井伊直弼の積極的開国論 −テロに斃れた幕末の政治家ー |
|
![]() 横浜桜木町掃部山(かもんやま)公園の井伊直弼像 |
日本国憲法が公布されてから65周年になるという。 つい先日 自民党から同党の憲法改正案が発表されたが、ポイントは天皇を 元首とする事、国旗・国歌の明記、9条の自衛権及び国防軍の明記 であると認識する。 自衛権・国防軍は卑しくも独立国家である以上、自分の国は 自分で守る体制を作る事は当然である。 天皇の呼称に関しては現 行「象徴」を「元首」に置き換えるだけの様であるが、 我々は物心 ついた頃から象徴天皇に親しみ違和感もなく、すっかり国民に定着 している様に思われる。 叉国際的にもエンペラーとして尊敬を 集めているのに変える理由は何だろうか。 元首というと何か世俗的 な印象があり政治に利用されたりしないだろうか。 叉国旗・国歌へ の誇りと尊敬はもっともだが憲法で規定すべきものなのだろうか、 他国の例は調べていないが外に規定する法律はないのだろうか。 江戸時代も幕末、テロに倒れた政治家に大老(現代で云えば 総理大臣)の井伊直弼と云う人がいる。 この人の評価は複雑で開国 の功労者とする一方、朝廷を軽視し大獄を引き起こした強権政治家と いう見方もある。 当時の古文書を追って行くと、本来政治とは無関係 だった朝廷が開国反対、攘夷(外国人を打払う)という時代錯誤的な 主張で幕藩政治に介入した。 その為に国論を二分して10年近く 幕末の動乱が続き、多くの有為の人材が失われている。 見方を変え れば攘夷とは幕府から朝廷に政権を移すための政局の具だったのか と見る事もできるが、これは一部の公家や雄藩の策謀で天皇は単に 外国嫌いと云うだけだった様である。 |
井伊直弼は安政の大獄と云われる反対派に対する大弾圧を行ったが、二つの事が同時進行したので幕末の 政局を分り難くしている。 一つは日米修好通商条約をはじめイギリス・ロシア・フランス・オランダと通商条約を結び開国に大きく楫をきったが、 これが朝廷の反対を無視して(無勅許)断行したとして、朝廷から水戸藩に幕府の政策を糺し、諸藩と共に攘夷を 実行せよ、という密勅(戊午の密勅)を下した。 この幕府を無視した頭越しの行為に対して井伊は水戸藩・朝廷・ 諸藩関係者を厳しく断罪した。 二つ目は十三代将軍家定の後継として血筋の最も近い人として紀州慶福を押す南紀派と、内外大変な時である ので英邁の評判だった一橋慶喜(水戸斉昭の息子)を押す一橋派が夫々運動していた。 一橋派は越前の松平 慶永がリーダーで家臣の橋本左内等を使い朝廷工作を進めており、幕府内の開国派といわれる役人も多数この派 に含まれていた。 井伊直弼は南紀派のリーダーでもあった為、攘夷密勅関係の弾圧を行うと同時にこの一橋派に 対する弾圧もおこなった。 その結果一橋派に属していた開国派の有為の役人多数が左遷されてしまった。 その為井伊は前任者である堀田正睦(老中首座)の開国路線にブレーキをかけた保守頑迷の人という評価も生れた ようである。 今回取上げる古文書は井伊直弼が彦根藩主時代に書いたと思われる開国論である。 これはペリーが国書を 携えて渡来した1853年6月、時の老中首座阿部正弘が全国の大名、幕臣、町民(奉行経由)に日本はどの様な方針 を取るべきかを意見具申するよう通達した事に対し上申したものである。 以前このHPで非役だった頃の勝海舟の 論文を取上げた事があるが同時期であり、多数の大名・幕臣・浪人・市井人からの意見が上申され、これらは 幕末外国関係文書之一及び二に原文で収録されている。 この井伊の論文から見る限り藩主クラスの人々の意見 では最も積極的な開国論であり、歴史認識が極めて正確である。 元来此人は部屋住みの期間が長く、その間 かなり学問を治め趣味も多彩だったようで、茶の湯の分野では名著もある由である。 内容からみるとまず鎖国を 孤立する籠城に例えて、何時までも維持できるものではないと譜代筆頭の大名としては極めて大胆な意見を展開、 鎖国以前の朱印貿易を例に引き、 待つよりも積極的に海外に進出すべしとしている。 この論文が単に作文でない事はこの五年後大老となり政権を担うと、短い期間であったが開国にけじめを付け 更に条約批准の為に70名からなる使節団を米国に派遣している。 この使節団は米国軍艦ポーハタン号で渡航 したが、これを護衛する名目でオランダから購入した軍艦咸臨丸に100人程乗り込ませ外洋航海訓練を兼ねて サンフランシスコ迄派遣している。 これらの使節団を送り出した三ヵ月後、井伊大老は登城途中の桜田門外で水戸の浪士達に暗殺された。 その直後 咸臨丸が成功裡に太平洋を往復して江戸に帰っている 井伊直弼上申書(付現代語拙訳)を見る 関連年表を見る |