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               ラックスマンによる大黒屋光太夫送還  戻る
                          魯西亜書簡
  
 一ひつけい上いたし候さていせのくにしろこ
 ひこへふねせんとたいこくやこたゆこのたひ
 するかとかちをねらしそれよりなかれ    
 たし、七月二十日にてあみしつがと申し 
 まえ上り申候此しまえ四ねんくらしそれ   
 よりかみしやつかと申ところへわたり    
 申候さて又くぼさまへ上りこのたびわた   
 くしにをん申わたしこれあり候、このほ  
 くぼさまをん申わたしニハすぐに日本江と 
 おもてえすくにいりついたし候て三人の  
 ものともすくに江とをんをやくにんえじ   
 きわたしにこのほくぼさまをん申つ     
 けにござ候あいだこのこと江とをんやく   
 にんへよろしくをんとりはからいなされ  
 くたさるべく候このみなとニてふゆをいたし
 候えともらい三月ちふんまてわ江とをもて 
 のこしやうあいまち申候もしこのしふん   
 に江とよりこじやうまいり申さすところ  
 にわわたくしらのふねすくに江とをもて 
 えのりこみ申候て三人の人々ぢきに江と  
 をんやくにんえてわたしいたしたく    
 そのときこのほのふなたまをんひきとめ  
 なされ申ましき候さて又そのほひとひ   
 とこのたびをくりかやし申候あいたこのご 
 このくにの人又ハふなだまそのくにえまい 
 り申候ともずいぶんよろしくをんとりはか 
 らいなさるべく候又々このごわこのくにく 
 ぼさまさてまたそのほのくほさまとすい  
 ふんをんたがいになされくたさるへく候と 
 このほのくほさまをん申わたしにこさ候  

    まつまえ志まのかみさま        
         をろしいすのくに        
           なわあたむ          
           らくすまん          
           なわわしれい          
           ろふちふ           
出典:視聴草三集之八

一筆啓上致し候、扨伊勢国白子

彦兵衛船船頭大黒屋光太夫、此度
駿河とかちをねらし、夫より流れ  *註
出し七月二十日にてアミシツガと申
島へ上り申候、此島へ四年暮し、夫
よりカムシヤツカと申所へ渡り

申候、扨又公方様へ上り、此度私 *露国女王
に御申渡有之候、此方
公方様御申渡ニハ、直に日本江戸 *露国女王
表へすぐに入津致候て、三人の
者共すぐに江戸御役人へ直
渡しに此方公方様御申付    *我国の女王
に御座候間、此事江戸御役
人へ宜しく御取計なされ
下さるべく候、此湊にて冬を致し
候得共、来三月時分迄は江戸表
こしやう相待申候、若し此時分  *註
に江戸よりこじやう参申さず所
には私等の船直ぐに江戸表
へ乗込み申候て、三人の人々直に江戸
御役人へ手渡し致し度
その時此方のふなたま御引き止め  *註
なされ申まじく候、扨又其方人々
此度送り返し申候間、此後
この国の人又はふなだま、其国へ参り
り申候とも、随分宜しく御取計
なさるべく候、又々此後はこの国  *我国女王
公方様、扨又其方公方様と随   *貴国公方様
分御互いになされ下さるべく候と
此方の公方様御申渡しに御座候 *我国女王

松前志摩守様
オロシアの国         *ロシア国
名はアダム・ラクスマン    *使節  
名はワシレイ・ロフチフ    *船長

1.伊勢国船神昌丸は江戸へ廻米を運ぶ途中駿河沖で遭難し、アリューシャン列島の一島へ漂着
  するが、帰国を強く希望し苦労の末、最終的にはロシアの都ペテルブルグ迄行き、当時の
  エカテリーナ女王に拝謁し帰国を願出る。 女王の許可が出てラックスマンに護送され根室に
  到着する。 その後根室で越冬し、翌年松前で江戸から派遣された役人に引渡される
    
    1783年(天明2年12月) 駿河沖で遭難
    1784年7月21日      アリューシャン列島漂着
    1792年(寛政4年9月)  根室着、根室で越冬
    1793年(寛政5年6月15日) 根室出帆
    1793年(寛政5年6月21日) 松前着

2. ロシアでは日本からの漂流民が定住したケースもあり、彼等が日本語を教えたのでロシア人
  通訳は日本語の読み書きが出来たという、 上記平仮名交じりの文はロシア人の筆になる
  ものと思われる。 右に漢字交じりに変換試みたが以下の言葉不明
  「とかちをねらし」 駿河沖で遭難した時の事と思うが、かちは楫か、ねらしは壊しか。
  「こしやう」 江戸の役人を指すと思われるが小姓か?又は交渉か?
  「ふなたま」 一般には船霊、船のお守りだがここでは船そのものの積りか?
  この国: 我国、ロシア  その国:貴国、日本
  このほ: 此方、自分達(ロシア)、 そのほ:其方、あなた方(日本)の意味か

3.エカテリナ号の大きさ、乗組人数
 北槎問略(桂川甫周、1794年成立)によれば「これ即今度東蝦夷のネムロまで光太夫等をのせ
 来たりしエカテリナ・ビリガンテンという船なりとぞ。 長さ十五間半、広さ二間半(一間は此方の
 曲尺七尺八分にあたる)なりといふ。 (中略) 光太夫、磯吉、小市、アダム、ロフツオーフ以下
 乗組四十二人、 (以下略)
                  幕府役人の漂流人受取確認書
六月廿四日あたむへ相渡
今度送り来る漂流人幸太夫・磯吉松前地に
おいて受取所の証、件のごとし
  寛政五 丑年六月   石川将監 朱印
                 村上大学 朱印

出典:視聴草三集之八
あたむ アダム・ラックスマン(Adam Laksman)
・光太夫、磯吉、小市の三名を送還して来たが
小市は根室越冬中に病死し、引渡し2名となる
・石川将監、村上大学 幕府派遣の役人

通航一覧によれば上記文章の前に以下の文が付加えられている
「此たび贈来るところの書翰、一つは横文字にして
我国の人しらざる所なり、一つは我国の仮名文に
似たりといへど其語通じかたき所も多く、文字
もまたわかり難きによって、詳しき答に及び難し
よつて皆返しあたふ、この旨よくよく可心得
(こころえべき)もの也
                交易拒否に対するラックスマンの回答書
六月廿五日差出ス
につほんの               
をんこくほう、をんかきつけ、をんわたし 
くわしくをんとききかせてくだされ、かし 
こまり、ほんこくえかえりそのとをりもう 
すへくそろいしやう           
  くわんせいごうしとし           
      ろくがつ をろしやこく     
            あたむらつくすまん 
出典:視聴草三集之八

日本の
御国法御書付を御渡し
詳しく御説聞かせて下され
畏まり、本国へ帰り其通り申
すべく候、以上
   寛政五丑年
      六月
  ロシア国
             アダム・ラックスマン
                 ラックスマン達へ船中手当の食料供与

六月廿八日あたむへ相渡ス
     覚
一大麦六拾壱俵    但四斗入
一小麦弐拾七俵    右同断
一蕎麦三俵       右同断
一鹿肉          六樽
 右者船中手当として差遣之
         六月

出典:視聴草三集之八

ラックスマン帰帆の日程
寛政五年6月30日 松前発 陸路
   同  7月4日  箱館着
   同  7月16日 箱館発
   同  8月15日 オホーツク着
                    日本の対外方針、国法
       御国法
 兼て通信なき異国の船、日本の地江来る
 時ハ、或ハ召捕又ハ海上にて打払ふこと
 いにしへよりの国法にして、今も其掟にた
 がふことなし、仮令我国より漂流したる
 人を送り来るといふとも、長崎の外の湊
 にてハ上陸のことをゆるさず、又異国の船
 漂流し来るハ兼てより通信ある国のもの
 にても長崎の湊より紅毛船をして其本国
 に送りかへさしむ、されども我国にさまた

 げあるハ猶とどめてかへさず、亦国初より通信
 なき国よりして、漂流し来るハ船ハ打くだ
 き、人ハ永くととめてかへすことなし、しかれ
 ども偶々我国の人を送り来る所の労をも
 おもひ、我国の法をもいまだ不弁によりて
 此度ハ其侭かへすことをゆるさるヽのあいだ
 重てハこのところにも来るまじき也

一国書持来ることありとも、かねて通信なき国ハ
 国王の称呼もわかりがたく、其国の言語も文
 字も不通、貴賎の等差もわかち難けれハ、おの
 づから其礼のただしき所を得かたし、我
 国にてハ敬したることも其国においてハ
 疎略にあたらむもはかるべからざれハ、国書の
 往復ハゆるしかたき也、今度漂流の人を送り
 来るを拒みて斯いふにハあらず、此地より通
 信のゆるしがたきを以てなり

一江戸江直に来ることもまたゆるしかたし
 其所以ハ古より通信・通商の国といふとも
 定あるの外ハ猥ニ不許之、仮令押て来るとも
 皆厳にあつかひて、いづれの湊にてもすべ

 て言の通る趣 あらずして却て事をそご
 なふへき也、此度蝦夷地よりして直に江戸
 に入来るべきとの其国の王命なるよしを
 ひたすらにいひつのりて、今告しらする
 ことの趣にたがひなば却て其国の王命を
 もたがふにおなじたりべし、如何にとなれバ
 異邦の船ミゆるときハ浦々厳重にして
 或ハとらへ、又ハ打払ふ掟なれハ、交りのむつ
 まじからむことを乞求て、却て害をまねく
 にひとしかるべし、されバ其国の王命にもたが

 ふとハいひつべし、今かくのごとくいひさとす
 件々の旨をも、うけひかずハことごとく搦とり
 て我国の法にまかさんとす、其期に臨みてハ
 悔おもふとも詮なかるべし
 
 爰に江戸官府の人来りて、我国の法をつげ
 しらするハ、漂流の人々を遥々送来る労をも
 ねぎらひ、且ハ其国の人々をしてことの趣を
 あやまらせしと也、送来る所の人ハもとより
 江戸官府の人にわたすべしとの旨をうけ
 し由なれバ、ここにてワたさんも其子細ある
 まじ、されど我国法によりて其望所をゆるさ
 ざれバ、また送来る人をもわたさじともいはん
 
 か、さらハ強てうけとるべきにもあらず、我国の
 人を憐さるにはあらずといへども、夫が為に国法
 をみだるべからざるがゆへ也、此旨了解ありて
 其思所にまかすべきよし也、病ありて不連来
 漂流の人二人もまた此所に送り来るといふ
 とも重てハこの沙汰に及がたし、長崎の外にてハ
 すべて取上なき旨をよく可弁なり、長崎の
 湊江送り来るとも我国の地方見ゆる所は

 乗通るべからず、洋中を通行すべし、先に告
 しらするごとく、浦々にての掟あれハおろそか
 に思ひて、あやまる事なかれと也

一長崎の湊等来るとも一船一紙の信牌なく
 してハ通ることかたかるべし、また通信・通商の
 事も定置たる外、猥にゆるしかたき事なれ
 とも、猶も望ことあらは長崎にいたりて、その
 所の沙汰にまかすべし、こまかに云さとす
 ことの旨趣をくわしく了知ありて早々
 帰帆すべき也

出典:視聴草十集之三

是迄国交の無い外国船が日本の地へ来れ
ば捕捉するか、海上で砲撃する事が
昔からの国法であり、夫は今もこの規則
の通りである。 たとえ我国からの漂流人
を送還してくる場合でも、長崎以外の港
では上陸を許していない。 又外国の船が
漂流してきた場合、是迄国交のある国でも
長崎の港からオランダ船でその本国へ
送還させている。 しかし我国に不都合な

時は其の侭留めて返さない。 又初めから
国交のない国で漂流してくれば、船は打
砕き、人は永久に留めて返さない。 
しかし偶々我国の人民を送還してきた労を
考え、又我国の法を知らなかったと言う事で
此度は其の侭帰る事が許されるので
再び此地に決して来ない事

