中浜万次郎 松平土佐守小人中浜万次郎義、北亜墨利加之内 共和政治州在留之砌、彼国之様子及見聞候始末 相糺候趣左ニ申上候 |
中浜万次郎 松平土佐守の小者中浜万次郎が北アメリか州の合衆国に 在留した際、その国の様子や見聞した事を問質したので その内容を以下申上げる。 註: 松平土佐守 山内容堂、土佐藩主 報告者は幕府勘定奉行と見られるが、当時奉行職だった 開明的な官僚、川路左衛門尉聖謨自身と推定する。 |
共和政治州者北亜墨利加之内三十度より五十度之 間ニ有之候国ニ而、西者 御国江相対し東者西洋 諸州ニ相対し、南者メキシコ江続き、又ハ南亜米利 加ニ海峡を隔、北者北亜米利加之内イキリス所属之 国と相接し、南部者暖和、北部者寒烈ニ候得共、 中者気候中和ニ而土地広く産物多、人口追々繁殖 いたし、土人稼穡之業、細工物等いたし、又者大船 江乗組洋中漁業等いたし、殊ニ海外諸州と之交易 繁昌いたし富饒之国ニ有之、 |
合衆国は北アメリカ州の北緯30度から50度の間に位置する 国で、西は日本と向合い東はヨーロッパ諸国に向合。 南は メキシコに繋がり、又南アメリカと地峡を隔て、北はイギリス 所属のカナダに接する。 南部は温く北部は寒冷であるが 中央は気候温暖で土地は広く産物も多い。 人口は次第に 増加し、国民は農業、工業、又は大船に乗組み大洋で漁業 を営み、特に海外諸国との交易を盛んに行い、極めて 豊かな国である。 註 漁業は鯨漁業で鯨油を絞り、照明用や機械の潤滑油として 用いた。 当時鯨漁船は700艘といわれている。 |
元来西洋諸州より開候国故、制度文物者西洋諸州 と相競候由、七八十年以前者イキリス所属ニ而、 同国奉行職之者相詰罷在候処、人民其政令不服、 遂ニイキリス所属を離れ独立之国と相成、共和之 政治を相建、其頃ハ纔十三州共和いたし候由ニ候 処、追々右政治ニ加り候国々相増、当時三十四州 ニ成、国境相広り強国と相成候由 |
元々ヨーロッパ諸国が開いた国なので、制度や文化は ヨーロッパ諸国と似ている由である。 70-80年前迄は イギリスに属しており、同国の役人が駐在していたが人民は その政令を不服として、終にイギリスを離れ独立の共和国と なり合衆国を建国した。 建国当初は僅か13州に過ぎな かったが、次第に参加する国が増え、現在(1850年当時) では34州となり、国境も広く強国となった由 註 *1776年独立戦争でイギリスから独立 |
土地人種本土之ものも海外諸州より移り来り候もの も有之、面体眼色各不同、風俗者西洋諸州同様 ニ而人物丈高く力量強く、智巧豪邁之者多く候よし 万次郎義彼地在留中、誠ニ彼国之者と相撲なと いたし候義有之候処、右様之業ニて敏捷ニ無之ニ 相見へ、いつも両三人ツヽ引続投出候義も相成候由 |
この地の人種は元々の住民もあれば海外諸国から移って 来た者もあり、面体や目の色も夫々同じではない。 風俗は 西洋諸国と同じで背は高く力があり、知恵も勇気も有る者 が多いという。 万次郎が滞在中彼らと相撲等取ったが、 彼らは敏捷さには欠ける様で、常に3人位は続けて投げ 飛ばしたという。 |
国王無之、国中之大政を掌候大統領職をプラシ デントと申、国中之人民入札ニ而登職いたし、在職 四年ニ而交替いたし候規定ニ有之、尤人物格別 宜敷歟、又者軍国之大事等有之、交替難子細も 有之候得者八ヵ年在職之事も有之、右大統領都 府ワシントンニ罷在、国中兵制・賦税官吏之黜陟等 沙汰いたし、右之外一州毎之首領をカムラメンと唱 州内之政令を沙汰いたし、其余一州内之小郡落 ニも夫々頭役有之各郡中を治め、都而国法を重し 候国柄ニ而、大統領といへとも国法ニ違ひ候義 難相成規定ニ付、政治一定いたし人々法令を重し 国内能治り候由、 |
国王は無く、国全体の政治を司る大統領職をプレジデント と云い、全国民の投票により選出したものが四年間在職して 交替する規則である。 但人物が特に優れているか、戦争 等非常時の為、交替が難しい時は八年の在職もある。 大統領は都府であるワシントンに滞在し、全国の軍官、役人 の人事権を持つ。 加えて一州毎の首長をガバナーと云、 州内の政令を処理し、更に州内の一郡毎に首長が郡内 を治める。 これらが全て国法を守る国柄であり、大統領 と雖も国法に叛く事は難しい規則なので、政治が安定し 人々は法令を守り、国全体がよく治まっている由である 註 大統領職任期: 交替しないのではなく、連続選出を二期 迄認めている事を言っていると思われる。 カムラメン: Governor(知事)と思われる 黜陟(チュッチョク):功の有無により官吏の位を上下する事 |
