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           文政元年イギリス商船浦賀に渡来
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橋本武右衛門書状
一当五月十四日早朝異国舟当湊へ入津仕、定而
 其御地ニ而も評判御聞被成候半と奉存候、尚又
 異国舟一件夜咄ニもと絵図面差添荒増申上候

一イキリス船水主九人乗、十四日朝海鹿島沖に汐
 懸り致候を見付注進有之、早速見届之同心替々
 罷越帰り、夫より東西之漁舟ニ而湊口江引込候様
 被仰付、八半頃湊口江引込参り候、会津御台場
 ニ而も懸り居候舟を不見付、浦賀役所より御使ニ而
 観音崎・平根御台場騒動大方ならず、追々軍船走
 
 参り幟吹流しを立、大筒を仕懸、各陣羽織ニ而大小
 之舟二十艘ニ而垣船ニいたし、昼夜之警固堂々と
 して夜者高張数百本東明神山ニ而篝火をたき、
 御番所岸通り高張出シ、古今之珍事可有之事とも
 不奉存候、然ル處十七日御奉行并大貫次右衛門様
 天文方高橋左十郎様、足立左内様 七時迄着被成
 翌十八日天文方両人・与力・同心壱人ツヽ四人船中
 江御越被成候処、言語も相通じ其日者御帰り被成、
 
 其後又々両三度も御懸合有之候処、様子も相分
 候哉、廿一日ニ出帆被仰付候、尤送り舟等も無御座
 候、但船中より十四日ニ御取上ケ被成候品々大筒
 二挺、種ケ島一挺、刀七振、楫・帆之類、其外悉く
 其侭ニ而御返被遣候
 出帆之節、為見送押送船二艘同心乗組、州の崎
 迄見送罷帰候、同夜四ツ時過ニ警固も半分引取
 廿四日双方引払、平日之通りと被仰渡候、又此度
 者白川様御船者一艘も不参候、是者州之崎・富津
 之側御堅メ被成候由承候、尤使者船者度々参り候
 
 先右之一件荒増如此御座候、御咄之種ニもと早々
 申上候、未取込乱筆御高免被可下候、恐惶謹言
         五月廿八日    橋本武右衛門
    大秀寺御隠居様
 書添申上候、船者小舟ニ而長サ十二三間・幅二間
 余程有之候、舟中乗込見廻候処決而飾り等も無之
 先見苦敷方ニ候、人物者至而柔和ニ而服も麁服候
 尤羅紗・猩々緋之類も所持いたし候、書物抔も有之
 候得とも、紺屋之小紋形ニ御座候、紙者至而宜敷
 候皆左りより書始申候
 
○当五月十四日早朝異国船が一艘浦賀に入港
  しました。 きっと貴地(江戸か)でも評判になって
  いる事と存じます。  そこで異国船の一件を夜咄
  の足しにと絵図面を付けて概略申上げます

○イキリス船水夫九人乗が十四日朝海鹿島沖で碇泊
 しているのが発見され報告がありました。
 早速確認のため奉行所同心交代で出張し、それ以後
 浦賀東西の漁船により、港口へ引き込む様奉行から
 指示があり午後三時頃引き込みました。

 会津の砲台では碇泊している船を発見出来ず、浦賀
 役所からの連絡で知り、観音崎・平根の砲台の騒動は
 大変でした。 段々軍船も集って来て、幟吹流しを立
 て 大砲を用意して、各人陣羽織で大小の船二十艘で
 異国船を取囲み、昼夜の警固は大掛かりでした。
 夜は高張提灯数百本を付け、東明神山では篝火を
 たき御番所の岸通りには高張提灯を付け、古今の
 珍事でも是ほどとは思えません。

 その様にして十七日は御奉行及び大貫次右衛門様
 (代官)、天文方馬場左十郎様、足立左内様等が午後
 四時迄に到着、 翌十八日は天文方両人・与力・
 同心壱人ツヽの四人が船中へ乗り込まれた所
 言語も通じたので其日は御帰りになりました。
 
 其後又々両三度も交渉をしたので様子も良く分った
 のでしょうか、廿一日に出帆となり送り船はありません
 但し十四日に船から取上げた武器類、大砲二挺、
 小銃一挺、刀七振、楫・帆之類その他全て元のまま
 返されました。
 
 出帆に当り見送確認の為押送船二艘に同心乗組み
 州の崎迄見送り帰ってきました。 同夜十時に警固も
 半分引取り、廿四日には全引払平日の通りとなりました

 又此度は白川様(白河藩)の御船は一艘も参候して
 いませんが、 是は州之崎・富津の側の警固に当って
 居られた為と 聞いております。 尤使者の船は度々
 浦賀に来ておりました。 先ずこの一件概略以上の
 通りです。お話の種になれば、と早々報告します
 乱筆乱文御許し下さい、恐惶謹言
         五月廿八日 橋本武右衛門
 大秀寺御隠居様
 
 追伸、船は小船であり長サ十二三間・幅二間余程
 です。 船に乗り込んで見廻したところ、飾りもなく
 どちらかと言えば貧相でした。人物は至って柔和で
 服装は粗末です。 しかし羅紗や猩々緋も持って
 います
 書物などもありますが紺屋の小紋形のものです。
 紙は上質です。 全て左から書き始めます


浦賀奉行:内藤外記
橋本武右衛門:浦賀奉行所関係者
高橋左十郎: 馬場左十郎の誤りか、天文方高橋作左衛門手付
浦賀番所: 浦賀奉行の管轄で船の通航・貨物管理
この当時の江戸海(東京湾)警備は白河藩(房総側)、会津藩(三浦半島側)が担当、弘化年間になると房総側は忍藩、三浦側は
川越藩が担当する。 更に嘉永年間には彦根藩、会津藩(再度)が加わり四家体制となる。 浦賀奉行はその指揮権を持つ

                   イギリス商船に関して町人の書状

イキリス船相州浦賀浜渡来始末書写
当寅五月十四日朝、浦賀御番所前下り船三十   
程有之御改相済、船頭共会所へ揚候而右之内三州
平坂栄三郎ト申出候者、前夜九ツ時九里浜沖    
参候處、海鹿島近く怪キ船見掛申候、其節凪
ニ而御座候得者、船掛り致候哉ニも奉存候、仮令出
帆致しても、いまだ近辺ニ可有之旨申候に付
御番所江御訴申上候得ハ、早速御見届船御乗出
問屋も追々見届ニ罷出候處、久里浜沖掛り居候
異国船江乗付、何国之船に候哉相尋候得共、言語