国書を持って来ても是迄国交の無い国は
国王の呼称もわからず、その国の言語文字
も通じない。 貴賎の度合いも分けられず
自然にその礼を正しくすることもできない
我国では敬う事であっても、その国では
粗略になる事もあるかもしれないので国書の
往復は容認できない。 今回漂流人の送還
拒んで云うのではなく、此地から国交を
許可できないからである

江戸へ直接来る事もまた許可できない
そこは昔から国交、通商のある国と言えども
決められた時以外に来る事は許されない。
もし強引に来るなら厳しく扱い、どこの港でも

意見を通せず却って目的を損なう
であろう。 此度蝦夷地より直ぐに江戸
に入る事が其国の王命と言う事を
強硬に云うが、今迄教え報せてきた
趣旨に背けば、逆に其国の王命に
背く事と同じである。 何故ならば
異邦の船が見えれば海岸では防禦を固め
捕捉するか、砲撃するのが規則であるから
友好たらんとして来ても却って害になる事
に等しい。 随って王命にも反する

と云うのである。 今この様に説得する
諸々の事に承知しないなら、全員捕捉
して我国の法に照らして処置する。 その時
になって悔やんでも手遅れであろう

此処に江戸幕府の役人が来て我国の法を
伝えるのは、漂流人達を遠路送還した労を
ねぎらひ、且ロシアの人々に此法の趣旨に
誤らせないためである。 送還の人を初めから
江戸役人に渡すべしとの趣旨のようで
あるので、此処で渡す事に不足はある
まい。 しかし通商の望みを我国王により
許さなければ、送還した人を渡さない、と

云うなら強いて受取る積りはない。 我国の
人を憐れに思わない訳ではないが、その為
国法に反する事は出来ない。 この事を了解
して判断されたい。 病気で此度連れて来れ
なかった漂流人二名も、又此処へ送還する
とも再び同様には行かない。 長崎の港以外
では受付けない事を知って貰いたい。 長崎の
港へ送って来る場合でも、我国の陸地が見える

所を航行してはならず、洋中を通航する事。 
前に報せた様に海岸毎に規則があるので是を
疎かにして間違いが無い様にする事

長崎の港に入る時は一船毎壱枚の許可証
が無ければ近付く事ができない。 又国交
や通商の事は決っている以外には許されない
事であるが、どうしても云う事であれば長崎
において検討するであろう。 事細かく説明
した趣旨を念入りに確認し、了解したら早々
帰帆する事

1.上記は外国に対して鎖国が国法である事を正式に確認した最初の文書と言われている。
  以後江戸時代後期の外国に対する基本姿勢として、日米和親条約迄続く
2. 此処で云う通信ある国は琉球・朝鮮を指し、通商の国はオランダ・唐(中国)を指す
3. この時の幕府政策は松平定信によりリードされていたが、定信自身はロシアとの通商を
  樹立する方向で考えており、それが文末の長崎で交渉を示唆している

参考: 近世後期政治史と対外関係 藤田覚 東京大学出版会
     漂流民とロシア 木崎良平 中公新書




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         文化元年 レザノフの長崎渡来
      戻る
文化元年5月6日(1804)ロシア船壱艘長崎へ渡来(平戸松浦藩聞役からの藩への報告と思われる
               松浦
一五月六日野母御番所七八里沖ニ合印之異国船壱艘
 相見候旨御奉行所江注進有之

一同八日暁七ツ時御奉行所より諸家聞役御呼出
 御達之趣左之通
  今日異国船壱艘渡来ニ付、相糺候処、去丑年
  於蝦夷地信牌御渡有之候ヲロシヤ船ニ而、願筋
  有之渡来候趣ニ而、外ニ疑敷筋も相聞不申候、
  江戸江之御注進明日申上候
 右之趣御在所江御申越可有之候
       九月七日

 右者七日之日付ニ而候得共八日暁ニ相成候由
 就右矢張此日付之振合ニ取計候儀被 仰聞候
 
    ヲロシヤ船繋所江出張之者内々呼出趣
一ヲロシヤ船壱艘、八拾壱人乗外日本人四人
 右日本人者仙台男鹿郡石之巻湊より出船八百石積
 之処ニ而御城米積受、江戸廻之積り拾六人乗之処
 寛政五丑年十一月廿七日難風ニ逢、同六寅年五月
 十日ヲロシヤ国江着船拾六人之内、船頭并水主弐人
 都合三人於彼地死失、九人者オロシヤ国江滞留
 此節渡来之名前左之通
  休太夫 儀平 左兵衛 太十郎
  後御吟味之節各面相糺候処、休太夫ハ書誤ニて
  津太夫也、左兵衛ハ聞誤ニて左平也 左十郎者
  訴文太十也

一魯西亜船長サ弐拾四間半程
一此節商売ニ不相越献上物持参、拝礼之ため相越
 候由
一上役たる者罷在、相対之節ハ随分立派之出立ニ而
  御座候
一一躰丁寧之様子ニ而船中厳重之様子ニ御座候

一右上役日本言葉能遣申候、追て漂流之日本人ニ
 文字并詞習ひ候よし、右日本人とも噺ニ御座候
一魯西亜国王ハ死失、其子相続致居候由
一先年松前江参候者者、此節壱人も乗組居不申候由

一右魯西亜船之義未湊内江者挽入無之、高鉾沖江
 繋留有之様子承合居候処、去ル丑年平賀式部少輔
 様被仰達候趣ニ而、紅毛船より手重ニ御取計被成候
 様ニとの旨ニ付、佐賀・筑前より之人数被差越候、
 御台場石火矢備等も有之、一躰厳重相見候様御
 手当可被成旨、尤御人数相揃候迄者湊外江繋留置候
 其上入津被仰渡候御含之由御座候

一右ニ付御諸家様駆付御越之儀も可有御座承合
 候得共未一向不相分候

一成瀬因幡守様爰元御出立之儀者右ニ付未御日程
 相知不申候、右之趣去九日平戸仕出之急飛脚
 同廿日相達、翌廿一日ニ御用番土井大炊頭様江
 御届、被仰達御受取相済
一長崎奉行所より御達、去八日暁七時過御奉行所
 御達ニ被成、被仰渡御書付壱通者御渡
一去八日辰下刻長崎仕出有之内、九日平戸江相達
 即刻仕出有之、同廿日夜江戸着

 
文化元年五月六日野母御番所から七八里
 沖に合印の異国船が壱艘見えるとの報告が
 奉行所にあった

○ 同八日明方T四時に奉行所へ各藩の聞役が
 呼出され、以下の通達がありました。
   今日異国船一艘渡来したので確認したが
   11年前に蝦夷地で信牌を渡したロシア船
   で願事があり渡来したものである。 別に
   疑わしい点もないので明日江戸へ報告する
 以上を各々の藩へ報告されたい
     九月七日
 上記は七日の日付ですが八日の明方ですが
 七日とする事と言われております

○ロシア船が停泊している場所へ出張の者を呼
 出して内々情報を聞く

 ロシア船一艘、81人乗組、外に日本人4人あり
 彼らは仙台藩男鹿郡石巻から800石積みの船
 で16人乗組み江戸へ米を運ぶ途中、寛政5年
 丑年11月27日に大風で遭難し、翌6年5月
 10日ロシアに漂着した。 16人の内船頭と水主
 二人合計三人はロシアで死亡、9人はロシアに
 滞留する。 此度渡来の名前は以下の通り
    津太夫、儀平、左平、太十

○ロシア船長さ24間半程

○今回は商品ではなく献上物を持参し、拝礼
 のために渡来した由

○重役の者が乗っており、立派な身形です

○全体に丁重であり船内の様子も厳重です

○重役は日本語をよく使い、これは漂流の
 日本人から文字や言葉を習ったそうです。
 これは同乗の日本人からの話です

○ロシア国王(エカテリナ女王)は死去し、その
 子供が国王を継いでいます

○前回松前(11年前)を訪問したものは今回は
 一人も乗っていないとの事です

○ロシア船は未だに港内への引き入れは無く
高鉾沖に繋いである様子です。 11年前に
時の長崎奉行平賀式部少輔様の方針で
オランダ船に対するよりも警備を厳重にする様
にとの事なので、佐賀・筑前から部隊を送ります
砲台の整備を始め、警備人数が揃う迄は港外に
係留しますが、警備体制が整い次第港内に入れ
る予定の様です。

○上記に付関係諸家の到着予定を聞き合わせて
いますが一向に分りません

○成瀬因幡守(長崎奉行)は出発の日程が
立ちません。 これに付き去る九日に平戸から
飛脚便を立て、20日に江戸藩邸到着、翌21日に
老中土井大炊頭様へ御届済み

○長崎奉行所からの通達は八日朝四時奉行所で
書類を壱通渡されました

○去る八日朝9時に長崎を発送、9日平戸へ到着し
即刻江戸へ送り、20日に江戸へ到着したものです
                ロシア船渡来の趣旨口述和解
  
一今日御当地神島江碇を入、魯西亜国より使節之
 役人レサノツト、船頭クルウセンステル申出候趣、
 左ニ奉申上候

一魯西亜船壱艘暦数千八百三年八月十一日
  (日本享和三年?亥六月廿四日相当)
 同国出帆テノネマルク・ミウチユツヘン・ハノガ
 カナリヤ島并南亜墨利加州之内フラシリン国、
 夫より南海を周り暦数千八百四年
 (日本享和四年子七月廿九日ニ当ル) 
 カムシカツテカニ至り、同年九月十日(同年九月七日
 ニ当ル)同所出帆仕、今日日数三十一日ほど海上
 無別条、着岸仕候
 右壱艘之外御当地江到来之船無御座候

一今般使節仕候義、魯西亜国より江府江之呈書并御
 奉行江之右呈書持越候段申出候ニ付、右書翰沖
 御出役検使江差出候趣申聞候之処、本書者江府表江
 使節之者持参呈上仕り、御奉行江呈書者御奉行所江
 罷出、直ニ差上候様、国主より命を受候ニ付、何分
 他之御方江御付属難仕段申来候、依之右呈書之旨
 大意相尋候処、先年蝦夷地ニ而信牌を給り候御礼
 為可申上、今般使節ヲ以
 捧献貢江府拝礼相勤、已来御当国江自国信義を
 結び、且交易之趣ニ付候而者出願之筋御座候

一右之船乗組人数八拾五人之内魯西亜人八拾壱人
 日本人四人之外、乗組之者無御座候、日本人之儀者
 十三ケ年以前魯西亜国江漂流仕候ニ付、当年連渡
 申候
 右之趣魯西亜船首長之者申出候
             カヒタン
 右之通カヒタン承り申上候ニ付、和解仕差上申候以上
      九月六日      大小之通事
                     目付

○今日ロシア船は当地神島に碇を入れ、使節
役人レザノフ及び船長のクルーゼンステルが以下
申述べております

○ロシア船は西暦1803年8月11日(享和3年6月
24日に当る)にロシア国を出帆、デンマーク、
ミウチュツヘン、ハノーバ、カナリヤ島、南米の
ブラジル、夫より南を回り1804年(享和四年7月
29日)カムチャッカに至り、同年9月10日同所
出帆、今日31日を経て海上異常なく到着しました
この一艘以外に長崎へ渡来する船はありません

○今般使節として来たのは江戸政府に提出書翰
及び長崎奉行への書翰を持参している事申出て
います。 これら書翰は江戸へは使節が参上して
提出し、奉行宛は奉行に直接差上げる様に国王
から命令されており、他の人には渡せないとの
事なので書翰の大意を尋ねました。それに依ると
以前信牌を戴いたお礼を申上げ、江戸政府への
献上物を持参し、今後両国が信義を結び、交易
ができる様にお願いすることです

○この船の乗組人員は85人で内ロシア人81人、
日本人4人でその他は居りません。 日本人は
13年前ロシアへ漂着したもので、今回連れて来た
ものです

以上ロシア船の首長が申述べています
             オランダ商館長
以上商館長が報告しているのでこれを邦訳します
    文化5年9月6日(西暦1805年10月6日)
             大小通事
             目付
              レザノフが口述したロシア国王書翰主意和解
 