ワシントン者国内東南之方三十五度之地ニ有之 全国之都府ニ而、船路之便利も有之 土地繁昌いたし、広狭者大坂程之由ニ及承、西洋 カリホルニヤ者御国と対し候地ニ而、都府と者東西 ニ懸隔いたし居、陸地通行四ヶ月程も相掛、船路ニ 而者遥ニ南亜米利加を相廻り罷越候ニ付、六七 ヶ月程之日数相懸り、カリホルニヤより 御国江之 海路、御国道程ニ而、二千三百里程之里数有之 候由及承候由 |
ワシントンは国の東南、北緯35度に位置し、合衆国の都府 である。 海路も便利な地で、繁華で広さは大坂程である。 西部のカリホルニアは日本と向い合い、都府とは東西に 懸け隔て陸路で四ヶ月程掛り、海路では遥か南米を廻る為 六七ヶ月の日数を要する。 カリフォルニアから日本への 海路は2300里程あると聞いている由 註 パナマ運河も地峡鉄道もは未だ無いが鉄道計画にはあり、 鉄道は1855年開通。 運河は1914年開通 |
去ル戌年迄テエラと申もの大統領職ニ候処、昨子 年交替順年ニ付、余人と交替いたし候義ニ可有之、 当夏中書翰差上候由大統領ミルラルトヒルモオレ并 使節として渡来致候由之ヘルリと申もの等、彼地ニ 於而名前承候義も無之、且ミルラルトヒルモオレ并 ペルリ抔申語者阿蘭語ニも可有之哉、亜米利加ニ 者無之語ニ付疑敷義ニ有之、右書翰亜米利加より 差上候ニ相違無之哉、右実否者本書一見いたし 候得者相訳り可申由 |
三年前迄はテイラーが大統領職にあり、昨年は交替の年故 誰かと交替したのだろうか。 今年夏に書翰を差上げたと言う 大統領ミルラルトヒルモオレ及び使節として渡来したヘルリも アメリカでは聞いた事のない名前であり、これ等はオランダ語 だろうか、アメリカには無い言語で疑わしい。 この書翰は 本当にアメリカからのものだろうか。 これはその書翰を一見 すれば分る由 註 12代大統領Zachary Taylorは1849年3月第12代大統領と なったが1850年7月死去、副大統領Millard Fillmoreが残 期間1853年3月迄第13代大統領となる。 万次郎は1850 年末米国を去っているので、この事実を知らず、書翰が 書かれた1852年11月13日は、大統領はテイラーの筈と 思い、疑問を持ったものと思われる。 尚書翰が日本に 渡された当夏とは1853年7月、嘉永6年6月の事。 同書翰英文は当HP 「ペリー再来」に収録-国書 同英文 |
御国と親睦いたし度との義者、彼国積年之宿願 に而、右趣意者是迄度々彼国之船舶近海ニおい て漂流いたし、松前江上陸いたし候節之待遇方 いつも苛厳ニ過候義之由、漂流人帰国之上申立 候由ニ而 御国ニ而者外国之者をハ禽獣同様之 取扱方ニ有之候迚、国内之者共何れも残念ニ存居 一体彼国ニ而者自他之無差別、人者一躰ニ心得 候見識ニ而、たとへ通信不致国之者ニ而も、難義 之始末承候へ者厚く撫恤を加候風儀ニ付、 御国 之御処置を多年不快ニ存、通信無之国故自然右 体之待遇も可有之間、右様苛厳之取扱不相成様 両国之和親を取結度と之義、彼国人常々申居候 由、然処彼国書翰ニ通商之義をも相願候趣ニ而、 右者何等之趣意より相願候哉、右等之沙汰及承 候義無之、意味難相分候由 |
日本と国交を結ぶ事はアメリカの長年の希望である。 これは是迄アメリカ船が度々日本近海において漂流して 松前に上陸したところ、その取扱が苛酷であった事を帰国 した漂流人達が報告しており、それによれば日本では外国 人をまるで禽獣同様に取扱うと云っており、アメリカでは 皆が残念に思っている事である。 一般にアメリカでは自国他国の差別なく人は皆同じであり、 たとえ国交が無い国でも困った人を扶助する習慣がある。 その為日本のやり方には以前から不快に感じており、 是は 日本と国交がないから取扱いが苛酷になるのでは、と考え、 その改善の為に国交を結びたいと常々云って居る由。 しかし此度の書翰で通商の事も希望しているが、これは 何故なのか、このような話しは聞いた事もなく、趣意が 分らない由。 註 松前藩(北海道)に漂着したアメリカの鯨漁船は1846年 ローレンス号、1848年ラコダ号があり、何れも長崎から オランダ船に託して帰国させている。 当HP「日本に漂着 したアメリカ人」参照 |
