江戸後期主要異国船渡来記録2 船の全長で相対的に表示(除長崎への中国・オランダ定期交易船) 前へ 次へ |
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1829年(天保2年2月) イギリス船蝦夷に上陸戦闘 アツケシのウラヤコタンにイギリス捕鯨船上陸して、アツケシ勤番所と銃撃戦 となる。 双方死傷者はなかったが勤番側小者が捕虜となり、数日船内に 留置された後、書状を持たされ返される。( ![]() |
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イギリス船 |
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1836年(天保7年7月) ロシア船漂流民送還 エトロフにて海岸警備隊砲撃の間隙をつき、ロシア船が越後の五社丸の 漂流人三名を上陸させる。 彼等は太平洋で遭難し、ハワイ、アラスカ経由 オホーツクに送られていた。 書状を漂流民に持たせ日露の関係改善を試みる( ![]() |
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ホツラチラスカ号 全長不明、小形 |
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1837年(天保8年7月) モリソン号事件 米国商人チャールス・キングが日本との交易を目論見、澳門から 日本人漂流民 7名を携え、米国商船モリソン号で浦賀に入港試みたが陸から砲撃され、鹿児島 でも砲撃され止む無く澳門に帰る。 (→詳細へ) |
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モリソン号 商船、?人 全長35m ? |
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和船:千石船 弁才船、15人 全長20m |
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1844年 (天保15年7月) オランダ軍艦長崎へ渡来 オランダ国王使節コープス、軍艦パレンバン号で国王の書翰を持参し長崎へ 渡来。 8月20日上陸して長崎奉行所で国書(日本の開国を忠告)受渡し 10月帰帆 ( ![]() |
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パレンバン号 |
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1845年(弘化2年 3月) 米国捕鯨船マンハッタン号が鳥島付近で遭難した日本人漂流民 22名を浦賀に届け、薪水食糧の供与受ける(→詳細へ) |
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マンハッタン号 鯨漁船、22人 19間5尺、36m |
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7月) 英国調査軍艦サマラン号, 朝鮮、琉球訪問、途中長崎に立寄り 測量許可及び薪水食料の提供を願う。 測量は許可しなかったが、薪水 食料を与え去らせる( ![]() |
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サマラン号 |
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1846年(弘化3年 閏5月) 米国東印度艦隊のビッドル提督のコロンバス号及びビンセンス号を 率いて浦賀へ渡来し通商を求める。 幕府は拒否するが薪水食糧は供与 (→詳細へ) |
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6月) フランスのセシーユ提督が艦隊三艘、広東、琉球経由して長崎に渡来。 水と野菜を望み、自国捕鯨船日本付近で遭難の場合の扶助送還を頼み帰帆(![]() |
![]() クレオパトール フリゲート、450人 全長52m |
![]() サビーヌ コルベット250人 全長40m前後? |
![]() フィクトリウセ コルベット 170人 全長40m前後 |
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8月) デンマーク地理調査軍艦カラテア号、浦賀を目指して渡来したが 北風で入れず鎌倉付近を漂流。 浦賀奉行組や固め大名の関係者が船に 乗込んだが風雨強く薪水供与受けずに帰帆 ( ![]() |
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カラテア号 |
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1849年(嘉永2年 3月) 嘉永元5月米捕鯨船ラゴダ号の乗組員15名が 三艘の艀で松前に漂着し長崎に護送される。 引取りに 米国軍艦プレブル号が渡来してオランダ商館経由で引取る (→詳細へ) |
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プレブル号 コルベット、141人 全長117ft、35m |
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閏4月) 英国地理調査軍艦マリナー号浦賀に渡来し 、薪水供与の後も房総、伊豆、大島付近迷走、下田港にも 入る ( ![]() |
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マリナー号 コルベット、110人 21間余、38m |
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