     恭敬而
 大日本国王之殿下ニヲロシヤ国王より呈進さる書
 貴国
 御代々幾久敷 御代御繁栄を謹而祝賀仕候、次ニ
 我祖国土を治しより国王ヘウトルを第一とし、女王
 カタリイナを第二とす、此二代にいたり、我国張業し
 其末ヲランタ国・フランス国・アンゲリヤ国・イタリヤ国
 イスハニヤ国・ドイツ国其外国々戦争差発といへとも
 我国の計ひを以て国々相鎮め、諸邦に義を顕し
 欧羅巴辺之諸州太平に及、然るに 貴国之儀者
 本邦よりより懸隔なりといへとも、属国之地方
 不遠に是迄信義を通し候義無御座候得共、向後
 之義者格別信義を結び申度奉存候所望ニ御座候
 自昔年 貴国御仁徳之儀者女王カタリイナ義兼而
 
 承知仕候処、不斗も先年貴国之船難風ニ逢ひ、
 我国へ漂流仕候ニ而其人々御国へ令帰朝致
 候ため、十二ヶ年已前自国より船を仕出し連渡候
 其節之使方之者共格別御手厚く御取扱被 仰付
 其上我国之船再貴国江乗渡ニおいてハ、長崎之
 津ニ至るべき信牌を下し給り、感謝無量の仕合ニ
 御座候、右礼謝のため今般使節ヲ以江府拝礼
 出仕、已来貴国之高義を傾服し、尚交易の道を
 開申度心願ニ依而
 大日本国王膝下ニ拝礼を相願候ニ付而者、其身柄を
 撰、我服の臣カアムラヘフル官名ニコラアス・レサノ
 ツトと申者令渡海候、もとより 貴国の御作法
 不知案内ニ付、何卒 御国法を以御示ニ願度奉存候
一先年難船ニ逢ひ我国へ漂流いたし候 貴国の
 人々、撫育仕置此節連渡候
一積年御当国を慕ひ、信義を結び度兼々念

 願ニ奉存候、此一書を呈し、向後何事ニよらず御用筋
 承度奉存候、前件之次第宜被 聴召、心願之通交
 易相遂においてハ、我属国の内カデヤツク
 
北アメリカの内ニ有 アレウテキエス カムシカテカ
 
北アメリカの内ニ有 シュンレス カムシャツテカの内ニ有

 是等の島々より乗渡セ、船数之義者壱艘
 に限らず其数御差図に任セ、長崎の津其外の
 地へも御指揮次第渡来出仕可申候、若亦向後
 貴国之人々我国内何国之浦漂流たりと
 いへとも、聊無差支令入津扶助致候様、兼而津々
 浦々ニ至るまで命を下し置候、其人之

 御当国何の津江連渡可申哉、尚又商法等ニ付て
 出願之趣
 則使節之者ニコラアス・レサノツト江具ニ申含置候間
 貴国高官の御方之御尋之次第も御座候ハヽ右使節
 之もの江御沙汰被成下度奉存候
    謹貢
 一時計仕込之象作り物
 一大鏡
 一臘虎皮
 一象牙細工物
 一鉄砲大小品々
 右物僭越之至りニ候得共、自国之産物ニまかせ
 貢上仕候、御照納被下候ニおいてハ欣幸至極奉存候
 其外国産の奇品等猶可備 上覧奉存候
  王府ペトルヘリニおいて即位して三年十一月三十日
       ヲロシヤ国王    アレキサムトル判
       国老         ヲロムソフ
 右者魯西亜国王A捧候書翰之由、主意当節使節の
 役レサノツト申口承候趣和解仕差上申候以上
     九月十日    阿蘭陀 大通詞印
                 小通詞印

恭敬
大日本国王殿下にロシア国王より呈進さる書
貴国の代々幾久しい御繁栄を謹んで祝賀します
次に我祖、国土を治めて以来国王ピョートル第
一とし、女王カテリーナを第二として此二代に
至り我国は強大となりました。 オランダ、フランス
イギリス、イタリア、スペイン、ドイツ其他、国々の
間に戦争が起こりましたが、我国の調停で戦を
沈静化してヨーロッパ諸国が平和となりました。

貴国との関係は本国とは遠く離れて居りますが、
属国(カムチャッカ、北アメリカ)とは夫ほど遠く
ありません。 しかし是迄通信を行った事はあり
せんが、今後は信義を結びたいと希望します。

昔から貴国の仁徳の事はカテリーナ女王も良く
承知していましたが、図らずも貴国の船が難風で
遭難し我国へ漂着しましたので、その人々を帰朝
させる為に12年前我国より船を用意し送り届け
させました。 その時のこちらの使いの者達に特別
親切にして戴き、その上我国の船が再び貴国へ
渡来する場合に長崎の港に来るべきと信牌を
下され感謝無量の仕合であります。 

この謝礼のため今般使節を派遣し、江戸政府へ
拝礼に出向き、是迄の貴国の徳を称え、今後
交易の道筋を開きたく思います、 その為の使者
として適切な人選を行い、我股肱の臣である
ニコラス・レザノフと云う者を渡海させます。 
元来貴国の作法には不知案内なので、何卒貴国
の規則を御教授ねがいます

○以前難風に逢い我国へ漂着した貴国の人々
(仙台若宮丸乗組員)を我国で保護しており、此度
連れて来ました

○前々から貴国と信義を結び度念願しており、
此書翰を差上げ、向後何事によらず御用あれば
承りたく存じます。 以上御願が叶えば交易の為
我属国の内カデヤック(アラスカ)、アレウテキエス
カム
シカテカ(アラスカ)、シュンレス(カムチャッカ)
等の島々から
船を出します。 船数之は壱艘に
限らず必用数を用意します。 長崎港以外の地
でもご要望次第に送ります。 
若し又向後貴国之人々が我国内の何国の浦に
漂着しても、少しも差支なく入港・扶助させる様
普段から津々浦々に至るまで命令しておきます。

漂着の人々を何処の港に送るか、商売の方法等
使節のニコラス・レザノフと詳しく申し含めており、
貴国の高官方より質問があれば、使節に御問合
せ下さい

   謹呈
 一時計仕込の象作り物
 一大鏡
 一臘虎皮(ラッコ皮)
 一象牙細工物
 一鉄砲大小品々
 上記は僭越ではありますが我国の産物を献上
 致します。、御照納下されば幸甚です
   王府ペテルブルグにおいて即位三年
            十一月三十日
       ロシヤ国王    アレキサンダー判
       宰相        オロムソフ
 
上記はロシア国王からの書翰の由、主意は使節役
レザノフ口述の内容を邦訳致しました
        九月十日    阿蘭陀 大通詞印
                        小通詞印

其後御吟味之上、先年松前ニ而御渡被成候信牌
御取上ニ成、彼国より持来品々書翰貢者等御差戻に
相成申候
同二年乙丑三月七日令命御書付御渡被成候、尤
諸役人中夫々被仰渡、且米?薪水等被遣、帰国被
仰渡同月十九日長崎表を出帆仕候

其後検討の上、先年松前で渡された信牌は取上と
なり、ロシアから持参した献上品々、書翰は全て返却
されました。
文化二年乙丑三月七日に命令書をレザノフに渡され
米や薪水等を与えられ帰国を言渡され、同月十九日
長崎を出帆しました。
                 幕府よりレザノフに与えた書翰
   文化二丑三月七日魯西亜人江令差之写

我国むかしより海外に通問する諸国少からずと
いへとも事便宜ニあらざる故に、厳禁を設て我国の
商戸外国に往来をととめ、外国の売価もまた容易く
我国に来る事を許さず、しいて来る海船ありといへとも
固く退けていれず、唯唐山・朝鮮・琉球・紅毛の
往来する事ハ互市の利を必とするにあらず、来ること
の久しき素より其謂れあるをもつてなり、其国之如き
むかしより未曽而信を通せし事なし、はからざるに前年

我国漂泊之人をいざなひて松前に来りて通商を
乞ひ、今また長崎に至り好を通じ、交易をひらかん
よしをはかる、既ニ其事再に及て深く我国に望所ある
を又切なるを知れり、然りといへとも望むところの
通商の事ハ重く、ここに儀すべからさるものなり、
我国海外の諸国と通問せざる事既に久し、隣誼を外国
に修する事をしらざるにあらず、其風土異にして事情
におけるもまた懽心を結ふに足らず、いたつらに行季
を煩さん故を以て、絶て通セず、是我国暦世封疆を
守るの常法なり、いかてか其国一价の故を以、朝廷

暦世の法を変すへけんや、礼ハ往来を尚ふ、いま其国
の礼物を受て答へざれば礼をしらざるの国とならん、
答んとすれハ海外万里いづれの国かしるべからざらん
容ざるの勝れるにしかず、互市のごときハ其国有所を
以我なき所ニかふ、各其利あるに似たりといへども、
通じて是を論すれハ海外無価のものを却て我国有用
の貨を失ハん、要するに余計の善なるものがあらず
況又軽漂の民狡猾の商物を競い、価を争ひ、たた
利これ謀て、ややもすれハ儀を壊り我民を養ふに
害ありて、深くとらざる所也、

互市交易の事なくて只信を通し、あらたに好ミを
結ぶハ素より又我国の禁ゆるがセになしがたく、
ここを以て通する事をセス、朝庭の意かくの如し、再び
来る事を費す事なかれ
     
     同日文差令
先年松前へ来りし節、すべて通信通商ハ成がたき
事をも一通り申諭し、国書と唱ふるもの我国の
仮名に似たるとも解がたき間持来る事許さず、
第一松前の地ハ異国の事を官府へ申次所にあらず
もし此上其国に残りし漂流人を連来るか、或ハ又
願申上などありとも、松前ニ而ハ決して事を通セさる
間、右の旨あらハ長崎に来るべし、長崎ハ異国の
事に預る地なる故に議することもあるべしとて
長崎に到る為の信牌をあたへしなり、然るに今

又国王の書を持来る事ハ、松前において申諭したる旨
弁がたきにやあらん「是偏に域を異にし風土のひとし
からぬ故に通じがたきにやあらん」是偏に域を異にし
風土のひとしからぬ故に通じがたき事しかり、此度
改而件のごとし、時に船中薪水の料をあたふ、然る
上ハ我国に近き島々などにも決して船繋すべからず
早々地方もはなれてすミやかに帰帆すべし

右令差長崎御役所ニおいて御目付遠山金四郎
長崎奉行肥田豊後守・成瀬因幡守列座ニ而魯西亜
国使節、役名アムバウデュール名レサノツトへ相渡
列座之者共長崎御代官高木作左衛門・御徒目付□□
長崎奉行御勘定方・御普請役所付御小人目付・
町年寄不残、尤使節壱人江通詞石橋助左衛門
中山作三郎差添罷出
其外之事ハ具に図を見て知べし
 文化二丑三月七日魯西亜人江令差之写

我国は昔海外にて通航する国々も少くは無かった
が、問題があったので厳禁し我国の商人が外国
に往来する事を止めさせ、外国からも商品が我国
に入らないように渡来も許可しなかった。 それども
強行してくる船があっても固く防禦してきた。 
例外として中国、朝鮮、琉球、オランダが往来するが
これは交易の利益からではなく、昔から来ており然
るべき理由があるからである。 

貴国の場合は昔から国交は無かったが思いがけず
先年に我国の漂流民を携えて松前に来て交易を
開こうとした。 既にこれで2度目であり、我国と
交易の望みが非常に強い事は分った。 しかし
希望する交易は重い問題であり今議論するもの
ではない。

我国が海外諸国と通航しなくなってから随分長く
なるが、外国との付合いを知らないのではない。
その風土が異なるり付合っても共通の喜びがなく
徒に時が過ぎるだけであるため、付合いをして
来なかった。 これは我国の古来からの国を守る
方法である。 随って貴国からの申入れがあって
も長年の国法を変える事はできようか。