御国之噂ニ付別段ニ沙汰及承候義無之 御国者富饒ニ而万事自国ニ而事足候国柄故、外国 交易等不相好国風との取沙汰有之、江戸并唐 土之北京、イキリス之ロントン之三都者世界第一 繁昌之地、又 御国之刀剱天下無双、其余人民 怯弱ニ而、異国之船舶海岸ニ近寄候ヘハ甚恐惶 いたし、鉄砲打立候なとの評判諸国ニ而及承、 其外チャバンヘシトレと申亜米利加板行之書籍 御国之御制度風土之様子委細書記有之、彼国 ニ於而一見いたし候由 |
日本に付いて特別な情報はなく、以下の通り 日本は豊かで全て自国内で賄う事が出来るので、外国と 交易する事を好まない国柄である。 江戸、中国の北京、 イギリスのロンドンの三都は世界最大の繁昌の地である。 又日本の刀剣は世界一であるが、人民は怯弱なのか、 異国船が海岸に近づくと非常に恐れて鉄砲等打掛けて 来る等の評判が諸国に知られている。 その他ジャパン ヒストリーと云うアメリカ出版の書籍に日本の様子が詳しく 書かれているのをアメリカで見た事がある由。 註 文政8年から天保12年迄無二念打払い時代があり、具体例 として天保8年モリソン号への砲撃を指すと思われる |
石炭之義彼国之所用多く者南亜墨利加より買取、 直段格別下直ニ而且出産多く候間、彼国所用不足 之訳無之、尤蒸気船通航所用之為 御国之地方 江右炭置所補理ニ置候得者格別便利に付、 右地所借受度旨、兼々相望候由之沙汰者在留中 及承候義ニ有之、今般石炭交易之義相願候趣ニ 候得共、右者必定間違も可有之哉、 御国石炭 有之候義等存居候訳無之、且兼而之沙汰とも 齟齬いたす事情不審敷事之由 |
石炭はアメリカでの必要量の大部分は南アメリカより買取、 値段は特別安くて出産も多いので同国で不足する事は ない。 但し蒸気船通航に必要な量を賄うため日本に石炭 置場を設ければ非常に便利となるため、地所を借受けたい と云う話は在留中に聞いた由。 今般石炭の交易を望んで いるとの事だが、これは何かの間違いではないだろうか、 日本に石炭がある事を彼らが知るはずもなく、又通常の 世論とも齟齬し不審な事であるとの由 註 石炭を買いたいと云う事は大統領書翰に明示されている。 中国への太平洋航路の途中に態々運んで貯蔵するよりも 多少高くても日本で調達できれば便利である事は間違い ない。 |
共和政治州仕出し之船舶唐土江往来繁く、殊ニ蒸 気船者石炭多分に相用、途中之所用不足いたし 候義も有之差支候付、右船々通航便利之為 御国九州之南境ニ而地所借受、置所補理番人付 置候様いたし候積之由、彼国板行之書籍一見致 彼国人よりも及承、右九州南境ハ長崎ニ而も可有之 哉、通航便利を旨といたし候得者、多分者薩州南島 之内又琉球も可有之、八丈島近島抔者通航海路 無之、弐百里程も廻り路歟と覚候間、決而望候義 無之筈之由 |
合衆国船舶の中国往来は頻繁で、特に蒸気船は大量の 石炭を消費するので航行途中で不足する事もある。 日本の九州南端の地所を借りて、石炭置場として番人を 付けておく様にしたいとの事を、アメリカで出版された書籍 で見た事があり、又アメリカ人から聞いた事も有る由。 九州 南端とは長崎だろうか、通航に便利な場所はむしろ薩摩の 南の島の中か、琉球ではないだろうか。 八丈島は付近は 中国への交通路から外れ、200里も廻り路となるので決して 望まない筈の由 |
彼国戦法専大小砲を用候故平常稽古いたし、砲陣 之操練者時々有之、刀槍之稽古致候義無之、 在留中鯨漁船ニ乗組オアホより彼国江帰帆之途中 カリフォルニヤ海上ニ於て、共和政治州之軍船五六 艘隣国メキシコ之海岸台場江押寄、海陸対戦及候 を見物いたし候儀有之、海路二里程も隔候間、巨細 之始末者見受不申候得共、双方より打出候砲丸 空中を飛揚いたし、彼是三時程之対戦ニ而メキシコ 敗北いたし候義ニ有之、一体右争戦者メキシコ領 之近海を共和政治之船通航いたし候を相制し候より 事起り、遂ニ闘戦ニ及候義ニ而、共和政治之もの共 海陸二手押寄、手痛攻撃ニおよひ、メキシコ対戦難 相成、惣敗軍ニ成国主出奔いたし、右領地不残 共和政治伐取候得共、其後メキシコより相詫、和談 相整右地所返遣候由 |