曽て相分不申大こまり、仕形ニて米水ニ而も無之哉
相尋候得共夫ニ而も無之様子、様子相知不申こまり
入候儀然ル處船頭と存候もの、地球図を取出し指さし
致、イギリスト申言語相分候故、先船ハ相知候得共
何を申も右船水より上ニ出候処ハ薄鉄ニ而張、水中
ハ銅ニ而張候船、其外飛道具・刀・釼類数多所持之
儀故、甚安心難成躰、右之段早速江戸御奉行御役
所江注進、問屋坂野彦右衛門押送船ニ而乗出、陸も
御飛脚立、会津・白川之陣屋へも御達有之、御番
所江ハ湊口を向大筒三挺据、御船ハ武具を積相備
会津観音崎之陣屋より平根山台場へ詰候衆ハ

抜身之鎗を引□□壱騎駈、鴨居浦江ハ幡差物を立
船々平根山下館浦江漕来、誠ニ誠ニ珍事ニ御座候
御番所より与力同心衆、問屋被召連御乗出シ、右船
取逃不申様之御思召之處、異国人等決而荒立不申
思の外平和ニ付、浦賀漁船ニ而湊口迄引参、手真
似仕形ニ而様子御尋被成候得共、兎角分り兼、言語
不通、エド」マツマヘ」ナンブクナシリ」ヲロシヤ」
ヲヽツカ」タネガシマ」ヘンカラ」ヲランダ 是等の地名
ハ相替り候得共、其外相分不申、江戸江戸と
申儀猶以不安心ニ付、湊口江碇入させ、船頭八十艘
ニ而取巻、其外を会津之兵船ニ而取囲、船中大筒・
鉄砲・玉薬・刀釼之類、国法之由仕形ニ而申聞、
       図省略

右之通御固与力衆同心衆問屋代り合御勤、会津衆
ハ船陸之備詰切、会津拝領之人足凡千人、大小船
百五拾艘余り也、同十八日浦賀御奉行御着、并
御代官大貫治右衛門様、御供廻り壱万石程之格
為通弁天文方御手付、馬場佐十郎様御着、御奉
行様御取斗ニ而右天文方船中へ御越、異国人江
談話被成候處、諳危利亜商人船ニ而毎年魯西 
亜国大ツカへ交易ニ参候船、此度も天竺ヘンカラ 
より仕出シヲロシヤ大ツカへ通候道故、立寄候趣之

由ニ御座候、同十九日交易之儀新法ニハ決而不相
成趣、早々帰船可致旨、被仰遣御諭被成候處
異国人承知致シ、明廿一日出船可仕答候ニ付
先達而御取挙之武器并帆舵御返被成、同廿一日
出帆、尤日本之内何れの浦江も着船之儀、不相成
旨被仰渡入海之間ハ房州洲之崎辺迄、沖合見張
押送形御船ニ而、御同心小頭御目付其外御出役
会津衆も押送三艘跡A付参、名々洲之崎より御帰、

異国船者其夕方房州と大島之渡合沖迄走出候、
翌廿二日房州之沖を奥州之沖へ走参候由、
同廿三日御固惣引払被仰出、会津衆も船陸御引取
被成候、会津衆御固場所ハ城ヶ島台場松輪崎台場
仙崎台場、平根山台場、観音崎台場、勝カ崎台場
船手者三崎、観音崎、長井崎台場
共に十ヶ所程多分之御入用金、壱箱ニ而ハ止り

申間敷申唱へ候、 白川衆も洲之崎台場 布良崎
台場、竹ケ岡台場、富津台場、船手ハ
波左間、竹ケ岡等多分之御入用と承候、御両家
領内海辺村ハ押送船不残水主役、地方ハ兵糧方
人足太造之事ニ御座候、誠ニ此度之御入用長く
相掛り候ハヽ、浦賀ハ不及申ニ、三浦・房州村々
難行立処御奉行様之御取計ヲ以、御窺之御下知も
無之内、惣引払被仰付、郡中一同難有奉存候、
御奉行様・御代官様・天文方御役人共、当月朔日
浦賀御発駕御帰府被遊候

諳危利亜異船之図并人物・諸造具荒増別紙
ニ相認、懸御目御覧可被下候、右異国船ニ番ニ
参候節道具等見及候処、 道具其外之品ニ至迄、
弁利を相考拵候道具と被存候、書物も数巻相見へ
候得共、阿蘭陀文字ニ而読不申候、絵図面も数々
相見候、皆銅版ニ而文字ハ蚯蚓のぬたくり候様ニ而
不相分候、其内豆州大島之絵図、奥州南部領之
絵図等能相分り誠ニ奇々妙々ニ御座候、其外ニ
絵図日本も支那も有之様子ニ候得共、何ヲ申も文字
不通ゆへ相分不申、只々其細密に感心候而已、
春画之本ハ至而麁末ニ而、尤おかしミ御座候、

音律之類ハ見及不申候、外科道具膏薬箱等者銘々
持居候様子、植痘瘡之道具見申候、種々貯有之候
右種ハ牛之痘瘡之種ニ候由、此方之痘瘡之瘡より
少し大ふりニござ候、火打石之如きもの有之、是ニ而
顔へ疵ヲ付、右種を植候ト申事也

積荷ハ米五百俵、鉄砥石也、米ハ至而悪米日本ニ
而此如米ハ売買ニ者不成也、死米多青玉交りヘン
カラの米のよし申候、此船去年十月大島ニ七日汐
掛り致候と申候、其節も国地を心掛候得共、風烈敷
候故立寄不申、ベンカラへ参り当寅三月廿七日彼地
を出帆候而八十二日目此地へ錨ニ入候由申候、
ベンカラ今ハイギリス属国之由
西洋暦寅三月廿七日ハ日本二月廿二日ニ当る 
此度交易相願候者イキリス之国王より之命ニも非ス、
一己之了簡ニ而通り掛りニ立寄候と申候、交易御免
ニ候ハヽ毛織類 細工等所持候様申候、

右異国船一件ニ付而ハ御役所江罷出候節、
御次ニ而風ト承候事共も有之、天文方より直ニ御
奉行様江申上候義も有之、此度之御用ハ両御組
ニ而も御存無之事も有之、存候ト申而ハ不宜儀も
御座候へハ、其御地ニ而此義御談之節も御心配
可被下候、此書下田辺縁者有之人江、彼地より内々
ニ而送り候由、内々借写候、此節風聞ニハ異船御改
之節、箱壱ツ有之候處、殊之外大切ニ致し蓋抔とら
せざるよし、いかなる物か不知よし、又蛮学家桂川
又外ニ御壱人出役対談之由ニ候得共、此書之中
ニハ御名前無之候