礼は往来が当然である。 今回貴国からの礼物を
受て答えなければ、我国が礼を知らない国となって
しまう。 答えようとすれば海外万里を隔てた何れの
国か知る事ができない。 随って受け入れないのが
良い。

交易の事について云えば、其国に有る物で我不足
の物を買うので互いに利あるものと云うが、考え様に
よっては、海外の無価値のものへ我国の有用な
貨幣を失う。 要するに余計なもので良いものが
無い。
況や軽薄の民が狡猾に商いを競い、値段を競い
唯利益だけを追求し、これがため儀を欠き民を
養う事に支障があると考えるので交易は決して
行わないのである。

交易の事が無くて只信を通し、新たに好みを結ぶ
事は本来我国の国法をゆるがせにする事となり
これはできない。 このため国交を行わないのが
国家の方針である。 再び来る様な無駄な事を
しない様に。
     
     同日文差令
先年松前へ渡来の折り、国交も通商も出来ない事
を説明し、国書と称する物は我国の仮名に似ては
いるが理解しがたいので、持参を許さなかった。

第一松前の地は外国関係の事を政府に取次ぐ所
ではない。 若し又貴国に残っている漂流人を送り
届けるか、或いは何か願い事があっても松前では
事は通じないので、 そのような場合には長崎へ
来る様に。 長崎は外国関係を処理する所なので
話し合いもできるだろうと云う事で長崎行きの信牌
(通航証)を与えたのである。 

その結果今又国王の書翰を持参する事は松前で
説明した事が理解できないのだろうか、是は偏に
地域が異なり風土が同じででないから通じないもの
に違いないので今回改めて上記説明する。
所で船中で要する薪水を与えるので、我国に近い
島々に決して立寄らず、陸地から離れて早々帰帆
する事

上記は長崎御役所において御目付遠山金四郎
長崎奉行肥田豊後守・成瀬因幡守列座にてロシア
国使節、役名アムバウデュール名レサノフへ渡す
列座の者は長崎御代官高木作左衛門・御徒目付
□□□、長崎奉行御勘定方・御普請役所付、
御小人目付・町年寄全員。 使節壱人に通詞
石橋助左衛門と中山作三郎が付添う
其の他詳細は図を参照(図なし)

以上出典は視聴草三集之九
                      レザノフが送届けた漂流人

        魯船瓊浦着
文化元甲子九月六日、ヲロシヤ国船壱艘長崎野母御着
所より七八里沖合ニ着船ス、早速御奉行所注進有之
御見分、同八日暁七時御奉行所ヨリ諸家江聞役御呼
出し御達之趣
  
  今日異国船壱艘渡来ニ付相糺候所去ル丑年
  於蝦夷地信牌御渡有之候ヲロシヤ船ニ而、願之筋
  有之致渡来之趣ニ而、別ニ疑敷筋も相聞不申候、
  江戸江之御注進明日申上候
      九月七日

ヲロシヤ王、日本国王江交易願貢として、象作物(時計
仕込有之)、大鏡、ラッコ皮、象牙細工物、鉄砲大小、
色々其外奇品数々
此度日本人四人連来也、此者共ハ仙台牡鹿郡石巻浜
より八百国積之船ニ而御城米江戸廻し積、十六人乗之
処、寛政五丑十一月廿七日難風ニ遭、同六寅五月十日
彼地へ着、内三人死去九人被国止ル四人帰国す
津太夫、儀平、左兵衛、太十郎
(国立公文書館、街談文々集要、巻一の第二十二より)

  ロシア船長崎に渡来
文化元年(1803年)9月6日ロシア船が壱艘、長崎
野母から七八里沖に到着した。 早速奉行所に注進
があり見分が行われた。 8日明け方4時に関係大名
の駐在員が呼出され次の通達が奉行よりあった。
 
 今日異国船が壱艘t来したので取調の結果11年前
 蝦夷地で信牌を渡されたロシア船で、願事があり
 渡来したもので特に疑わしい点は無い様である。
 江戸の老中へ報告を明日申上げる。
    9月7日

ロシア王が日本国王へ交易を願い、貢物としては象の
形をした時計、大鏡、ラッコの皮、象牙細工、鉄砲大小
その他色々珍物等多数
この度日本人四人連れており、この者達た仙台藩の
男鹿郡石巻から800石積の船で江戸藩邸用米を積込
十六人で出発、寛政五年(1793年)11月27日に大風
で遭難し、同六年5月10日アリューシャン地方に漂着
した。 3人は死亡、9人はロシアに留まり、津太夫、
儀平、左兵衛、太十郎の4人が帰国する

瓊浦: 長崎の事、 他に崎陽などの呼び方もあった
信牌: 12年前に根室に大黒屋光太夫等を送って来た時に、交易の交渉は長崎で、と幕府から与えられた

 


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                        越後五社丸漂民送還      戻る
一一昨十一日御届申上候私領分エトロフ島江異国船
 走寄、漂流人三人上陸為致候儀ニ付、同所より
 陸通差立候飛脚之者、去月廿六日亥中刻私居處
 江到着仕候ニ付、漂流人江異国人より相渡候横文字
 様書簡様之物二枚并横文字本様之物五冊、唐暦様
 之物一冊、其外絵紙様之物、地図様之物共二十三枚
 在所家来共より為差登右品相添、此段御届申上候
 以上
       九月十三日   松前隆之助
 右和泉守殿え品共相添御届差出候由

 右ニ付九月十九日天文方山路弥左衛門へ和泉守殿
 より御用之儀有之候間、登 城候様前日十八日
 奥右筆黒沢正助より文通有之、十九日弥左衛門
 罷出候所、御書付并横文字書簡絵類共御渡有之、
 同廿日右は魯西亜書簡之旨以書面申上、同廿二日
 和解出来ニ付、於御殿黒沢正助を以大沢弥三郎より
 和泉守殿へ進呈相済申候、其和解左之通り
   
謹書
 此伝吉・佐兵衛・忠次郎・長三郎と申者四人、去ル
 千八百三十四年
(天保五年)之秋、日本国より南之
 方サンヂウイチユエ
(亜細亜州と亜墨利加州之間 
 ニある海中の島名ニて御座候)
と申嶋中ニ而致破船
 「クチヤマロ」
(地名)致漂着、冬に相成候迄日夜
 致艱難神仏ニ立願致候より他事無御座処、北亜墨
 利加之内シタトフと申所の陣屋より出候船も見懸
 候ハヽ、魯西亜之領地亜墨利加之内新アルハン
 ゲリスカに連来り扶助仕候に付致安心申候

一翌千八百三十五年(天保六年)之仲春魯西亜都府
 ロヘートルブルクより日本へ帰国之軍令御座候ニ付
 便船ニ而オホーツカ迄護送いたし、無事ニ而帰国仕
 候而、彼者之親類共も嘸(さぞ)喜ひ可申奉存候

一四人之者至極篤実なる人柄ニ而私共一同感心仕候
 二十二年前御地クナシリにて捕りて加比丹ゴロウイン
 儀は帰国後軍艦支配役相勤、ライツエーの官ニ被申
 付候處去年死去仕候、又其節捕まり候ヘレブニコフと
 申者ハ今以息災ニ而都ニ勤役仕居候

一其節ゴロウイン等を迎ニ参り箱館ニ而、貴国之人々
 と応接仕候リコルトと申者も無事ニ而、都に軍艦の
 支配役相勤フィツエーの官ニ被申付候
 
 右リコルトと致懇意候松前之高田嘉兵衛・村上貞助
 ハ利発人ニ而当国之者共一同感心仕居候、以上
  魯西亜領地亜米利加国アルハンゲリスカの奉行
  千八百三十五年四月廿五日
(天保六年乙未四月八日)       
     チツル・リエイアフ・アチンセ・アシネイチリ


去る千八百三十五年
(天保六年)アルハンゲリスカ
(北亜墨利加亜の方の地名ニ御座候) 連れ来候漂流日本人
四人、伝吉・佐兵衛・長三郎・忠次郎等も此度同所より
魯西亜国オホーツカの地に有之候亜墨利加州商館の
勘定所江送届ルを請取申候、右四人之者共皆発明に
て能々言語も通候ニ付、介抱等行届キ申候、但右之
内佐兵衛儀病気ニて、種々治療手を尽し候得共、老年
故養生不相叶、今正月九日死去仕候、残三人及番所
上官江目見為致候上、帰国之事申渡し、奉行所之
命ヲ聞て詰合之役人相添、ホツラチラシカと申船ニ乗り
組、下役人オルコフに申付、酒食衣類等相与へ致護送
候ニ付、此書簡を与へ申者也
   千八百三十六年七月一日
(天保七年丙申五月廿八日)
       政府勘定所カンジタチコンメチーレンゼ
 帝爵魯西亜国オホーツカ府亜墨利加州商館落印


昨11日御届しましたが、私領分のエトロフ島へ、異国
船が近付き漂流人三人を上陸させた件に付き、同所
より陸路の飛脚で先月26日夜10時私の所に到着
しました異国人が漂流人に渡した横文字書簡弐通、
横文字書物5冊、西洋暦壱冊、その他絵、地図等
23枚現地の家来よりこれらの品を添えて届けて
きましたので御届します
      9月13日  松前 隆之助(松前藩主)
上記は松平和泉守〔老中)へ物品添えて差出した由

上記につき天文方の山路弥左衛門へ和泉守殿
より、御用があるので登城する様にと前日18日に
奥右筆黒沢正助より連絡あり、9月19日登城した
ところ、書付及び横文字書簡、絵図類渡される。
同翌日これはロシア書簡である事申上げ、同22日
に翻訳できたので、御城で黒沢正助から大沢
弥三郎経由和泉守へ進呈した。 
その翻訳は以下の通り

           書簡1 
謹書
この伝吉・佐兵衛・忠次郎・長三郎の四人は去1834年
(天保5年)の秋、日本から南方のハワイ諸島の中で
破船して「クチヤマロ」をいう場所に漂着し、冬に
なる迄日夜苦労し、神仏に祈る以外になかった
ところ、北アメリカのシタトフいう所からの船を見懸け
ロシアの領地であるアラスカのノヴォアルハンゲ
リスク(現在のシトカ)に連れてきて貰い一安心した。

翌1835年(天保6年)の春、ロシアの首府ペテルブルグ
より日本へ帰国させるべく命令があり、便船を以って
オホーツクに護送し、無事帰国できる事になり、彼等
の親族も嘸喜ぶ事と思います。・

四人の者達は大変真面目な人柄で私共一同感心して
居ります。 
22年前貴地のクナシリで捕まったゴローニン艦長は
帰国後軍艦奉行を勤め、ライツエーという官職を得ま
したが、昨年死去致しました。 又その時一緒に
捕まったヘレブニコフ という者は今も元気で都で
勤務しております。

当時ゴローニン等を迎えに行き、箱館で貴国の人々と
交渉したリコルトという者も元気で都で軍艦奉行を務め、
フィツエーという官職についております
このリコルトと懇意だった松前の高田嘉兵衛・村上貞助
は利発な人で当国の者共一同感心しております以上
  ロシア領地北アメリカ(アラスカ)
           ノヴォアルハンゲリスク奉行
       1835年4月25日(天保6年4月8日) 
        チツル・リエイアフ・アチンセ・アシネイチリ

            書簡2
去1835年〔天保6年)ノヴォアルハンゲリスク(現在の
シトカ)に連れて来られた漂流の日本人四名、伝吉
佐兵衛、長三郎、忠次郎等は、此度同所からロシア
国オホーツクのアメリカ州商館(露米会社)の勘定所へ
送り届けられ、彼等を受取ました。 

上記四名は皆賢くて、非常に良く言葉も通じるので
世話も行届きました。 但し彼等の中で佐兵衛は病気
になり、種々治療に手を尽くしましたが、老年でもあり
手当空しくこの正月9日死去致しました。
残り三名は当地長官にも面会させ、帰国の事を申渡し
奉行所の命令で役人を添え、ホツラチラシカという船
に乗せ、下役人オルコフへ指示して酒食、衣類を
与えて護送するので此書簡を与えます。
   1836年7月1日〔天保7年5月28日)  
     政府勘定書カンジタチコンメチーレンゼ
  ロシア帝国オホーツク府アメリカ州商館の印