彼らの戦法は専ら大小砲を使うので平常訓練しており、 砲陣の操練も時々あるが刀槍の訓練はない。 在留中に鯨漁船に乗組、オアフ島からアメリカへ帰る途中、 カリフォルニア沖で合衆国軍艦5-6艘が隣国メキシコ海岸の 砲台を攻め、海陸で戦闘するのを見物した。 海上2里程も 離れていたので細かくは見えないが、双方から打出す砲弾 が飛び交い、凡そ三時間程の対戦でメキシコが敗北した。 この戦闘の原因はメキシコ領近海を合衆国の船が通航する のをメキシコが阻止した事から戦争になったものである。 合衆国は海と陸から二手にメキシコに押寄せ烈しく攻撃した ので、メキシコは支えきれず全敗となり国主は逃出した。 メキシコ領は全て合衆国が占領したが、その後メキシコ側 より詫び、和議が成立したので占領地は返還したという。 註 米墨戦争:1846-1848 グアダルーペ・イダルコ条約で メキシコはカリフォルニア、ネヴァダ、アリゾナ等合衆国に 僅かな金額で割譲し、国土の三分の一を失った。 |
世界各国之内 御国之外者大抵同盟又者通商之 国々ニ而、互ニ船往来いたし、何れも懇意不致国 無之、就中阿蘭陀・イギリス等親く往来有之、魯西 亜者右両国よりハ少々疎遠ニ相見候由 琉球者共和政治之船唐土江往来之海路故、時々 属島等江乗寄、豚等買受候義有之候得共、可伐取 と取巧居哉之風説者及承不申由 |
アメリカは世界各国の中で日本以外は大抵同盟か通商 関係のある国々で、相互に船が往来して何れも親しく交る。 特にオランダやイギリスとは親しく往来があり、ロシアとはこの 両国よりは疎遠のようである。 琉球は合衆国船にとって中国往復の道筋なので、時々その 属島に立ち寄り豚等買い付けているが、占領しようと考えて いるような情報は聞いていない由。 |
長崎者外国之船舶罷越候場所ニ而、奉行所有之 候得共、江戸江者道程遠隔、諸事江戸伺ニ成、御 下知を受取計候故、聊之事も急速ニ者相整かたく 浦賀者江戸近ニ而、往返手間取不申、都合宜趣 者彼国之者共委細相心得罷在候間、兎角を心懸 渡来いたし候義ニ可有之、且共和政治ニ而者大 統領以下夫々役向之者有之候へ共、政事之立方 上下之隔無之様いたし候義ニ而、用向有之候得 者平民之身分、統領江直談直文通も相成、諸事 間たの隔有之候を嫌ひ候故、願向有之渡来之上 者必浦賀、又者江戸ニ而も罷越、直願等をも いたし、態々長崎表江罷越奉行所之取次を頼 申立候義者不致風有之、大統領平生者供之もの 纔ニ一人召連、乗馬にて通行いたし、万次郎 途中ニ而行合、立なから対話いたし候義も有之由 |
長崎は外国の船舶が来航する所で奉行所もあるが、江戸 から遠く離れて居り、諸事江戸に伺ってその指示を待つ ばかりなので、簡単な事でも直ぐには決定できない。 浦賀は江戸に近く往復に手間が掛らず、都合が良い事を 彼らは詳しく承知しており、ともかくも浦賀を目指して渡来 する筈である。 又合衆国では大統領以下に各役人は いるが、政治形態に上下の隔てをなくしているので、用事 があれば一国民が大統領に直接面談、文通も可能であり 中間の隔てを嫌う風習がある。 よって願い事があれば 必ず浦賀又は江戸に来航して直接談判を行い、わざわざ 長崎奉行所の取次を頼むような事はしない。 大統領は普段は供を僅か一名連れているだけで乗馬で 通行している。 万次郎が途中行き逢った時も立ったままで 対話をしたとの事 |
船製造方軍船と漁船と大砲備方ニ差別有之申候上 ニ而製作之弁別無之、漁船をも軍用ニ相用、何れも 堅牢ニ製作いたし、大砲ニ而も容易ニ打砕候義難 相成様ニいたし、乗組人数者平生五百人乗之船 江、軍闘之砌者千五百人程も乗組、ハッテイラ者 海上迅速ニ進退出来候を旨といたし、軽便ニ打立、 中ニ者大砲打方自在ニ出来候も有之、其外長サ 拾弐間之伝馬船江巣口二寸五分程之大砲を乗せ、 海岸遠浅之場所江乗寄及戦闘候様製作いたし候 船有之、 蒸気船にも軍船と炭船と之両品有之、風順逆ニ 不拘自在ニ進退いたし、一日海上 御国之道程 にて百四五十里も走行、右蒸気之仕懸言語ニ難 尽巧妙之工夫ニ而、見覚候義も難相成、船打立方 之職業習ひ不申候ニ付、押立製作出来候と者難 申候得共、在留中及見聞候義も有之候間、舶来 之蘭書絵図等見合、船大工江指図いたし候得者、 軍船ハツテイラ等者容易ニ打立ハ罷成と存候由、 在留中彼国鯨漁船ニ乗組、 御国近海大東洋者 勿論、南北大平海・大西洋・大南海等常々通航 いたし、天度之測量者勿論、帆遣ひ方等悉く 習覚居候間、大船さへ有之候へ者何れ之国江も 航海相成候よし |