扨近来異国人度々渡来之事ハ若狭侯松前御取替
以来多く参り候よし、是ハ松前侯家老ヲロシヤ国へ
参り居候由、度々此地を騒セ候よし、右ニ付此地
公辺御物入夥敷候よし、依而松前侯ハ本地へ復帰
可被成旨申候、去年中大島辺へ異国船見へ候よし
御触等有之候ハ此異国船ニ候哉、尤其節ハ数艘
見へ候様ニ風聞有之候
此船大島辺沖より大坂船浦賀入津を追駈参り候由
帆柱の上より遠目鏡ニ而見候て追駈候由、浦賀湊
入口に山有之、此山を廻り湊入致し候よし、其山崎
ニ而大坂船うきを投出し候處、彼船碇をおろし候と
心得、帆をおろし候よし、其間ニ大坂船ハ湊へ
逃込候由、うきを投出し碇をおろす如くニ偽り候事
船中ニ而侭有之事のよし
  文政元戊寅秋八月写之    青島氏
 右文政未秋七月借麻生某蔵本謄写  *文政六年

イキリス船が相模国浦賀へ渡来した時の始末書写
文政5年5月14日朝、浦賀御番所前の江戸行向船
三十艘程の検閲が終わり、船頭達が会所に上がって
いた。 

その中で三河の平坂栄三郎が話した事は、前夜12時
九里浜沖まできたところ海鹿島近くに怪しい船を見掛け
その時丁度凪だったので碇泊している様に見えました。
仮令出帆ししても未だ近辺にいる筈と思うので御番所
へ届けました。

番所では早速確認の為の船を出し、問屋も追々確認に
行ったところ久里浜沖に碇泊していました。
異国船へ乗付、何国の船か尋ねましたが言語が全く
分らず大に困り、手振りで米・水の欠乏か尋ねましたが
そうでもない様子です。 状況が分らず困っていたところ
船長らしい者が世界地図を持ち出し、指さしてイギリスと
云う言葉は分ったので、まずどこの船かは分りました

しかし、此船は水から出ているところは薄い鉄が張って
水中ハ銅で張っている船であり、その他鉄砲類、刀、釼
類多く所持しており、安心できないので早速江戸の
奉行御役所へ報告のため、問屋坂野彦右衛門が押送
船で急行し、陸経由で飛脚が走り、会津・白河藩の陣屋
にも急報しました。 御番所では港口に大砲三挺据え
船には武具を積み武装し、会津藩観音崎の陣屋より
平根山砲台を警備している人々は抜き身の鎗を携え
騎馬で駆けつけ、鴨居浦へは幡差物を立て、
船は続々平根山下館浦へ漕集り、誠に珍事です。

御番所から与力・同心衆が問屋を連れて乗り出し、此
異国船を取逃がさない様にしていましたが、異国人は
決して事を荒立てず、以外に穏やかなので浦賀漁船
で港口まで引いて来ました。 
手真似身振りで様子を尋ねましたが中々分らず、言葉
が通じません、江戸、松前、南部、クナシリ、ロシア
オホーツク、種子島、ベンガル、オランダ等の地名は
分りましたがその他は分りません。 江戸、江戸と云う
ので未だ安心できないので、港口へ碇泊させ船頭
八十艘で取巻き、其外側を会津の軍船が取り囲み
船中の大砲・鉄砲・玉薬・刀釼の類は国法であるから
という手真似で(取上げました) 
   図省略

前記の様に警備の与力・同心衆、問屋が交代で勤め
会津兵は船と陸双方に詰切り、会津藩人足凡千人が
大小船150艘余り出ました。 同十八日に浦賀御奉行
と御代官大貫治右衛門様が御供廻り壱万石程の格式
で到着、通訳の為に天文方御手付、馬場佐十郎様も
到着しました。 

御奉行様の指示で天文方も船中へ入られ、異国人と
談話されたところ、イギリス商人船で毎年ロシア国
オホーツク港へ交易に行く船であり、此度もインドの
ベンガル地方を出帆し、ロシアのオホーツクへ途中
なので立寄ったとの事です。 同十九日に交易に
ついては現行法では決して出来ないので早々帰帆する
様説得したところ、異国人は承知して21日には出帆と
答えたので先日取り上げた武器及び帆楫など返し、
21日出帆しました。 その時日本の何処の港にも入って
はならぬ旨伝えられ、江戸海内では房総先端の州の崎
辺迄監視の押送船に同心、小頭、目付外役人が乗り、
会津兵も押送船三艘で跡を追いました。 名々洲崎から
帰られ、異国船は其夕方房州と大島を結ぶ線より沖へ
走出しました。 翌22日房州の沖を奥州の沖へ走った
由です。

同23日には警備の体制は解散となり、会津兵も船陸
ともに撤収しました。 会津担当の警備場所は城ヶ島
砲台、松輪崎砲台、 仙崎砲台、平根山砲台、観音崎
砲台、勝カ崎砲台、 船は三崎、観音崎、長井崎台場
共に十ヶ所程であり、莫大な費用が掛り壱箱(千両)では
間に合わないという事です。 白河藩も洲崎砲台、
布良崎砲台、竹ケ岡砲台、富津砲台、船は波左間、
竹ケ岡等であり莫大の費用と聞いております。御両家
領内の海辺の村は残らず押送船の水夫役、陸地では
兵糧方人足で大変でした。 誠に此度の費用は長く
なれば浦賀だけでなく、三浦・房州の村々は破綻する
ところでしたが、御奉行様の取計いで早期撤収となり
郡中一同有りがたく思っています。
御奉行様・御代官様・天文方御役人ともに6月1日浦賀
を出立され江戸へ帰られました。

イギリス船の図並びに人物・諸造具概要は別紙に認め
ますので御覧下さい。 この異国船の番をするために
行った時道具等見ましたが、道具その他の品々に至る
迄便利さを考えて作られています。 書物も数巻見まし
たがオランダ文字で読めません。 絵図も多数みましたが
皆銅板で印刷されており、文字は蚯蚓の這った様な字で
分りません。 その中に伊豆大島、奥州南部領の地図等
は良くわかり不思議な事です、 その他日本や中国の
地図もあるそうですが、何を言うにも文字が通じません。
只々その精度の高さには感心するだけです。 春画の
本はたいへん粗末でおかしみはあります。 楽器の類は
見ておりません。