天保卯雑記第19冊
アラスカ: エスキモーの地だったが17世紀ロシアが発見し、19世紀から殖民を行う。 1867年にクリミヤ戦争の戦費捻出のため米国に売却

露米会社: ロシアの国策会社で極東シベリヤからアラスカ迄カバーして植民地管理を行い、毛皮商売を主とする。 
サンヂウイチ= サンドウィッチ、ハワイ諸島
アルハンゲリスカ=ノヴォアルハングリスク、現在のアラスカ州シトカ





acc27                                      戻り
                ロシア商船漂流民を下田に送還
嘉永五子年                
有馬左京知行豆州入間村之内中木浦江異国之小船
ニ而漕着候漂流人差出伺書
 
当月六日一色豊後守御勘定奉行勤役中、先御届
申上置候、私代官所豆州賀茂郡下田湊江去月
廿四日漂流人七人連渡、同湊之内宮輪中江掛留候
異船、私出張之上手代差遣御国法之趣申諭、同
廿九日出帆申付候処、右船同湊出帆地方寄相走、
同国出崎ニ而帆形不相見段、懸見船江乗組候
村役人共注進申出候ニ付、尚地方江可寄付も難計
存、下田湊より南海岸通江手代差出候処、有馬

左京知行、同州入間村之内中木浦沖迄右船乗参、
小船弐艘江右漂流人長助外六人為乗組洋中江突出
異船は沖之方江乗去、右小船は同浦江漂着
漂流人共上陸仕候段、右村并最寄村より手代廻り
先江追々注進申出候ニ付、手代共早速罷越可応
承糺、私出張先江其段申越候間、右漂流人共
私豆州韮山屋敷役所元江罷連、一ト通吟味仕候
趣左ニ申上候
          紀州日高浦
           和泉屋庄左衛門船
             沖船頭虎吉乗
              楫取 長 助  子四十四歳
              水主 辰 蔵  子三十七歳
              水主 太郎兵衛 子三十一歳
               同  清兵衛  子二十八歳
               同  輿 吉  子二十二歳
               同  浅 吉  子三十一歳
               同  新 吉  子二十八歳
   所持之雑物
   骨柳    七ツ    *柳こおりの古い言い方
   風呂敷包  壱ツ
   網入手骨柳 壱ツ
   蜜柑籠 壱ツ
   沓壱ツ
   股引壱ツ 
    〆是は骨柳其外江入有之候品々、巨細相調
    別紙帳面ニ記、取上ケ置候分
         外
    異国小船弐艘、内戒七挺
    〆是は入間村之内中木浦江村預申付置候分
 
右之物艫吟味仕候処、長助は紀州日高郡北塩屋浦
百姓長蔵倅ニ而、代々同浦一向宗円満寺檀家、
辰蔵は同州同郡其浦百姓甚蔵倅ニ而代々同浦
一向宗浄国寺檀家、太郎兵衛同州同郡名屋浦
百姓栄蔵倅ニ字代々同浦一向宗浄行寺檀家、
清兵衛は同州同郡多比村百姓、長助倅ニ而代々同村
一向宗浄福寺檀家、輿吉は同州同郡西塩屋浦百姓

安兵衛倅ニ而同浦一向宗行尊寺檀家、浅吉は同州
同郡其浦百姓久蔵倅ニ而同浦一向宗浄国寺檀家、
新吉ハ同州同郡南塩屋浦伝七倅ニ而代々同浦
浄土宗光明寺檀家ニ而一同船乗渡世罷在候、嘉永
二酉年中同州日高浦庄右衛門船、沖船頭虎吉船江
水主共都合拾弐人乗組、同州代崎浦ニおいて蜜柑
積込、同十月五日同浦出帆、同月十八日
江戸川江入津、荷上ケ之上同所ニおいて鰯ノ糟
六拾俵積入、同廿四日同所出帆、同日浦賀御番所
改請、翌廿五日同所出帆、同廿八日豆州小浦湊江
入津、日和無之滞船、去々戌正月(嘉永三)

六日於同湊浦船ニ乗組罷在候、日高浦梅吉と
申者病気ニ而同湊ニ残し罷在候処、追々快方付
帰国仕度段申ニ付為乗組都合拾三人乗組、
同日夕刻北風ニ而同湊出帆致し候処、同八日より
五ツ時比より雨ニ付翌九日晩八ツ時比より西北
大風ニ相成灘中江被吹流、夜中之儀ニ而地方更ニ
不相分、夜明ケ候而も同風悪敷候間、東江相廻し
候積、帆を上ケ相走候得共弥増ニ大風高浪ニ
被揉立、船中淦流込出来候ニ付、帆を下ケ艫之
方江たらし綱為引相凌居、淦汲取罷在候処、
同日昼八ツ時比楫鳴闇折放候間、一同力を落し
神仏江檣奉納之祈願を込、檣切捨、沖取流れ候内

嶋方等度々見請候得共、楫無之故難寄付、洋中
漂流罷在、二月廿四日五ツ比より船中飯米は
勿論、漬物類迄不残喰尽し、夫より積荷之鰯〆糟を
喰し、飲水は雨天之度ニ天水を取、飢相凌罷在
同三月十二日之朝何国之海上ニ候哉遥ニ異国船
見請、追々近寄候躰ニ付、招キを上ケ候処、右
異船ニ而も印を建候間、船中一同注力、無程間近
ニ相成一同助呉候様手を合セ拝ミ居候処、右船より
艀弐艘下シ、漕着乗組拾三人為乗移、浦賀切手又
船中書物箱、銘々之雑物相積入、右異船江乗移
助命致候

右浦賀切手写は船頭虎吉所持罷在、同日は海上
凪ニ而最寄候立廻り居、翌十三日異国人共艀ニ乗
此者共乗捨候元船江参着、火を掛焼捨艀引上
異船は北江向走参り、同十九日沖合ニ而異国之
類船ニ出遭、右船江長助外五人引分相移、右は
同国之類船ニ而拾三人一同為乗組候而は食物に
乏敷、双方江相分候様子ニ付、右船江乗移候処、
直様日本江送り届候儀と手真似を以承り候処、
船頭躰者万国絵図取出し為見之、右船はアメリカ
の漁船にて日本国江連渡候儀相成兼候ニ付、
程近之ルセキ国カムチャツカ江連行、相願候旨
手真似ニ而申聞、北江相走翌廿日カムチャツカ江

入津、異国人共より同所江其段申通候哉、直様
役人体之もの罷越、此者共見届罷帰、同月廿八日
右役人罷越、右船より此者共請取上陸為致、家
壱軒相渡、番人付日々食物相送り、其段国王江
注進致候様子ニ付国王より之沙汰相待罷在候内
番人之者より異国之通弁参り、銘々書面書致し
ケ成通弁等も出来候様相成候義ニ而、然ル処
先達而洋中ニおいて、相助候船江残居候船頭
虎吉外六人之内、清吉、新吉儀アメリカ漁船ニ乗
同八月十日カムチャツカ江入津致し、一同ニ相成
候義ニ而、右両人儀は長助外弐人ニ相別候後

相助候アメリカ船ニ七人一同罷在候処、同四月中
日不覚、同国之類船と出逢、追々日数相立食料ニ
差支候儀ニ而七人之内両人も右類船江相分申度
段申ニ付、一同申合両人義右類船江乗移、漁業
手伝致し居候処、右船飲水不足之由にて水汲込
候積カムチャツカへ入津致し候所、先達而相別候
長助外五人之者同所ニ上陸罷在候を承り、其段
アメリカ船乗組之者ニ相咄候ニ付、右乗組之者より
其所へ申通候哉、同月廿一日カムチャツカ江上陸
為致候様差図有之由ニ而、上陸之上都合八人一同
ニ相成候義ニ而、其砌迄蕎麦と麦を交焚出し為

食置候儀之処、右食物ニ而は喰不足ニ付、食物
見合ニ可成品相調度銘々ニ所持銭差出、食物調方
番人共江相頼候処、食物等売買無之、殊ニ日本銭は
国地不用之趣にて何方より持参候哉、日本銭六文
此もの共相呉候義ニ而右等趣及承候処、所役人より
差図之由ニ而、其後は七日目毎ニ米并麦粉七八升
ツヽ相渡、異国之着類等へ追々相渡候間、麦粉ハ
焼餅ニいたし、米は粥ニ焚銘々食し居、猶国王より
之差図右待罷在候内、去亥四月中より梅吉儀病気
差起り候間、医師相懸度段所役人ニ申聞候処、
早速三人罷越薬用手当為仕、右医師暫く時々

相見廻養生仕候得共、追々病気相重、同五月
十五日病死仕候間、其段所役人江申立、役人罷
越見届之上、取片付いたし、其所之村役人体之
者案内にてサンマイと申候由寺院江相送候段
申之ニ付、此もの共一同にて罷越、墓所江相埋メ
候儀ニ而、始終右之場所ニ案内罷越候もの并
僧躰之者両人共相詰罷在、埋終り候上僧躰之者
経文読、右相済此もの共寺地引取罷帰候義ニ而、
梅吉病死ニ付而も銘々如何相成候義と心配罷在
候処、同六月十九日国王より差図有之候内ニ而、
日本国近辺方江相送り候由申候、王

城之船之由、百五拾人程乗江此者共為乗組、
同日カムチャツカ出帆、海上十八日目ニ而
同七月廿七日同国之内アヤンと申所江入津上陸
家番人食物等前同様相渡、同所ニ罷在候処同所ニ
滞船罷在候ルセキアメリカ船帰帆ニ付、右場所江
は同所より便船を以日本江送り届候段申聞、右船
江為乗組、九月朔日アヤン出帆、海上五十三日目
にて同十月廿三日ルセキアメリカ江入津上陸、
於同所も番人家食物共前同様相渡、当子四月
廿三日迄同所ニ罷在候処、此度下田湊江入津之
ルセキアメリカ船阿蘭陀最寄ニ候哉、サンカイト
申所江茶を買請ニ罷越候便船江此もの共為乗組

日本国江送届候段申渡有之候ニ付、国地江連渡り
呉候ハヽ長崎江相届呉候様、異船乗組のもの江
申聞候処、交風もの之時節故同所江は難参、
最寄は浦賀湊・下田湊之内へ連渡候積ニ候得
共浦賀之儀は王城近之湊ニ付経可申間、下田
湊江相届候旨申之、万一国地江不寄付節は
小船江乗、海上江突放可相届旨異船乗組之もの
共申渡有之由ニ而、小船弐艘相渡積込之、同日
同所出帆ニ付、幾日程相掛候か、と右船可相成
哉候処、凡六十日位も可相掛旨申ニ付、一同
大悦日を数へ心待罷在候内、外之地方江不立寄

六十一日目ニ而去月廿四日夕刻下田湊江入津、
此もの共連渡候ルセキ船之段所船江申通候ニ付
其段下田湊江差出置候手代共より申越候ニ付
私義手代家来召連同所江出張仕、船中江手代
差出相糺候上、唐阿蘭陀之外国々より国地之
漂流人連渡共不請取御国法之趣申聞、此者共を
右両国之内江連渡り可相渡旨精々申諭、其段
承伏之上は早々出帆可仕旨、異国人并此者共
江申渡、去月廿九日下田湊出帆仕候義ニ而、
此者共儀ハ御国法之儀故無是非次第ニ相心得、
両国之内江連渡相届呉候様異国人共江取縋
相頼候得共、右之船之儀はサンガイと申所江

茶買請ニ罷越候便船ニ付、両国之内江相届候
儀不相成、国地ニ於て請取無之節はルセキ出帆
之節申付越候通、洋中江小船ニ為乗放捨候旨
申聞、丸木之小船弐艘櫂七挺此者共江相渡、
何方ニ成共漕着可相助旨申候、彼是申候ハヽ
何様之取計致し候か難斗、侭其意趣処右小船
弐艘取出し、此者共之所持之手道具積込、一同
為積移置、異船者帆を登上ケ南之方江走去候
儀ニ而、一同途方ニ呉地方見請候処入間村之
内本村鰹崎沖合ニ付、一同身命限同日八ツ半時
比右浦江漕着、其段所役人江申聞、改之上同浦
江上陸相慎罷在候段申候ニ付、異国江上陸中
切支丹宗門江携候儀者無之哉、下田湊ニおいて