船の製造に関し軍艦と漁船で大砲の備えに差別ある以外 製作面は区別しない。 漁船といえども軍用に使用するので どちらも堅牢に製作し、大砲で簡単には破壊されない様に する。 乗組員も通常は500人とすれば、戦時には1500人程 乗組む。 バッテイラ(短艇)は海上を迅速に進退できる事 が大切であり、軽便に製作し、中には大砲発射も自由に 出来るものもある。 その長さは12間(22メートル)の伝馬船 様の船に口径2寸5分(63mm)の大砲を載せ、海岸遠浅の 場所でも乗寄せて攻撃出来る様に製作した船である 蒸気船にも軍艦と輩船(?不明)と両方がある。 風向に 無関係に自由に進退ができ、一日に海上を140-150里も 走行する。 この蒸気機関の構造は言葉に尽くせない程 巧妙に出来ており、見て覚えられるるようなものではない。 造船職業で修行した訳ではないので、頑張っても蒸気船の 製作は出来ると思わないが、在留中に見聞した事や輸入 書物の絵図を見て船大工を指図すれば、軍船(帆船の 軍艦か)やバッテイラは簡単に製造できると思うとの事 在留中アメリカの鯨漁船に乗組み、日本近海は勿論、南北 太平洋、大西洋、インド洋等常々航海し、天体観測は勿論 帆の取り扱いなど全て習い覚えたので、大船さへあれば 世界中何所へでも航海できる由 |
鉄砲者彼国最上之利器ニ付、大小とも熟練いたし 尤平常山猟等ニ者ドンドロ仕掛を用候得共、軍陣 ニ者火打仕懸之方便利之由ニ而相用候由、台場 湊付之場所何れも有之大砲者鉄製ニ而数十挺ツヽ 据付有之、一体彼国之もの砲術ニおいてハ精妙之 工夫有之候ニ付、砲戦ニ而者中々敵対相成間敷 候得共、刀槍之武術等修行不致もの共故、手詰之 勝負ニおゐて御国之武夫壱人ニ彼国之もの三人 位ニ無之而者応対相成間敷と存候由 |
鉄砲はアメリカでは最上の武器であり、大小砲ともに熟練 している。 但し狩猟などには雷管式を使うが、軍用には 火打式の方が便利で良く使われる由。 港湾の砲台は何れ も鉄製の大砲で数拾門は備えており、全体に彼らは砲術に は優れ、砲も優秀なので砲戦では勝ち目がない。 しかし 刀槍の武術は訓練していないので、白兵戦の勝負になれば 日本の兵一人に対し、彼らは三人位でなければ相手出来 ないと思われる由 |
彼国西洋人往来不致以前者、土人弓矢を以猟業 致候処、西洋人来住火砲之業開候、以来弓矢之 利用火砲ニ難及由ニ而廃絶いたし、当時相用候 もの無之、 平常者役人ニ而も刀剱を帯し候義見受不申、旅行 等にて平民ニ而も腰差小筒二三挺宛用意いたし、 腰差筒者 御国之刀剱同様ニ相用候義ニ有之、 刀剱其外之武術稽古いたし候義無之、尤隣国 イスハニヤ領ニ而者専棒稽古いたし候儀等見受 候由 |
アメリカに西洋人が渡る以前は、土人(インディアン)は弓矢 で狩猟をしていたが、西洋人が住み付き、銃砲を使い出す と弓矢では対抗できないので廃絶、今では弓矢は誰も 用いなくなった。 普段は役人でも刀剣を帯びる事はないが、旅行等の際に 平民でも腰にピストルを2-3挺用意し、 ピストルを日本の 刀剣同様に用いる 刀剣其外武術の稽古はしない。 但し隣国のスペイン領 では棒術の稽古をしているのを見かけた由 |
国中所々牧有之、野馬成育いたし候得共、乗馬用 馬ハ厩子之方宜由ニ而相用、牡馬ハ睾丸を切捨 牝馬並へ相用、尤遠路乗用いたし候而も疲不申を 尊び、夫々仕込方有之、都而馬之天性ニ任せ、 丈夫を本といたし仕込候事之由 |
国中所々に牧場があり、野生馬を生育しているが、乗馬用 は厩舎育ちの方が良いとの事。 牡馬は睾丸を切り捨て 牝馬並みにするが、この方が遠路でも疲れないと云い重宝 する。 訓練法は色々あるが馬の天性に任せ、丈夫である事を 基本として訓練する由。 |
陸戦楯竹木等之玉除相用候義及承不申、尤軍船 ニ而船縁江張かね様之品引懸、玉除ニ致候仕法 有之由ニ候得共、多くハ不相用事之由 所々湊付之場所台場有之候外、浮台場抔申仕法 及見聞候義無之、ヌヨウカ之湊ハ場広ニ而、台場 のミニ而ハ警衛向行届兼義と相見、長六十間余 ニ而大砲百挺程三段ニ据付候大船浮有之、尤 航海又者外軍用ニ相用候ニ者無之、全湊内警衛 之為備置候事之由 軍陣戦闘之利器大砲を主ニいたし、右利方専 工夫いたし、外国戦闘器械之利用をも穿鑿研究 いたし候故、恐候品も無之、且外国戦闘之仕組 ニおいても忌嫌候義等及承候義無之候由 |
陸戦で楯、竹木等を防弾に使う事は聞かない。但し軍艦の 場合、船縁に針金の様なものを引っ掛け弾除けとする事も あるようだが、多くは使わない由。 所々の港に陸の砲台があるが、浮砲台の様なものは聞いた 事はない。 ニューヨーク港は広大で、陸上の砲台だけでは 警備が行届かないものと見え、長さ60間(108メートル)余で 大砲100門程三段に据えた軍艦を浮かべている。 但し 航海や軍用に用いるものではなく、港全体の警備の為の由 軍隊の戦闘武器は大砲を主とし、使い方には非常に工夫 研究している。 外国の武器も調査研究しているので 恐れる物はない。 又外国の戦術も忌み嫌う事なく研究・ 採用しておる由。 |