外科道具及び薬箱は銘々が持っている様子で、 種痘
の道具も見ましたが、種々貯えています。 この種は牛の
痘瘡種との事です。 本邦の痘瘡の瘡より少し大きめで、
火打石の様な物があり、是で顔を疵付け種を植えるとの
事です。
積荷ハ米五百俵と鉄砥石です。 米は至って悪米で
日本ではこんな米は売物になりません。 死米が多く
青玉も交ってお、ベンガル(インド)の米との事です。

此船去年十月大島に七日碇泊して居り、その時も日本
を目指しましたが、風が烈しく立寄しなかったと云って
おります。 その後ベンガルへ行き今年三月廿七日に
同所出帆し、82日目に此浦賀に到着したとの事です。
ベンガルは今はイギリスの属国の由です。
(西暦3月27日は日本の2月27日に当る)
此度交易を御願するのはイキリス国王からの命令では
なく、個人の考えであり、通り掛りに立寄ったと云って
おります。 もし交易が許されるなら毛織類 細工等
所持していると云っております。

この異国船一件に付いては御役所へ出た時に偶然
聞いた事もあり、天文方から直接御奉行様へ報告した
事もあり、 浦賀の与力・同心の知らない事もあります。
それを知っていると拙い場合もありますので、貴地では
この点お話をされるときに気を付けて下さい。 此書状
は下田辺に縁者がある人へ彼地より内々に送った由を
内々借りて写したものです。 この時噂では異国船検閲
の時に箱が壱つあり、非常に大事にしており、決して
蓋を取らせなかったそうです。 どんな物か分りません。
又洋学者の桂川、外壱人対談に参加しましたが、此書
には名前がありません。

ところで最近異国人が度々渡来は、若狭侯が松前地に
替えられてから多くなったそうです。これは前松前侯
家老がロシアに行ったとの事で蝦夷地渡来で騒々しく
なったそうです。 
蝦夷地での幕府経費が大幅に増加し、その為松前侯
は元の地へ復帰されるべしと云われています。 
又去年中大島辺へ異国船が見へたという御触れもあり
ましたが、この異国船だったのでしょうか。 その時は
数艘見えたという噂もあります。

此度の異国船は大島辺沖より大坂の船が浦賀に入港
するのを追駈けてきたそうです。 帆柱の上から遠目鏡
で見て追い、浦賀入口に山がありますが此山を周り
入港した様です
その山の近くで大坂船は浮きを投出したところ、彼船は
碇を卸したと思い,帆を卸したそうです。 其間に大阪船
は港へ逃げ込んだそうです。 浮きを投出し碇をおろす
様に見せかけるのは良くある事だそうです
  
  文政元戊寅秋八月写之    青島氏
 右文政未秋七月借麻生某蔵本謄写  *文政六年

蝦夷地の管理: ロシアの南下に対峙するため、幕府では文化4(1807)に全蝦夷地を松前氏から取上げ
          松前奉行を置き直轄とした。 ロシアの南下が止まったため文政4年(1821)には再び松前氏に
          還付する。 松前の家老のロシア訪問云々の話は事実無根の噂だったらしい。
イギリス商船の名前: ブラザース号、視聴草にはオランダ語の発音からかフルテルスとなっている。 長さ13間で当時渡来の
            異国船では最も小さい

出典:視聴草二集之六






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                文政五年イギリス鯨漁船サラセン号浦賀へ   戻る

漂流英船ニ薪水補給
一浦賀奉行小笠原弾正長保・内藤十次郎、弾正諾中
  文政五年壬午五月 日イキリス船長弐十五間
  帆柱三本 帆九ツ表ニ三つ 中ニ壱つ舳ニ二つ
 都合帆十枚 壱艘漂流ス、同月八日帰帆、其節固之
 人数松平越中守・松平大和守・大久保加賀守三家
 人数合て千七百八十人浦賀固共弐千三百人程
 其節イキリス江被下物
 
 左之通り
  五月朔日 水十八荷   松薪拾把
  同二日  水十四荷   松薪拾把
  同三日  水十荷     松薪拾把
  同四日  山土弐樽   大根拾把  
         蕗 十五把、梅二升、杏 一升  
         枇杷二升、  鶏 拾把 但アヒル二ツ
         松薪 拾把 
  同五日  山土拾四樽、水三百弐拾荷、
         生魚 大小弐十
         ライ麦 一俵但四斗五升入 
         白米二俵但四斗五升入
右之通被下候也
漂流のイギリス船に薪水補給

浦賀奉行小笠原弾正長保、内藤十次郎

 
文政5年(1822年)5月イギリス船
   (長さ25間、帆柱3本、帆9、表に三つ中に壱つ
   舳先に弐つ合計10枚)が壱艘漂流してきた。
 同月8日に帰帆したが、その時の警固人数は
 松平越中守〔白河藩)、松平大和守〔川越藩)、
 大久保加賀守〔小田原藩)の三家1788人、それに
 浦賀奉行組合せて2300人程
 その時イギリス船に与えられた物左の通り

   異国船の事略記
 文政五午年四月廿九日イギリス船長サ廿七間二尺
 横六間程、檣三本帆ハ九ツ掛る、艀三間程も有之
 七ツ、艦先ニ木偶胸より上の形チ斗、艫の左右
 婦人の木偶付キ申居り真中に男の顔斗付キ申候
 是又木偶、人物、赤毛禿頭冠もの着し衣類ハ
 ツヽホウ毛織の類、鼻筋高くくぼ眼、丈ケ高く太肥
 色ハ黒身多く眼球は真黒ニ無之、眼中光申候、
 日本の諺に頑愚なるものを唐人と申候得とも中々
 以左ニ者無之、奸悪なる顔貌、万国通商の侠客
 風之者と観存候、言語ハ不通、小田原侯・川越候・
 白川侯御固メ番舟数艘、さてさて珍敷ものを見申候
 私ハ六日帰着仕、異舟も八日帰帆のよし、アンゲリヤ
 ヘハ五ヶ月も掛り帰国のよし、日本里数壱万三千里
 と通弁江申聞候よし伝承候、帆に蛮文字躰のもの
 見へ候得とも、風に翻り候故、字形字数共難分
 A通弁之人に承り度候事、或る書に九千九百
 里程と有之、併何れも海上迂曲通船の事故
 其大概を記候事と奉存候