御国法之趣申渡候儀を相背、中木浦江乗着候
始末共再応吟味仕候処、此もの共義ルセキ国
上陸中、於其所別家江入置番人付食物時々
相渡候義ニ付、異国之もの共江相交り候儀更ニ
無之、国地御法度之切支丹宗門等も携候義者
勿論、右宗門之様子承り候儀も無之、怪敷体
見受不申候、一途ニ帰国之儀を生国之神仏相祈
居候儀ニ而、下田湊出帆之節一同当惑仕候得
共精々利解も申聞候ニ付、唐・阿蘭陀之内江
連渡呉候様相頼候処前書申立通、異国出帆之
砌積込来候小船江為乗、洋中江

突出し候段申立候ニ付、丸木之小船ニ而洋海
江被突放候而ハ迚も可助様無之、一同愁傷仕居
候を見受、異国人共彼方家寄ニ而相放候旨申して
豆州出崎打通候折柄小船弐艘江振分為乗組、
銘々ニ櫂壱挺相渡、異船より釣下シ置、其侭異船
者走去候義ニ有之、前書鰹崎沖合汐早之場
所身命限り漕着、中木浦江上陸助命仕候儀ニ而、
下田湊出帆之節御国法申渡之趣相弁罷在ながら、
小船ニ而国地江漕着候段、吟味請候而者一同
恐入候と申立御書差出申候
        有馬左京知行
          豆州加賀郡入間村
           名主 新五右衛門 子五十五歳
           組頭 甚 五 郎  子五十四歳

右之もの共於場所一と通吟味仕候処、此度
下田湊江渡来之異船去月廿九日同湊出帆後、
同日昼八ツ半時頃も可有之哉、入間村之内
中木浦沖合より追々地方江寄、右浦拾四五町
沖合ニ而艀弐艘下し候様子ニ付、見受居候処
右艀江漂流人七人乗組、同浦江漕着候間、

此者とも立会始末承糺候処紀州日高浦庄右衛門船
沖船頭虎吉乗組之内、楫取長助外六人ニ而、
去ル酉年十月廿四日船頭・水主共拾弐人乗組、
於江戸表鰯〆糟積込、同所出帆いたし右之儀
正月六日豆州子浦湊出帆後同八日沖合難風波
ニ逢、漂流罷在、同三月十二日アメリカ船ニ被助、
夫より外国江相越、此度下田湊江召連渡候処、
同所ニおいて吟味之上、漂流人共御受取不相成
同湊出帆いたし沖合江乗出、漂流人共同所ニ而
請取不相成上者何国江も連渡候儀不相成
艀差遣候間、何方江成共漕着可申旨異人共申し、

追々地方江寄中木浦拾四五町沖迄乗来、艀弐艘
江可乗移旨申聞、彼是申候ハヽ何様可取計も
難計異人共侭申、右艀江乗移無拠右浦江
着船候旨申候間、右村役人立会相改、所持之
雑物者相預り置、漂流人共差詰怪敷義不見請と
申候口書差出申候
一中木浦船着藤節相糺候処、村役人共より申立候通
  無相違、漂流人共就中怪敷体不見請旨申立候
一本文之趣差掛候儀ニ而不及立会相糺候段、
  有馬左京方江及通達置候
  
右一と通吟味仕候趣書面之通御座候、漂流人長助
外六人儀、於下田湊唐・阿蘭陀之外国々より漂流人
召連候共請取不相成御国法ニ付、両国之内江連渡
可相渡旨申渡候処不相用、小船ニ而中木浦江漕着
上陸致し候、殊ニ三ヵ年来異国ニ罷在邪宗門江立入
候義も難計、万一不相締之儀も有之候而ハ如何候
ニ付漂流人共私下田湊出張先より罷差出相糺候上、
直様私豆州韮山屋敷役所元江召連、別家江入番人
付置、時々手代為見廻置申候、此上於奉行所御吟
味御座候様仕度奉存候、依之口書弐通、雑物帳壱冊
麁絵図壱枚相添差出候儀奉伺候、以上
   嘉永五子年七月   江川太郎左衛門印

嘉永5年7月 (1852年)               
有馬左京知行所伊豆国入間村中木浦へ異国の小船
で漕着いた漂流人について伺書
 
当月6日一色豊後守御勘定奉行が勤役中、先ず御届
しました。 私の代官所管轄伊豆賀茂郡下田湊へ
先月24日、漂流人七人を連れて同湊之内宮輪中へ
掛留していた異船の件、私が出張して手代を船に派遣
して国法を説明し、同29日出帆しました。 出帆後
陸地に寄り走り、同所出崎で帆影も見えなくなった旨
監視船の村役人から報告ありました。 尚陸地に寄る
事もあり得ると思い、下田から手代を南海岸へ派遣
しましたが、有馬左京知行、伊豆入間村之内中木浦
沖迄異船は行き、 小船弐艘へ漂流人長助外六人を
乗組ませ洋中へ突出し、異船は沖へ去りました。

この小船は同浦へ漂着き漂流人達は上陸しました事
この村及び最寄村より手代廻り先へ追々注進があり
手代が早速行って調査し私の出張先へ報告ありました
ので私の伊豆韮山屋敷役所元へ連行し、一ト通吟味
致しましたので以下申上げます。
          紀州日高浦
           和泉屋庄左衛門船
             沖船頭虎吉乗
              楫取 長 助  子四十四歳
              水主 辰 蔵  子三十七歳
              水主 太郎兵衛 子三十一歳
               同  清兵衛  子二十八歳
               同  輿 吉  子二十二歳
               同  浅 吉  子三十一歳
               同  新 吉  子二十八歳
   所持之雑物
   骨柳    七ツ    *柳こおりの古い言い方
   風呂敷包  壱ツ
   網入手骨柳 壱ツ
   蜜柑籠 壱ツ
   沓壱ツ
   股引壱ツ 
    〆是は骨柳其外江入有之候品々、巨細相調
    別紙帳面ニ記、取上ケ置候分
         外
    異国小船弐艘、内戒七挺
    〆是は入間村之内中木浦江村預申付置候分

     (漂流民の氏素性、宗旨)
長助   紀州日高郡北塩屋浦百姓長蔵倅
       代々同浦一向宗円満寺檀家
辰蔵   同州同郡其浦百姓甚蔵倅
       代々同浦一向宗浄国寺檀家
太郎兵衛同州同郡名屋浦百姓栄蔵倅
       代々同浦一向宗浄行寺檀家、
清兵衛  同州同郡多比村百姓長助倅
       同村一向宗浄福寺檀家、
輿吉   同州同郡西塩屋浦百姓安兵衛倅
       同浦一向宗行尊寺檀家、
浅吉   同州同郡其浦百姓久蔵倅
       同浦一向宗浄国寺檀家、
新吉   同州同郡南塩屋浦伝七倅
       代々同浦浄土宗光明寺檀家
     上記一同は船乗稼業をしている

     (遭難から洋上救助の経緯)
嘉永2年10月5日 同州日高浦庄右衛門船に
   沖船頭虎吉、水夫合計12人乗組、同州
   代崎浦で蜜柑積込み出帆する
同月18日 江戸川へ入港して荷上げする
同月24日 同所で鰯の糟六拾俵積入出帆
       浦賀御番所で検査受ける
同月25日 浦賀出帆
同月28日 伊豆の小浦湊に入港、此処で天候不順
   で滞船する
嘉永3年1月6日 以前病気で当港に残しておいた
   梅吉も快復したので乗せて合計13人で同日
   夕刻出帆する
同1月8日 朝8時頃から雨
同1月9日 夜2時頃から西北大風になり沖に流され
  夜中で陸地も分らす、夜が明けても風向き悪く
  東へ向かう積りで帆を上げて走るが、益々大風
  高浪に揉まれ、水淦が溜まるので、帆を卸し淦を
  汲取っていたら、同日昼2時頃楫が音を立て
  折れ、一同力を落し神仏へ檣を奉納祈願を
  込め、檣切捨てる。
  沖へ流されるままで島も見懸けたが、楫が無い
  ので寄り付けず、洋中を漂流する
同2月24日 朝8時頃から船中の飯米は勿論、漬物
  類迄全て喰尽したので、以後積荷の鰯〆糟を食べ
  飲水は雨天の度に天水を取り飢を凌ぐ
同3月12日 朝何国の海上か遥に異国船を見請、
  呼んだところ異国船も合図をし、 間もなく
  近付く。 一同助て呉れと拝んだら、艀2艘卸し
  たので13人が乗移る。  浦賀通行証を見せたら
  船中の書物箱、銘々の雑物を積入れました。
同3月13日 異国人は艀に乗り、此者達が乗捨た
  元船に火を掛けて焼捨てた上、北へ走参ります。
同3月19日 沖合で仲間の異国船に出会い、長助
  外五人が乗移る。 これは13人一緒では食物に
  不足する為。 この仲間の船へ乗移った後、直ぐ
  日本へ送り届て欲しいと手真似を頼んだところ、
  船長らしい者が世界地図を見せて、この船は
  アメリカの漁船であり、日本国へ送る事は出来ない
  ので近くのロシア国カムチャツカへ送るので
  そこで頼む様手真似して北へ走る
 
     (カムチャッカへ)
同3月20日 カムチャツカへ入港、異国人が連絡
  したのか直ぐに役人風の者が来て確認しました
同3月28日 役人が来てアメリカ船より此者達を受け
  取り陸させ、家一軒を与えて番人を付、日々食物
  を送り、この旨を国王へ報告し指示を待つ様子。
  その間異国の通訳が来て、銘々書類を作り、かなり
  話もできる様になりました。 
同8月10日 先に洋中で助けて呉れた船に残った
  船頭虎吉外六人の内、浅吉、新吉がアメリカ漁船
  で入港して一緒になりました。 この両人は長助達
  と分かれた後、助けて呉れたアメリカ船に七人一緒
  だったが、同四月中に仲間船に出会い、食料不足
  の為、7人の中から両人がこの仲間船に移りたい旨
  相談し、乗移り漁業手伝をしていたが、この船も
  飲水不足で水補給の積りでカムチャツカへ入港した
  ところ前に上陸の長助外五人がいたもの。 
同8月21日 此旨アメリカ船乗組員に話して、彼等から
  同所役人に連絡したのか、カムチャツカへ上陸
  させる指示があり、合計八人が一緒になる。
  
  ここでは蕎麦と麦を交ぜて焚出したもの食べさせ
  てくれるが、これでは足りないので食べ物を購度
  銘々の所持金を出し、番人に頼んだが食物の売買
  はなく、特に日本銭は通用しないとの事、どこから
  持ってきたのか日本銭六文を此者達に呉れた由
  この後役人の指図で七日目毎に米及び麦粉
  七八升ツヽ渡すようになり、麦粉は焼餅にして、
  米は粥に焚き 銘々食べる。
  
嘉永4年5月15日 猶国王の差図を待つ間、昨年4月
  より梅吉は病気で、役人に医師を頼んだところ早速
  医師三人が手当をし、時々診まわりもして呉れたが
  当日死去。 役人が見届けた上、役人案内で一同
  にて寺院に送り埋葬する。 その時僧風の者二人
  経文を読む。 
同6月19日 梅吉が病死して銘々今後の事を心配して
  いたところ、国王からに差図があり、日本国近辺へ
  送り事になった由、軍艦150人程の船に此者達は
  乗組み、同日カムチャッカ出帆
 