在留中彼国学校おいて亜墨利加語稽古いたし 彼之言語文字一ト通り通暁いたし居、書籍談話 通弁も出来候由 |
在留中はアメリカの学校において、英語の勉強をし、言語・ 文字ともに一通りはマスターしており、書籍を読んだり会話、 通訳も出来る由。 |
土地産物者食物・衣類・金銀銅鉄・材木其外人間 生育之品何れも有之、一体人別ニ合候而者土地 広く候故産物余饒有之、土味五穀ニ宜候得共米 者食用ニ不致ニ付作り不申、大小麦・蜀黍・大豆 其外野菜を多く作り、金銀者カリホルニヤ金山より 夥敷砂金出、尤外国之人ニも勝手ニ罷越、可掘 取旨諸州江触廻し候付、南北亜米利加・西洋諸州 之者ハ勿論、唐国之ものも便船ニ而罷越掘取候由 右場所近辺之ものハ、銀を以車の輪を作り乗用 いたし、其外種々器什を相用候見受候由 |
アメリカの産物は食物、衣類、金銀銅鉄、材木其他人間の 生活に必要なものは何でもあり、全体に人口の割りに土地 が広く産物は余る程である。 土壌は五穀に適しているが 米は食用にはしないので作らない。 大小小麦、唐黍、大豆 その他野菜を多く作る。 金銀はカリホルニアの金山より大量に砂金が出土し、外国人 でも勝手に来て掘って良い旨を諸国に通達しているので、 南北アメリカ、ヨーロッパ各国は勿論、中国からも便船で 渡航して掘っているとの事 この付近の人々は銀で車輪を作り乗り回し、その他各種の 銀製器具を使用しているのを見かけた由 |
食事朝昼夕三度宛相用、朝夕ハ麦之粉ニ而製し 候パンを砂糖并茶ニ而相用、昼者パン并牛豚鶏等 蒸焼又者塩煮ニいたし食し、米者印度地方より相 廻候得共慰喰又者粥ニいたし、病人相用候迄ニ而 平食に者不致、 酒ハ種々品類有之候得共、車力・馬子等惣て下賎 之者ハ相用、身分有之もの飲候者無之、飲酒者 事業懈怠いたし、又者争論を引出し候とて飲候 ものを賎しみ候風俗ニ付、好候ものも鯨猟等ニ出候 節船中ニ而ハ相用候得共、帰国致候へハ絶而 不用候由 |
食事は朝昼夕の三度で、朝夕は麦粉で作ったパンを砂糖 と茶で食べ、昼は牛や豚、鶏等の蒸し焼きか塩煮の肉を 食べる。 米はインド地方から入って来るが、粥にして病人 用として用い通常は食べない。 酒は色々な種類があるが、車夫、馬子等一般に下積 の労働者が用い、身分あるもので飲むものはいない。 飲酒は仕事を怠け又喧嘩の原因になるといって、飲む者 を賎しむ風があるので、鯨漁等に出漁した際船中では飲む が帰国すれば決して飲まないという 註 ワインやブランデー等酒一般について、上記の記述は該当 しないので、何か特殊な酒か、或は船乗りが良く飲んだと いうラム酒の事か。 |
一ヶ年を四季十二ヶ月ニ割合候義 御国暦法ニ相 替候義無之候得共、一月之日数ニ不同有之、閏月 を不立仕法ニ而、一ヶ年三百六十五日余之内、 三百六十五日を十二ヶ月ニ割付、冬至を以一月 一日といたし、一月三十日、二月廿八日、三月 三十一日、四月三十日、五月三十一日、六月 三十日、七月三十一日、八月三十日、九月・十月 三十一日宛、十一月三十日、十二月三十一日と 相定、四ヵ年目ニ一度二月廿九日有之、右之外 相替候義承及不申候由 |
一年を四季12ヶ月に割り付ける事は日本の暦と変らないが 一月の日数が不同で閏月は作らない。 一年365日余の内 365日を12ヶ月に割付け、冬至を一月一日とし、一月30日 二月28日、三月31日、四月30日、五月31日、六月30日 七月31日、八月30日、九月・十月31日宛、十一月30日 十二月31日と定め、四年に一度二月廿九日とする。 この 他替わる事はないとと聞いて居る由 註 正しい太陽暦とは少し違っている。 一月一日は冬至の 十日後であり各月の30日と31日の割り振りが違っている。 これらは万次郎の記憶違いか、書き手の聞違いと思われる 尚当時日本で使った旧暦は3-4年に一度閏月を入れて 一年を13ヶ月としていた。 |
共和政治之鯨漁船レコデ、船頭グリンと申ものゝ船 松前江漂着、右乗組之者共同所入牢、其後長崎江 相廻候義等、委細持渡候彼国書籍ニ書記有之候 由、少々書籍読聞申候 右漂着之もの共長崎江相廻候趣、通詞より阿蘭陀 甲比丹江申聞、甲比丹より通達承り彼国軍船プレ ブロ江軍将グレンと申もの乗組、漂流人為受取長崎 江渡来之始末、右書籍ニ書記有之由ニ而読、且 オアホ在留中右等之風説及承候義も有之候由申 之候 |