 午五月中いきりす舟浦賀へ来れり
  三階作り 長十九間三尺、深さ四丈 三十六人乗り
  幅六間
  鉄砲 九挺、釼四本、のこぎり、かんな 

*十七間の誤りか
*深一丈八尺
三十三人
註 
出典 文政雑記
船名: イギリス捕鯨船サラセン号、 乗組人数33人、船長さ十九間一尺(甲子夜話14巻22、25巻1による)
山土: 是は敗血症にて足くさる者あるに付、其病人治療のためなり(同上)




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        文政七年イギリス鯨漁船常陸大津へ上陸   戻る
 
   文政七年七月十九日 柳橋藤蔵書状
一六月九日には別条無之、十日四ツ過頃に、公儀御
 代官古山善吉殿、、大通詞二人足立佐内、吉雄忠次
 郎下着仕候、同日通詞二人并水戸徒目付立会にて
 異人と対面有之候王處、イギリス国の異人にて、阿蘭
 陀国之文字通用、言葉も相分り、殊鯨取船の由挨拶
 仕候、日本江船着仕候は、全山肴調申度故と相分、
 尤船中に病人有之候處、海肴計喰候て心能も無之
 候故、何卒牛鶏の類買求申度由承り申候、鉄砲持参
 り候は、海盗防の為持参仕候由、いさい相分候に
 付、明十一日早天に、異人伝馬ともに御返しに相成
 候由御届有之。十一日朝六ツ時人数相揃、元の伝馬
 にて船道具等如元相揃、異人十二人御返に相成候
 此方より遣候品々、米二斗、喰二鉢、青梅、薩摩芋、枇
 杷、梨、葱、いつれも一籠宛、鶏十二羽相添遣申候
 此日は雨天にて、沖合殊の外暗く、元船へ行合候事
 六ケ敷可有之哉承り候得は、仮令元船に行違候はヽ
 其侭国迄罷帰可申存候へ共、五六日相尋見可申と

 致挨拶、右に付、大津一件無事相分、十三日出立
 にて我々共一同、中山別高境伊師町村迄引取申候
 様達し有之、御代官も小名御陣屋等飛札を以御懸
 合等有之、十七日出立仕候、郷足軽差出置浜々は為
 引候て、一番手我々共は、伊師町を廿二日出立にて
 水木浜江出張、只今に罷在、扨々此度程の難儀、又
 とは有之間鋪と奉存候、中々書体にも不相成候、乍
 去珍事に候間、乱筆入御覧申候、水戸より文通にて
 承候處、鈴木石見守、江戸老中谷登十郎、城代尾崎
 権太夫家老、其外佐野倉之丞、先手物頭伊藤佐一
 郎、目付栗太八郎兵衛、佐野孫兵衛、町奉行安松伊
 兵衛、役替沢山有之由承申候、池野様にも此度の次
 第一々申上候筈の處、いつれにも永々にて認兼候
 間、何卒此手紙の趣、御咄被仰上可被下候

同年六月九日問答 
按ずるに柳橋藤蔵書状によれば此日次不審なり
一其方共、不残諳危利亜人なる哉」
 答 左様に御座候、ロンドンを出帆仕十八ヶ月に相成申候
 ○一何用有之、此地方へ致上陸たる哉」
 答 元船に敗血病人御座候に付、果実、野菜、
 阿蘭陀草様のもの、并羊鶏等得度候に付上陸仕候、
 ○一右の品々得候ため上陸致し候ものとも、何故
    鉄砲は携来候哉」
 答 鉄砲相携候は、此鉄砲を代に遣し、右の品々
 貰得候ため携候、
 ○一元船は何船にて有之候哉」
 答 鯨漁の船にて御座候、
 ○一沖に元船何艘程有之候哉」
 答 類船三十艘御座候て、所々に散在いたし有之候」
 ○一此人数の内、船長の者有之候哉」
 答 両人有之、余は不残水夫にて御座候、
 ○一御免にて御帰しに成候節は、橋船にて元船江
    帰らるる哉
 答 何卒御免を相願候、随分元船江相帰申候」
 ○一十二人のものとも、名前は如何、年齢何歳
    なる哉」
 答 漁船の船主キプリン三十三歳 同ケンプ三十四歳
 水夫ヒーテルチェルモ四十歳 同フルクトル二十六歳 
 同ヲレール二十二歳 同タウナハール一九歳 
 同ウエルレムメルトン二十四歳 
同フルテレリーチェル二十歳
 同ヨセフシメツト二十四歳 同ヨアンケヘンス二十歳
 同トーマスデービス十八歳 同ヨアンテルレル三十八歳
 
  同月十日問答
一千八百十八年寅年、千八百二十二年午年、
(按ずるに
       寅年は我文政元年、午としは同五年なり)
 
  此両年、其国元船此方の浦賀湊
  江渡来致帰帆の節、此後其国の船此国の地方江寄
  間敷旨堅申聞置候儀、其方共は未伝承せざる哉」
  答 一切其儀承り不申候、唯病人御座候故、薬用
  の品得度、無何心上陸仕恐入候儀に御座候、
 ○一其方共の元船何程積、并大さ幾何、人数乗組候哉」
  答 船名、長さ九十八フウト、船首幅二十七フウト
  二百五十トン積乗組二十八人、又、船名長さ百五フ
  ウト、船首幅三十二フウト、三百六十七トン積乗組
  三十八人、
 ○一此度の十二人は、不残両船の者なる哉」 
  答 アン
(ギリヤ三字脱字カ)船の方、船首一人、水夫五
  人、インディン船の方同断、
 ○一近年に至て、此国の近海にて、異船の帆度々
   相見え候は、如何成儀哉」
  答 日本地方近海において、近年鯨漁多取れ申候
  右相見え候異船は、都て鯨漁の船にて可有御座候
  と奉存候

         申諭
  此度其方共、我国々近海江船を寄るのみならず、不
  法に上陸いたし候儀、我国の禁を犯し、容易ならさ
  る事なれとも、其方共、此儀一切弁へしらす、唯病
  人ありて、是か為に、果実、野菜の類を得度ゆえの由
  に有之故、此度は差免し、且乞にまかせ、薬用の品
  々、我等の差略を以さし遣候間、早々帰帆いたすへ
  し、此以後右様の始末於有之は、ゆるしかたし、此
  度帰国の節、鯨漁のもの共、又其外々へも急度相
  伝ふへし 
       六月

