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翻刻原文 現代語訳
近江国彦根城主井伊掃部頭直弼上書 幕府へ
米国国書に就
ペリー持参の米国国書に対する井伊直弼意見

1.米国国書 当HPペリー再来に掲載 日本語 英語
2.意見上申の通達 当HP勝麟太郎に掲載 幕府通達
寛永十二年以前ハ、長崎堺京都等ニ御朱印船九艘有之處
大猷院様御大耶蘇御制禁ニ付、右之九艘航海御停止、
閉洋鎖国之御法被為立置、通商ハ支那和蘭ニ限り、其余ハ
一切御免許無之候、然ルニ当今之勢ヲ以篤と相考候處、
近年外冦之萌芽を察し、頻りニ憂国之英雄憤士之先識論
紛々たりしも、今時之危変ニ相臨候而者
御古代之如く、前条閉洋之御法而已を押立、天下静謐皇国
安躰之御処置可有之共不被存候、尤海防之全備年月不経
てハ難行届候、抑慶長十四年、五百石以上之兵船廃毀以来
皇国沿海大砲ヲ外冦ニ可敵対之軍艦無之、唯今ニも八丈島
大島其外独立之島々足掛リニ乗取候時ハ、其侭に難差置
候得共、兵艦なくてハ、追討之術計何分無心許奉存候、
寛永12年より前は長崎・堺及び京都等に朱印船が9艘
ありましたが、家光公がキリスト教を禁止された事に伴い
この9艘による航海も禁止となり鎖国が国法となりました。
通商は中国、オランダ二国に限られ、他の外国との交易
は停止となりました。 しかし昨今は外国からの渡来が
頻繁になり、これを憂えて憤激する意見も活発ですが
昔からの鎖国を全面に出すだけではもやは国の安全を
保つ事はできないと考えます。 叉海防は短期に達成
できる事ではありません。
慶長14年の五百石以上の軍船破棄以来、日本は
外敵に対しては海岸の大砲だけで軍艦はありません。 
今八丈島、大島その他孤立する島を足場として占拠
されたら、放置する訳には行きませんが、軍艦が無け
れば追払う事もできません。

1.寛永12年(1635年)第三次鎖国令で完全鎖国
2.慶長14年(1609年)大船製造禁止令
3. 朱印船: 幕府の許可証を持った商人がタイ、ベトナム
 フィリピン等へ500トン程度の船を出して交易した。

籠城ニ橋を引候得者、居すくみニ成、始終ハ難保、叉川を
隔戦ひ候ニも、川を渡して打て掛り候方勝利を得ると伝承候、
行く者ハ進取之勢あり、待者ハ退縮之姿ニて、古今之勢
必然ニ相見え候
祖宗閉洋之御法ニハ候得共、支那和蘭之橋ばかりハ残し
被置候、今此橋を幸ひニ、外国之御処置可有之事、暫く兵端
を不開、年月を経て必勝万全を得る之術計ニ出可申哉、
籠城する時はまず外部と連絡する橋を引き上げますが
城は孤立してジリ貧となりいつまでも保つ事はできません
叉川を隔てて戦う時は川を渡って攻撃した方が勝と
云われています。 前に出る者には進取の勢いがあり、
守る方はジリ貧になる事が自然の姿です。
徳川家創始者達による鎖国の法ではありますが、中国
とオランダの橋だけは残されました。 今この橋がある事を
幸いに暫く外国との戦争を回避し、将来必勝できる体制
を作っては如何でしょうか

此度亜墨利加所望之石炭も、九州ニ多く出候由及承申候、
当方ニても必要云々之権道を以、先者申上置候得共、是等
も彼レ洋中臨時急用之時ハ、長崎ニ来て可求、有余あらハ
可遣、薪水ハ惜しむ所ニあらず、食料ハ国々豊凶ありといへ
共漂流難民にハ与ふへし、叉漂着之難民ハ、近年撫育し
送り返しぬ、今更不及詮議、万事蘭人ヲ以可申出、
今度アメリカが石炭を欲しがっておりますが、九州で多く
産出すると聞いております。 我国でも必要であるという
理由で、緊急の場合だけ長崎にくれば渡すと云う事で
良いと考えます。 叉薪水は惜しむものではありません。
食料は豊作の時も凶作の時もありますが、漂流の難民
には与えましょう。 叉漂着の難民については、最近
保護して送り返していますので、今更改める必要はなく
全てオランダ人に任せましょう。

扨叉交易之儀ハ国禁なれど、時世ニ古今の差あり、有無
相通するハ天地之道也
祖宗之神ニ告て、已来ハ此方より商船を和蘭会所咬留巴之
商館江遣して交易すへし、交易之品、是ハ亜墨利加、是ハ
魯西亜と分売するハ、蘭人ニ任して互市すへし、尤航海大艦
を新造すれハ、今一両年を経へしと、大躰蘭人同様之御取扱
あって、ケ様に彼か不意ニ出置、扨寛永以上之御朱印船を
復古し、先ツ大坂兵庫堺等之豪商に被命、其株を与へ、堅実
の大軍艦初蒸気船を新造して、日本無用之品を積込、水主
船頭ハ暫く蘭人を雇ひ、剛直ニしかも心利たる者共を乗せ
交へ、大砲の矢利、大船之取廻し、針路之法を学ばせ、
表ニ商船を申立、内実ハ専ら海軍之調練を心得、追々船数
を増而習熟し日本人自在ニ大洋を乗廻し、蘭人の密訴を
不待して、彼地之容躰を実見し、他日海軍之全備をなし置、
叉是迄恐嚇欺罔之憂を看破し、奢侈空費之弊風を変改し、
武備厳重ニ内を十分ニ相とゝのへ、勇威を海外ニ振ふ様ニ
相成候ハヽ、末々居すくみニ不相成、内外充実、却而