合衆国の鯨漁船ラコダ号が松前に漂着したが、この乗組員 は同所で入牢し、其後長崎へ送られた事等が詳しく書かれ た書籍を持って帰った由で、少し読み聞かせてくれた。 この漂流人達は長崎へ到着後、通訳からオランダ商館長 に伝えられ、同商館長からの連絡でグリンと言う艦長が 合衆国の軍艦プレブル号にて漂流人達を受取に長崎に 渡来したという事をこの書籍で読み、且つオアフ在留中 にもこのニュースを聞いたとの事 註 Lagoda号1848年6月松前に15人漂着し、保護されたが脱走 を何度も企てたので入牢となった。 Preble 号1849/4/18長崎渡来 JamsGlynn少佐 当HP「日本に漂着したアメリカ人達」に詳細掲載 |
去ル午年中彼国ヌコウカ之鯨漁船、東洋漁事之節 江戸海見物之心得ニ而浦賀迄罷越、上陸之上帰 帆之申諭受候節之始末、且其砌警衛もの火縄鉄 砲持居候を嘲り候趣等、前同書ニ書記有之由ニ而 読聞、ヌベツホラ在留中右風説及承候義も有之候 よし申之候 |
去る午年に合衆国ニューヨークの鯨漁船が東洋で漁の節 江戸の海を見物しようと浦賀に向った。 上陸の上帰帆する ように諭された事、 その時警備のものが火縄銃を持って いると嘲っている事等も書籍に載って居る由で読んで呉れ 又ニューベッドフォード滞在中にもこのニュースを聞いた由 註 午年は報じた新聞日付と思われ、実際は巳年1845年4月の マンハッタン号についての記述と思われる。 同号は見物の 意図はあったかもしれぬが漂流人を届けたもの。 当HP「捕鯨船による日米発出会」参照 New Bedford: 米国マサチュウセッツの町、当時捕鯨基地 |
御国江使船差向候由之取沙汰者、去ル戌年カリホ ルニヤ逗留中及承候義ニ而、既ニ同所湊ニ大船 壱艘用意有之、右者唐江参、帰帆之節 御国江 罷越候付、乗組之人夫三百人雇入有之趣認候 高札、右湊に而見受候得共、何様之訳ニ而渡来 いたし候儀ニ哉相弁不申候由 |
日本へ使の船を出すという情報は去る戌年(1850年)に カリフォルニアに逗留中に聞き、同所の港に大船が一艘 用意されていた。 この船は中国に行き帰途日本に立寄る という事で、乗組人夫300人の募集高札を同港で見たが、 何の為の渡来かは明らかにしなかった由。 註 1850年のオランダ別段風説書には米政府が日本に交易を 求める計画があるとの情報を載せているが、1851年の同書 では、その後この件は聞かないと記載されている。 上記 船が日本に立寄った記録はない。 |
御国之産物彼土江渡候儀無之候故、たまたま外国 より相廻り候得者珍敷存、珍重いたし候義ニ而、 就中漆器ハ各国無双と評判いたし、既彼国市中 日本漆認候看板を懸、漆渡世いたし候をも見懸、 御国通用之金銭ハ世界第一之下品之由誹判いた し、唐通用之金銀を以位付いたし候書籍も有之、 弐朱金壱分銀等オアホ在留中見受候処、弐朱金者 同所通用銭之相場にて纔十二文ニ相当候由ニ而 甚賎め候由 |
日本の産物はアメリカには輸出されていないので、偶々 外国経由で入って来ると珍しく、大変珍重される。 中でも 漆器は世界一との評判で、既にアメリカでは町中に日本漆 と書いた看板を懸け、漆商売をするものも見かける。 日本で通用している金銭は世界最悪の品質との事で批評 され、中国で通用している金銀の基準で位付けをしている 書籍もある。 弐朱金・壱分銀等オアフ滞在中に見受けた が、同所通用の銭相場で僅か十二文にしかならない由で 極めて低位の由 |
帰国之節持渡候書籍ライヲフワシントン者話聖東之 伝記、テキシナレ者字引ラタライ者用文章、ペストレ 并レイテシホクシヘルナレーテール者話書、キイ并 エレスムテ者算法書、ナベケション者航海測量之書 シイマンフレン二冊者諸国評判記、アブねカ者農家 暦ニ有之、其外測量器オクダントをも持渡候趣ニ而 右書籍何れも読法出来、オクタント以測量いたし候 義習覚候由、 一体彼国漂流以来、多年帰国之義心懸居候得共、 便宜無之打過罷在候内、カリホルニヤ金山江罷越、 砂金掘取両替いたし、俄ニ路費相整候故、是迄 介抱受罷在候ハーヤヘプン船フィチセルト江申聞 候ニも不及、カリホルニヤより直ニ帰国いたし候趣ニ 付、相学候書籍者勿論、認置候日記類迄悉くフィチ セル宅江差置、旅中携候書籍纔計持帰候事之由 |
