには頭が上らず、ロシアの猛威を見るようだ。 この様な状況ではイギリスはロシアの指示に背く事はないだろう。 叉何かあればロシアはイギリスに味方するだろう。 もし対日交易に失敗したら両国は必ず同盟するだろう。 両雄が目的を一つにする時は日本は防戦が最も難しくなるだろう。 

      6.日本の取るべき対策
イギリスが最近我国を探索するのは既にロシアの日本との交易願望を助ける為ではと疑う。 イギリスはは一端日本に交易を断ったのであるから遠ざけ近づけてはいけない。 薪水を貰いたいとか漂着したという異国船には決して油断しない事である。 叉長崎に入港するオランダ船も厳重に審査して然るべきである。 手荒く扱う必用はなく相手を良く知って処理して戴きたい。 彼等が言う事をそのまま信じない事。 帰れば良いし打払いは簡単として留めてはいけない。 常に心に留め注意を怠ってはいけない。 

註1 史実ではイギリスとロシアが親しくした時期は殆んどない、この直後フランスのナポレオンが共通の敵となった程度か。 この50年後アメリカのペリーが日本に来た頃、イギリスとフランスは同盟してロシアとクリミア戦争を戦っていた。
p171
に心に置きて忘れざるこそしからんか、 彼等ハ深
遠の謀慮ありて志す所を拙急にせざる国俗
と聞ゆれハ恐るべく怖るべし、若しこれを疎慢にし
て事急に及ハヽ臍を嚙むとも及びかたからむ
此等余が臆度に出る事なれども、天下の気運各
土の時勢を察すべし、疑て設るハ変に当つて
用あり、侮て備へずんハ盗をみて縄なふの譬
もあらんか、かねがね遠き慮りたる時ハ
国家の大事たるべし、何れも我国ハ四面に海を受
たる地なれハ、外寇に備ふること第一たるべし、昔なし
とて今もなしといふべからず、図らずして魯西亜

隣境となるの類なり、人宜しく是迄渡りある所の
和蘭の書によりて、万国異邦の地理位遠近と
各国の治乱興敗・兵威の強弱・盛衰古今の異
図あるの類をもあらかじめ知りて、不慮を待たハ
時に臨むて狼狽する事なかるべきか、昇平日久
しく士民安逸に日を消したれハ、今聊か魯西
亜の外寇あるも却て我民を養ふ薬餌たる
べし、是兵を練り武を請するの時とやいふへき
只々おのれ等の如き草野の小民までも猶も幾百
歳太平の化を戴ん事を思ふばかり他事なし
足下伊祇利須の来由を問尋するにつけ、取留
彼等は深く考えて目的を達成する民族と聞くので一層の注意が必用である。 もしこれを放置すれば事態は急となり後で悔やんでも追いつかない事になるだろう。 
これは私の推測で述べた事であるが、 世界の情勢及び各地の現状を考えるべきである。 疑って用意する事はいざと言う時に役立つ。 甘く見て準備を怠れば泥棒を見て縄をなう様なものである。 常に将来の事を考える事が国家の為に重要である。

我国は四面を海に囲まれている地であるから、外国からの攻撃に備える事が第一である。 今までなかったから今からも無いと思ってはいけない。 思いがけずロシアと境を接する事になった事もその例である。 ぜひ今まで送ってきたオランダの書により万国異邦の地理方位遠近と各国の治乱興敗、軍事の強弱盛衰、古今の意図の類を予め知っておれば、時に及んで狼狽する事もないだろう。 平和が長く続き国民が安逸に過ごしている今、ロシアの攻撃は却って我民を養う薬であり餌となるだろう。 これは兵を訓練し武を強化する時というべきである。

自分のような庶民迄も尚幾百年平和を享受する事を願うだけであるが、貴方がイギリスの渡来に就いて尋ねられたので影を捕え空を攫むような推測と偏見で書き連ねた。 取捨は貴方の学識を持って選択して戴きたい。

註1 ロシアがシベリアに進出したのは17世紀以降であり、オホーツク海に達したのが17世紀中頃、更にベーリング海を渡りアラスカに達するのは18世紀中頃。 産物は毛皮で18世紀中頃以降南下を始め日本と蝦夷地で接触が記録されるようになる。 尚アラスカは1867年に米国に売却する。
p172
影を捕ひ空を攫むの臆度僻流を書つらね
その盒に充つる也、取捨ハ子の高明にこそ在れと
いふ、文化丁卯の夏知非此中に漫に録す

  嘉永七寅十二月四日安政と改元ありし十九日
              文鳳堂写
文化4年(1807年)の夏書き下ろす

嘉永7年1854年)12月4日、安政と改元されて19日に文鳳堂が写す
出典:国立公文書館内閣文庫文鳳堂雑纂65より


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