    (アヤンからロシア・アメリカ(シトカ)へ
同7月27日 海上十八日目にロシア国アヤンと云う所
  へ入港、上陸する。
  家・番人・食物等前と同様に渡される。
同9月1日 同所に滞船していたロシアアメリカ船
  が帰帆するので、ロシアアメリカから便船で
  日本へ送り届ける事になるとの事でこの船
  に乗組みアヤン出帆する
同10月23日 海上五十三日目にロシアアメリカ
  (アラスカ・シトカ)へ入港し上陸する
  ここでも番人・家・食物ともに前同様に渡される。
 
       (シトカから下田へ)
嘉永5年4月23日 此度下田湊へ入港するロシア
  アメリカ船があり、上海へ茶を買いに行く便船に
  此者共を乗組せ、日本国へ送届る事通達された
  ので長崎へ送って欲しい旨頼んだ。 しかし逆風 
  の時節故長崎には行かず、最寄は浦賀か下田
  だが浦賀は江戸の近いので下田湊になる様子で、
  万一目的地に近寄れない時は小船に乗せて海上
  へ突放して届けると異船乗組の者から申渡された
  同日シトカ出帆、凡六十日位で到着する予定の由
同6月24日 夕刻下田湊へ入津、
  此者達を連れてきたロシア船到着は田湊へ出張
  させた手代共より報告があり、私も手代家来召連
  同所へ出張し、船中へ手代を派遣し確認の上
  中国、オランダ以外の外国が日本の漂流人を連れ
  てきても受取らない国法を申聞かせ、此者達を
  上記二国どちらかに引渡すべく説得し、その事
  了解すれば早々早々出帆すべき旨、異国人及び
  此者達に申渡しました。
同6月29日 下田湊を出帆する事になり、此者達は
  国法だから仕方ないと納得し、両国のいずれかへ
  届けて呉れる様、異国人へ取縋り願ったが、この
  船は上海へ茶を買請に行く便船であり、両国へ
  届ける事はできない。 日本において受取れない
  上は、出帆の時の約束通り、洋中へ小船に乗せて
  放すと云い、丸木の小船弐艘と櫂七挺を此者達
  渡し、どこか陸地に漕ぎ寄せる様に云った。
  彼是云えばどうなるか分らないので、それに随い
  小船弐艘に此者達の所持手道具を積込、一同
  を移すと、異船は帆を上げて南へ走去りました。

         (中木浦上陸)
同月同日 一同途方に暮れ陸地を見たところ
  入間村の内本村鰹崎沖合であり、一同身命限り
  午後三時頃漕着き、所役人へ報告し、改の上
  同浦へ上陸して慎んでおります。 
  
  異国へ上陸中切支丹宗門に拘る事はなかったか
  下田湊において国法について申渡しに背き、
  中木浦へ漕ぎ付けた始末等改めて吟味しました

  此者達はロシア国上陸中、夫々の場所で家に入れ
  番人を付、食物を時々渡す状況ですから異国人達
  と交わる事は無く、日本で禁止の切支丹宗門等に
  拘らないのは勿論、この宗門に付き聞いた様子も
  無く不審な点は見受けられず、 一途に帰国を
  生国の神仏に祈っていた様です。
  
  下田湊出帆の節には一同当惑しましたが理解もして
  おり、中国又はオランダへ届けて呉れる様頼んだが
  異国を出帆する時に積み込んだ小船に乗せ洋中へ
  突出す事を言われ、丸木小船で洋中に突放されて
  は助かるまい、と一同愁傷の様子を見て異国人は
  陸に近付き放す旨申して、伊豆の出崎を通る所で
  小船弐艘へ振分け乗組ませ、銘々に櫂壱挺渡して
  異船より釣下して、其侭異船は走去りました。
  前書鰹崎沖合は汐が早い場所であり身命限り漕ぎ
  中木浦へ上陸して助ったものです。
  下田湊出帆の節は国法を申渡された事弁へながら
  小船で陸地へ漕着いた事、吟味を受けて一同
  恐入りましたと云って居ります
        有馬左京知行
          豆州加賀郡入間村
           名主 新五右衛門 子五十五歳
           組頭 甚 五 郎  子五十四歳

      (江川太郎左衛門の吟味)
右の者達は入間村にて一と通り吟味しましが、此度
下田湊へ渡来の異船は6月29日出帆後、同日昼3時
頃、入間村之内中木浦沖合より追々陸地へ寄って
同浦1500-1600m沖合で艀弐艘下した様子で、この
艀に漂流人七人乗組んで同浦江漕着きました。

此者達を調べたところ紀州日高浦庄右衛門船
沖船頭虎吉乗組の内、楫取長助外六人であり、
嘉永2年10月24日船頭・水主とも12人乗組、江戸で
鰯〆糟を積込み、同所出帆。 嘉永3年1月6日伊豆
子浦湊出帆後、同8日沖合で難風波に逢、漂流した。
同3月12日アメリカ船に助けられ、夫より外国へ行き
此度下田湊へ連れて来られたところ、同所において
吟味の上漂流人を受取らず、同湊出帆し沖合へ乗出
漂流人達を同所で受取らないなら、他国へ連れ
行く事も出来ないので、艀を与えるので何処でも陸地
へ漕着く様にと異人が云いい、段々陸地に寄り中木浦
1500-1600m沖で艀弐艘へ乗移させる。彼是云えば
どうなるか分らないので、異人の言うまま艀に乗移り、
仕方なく同浦へ着船した。 村役人が調べ所持の
雑物は預り置き漂流人達は特に怪しい点も見請けず
口上書を出させました

一中木浦に着船の者達を改めて吟味したが村役人が
 云う通りに相違なく、漂流人達は特に怪しい風なし
一本件は急な事であり、調査に立会う必要ない旨
  有馬左京方へは通達しております

一と通吟味を行い内容は書面の通りです。 
漂流人長助外6人には下田湊で、中国オランダ以外
 の外国より漂流人を連れてきても受取らないのが国法
であり、 両国へ引渡すべく申渡しましたが、従わず
小船で中木浦へ着上陸しました。 殊に3年程異国に
滞在し、邪宗門へ加わった事もあるかも知れず、万一
取締りに落度があっては成らず、漂流人達は私が
下田湊へ出張して調査の上、直に私の伊豆韮山屋敷
役所へ連れて行き、別家へ入れて番人を付、時々
手代に見廻りさせます。 此上奉行所で取調べ戴きたく
存じます。 口述書2通、雑物帳壱冊、略図壱枚添えて
お伺いします、以上
   嘉永五子年七月   江川太郎左衛門印

出典: 安政雑記第壱冊
上記は伊豆韮山代官江川太郎左衛門が上司に当る勘定奉行一色豊後守へ報告及び今後の処理に付き伺いを出す
カムチャッカ: カムチャッカ半島のペトロパウロフスク
アヤン: オホーツク海に面したシベリヤの町
ルセキアメリカ: 現在のアラスカ州、シトカ
漂流民の護送経路: 洋上救助(アメリカ捕鯨船)、洋上ーカムチャッカ(別アメリカ捕鯨船による)、 
     カムチャッカーアヤン(ロシア軍艦による)、アヤンーシトカ
ロシア・アメリカ会社船)
     シトカー日本(ロシア・アメリカ船、メンシコフ号)
参考: 「漂流民とロシア」 木崎良平 中公新書




acc29                                        戻り
              プチャーチン提督持参のロシア国書
魯西亜全国一統之主魯西帝ニコラース第一世帝の名
レイクスカンセリイル官名此書牘を大日本の執政に呈す
  
日本国方今の形勢を熟察し、両個の帝国相隣
るの故を思ひ、魯西亜帝方今一人の使臣を撰び、帝
の存意を全く寄託し、是を帝国日本に送るを決
せり、是を以て魯西亜の「アヂユダントセネラアル」
官名 惣魯西亜隊舶の師提督ヨアシム ポウチヤチン
人名 を挙て此重任ニあたらしむ

右使節を送る本旨ハ日本帝国方今の事跡形勢
を明白に申告し、且日本国と其賢明の大君との時
運に就て、魯西亜帝深く憂慮する所の事を説
明せしめ、尚又両帝国人民の利益を旨とし、向後魯
西亜国と日本との間ハ争隙怨讐を生せざらしめ
んとするにあり、右の策に就て魯西亜帝の志願
とする所ハ次の二件なり、其一ハ両帝国の境界を
定むるに有、此件ハ両国ニ注ける洋中に起る所
の諸事に就て、復更に遅延する事を得ず、是ヲ以

魯西亜帝の意、方今必正に此切要の一事と始む
べきの時なりと謂へり
然らハ両国より会同して貴国最北の極界ハ何
れの島に限り、我国最南の極界ハ何れの島ニ限
ると云事を約定せんこと、是当今の要務なるべし
但シ大境界を定むるハ又「カラフト島」即サカンの南端
に就ても云なり、夫魯西亜帝所領の地者其大サ世界
万国に冠たれハ更に地を益し境を広むる者実に要
須とせざる所なり、然れ共魯西亜の臣民当然の利

ハ帝今以此を思わざるを得ず、且両国和平の関係を
両国臣民の安穏を保固せんに者両国の境界を
確定するを良法となすのミ也
其第二件ハ魯西亜帝誠心に願欲する所にし
て即日本国の内何れの港なり共貴国と約定
して、魯西亜臣民の往来を許し、我国の産
物を以て貴国の有余と交易せしめん事を
請にあり、又我国の軍艦「カムシャツカ」
地名、或ハ亜
墨利加中魯西亜領へ往来するの途中日本の港内に
  
入りて、食料及び其他の須物
(いりもの)を求むべきこと
有るに当てハ是亦充準
(ゆるし)を得んことを願ふなり、
但し右の志願中、大日本国の為に損失する所ある事
なきと日本の政府必明察あるべし、且魯西亜ハ境
を貴国に接するの由縁あれハ、右等和平にして
且両国に利するの議を容るべき事、他の諸国
ヨリも当然の理、更に多かるべし、此諸件を申告
せんが為にアヂユダントゼネラアル
官命 兼水師提督
「ポウチヤチン」
人名 に命じて備に是を貴国政府

に詳明せしむ、政府其云ふ所を聞ハ我求る所ハ
実に公明正真の事たるを知悉することあらん、水
師提督「ポウチアチン」
人名 ハ全権の重任に応りて其
領受せる規例に従ひ、今次の大事を諸君等と
会議し、且貴国政府の宮員と予メ会合して諸
事を約定せしむ
此度大日本帝府に使臣を奉ずるの本旨ハ全く和
親の意にして、第一方今の事情に就て我が政廷
の意を明白に申告し、次に境界を確定するとの必要

なる縁由を告白し、更に両国の民臣遭遇の際に就
而互に永遠有益の基律を定めんと欲するが為也
使臣アジユダントゼネラアル官名 兼水師提督ポウチ
ヤチン
人名 は此の如き切要の命を受け貴国に至る者
なれと諸君定めて適当の礼儀を以而招迎せら
るべき事、即復これを疑事なし、英明聡彗
なる執政諸君、我政府の意旨細かに弁じ、我水師提
督の申告を検査して、両国有益の事を催督せん
が為に心力を尽し給わんこと是亦疑を容ざる所也

此書牘ハ帝の政府
サントペーテルビユルグ魯西亜の都の名
に於て作る所なり、時に千八百五十二年即魯西亜
全国一統の主魯西亜帝即位の二十七年第八
月二十三日、我嘉永五年壬子七月廿一日
      レイクスカンイル
官名ネツセルロオテ親筆


大ロシア帝国の皇帝ニコラス一世の名において
宰相が此書を大日本の執政に呈する
  
日本国の現状を考察し両帝国は隣国同士で
ある事を思い、ロシア帝はここに一人の使臣を撰び
帝の考えを全て寄託し、是を帝国日本に送る事に
決めた。 この目的の為にロシアの侍従武官長で
全ロシア艦隊の将である提督ヨアシム・プチャーチン
に此任務を遂行せしめる。

この使節を送る目的は日本帝国の現在の問題点を
明白に伝えて、日本国とその賢明な大君の将来に
就て、ロシア帝が深く懸念している所の事を説明
させ、 尚又両帝国の人民の利益を考え、今後
ロシアと日本との間に争いや怨讐を生じさせぬ様に
する事である。 この為にロシア帝の希望する
所は次の二件である。

