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               開国に導いた蔭のスーパースター
                   ―ジョン・マン事、中浜万次郎―

19世紀アメリカ鯨漁の図、手前捕鯨ボートで銛突きが舳先に立つ
右後方の400−500トンの母船で鯨油を絞り、肉は捨てる。
 江戸時代初期に定められた海外渡航と大船
製造の禁止は造船技術を停滞させ、遠洋航海
技術も失った。 漁船や商船が一旦大風で沖
に流され陸地を見失うと忽ち漂流し、運があれ
ばカムチャッカ、中国南岸、フィリピン等へ漂着
し苦難の末外国船で帰国する例もあるが記録
に残らない遭難が多数あった筈である。 
 1830年頃からは日本近海は鯨の漁場として
脚光を浴び、アメリカ、イギリス等の鯨漁船が数
百艘規模で操業する様になると、これら漁船に
救助される事が増えた。 鯨油は石油利用以前
には重要な資源で、欧米では照明や潤滑油と
して用いられた。

 土佐中浜村の14歳の万次郎も僅か八メートルの漁船の漁師手伝いとして乗組み漂流したが、運よく
アメリカの鯨漁船に救助され、仲間5名と共にハワイに届けられる。 ここまでは万次郎も普通の漂流
漁民だったが若くて聡明だった様で救助の船長に気に入られ、彼だけ船長の自宅のあるアメリカ東部
マサチュウセッツ州で学校に行く機会が与えられた。 三年間語学、航海術、捕鯨術等を勉強した後、
鯨漁船に乗込み幹部要員として鯨を追って世界中を航海する事になる。 
 その後ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで金を掘り帰国資金を作り、ハワイに在住する昔の仲間
2名と共に広東行のアメリカ商船と交渉し、ハワイで購入した捕鯨ボートを積込み琉球近辺で下ろして
貰う。 琉球にボートで上陸した3名は琉球、薩摩藩、長崎奉行と一通り取調べ後土佐に11年ぶりに
帰国するが、英語や航海術及び造船に精通した万次郎だけは土佐藩の士分の末端に取り立てられる。

 折から米国のペリー艦隊が持参した大統領国書を幕府は受取、早急に何らかの対応を立てなければ
ならない時で万次郎がクロースアップされる。 幕府でも万次郎の事は長崎奉行、薩摩藩、土佐藩から
の報告で普通の漂流漁民で無い事を知っており、幕府重職が急遽万次郎を土佐から呼出して話しを
聞く事になり、以後万次郎は幕府直参の旗本中浜万次郎として江戸で勤務する事となる。 
 取上げた古文書は幕府勘定奉行が万次郎に米国事情を問質した内容の報告であり、時の勘定奉行
川路聖謨から老中首座の阿部伊勢守宛と思われる。 
   報告書の主たる内容は
       ・アメリカは国民の選挙による大統領を頂点とする民主的政治形態の国である
       ・メキシコ戦争の例から領土獲得野心は無い事
       ・漂着鯨漁船に対する日本の苛酷な処置を非難するアメリカ世論が国交を求めている
       ・太平洋を渡り中国と往来する蒸気船用の石炭貯蔵所を日本南端に設置希望
       ・日本との通商を希望する事はアメリカでは聞いた事がない
       ・砲戦ではアメリカに勝てないが、白兵戦なら勝てるかも
       ・万次郎はアメリカ人を応対してどんな込入った話でも通訳できる
       ・大船さへあれば世界中何所へでも航海できる
       ・蒸気船は無理としても軍艦やバッテイラなら船大工を指導して作れる。

 幕府ではアメリカの実情や日本に開国を迫る真の目的等が万次郎の話しから明らかとなり、翌年早々
再度来航したペリーとの交渉に役立て、開国第一歩となる日米和親条約が成立する。 幕閣は条約
交渉に当り万次郎を参加させたい意向だったが、開国反対派大物である水戸斉昭の反対で実現
しなかった。 しかし交渉の隣の部屋で第一級の通訳として勤めた事は米側の記録にある。 又斉昭
も万次郎の知識・経験を活用する事を認める内容が江川英龍宛文書に残っている。 条約では下田、
函館の開港、漂流民の扶助等は盛り込まれたが、通商は日本側が拒否して艦船通行に不足する
石炭や食料薪水等の有償提供に留まった。
 
 日米和親条約締結後、万次郎は航海書の翻訳、軍艦操練所教授、英語の教育等多忙を極めるが、
再び万次郎が飛躍するのは、6年後日米通商条約批准の遣米使節団一員として別船咸臨丸の通訳
として乗込んだ時である。 咸臨丸は北太平洋で嵐に遭遇し、日本人全員外洋の嵐に為すべもない時
万次郎は艦長勝麟太郎の代理として、雇った米人チームを指揮して乗切り無事サンフランシスコに
到着する。
 
 万次郎は極めて控え目だった様で歴史の舞台では常に脇役に徹しているが、その経験や技能は
幕末から明治に懸けて多くの人々に影響を与えている。 外交に携る幕府要路の人々は勿論、海防
造船などの近代化を進めたい薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂等の藩主クラスから、英語の
指導を万次郎から受けた人々として福沢諭吉、西周、新島襄、岩崎弥太郎、後藤象二郎他多数と
云われてる。 一方佐久間象山は、万次郎の様に日本で基礎教育の無いものが是ほど重宝される
なら、教養ある人間が漂流して2−3年アメリカで勉強して戻ればもっと国に役立つ、という妙な論理で
暗に吉田松陰に密航をけし掛けている。 松陰がそれを実行して失敗した事は良く知られる。
 万次郎は幕府瓦解直前に土佐藩に戻り、主に教育に携る。 明治初期は教育や通訳として政府
にも出仕したが、次第に舞台から遠ざかり静かに余生を家族と過ごし明治三十一年に没する(72歳)

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     中浜万次郎 問質し(翻刻及び現代文訳、註)
     中浜万次郎関連年表
     日米和親条約(神奈川条約)

参考:中浜万次郎集成 川澄哲夫編 小学館