  我国の法にて、常々来らさる外国の船、いつれの所
  にても、着岸をゆるさざる事なれば、速に帰帆いた
  すへきなり。
  右書面、横文字にて書付、異人江被相渡、
    異国人江被下候品々
  一りんご 三百五拾、  一籠    
  一枇杷  四升   一籠
  一大根 一把五拾本つつ、十把 
  一さつま芋 三十二本 一籠
  一鶏十羽          
  一ひよう 一籠
  一酒五升入   一樽      以上


柳橋藤蔵:水戸より派遣された水戸藩士

○五月廿八日艀二艘でイギリス鯨漁船員
12名が大津浜(水戸藩家老中山備前守
知行所)に上陸、同地備前守部隊に
召捕られる。 水戸からの応援部隊が多数
到着しており、幕府からも役人、通訳が
派遣される

○上陸理由は船中に敗血病人があり、
新鮮な肉や野菜の調達をしたかった

○他意はないと云う事で食料を与えられ
再度上陸しない様にと諭し赦免される

○六月十二日には異国人達が解放され
 六月十三日には警備陣も解散
















幕府役人よる六月九日の尋問
○全員がイギリス人か
 答: はい。 ロンドンを18ヶ月前出発

○上陸の理由は
 答:元船に敗血病人あり、果実,野菜
  薬草、及び鶏等調達したかった

○その為の上陸で何故鉄砲持参したか
 答:鉄砲を食料の代価とするため持参

○元船は何の船か
 答:鯨漁をする船です

○沖には何艘程の船がいるのか
 答:同類の船が三十艘程散在している

○この人数の中に船長は居るか
 答:二人おり残りは水夫です

○赦免されたら艀で元船に帰れるか
 答:是非御赦免を、艀で帰ります

○12人の者の名前、年齢は
 答: 左



六月十日の尋問
○1818年(文政元)と1822年(文政五)
 にイギリス国の船がこの浦賀港へ渡来
 した。 帰帆の節にイギリス船が以後
 日本陸地へ寄港しないように堅く
 言いつけたが 聞いているか
 答: 一切聞いていません。 唯病人の
  為役立つ物を入手したくて上陸した
  もので申し訳ありませんでした

○其方達船の積載、大きさ、乗組員数は
 答: 船名アン(ギリヤか)長さ98フィート
    幅27フィート、250トン、28名
    船名インディン 長さ105フィート
    幅32フィート、367トン、38人

○此度の12人は全員上記両船の者か
 答: アン船 船長1、水夫5
    インデイン船 同上

○近年になって日本の近海で外国船
 度々見掛けるの何故か
 答: 日本近海で最近鯨が多く取れます
  お尋ねの外国船は全て鯨漁の船と
  考えます


      判決
此度其方達は我国の近海へ近付くだけでなく、
不法に上陸するという、我国の法を犯す事重大
である。 しかし我国の法を知らず、唯病人の為に
果実、野菜の類を得たかった故にと云う事で
あるので、此度は赦免し希望通りに薬用の品々
を我々の判断で与えるから早々帰帆する事。
以後再びこの様な事があればれば許されない。
今度帰国した際に鯨漁の仲間及びその他に必ず
伝える事 
       六月

我国の法では、平常来ない外国の船(オランダ、
中国、琉球、朝鮮以外)はどこの港にも着岸は
許されない事なので、速に帰帆する事。
 上記書面、横文字にて書付、異国人へ渡す


  異国人へ与えられた品々
   左の通り
出典:通航一覧巻二百六十一(明治四十年版)




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                 イギリス鯨漁船宝島で牛を奪う     戻る

御用番青山下野守殿へ相届
私領薩摩国七島之内宝島江七月八日、白帆の船一艘
渡来、端船より異国人七人致上陸候ニ付、役々差越
相尋候処、、言語文字不相通、無程本船江乗戻、翌
九日端船弐艘より致上陸、牛望之由致手様候ニ付、
不相調段手様を以相答候、旗印者難見分候得共、え
げれすと申言葉迄相分り、野菜相与候処、本船江乗帰
又々端船三艘より多人数致上陸、方々致徘徊、海辺江
繋置候牛壱疋打殺、外ニ弐疋奪取、在番所江鉄砲
夥敷打掛、本船よりハ石火矢繁打放、及狼藉候付、
目付役彼島江遣置候吉村九助と申者、鉄砲を以
異国人内壱人打留候処、其余之者ハ不残本船江
逃帰、午未之方江乗行、同十一日迄之間遠沖江
帆影相見居候得共、其後何方江乗行候哉不相分候
旨申来候、依之物頭嶋津権九郎と申者江も取締
厳重ニ申付置候、右打留候死骸地方江差送次第、
警固之者相添、長崎江可差送遣旨彼地奉行江委曲
申達候由、国元家来共申越候、此段御届申上候以上
   閏八月十一日      松平豊後守
(天保雑記、街談文々集要より)

老中への届け書
私の領薩摩七島の内の宝島に7月8日、白帆の船
壱艘渡来し、艀で異国人七人が上陸しました。
島役人が尋ねましたが言葉文字が通ぜず、其日は
本船へ戻り、翌9日艀二艘で上陸し、牛が欲しい手
真似するので断る手真似しました。旗印は判断出来
ませんがエゲレスと云う言葉は分り、野菜を与えたら
本船へ戻りました。 
又艀三艘で大勢やって来て方々うろつき、海辺に繋
いでいた牛を撃殺し、外二頭奪い更に番所に鉄砲
打ち掛け、本船から大砲を打つという狼藉をしました
此島に派遣している目付役の吉村九郎が鉄砲で
異国人一名を打留めたところ、彼等は不残本船へ
逃げ帰り南南西の方へ去り、11日迄は帆影も見え
ましたが、その後は何処へ行ったか不明です。
これに因り物頭の島津権九郎には取締を厳重にする
様申付けました。 打留めた死体は陸地送り、警固を
付け長崎fへ送る旨、国許家来より報告してきました
この件報告します、以上
  文政七年閏八月十一日    松平豊後守
           (薩摩藩主 島津斉興)

出典 天保雑記
第27冊










e5                                    
                    イギリス鯨漁船からの書簡  戻る
 小者利三吉懐中江送り譜厄利亜人之横文字和解  