皇国安躰ニ可有之哉と奉存候
さて交易は禁止事項ですが、世界も昔と今では大きく
変っております。 余剰品と不足品をお互いに融通し合う
事は人類の原則です。
ご先祖に報告して今後はこちらから商船をバタビアの
オランダ商館に派遣して交易するべきです。 交易の
品々はこれはアメリカ向け、これはロシア向けなどと
分けて売買する事はオランダ人に任せるべきです。 
2年程経てば大船もでき、オランダ人並みの事はできる
でしょうから、寛永当時以上の朱印船を復活し、大坂、
兵庫、堺の豪商に命じて交易の権利を与え、丈夫な
軍艦や蒸気船を建造し、日本で余剰の品を積込み、
船員や船長は暫くオランダ人を雇い、日本人は剛直で
利発な者達を便乗させ、大砲の扱いや船の運航、航海
術など学ばせ、表向きは商船で実は海軍の訓練を
行います。 
次第に船も増やし日本人が自由自在に大洋に乗り出し
オランダ人の力を借りずとも世界を体現し、海軍の
体裁を整えてゆきます。 
かくして是迄のような脅しや欺瞞に踊らされる事なく、
贅沢や無駄使いを改め、国の守りを確実にし、海外に
雄飛するようになれば、ジリ貧になる事もなく逆に
国家安泰になると確信します。

1.バタビア: 現インドネシアジャカルタ、 当時オランダ
の東洋における拠点でオランダ交易船はバタビアと長崎
を往来していた。
此方ゟ先んして仕掛置候ハヽ時宜ニより何時ニても御制禁ニ
成候はん事寛永度之如く、兎角彼を寄せ付さる處良策と彼存
候、将又妖教之禁ハ、如何様ニも厳密之御仕向も可有之候、
亜墨利加魯刺も、航海之術ハ、近年習熟致候由、吾
皇国之人性怜悧敏疾、今より習練致さハ、いかて西洋人ニ
劣り可申哉、
こちらより先手を打てる様になれば、場合によっては
交易を禁止する事も叉外国を謝絶する事も寛永の頃の
ようにも出来るでしょう。 更に邪教の禁止もどんなに
厳しくも出来るでしょう。 
アメリカもロシアも航海の技術は近年習熟したようですが
我日本人は利発で機敏ですから、今から訓練すれば
決して西洋人に後れは取らないでしょう。
国躰時勢を量り、永世
皇国蛮夷之憂なく、海内静謐ニ御守護被遊候ハヽ、たとえ
祖宗之御法ニ沿革増損御座候共、却而
神慮ニ被為叶候はん歟と奉存候、尤今度之御処置、専ら
海内之信義を得させられん事肝要と奉存候へハ、第一
天朝ニ被達、伊勢石清水鹿島等へ
勅使、日光山江は 台使を被立、海内静謐国家安全之
御裁断可有を被告、兎角
神慮ニ被為任候はん事
神国之旧典、且人心をして一致なさしむへき御計ひ歟と
奉存候
時流に対応できるように国力を充実し、外国の脅威を
心配しなくて良いような平和な国家を維持するならば、
たとえご先祖の定めた法に過不足が多少生じたとしても
むしろご先祖の遺訓に沿うものと考えます。 唯今回の
処置は国内の意見統一をする事が重要ですから、まず
朝廷に報告し、伊勢・岩清水・鹿島の各神宮へ勅使を
日光東照宮には将軍名代を送り、国内平和、国家安全
の祈願をされる様勧めます。 昔から神慮に沿う様に
する事が人心を一致させる事に有効です。

今 御府内近海之御軍配ニよつてハ、不慮急変之前、銘々
之覚悟容易之筋ニ無御座候得は、片時も難被指置、たとへ
幾重之鉄壁を被築候共、異変ニ臨候而者、必人和ニ不相及
兎に角一同安悦之御裁断あつて、夫々号令を可被示事、
即今之御急務所仰御座候
今江戸近海の事で進めかたによっては、事態は急変も
しますので夫々覚悟はしなければなりませんが、一時も
放置することはできません。 たとえ幾重にも防禦の鉄壁
を築こうとも、人々の和の力には及びません。 皆が安心
して喜び従う様な方針を打ち出す事が急務です。

右之趣、御制禁ニ違ひ候見込ニ付、奉怖入候得共、無違
(遺?)策十分之處申上候様被 仰出候ニ付奉申上候、
以上
  八月廿九日           井伊掃部頭
以上は鎖国の政策に抵触するもので、恐縮では
ありますが、心に残さず意見を述べる様に仰出された
ので以上申上げます。
  嘉永六年(1853年)八月九日  井伊掃部頭

出典: 幕末外国関係文書之二     (鈴木大雑集・井伊家書類)





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