帰国の際に持ち帰った書籍は、 Life of Washington 初代大統領ワシントンの伝記、 Dictionary 辞書、 Letter Writer 文章の書き方 History、歴史 及びLady's Book?、 Narrator会話書 Arithmetic 算術書、 Navigation 航海・測量書 Semi-monthly Friend 2冊 フレンド紙(新聞)諸国地誌 Agriculture 農業書 Octant八分儀、天文測量器 これら書物はどれも読むことができ、オクタントを使って 測量することも習熟しておる由 アメリカに漂流以来、ずっと帰国の事を心がけていたが 機会が無いまま年月が過ぎた。 カリフォルニアの金山 で砂金を掘り、是を両替したので帰国資金ができた。 これまで世話になったフェアへブンの船長ウィッチ フィールドに話す間もなく、カリフォルニアより直接帰国 したので、勉強した書籍は勿論、書き続けた日記類も 全て同氏宅に残してきて、旅行中携帯した書籍を少々 持ち帰った由 註 フェアヘブン: Fairhaven, Mass New Bedfordの隣町 ウィッチフィールド船長の自宅があり、万次郎は此町で 三年間過ごし、学校にも通った ウィッチフィールド:W. Whitfield 万次郎のアメリカでの 保護者、 万次郎達を救ったジョンハウランド号船長 |
彼国在留或者鯨漁船乗組漁事ニて都合十一ヶ年 之間、彼国人と相交、且書籍文字をも学ひ候間 彼国之もの江応対又者通弁等之義、如何様入組 候事ニ而も相弁候由 |
アメリカ在留は、漁船に乗組み漁をした時を含め都合11ヵ年 の間彼らと交わり、且つ書物や文字を学んだのでアメリカ人 の応対及び通訳は、どんなに内容が込み入っても通訳 出来る由 註 1841年6月鳥島で救出され、1851年2月琉球に上陸迄 足掛け11年 |
江戸者世界之内ニ而尤繁華之処と諸州ニ而評判 ニ有之候付、彼国之もの共見物いたし度存、度々 近海迄罷越候義ニ可有之、海底測量之義ハ異国 之大船者大洋を不恐、都而海口之浅砂暗礁を気遣 候事ニ付、初而罷越海之浅深不案内之場所ニ而 者先測量いたし候上ニ而、船を進め候義、異国之 常法のよし |
江戸は世界中で最も繁華な所と、諸国で評判なのでアメリカ 人達も見物したいと思い度々近海までやって来る。 海底測量に関しては、外国の大型船は大洋は恐れないが 全ての港口の浅瀬や暗礁に気を遣う。 初めての行く所は 海底の状態が分らぬため、先ず測量した上で船を進めるの が外国の常識の由 |
鯨漁船等ニ乗組、地球中大半通船いたし、所々船 繋等いたし候得共、暫時船繋迄ニ而者其風土之 様子難相分、上陸又者日数滞船いたし候場所者 サントウイスル島之内オアホ、呂栄、タイワン、新 阿蘭陀之北タイモーア、ラドロね諸島之内ギュアン 南亜米利加之内イスパニヤ領ワツヘレイソヲ等、 右国之風土之様子及見聞候義、先達而長崎奉行 所おいて吟味之節申立候通有之由 御国之様子彼国板行之書籍ヂヤパンヘシトレ 委細書記有之、其外彼国板行之評判記も持渡 候間、右ニ而承知いたし候義ニ可有之由 |
鯨漁船に乗組み地球上の大半を通航し、所々寄港したが 短時間の寄港では其土地の風土は分らない。 上陸して 数日滞留した場所としては、ハワイ諸島のオアフ島、 フィリピン、台湾、オーストリアの北にあるティモール島や マリアナ群島のグアム、南アメリカ州のスペイン領 バルパライソ等で、これら地の風土の様子や見聞したは事 は、以前に長崎奉行所で取調べの時に申上げた通りの由 日本の様子については、アメリカで出版された書籍である ジャパンヒストリに詳しく書かれており、他の刊行の地誌書 を持ち帰ったので、万次郎はこれらから知った様である。 註 新阿蘭陀: ある時期オーストラリアをこのように云った タイモーア: Timor ティモール島 ラドロネ: Ladorone マリアナ諸島 ワツヘレイソヲ: Valparaiso チリ、サンチャゴ隣接の港町 |
右相糺候趣、書面之通御座候、依之申上候、以上 |
以上問質した内容は書面の通りであり、これを申上げる |
出典: 北大北方資料館所蔵 力石雑記巻四一(写本 ) |
嘉永六年癸丑十一月五日 御勘定奉行江 松平土佐守家来 中浜万次郎 |
1853年12月5日辞令 |
右御普請役格江被 召抱御切米弐拾俵 弐人扶持被下候間、可被得其意候 右伊勢守渡之 |
普請格に採用される(役はないが直参旗本として |
出典: 同上 |