今般私義アシュタナト申村江着船仕候義は乱妨仕候
所存ニ者無御座候処、貴国地役人之取斗ニ候哉其所
ニ蝦夷人を多勢集メ陣取いたし、我等に戦ふべき様子
ニ相見申候、是ハ全く不存寄義ニ御座候、我等元来
船中之薪水不足仕候節は右取入、且は風波之節者
間懸り、又者船修覆等之為諸国浦々江船を寄セ候事ニ
御座候、此度も其心得ニ而着岸仕候所右之如く不和成
仕方ニ御座候而者我等之望を失申義ニ御座候、斯
而数日相伺候所ニ、彼方之人数共我等より十倍ニも
多勢候得とも彼等之侮を受候も本意なく存候得共

一戦を遂、彼等をこらしめ可仕候戦を仕懸候而彼軍
去、一人を虜にして旗・鑓等を奪取、蝦夷人共を
焼払んと其村ニ打入候所、村人最早戦をなし不申候
間我等も愍を記し、焼払之義相止其侭打集引取申候
但シ如何致候哉一軒ハ焼失仕候、元来我等国人ハ
村邑を打破り焼払等仕候事ハ人情戻候義ニ而
願ハさる事候、扨譜厄利亜ニ而も猛獣悪鬼ニ而も
無之候得共、江戸表之御許容を蒙り、航海之節薪水

等事欠候節者貴国之湊江入、値を以て買入通受之義
御免被下候様仕度奉願候、左候ハヽ直に芸術之励ニ
も相成、莫大之利益と奉存候、斯申候も恐入候得共
今般アシュタナニ而被戦候貴国之人々、軍法至而
未熟ニ見請申候、譜厄利亜ニ而者十二万之軍法を
召抱置候而常々調練仕候儀故、私共少人数ニ而
アシュタナ之多勢相待申候、欧羅巴人笑種ニ成可申候

欧羅巴州教法之儀者貴国ニおいてハ忌ミ悪れ候間、
往昔イスパニヤ及びポルトガル等之僧徒を令刑爵
御座候義も及承申候哉、併我譜厄利亜国ニ者別ニ
教法相定り国人皆々相守申候、永代不易之教と御座
候間、既ニ長崎ニ被差置候和蘭陀ニ我等同教之者
ニ御座候得共、貴国ニ而者和蘭陀のみ格別ニ御助力
を御蒙り罷在申候、我等も和蘭陀同様貴国之法を
妨候者ニ無御座候

小者利三吉の懐中に押込まれていたイギリス人手紙

今般私達はアシュタナという村へ着船し乱妨をする
積りは無かったのですが、貴国の地役人が蝦夷人を
多勢集めて陣を敷き、私たちと戦う姿勢に見えました。
全くこれは思いもよらぬ事でした。 私たちは元来
船中の薪水が不足したら是等を入手したり、、風波の
強い時、或いは船の修理等のために諸国の浦々へ
船を付けてきました。

此度もその積りで着岸したところ、前記の様に非平和的
な方法で私たちの希望は砕かれました。 数日様子
を見ていたところ、彼等の人数は当方の十倍程の
多勢ですが、彼等の侮を受けるも面白くないので、仕方
なく一戦を遂げ彼等をこらしめようと戦いを致しました。
彼等が逃げ去ったので一人を虜にして旗・鑓等を奪取り
蝦夷人達の村を焼払おうと村に打入ったところ、村人は
もう戦う様子もないので、かわいそうになり焼払うのは
止めました。 しかし一軒だけはもう焼いてしまいました
が如何しましょう。 元来私たちの国民は村々を焼く事は
人情において忍びない事であります。

ところでイギリスとて決して猛獣悪鬼ではありません。
江戸政府の許可を受け、航海に必要な薪水等が欠乏
の節は貴国の港で購入できる様にして戴きたく
存じます。 そうすれば直ぐに技術向上の励みにも
なり、莫大な利益になると存じます。
と申しますのは失礼ながら今般アシュタナで戦われた
貴国の人々は戦術が至って未熟に見受けられました。
イギリスでは十二万の兵士を召抱え、常に軍事訓練を
しておりますので、私共少人数でもアシュタナの多勢を
相手にできます。 そうでなければヨーロッパでは物笑い
になります。

ヨーロッパ各国の教義を貴国では忌嫌って居られ、昔
イスパニヤ及びポルトガルの僧徒達を追放された事
は聞き及んでおります。 しかし私たちイギリスには別
の厳格な教義があり、国民は皆守り続けております。
既に長崎に置かれるているオランダも私たちイギリス
同じ教義をです。  貴国ではオランダのみ特別
に協力しておられますが、私たちもオランダ同様に貴国
の法を妨げる者ではありません。

出典 天保雑記第一冊
譜厄利亜: あんぐりあ 当時イギリスの事を言った
場所: アツケシ海岸ウラヤコタン
厳法相定り: カトリックに対して彼等のプロテスタントを言う。 キリスト教はいずれにせよ御法度故、通訳も法としたものか。
この事件について「天保二年異国船渡来中日鑑記」(北大図書館所蔵)に現地の僧侶の日記抜書の写本が残っている。
この写本によれば船の大きさは二千四五百石積み位とあるので全長30m位の当時普通の帆船と思われる。 
又人数80人程上陸とあるが、総数は100人程度か。 鯨漁船にしては人数が多すぎ、軍艦だと此程度の人数が乗っているが 
いずれか不明。
天保雑記及び上記日記から読み取れるのは、鯨漁船に間違いないようであるが、かなり軍事訓練されている武装捕鯨船の
ようなものか銃は豊富だったようだ。 大砲を打った記録はないが、捕虜になった利三吉の報告では大砲は片面四門
あったという。 松前藩では急を聞いて藩兵が出動したが、途中で異国船は帰帆したとの注進に接し引返す。
 





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                       江南船土佐に漂着      戻る
 
   江南船一船頭・水主拾六人乗
    舵工 王玉堂  蘇州府南通州人民 三十歳
    代駕 彭櫂曽            二十五歳
    水手 高福林            二十九歳
     余名略之
一船惣長 八丈五尺     一横表一丈一尺七寸
一同胴ノ間 一丈四尺    一櫓一丈六尺二寸
一深表底ヨリ板敷迄七尺二寸 
一同胴ノ間八尺六寸     一同櫓同九尺一寸
一板敷ヨリ矢倉高五尺六寸 一板敷ヨリ垣立高四尺
 〆石数千七拾石余     帆柱三本 長六丈中柱
                  同四丈     舳
                  同二丈七尺余 艫