其一は両帝国の境界を定める事であり、此件は両国
の間で起る海洋中の事件全てに付いて、解決に遅れる
事がなくなる。 これがロシア帝として現在実に必要な
事でまず初めにやる事と考える。
それでは両国より会議して貴国最北の極界は何れの
島迄であり、我国最南の極界は何れの島迄と云事を
約定する事、 これが現在の要務である。
但し大境界を定めるのは又カラフト島、即サカンの南端
に就ても同じである。 ロシア領有地の大きさは世界
に冠たるものであり、この上更に地を取り境を広げる事
は左程必要な事ではない。 しかしロシアの国民の
利益となる事は帝としても考えざるを得ない。 且つ
両国和平の関係を両国民が安心して維持する為には
両国の境界を確定する事は良い事だと考えるのみで
ある

其二はロシア帝が心から願う事は、日本国の内
何れかの港を貴国と約定して、ロシア国民の往来を許し
我国の産物によって貴国の余剰品と交易する事を願う
事である。 又我国の軍艦がカムチャッカ或いは
アメリカロシア領へ往来する途中、日本の港内に入り
食料及び其他の必要な物を求める時には、これを
許可される事を願うものである。 

但しこれらの希望の中で大日本国として損失となる事
では無いと、日本の政府は必らず察するはずである。
ロシアは境を貴国と接する縁であるので平和的に
両国に利益となるように話し合う事は他の諸国に比べ
当然の理屈である。 

これら諸問題を議論する為に侍従武官長兼海軍提督
のプチャーチンに命じて補足して是を貴国政府に
詳明させる。 貴国政府は彼の説明を聞けば私が
求めるものは実に公明正真の事である事を理解する
はずである。 
海軍提督プチャーチンには全権の重任を与え今度の
大事を貴国政府官員と会議して諸事を約定せしめる。

此度大日本国の帝府に使臣を送る目的は全く和親
の趣旨であり、先ず現在の事情に就て我が政府の
趣旨を明白に伝え、次に境界を確定する事の必要性
を伝え、更に両国の国民が遭遇した時に永遠有益の
規則を定めようとする為である。
使臣である侍従武官長兼海軍提督プチャーチンは
此の様な重要な命を受けて貴国に行く者であるから
応分の礼をもって迎えらる事を疑わない。 英明聡彗
なる執政各位よ、我政府の趣旨を細かに分析し、我
海軍提督の申告を吟味して、両国有益の事を検討
する為、心力を尽される事を疑わない所である。

此書は帝の政府があるセントペテルブルグにおいて
作成する。
  1852年(大ロシア皇帝即位27年)8月23日
    日本の嘉永五年壬子七月廿一日
      宰相 ネッセルローデ親筆

出典:
嘉永雑記第弐冊より





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      ロシア船ディアナ号の遭難と日露和親条約締結    戻る

○ 下田表ニ碇泊之異船津波之節、楫折れ右之
  穴より土径一周之内ニ水一尺程宛入、食糧無之
  難渋之趣申立候、尤五十里程は走り候得共、大洋
  江者乗れ不申候由
  右之段下田表江被遣候村垣与三郎場着申上候 
  由、尤御役人之内何も無事之由、併軽キ者ニハ未タ知
  れ不申者も有之哉ニ候
   十一月十日

  或人昨十一日浜町辺夜ニ入通り掛り候所、頻車ニ而
  荷物運送いたし候間、不審ニ存承り候處、今朝
  被仰付、夕刻迄ニ下田表江御廻しニ相成候ニ付、侍着
  服ニ相成品、黒紋付・同羽織・小紋島類ひの小袖
  野羽打半てん・股引等取集六百人前之衣類
  御買上ケニ相成候品、富沢町古着屋ニ而右品揃兼、外
  々古着屋より相集荷拵いたし、車ニて小網町へ遣
  船ニ而下田表江相送候由申たりと語りき


下田に碇泊中の異船は津波の時楫折れ、その穴から
僅かの時間に水が一尺程入り、食糧が水浸しとなり
苦労している旨報告あり。尤五十里程は走れるが、
大洋への航海は不可能の由
この事は下田へ派遣された村垣与三郎(勘定吟味役)
が現地より報告の由。尤役人は全員無事の由だが
庶民の中では行方不明者も有るように聞く
      十一月十日
ある人が言うには、昨十一日浜町辺へ夜になってから
通り掛かったところ、頻りに車で荷物を運んでいるので
不審に思い尋ねた処、今朝命令され夕方迄に下田に
廻すものであり、侍の着物になるような黒紋付・同羽織・
小紋縞の類の小袖、野羽打半てん・股引等、取集六百
人分の衣類で公儀で買上げられた品物である。 
富沢町の古着屋だけでは是等の品が揃わないので
外々の古着屋より集めて荷拵し、車で小網町へ送り、
そこから船で下田へ送るとの由、語った


○ 嘉永七寅年十二月朔日 
               長崎奉行
               下田奉行江御達之趣
 下田港江渡来之魯西亜船、去ル四日之大津浪
 ニ而破損に及び、洋海難相成候ニ付、浦方江引揚
 修復之義難相成、不慮之天災無余義次第ニ付
 此度限出格之訳を以、伊豆国君沢郡戸田浦  
 ニ而、船修復 御免許相成、使節始一同上陸
 為致候間、可被得其意候、尤取締方等夫々厳重
 申付置候、且又英吉利船・仏郎亜船等当節魯
 西亜ニ出会候者戦闘ニ可及哉ニ相聞候間、万一両国
 之船其地江渡来致候義も有之候者、右之趣差含
 御当地之混雑ニ不相成様可被取計候事

 右魯西亜船修復之ため、伊豆国戸田浦江可罷越
 旨 御免許有之候ニ付相廻り候、於海上難風
 ニ出逢、終ニ異船者戸田浦最寄之海中に沈水
 いたし候、尤日本船ニ而引船有之候所、無難ニ而
 異人共乗移助り候由、右異人弐百五十人程水野 
 羽州侯方江御預被賄候由、残り弐百五十人程小田原
 大久保加州侯方ニ而被賄候由、沈船の木材追々 
 流れ付、水野侯ニ而引上ケ番人被付置と聞ユ 
安政元寅年十二月朔日 (11月27日改元)
               長崎奉行
               下田奉行への指示内容
下田港へ渡来のロシア船が去る四日の大津浪
により破損し、航海不可能となり、修理不能となった
不慮の天災で余義なき次第なので、此度特例として
伊豆国君沢郡戸田浦において、船を修理する事が
許可され、使節始一同上陸させるので、了承願う。
尤取締方等は夫々厳重にする様に申し付ける。
且又イギリス船・フランス船等が、この処ロシア船と
出会うと戦闘になうかも知れないので、万一両国の
船がその地に渡来するような事があれば、この事を
含み、当地で騒動にならない様にする事
   (英仏対ロシアはクリミア戦争中)
右ロシア船修復のため、伊豆国戸田浦へ行く事
許可が出たので回航したが、途中海上で強風に
出逢い、終に異船は戸田浦最寄の海中に沈没した。
尤日本船により引いていたので、異人達は無事に
乗移り助かった由、右異人のうち250人程は水野
出羽守(沼津藩主)方で預り賄い、残り250人程は
大久保加賀守(小田原藩主)方で賄う由、沈船の
木材が流れているのを水野侯方にて引揚げ保管
の由
以上出典: 嘉永雑記第10冊
                    日露和親条約
條約
魯西亜国と日本国と、今より後、懇切にして無事ならん
ことを欲して、條約を定めんたが為め、
魯西亜ケイズルは、全権アチュダント、セネラール、
フィース、アドミラール、エフィミエス、プーチャチンを
差越し、
日本大君は、重臣筒井肥前守・川路左衛門ニ任して、
左の條々を定む、

  第一條
今より後、両国末永ク真実懇にして、各其所領ニおいて、
互に保護し、人命は勿論什物においても損害なかる
べし、

  第二條
今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ
島との間ニあるべし、エトロフ全島ハ、日本に属し、
ウルップ全島、夫より来たの方クリル諸島ハ、魯西亜に
属す、カラフト島ニ至りては、日本国と魯西亜国の間ニ
おいて、界を分たず、是迄仕来之通たるべし

  第三條
日本政府、魯西亜船の為に、箱館・下田・長崎之三港を
開く、今より後、魯西亜船難破の修理を加へ、薪水食料
欠乏の品を給し、石炭ある地に於ては、又これを渡し、
金銀銭を以て報ひ、若金銀乏敷時ハ、品物にて償ふべし、
魯西亜の船難破にあらされば、此港の外決て日本外港に
至ることなし、尤難破船につき諸費あらハ、右三港の内にて
是を償ふべし

  第四條
難船漂民ハ両国互ニ扶助を加へ、漂民はゆるしたる港
に送るべし、尤滞在中是を待こと緩優ありといへとも、国の
正法を守るべし、

  第五條
魯西亜船下田・箱館へ渡来の時、金銀品物を以て入用の
品物を弁ずる事をゆるす

  第六條
若止むことを得ざる事ある時は、魯西亜政府より、箱館・
下田の内一港に官吏を差置べし、
  第七條
若評定を待べき事あらば、日本政府これを熟考市取計ふ
べし

  第八條
魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、
是を待事優にして禁固することなし、然れども若法を犯す
ものあらば是を取押へ處置するに、各其本国の法度を以て
すべし、

  第九條
両国近隣の故を以て、日本にて向後他国に免す處の
諸件ハ、同時に魯西亜人にも差免すべし
右條約、
魯西亜ケイズルと
日本大君と、又は別紙ニ記すごとく取極め、今より九ヶ月
の後に至りて、都合次第下田ニ於て取替すべし、是に
よりて両国の全権互ニ名判致し、條約中の事件是を守り、
双方聊違変あることなし、
   安政元年十二月廿一日
                  筒居  肥前守 花押
                  川路 左衛門尉 花押




*ケイズル ロシア皇帝
*Jevfimiji Vasilijivich Putiatin
 ロシア海軍中将、侍従武官長



















*逗留の間は、其身自由たるべし
 (オランダ語翻訳)




*一員のコンシュルをおくべし
 (同上)

*裁判を要すべき一個の問題及
 事件あらば、日本の政堂より
 精しく考察して是を処置すべし
 (同上)








*批准書の交換
       條約付録
魯西亜国全権ゼネラール・アヂュタント・フィース・
アドミラール・エフィミユす・プーチャーチンと、日本国委任
の重臣筒井肥前守川路左衛門尉相定むる所の條役付録
    第三ヶ條
魯西亜人、下田箱館に於て、市中近辺緩優に徘徊する
ことを許すといへども、下田ハ犬走島より日本里数七里、
箱館に於てハ、同五里を限とす、尤寺社市店見物、且
旅店取建迄ハ、定むる處の休息所ニ至るといへども、人家
には招待なくして決て立入る事を許さず、長崎に於てハ、
追て他国の為に取極むる所に従ふべし、且港ごとに
埋葬所を取極置べし、
    第五ヶ條
日本ニて役所を定め置、品物渡方、并魯西亜人持越たる
金銀品物も、其所に於て取扱ふへし、魯西亜人市店にて
撰ミたる品は、商人売買直段ニ応じ、船中持渡之品を
以て弁ずべし、尤役所ニ於て日本役人取計べし
    第六ヶ條
魯西亜官吏ハ、
(安政三年、暦数千八百五十六年)より定むべし
官吏の家屋并地處等ハ日本政府の差図ニ任せ、家屋中
自国の作法にて日を送るべし
    第九ヶ條
何事によらず、外民にゆるすところハ、魯西亜人にも
談判なくして一同差許すべし、
右付録の事件、條約本文同様、是を守りて違失なき
ため、両国の全権名判するものなり
    安政元年十二月廿一日
                筒居  肥前守 花押
                川路 左衛門尉 花押  
       
以上出典: 幕末外国関係文書(東京帝国大学蔵版)