一宗門之儀 龍皇を尊宗仕候様相答申候
一船内兵器・金銀米銭等無御座候
一乗組之者病気等無御座候
一道光六年十一月十六日江南を発し北江渡候所
 西北風烈敷、五十余日洋中漂候趣ニ而今正月
 七日浦戸江漂着仕候、尤言語不相通筆談等ニ而
 聢と難相定、荒増右之通御座候、以上
   亥正月
一御用番松平和泉守様へ御届左之通
  先達而御届仕候私領国吾川郡浦戸湊江
  致漂着候江南之商船、当月下旬A向之豊
  後国海路通長崎表江送り可申旨、国許役
  人共A申越候ニ付、此段御届仕候、以上
    二月十四日       松平土佐守

江南の船壱艘、船長、水夫16人乗漂着
  
舵手  王玉堂  蘇州府南通州人民 三十歳
  貨物長 彭櫂曽            二十五歳
  航海士 高福林            二十九歳
     其他省略
  船全長 26m 表幅 3.5m
  胴幅 4,2m  艫幅 4.9m
  高さ 2.1m  艫高さ2.7m
  板敷きより櫓高さ1.5m 板敷より垣高さ1.2m
   〆て石数 千七十石 帆柱三本
                 中柱 18m
                 舳先 12m
                 艫   8m
・宗門は龍王を尊ぶと答えています
・船内に兵器や金銭、米などありません
・乗組員に病人はおりません
・道光6年11月16日江南を出発し、北へ向かったが
 西北の風が烈しく、50余日漂流して、この正月
 7日に浦戸へ漂着しました。言語は通じないので
 筆談ですからはっきりしない所もありますが、概略
 以上の通りです
      文政6年正月

御用番松平和泉守様(老中)への御届は以下の通り
 先日御届致しまし私の領分吾川郡浦戸港へ
 漂着致しました江南の商船は、当月下旬に向かい
 の豊後水道を通り長崎へ送ります。この旨国元の
 役人から報告してきましたので御届します
     2月14日  松平土佐守
       (土佐藩主 山内土佐守)

出典 文政雑記


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             英使節船長崎渡来一件
    戻る
嘉永七年閏七月十五日、長崎江渡来英吉利船御尋一條
一何国之船に候哉
  イキリス国軍船ニて、本国より二ヶ年以前出帆、唐国
  上海より九日以前出帆、今日御当地江着仕候
一類船之有無
  入津四艘ニ候得共、跡船何艘ニ可有之哉難差定候
一船之名
 此船之名ウンケスター
一船将之名前
  軍船六十艘之都督にて、名をサセンスクリン、此四艘
  之船将者ヘイルコンと申候
一惣乗組人数
  此儀難申上候、組合九百六十人と申事ニ御座候
   但、壱艘九百人乗ニ候ハヽ、六十艘五万四千人、
   此四艘の人数合九百人に候ハヽ六十艘弐万
   五千人也
一薪水野菜物入用ニ候哉、
  一切入用無之候
一船語弁之もの日本人にて御座候哉
  尾州名古屋之ものにて、廿年前漂流いたし候旨、
  音吉と申もの、三十四、五才ニ相申成候

右今十五日辰刻異国船渡来相糺候所、イキリス国の船
ニて、伊王島内手汐繋いたし居候、奉行江書翰差出
申候、疑敷儀も不相聞候、早速江戸へ申上候事
     閏七月十六日

出典:通航一覧続集
嘉永七年閏七月十五日、長崎へ渡来のイギリス船尋問
一何国の船ですか
  イキリスの軍艦であり本国を二年前出帆、中国
  上海より九日前出帆し今日御当地へ到着しました。
一仲間の船の有無
  入港は四艘ですが、後続船がどの程度になるか
  確定できません。
一船の名
  此船の名はウィンチェスター
一船将の名前
  軍艦六十艘の提督で名前をスターリングと言い、
  この四艘の船将はヘイルコンと言います。
一総乗組員数
  個々には申上げられませんが、合計960人です。 
   但、一艘に900人乗れば60艘で54,000人、この
   四艘の人数合計九百人にすれば六十艘で
   25,000人です
一薪水・野菜等必用ですか
  一切不要です
一船中の通訳は日本人でしょうか。
  尾張名古屋の者で20年前に漂流した音吉と言う
  者で34,5歳になります。

以上この十五日八時に渡来した異国船を調べたところ
イキリス国の船であり、伊王島内に碇泊して、奉行に
書翰を提出しました。 疑わしい点も無いので早速江戸
へ報告する事

     閏七月十六日

1.英国の艦隊は四艘で旗艦はウィンチェスター号(帆船)で残り三艘の蒸気船(外輪船2、スクリュウ1)
  船名はWinchester, Encounter, Barracouta及びStyx
2.通訳の音吉は1837年(天保8年)モリソン号で澳門から帰国したが、無二念打払政策下の母国から
  砲撃され帰国を諦めて上海に住む。
                日英和親条約
    約文
 此度
大ブリタニア国王之軍船ウインセストルの総督ヤーメス・
 スティルリンギに相会し、長崎奉行水野筑後守、
 御目付永井岩之丞
大日本帝国政府之命を請、水食料等船中必要之品を弁
 じ、 又は破船修理之為め、肥前之長崎と松前の箱館
 との両港に、ブリタニア国之船を寄することを差免す

一長崎は今より其用を弁じ、箱館は此港退帆之日より
 五十日を経て船を寄すべし、尤其地々々の法度に
 従ふべし

一難風に逢ひ船損せずして、右両港之外へ猥に渡来
 不相成事

一此後渡来之船、若日本の法度を犯す事なれば、右之
 両港に来るを禁ず、船中乗組之者法を犯さば、其船将
 屹度其罪を糺さるべし

一此度約する両港の外、今より後外国へ差免す事あら
 ば、其国同様ブリタニア船民をも取扱べき事

一右之通決定之上は、尚

大日本国帝と
大ブリタニア女王と承諾之旨、委任貴臣の書面、今より
 十二ヶ月中に長崎に於て取替申べき事

一右之条件政府の命によりて定むる上は、此後渡来之
 船将かはるとも、此約はかゆる事なし
  嘉永七甲寅年八月二十三日
     長崎鎮府に於てこれを定む
           水野筑後守 書判
           永井岩之丞 書判

出典 幕末外国関係文書(東京帝国大学蔵版) 
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*Winchester 号
*James Starling提督