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               勝海舟の出世作-海防論文

  嘉永六年六月三日(18537))2隻の蒸気船軍艦と2隻の帆船軍艦を率いて米国の
ペリー提督が浦賀に乗込み、泰平に慣れきった日本人の眠りを覚ました。 ペリーは米国
大統領の国書を持参し、その内容は日米間の和親と通商を望み、特に緊急の課題としては
米国船への薪水、石炭の供給及び日本近海で難破、漂着した船とその乗員の保護などである。
 国書を久里浜で請け取らせ返事は来春貰いにくると云う事で六月十二日に引揚げている。
 時の老中首座(現在の首相に相当)の阿部伊勢守は開国派と云われているが、大統領国書
にどう答えるべきか老中だけで決する事が出来ず六月下旬に広く天下に意見を求めた。 
これに対し上は御三家の尾張家や水戸家から譜代・外様の大名、幕府役人、非役の幕臣・
御家人、諸家の藩士、浪人など多数から賛否両論の上書が提出された。 その中に後に有名
となる勝海舟の上書もあり、その当時は非役小禄の旗本蘭学者で勝麟太郎
(30)と云ったが、
実はこの上書が伊勢守並びに幕府役人上層部に認められたが故に海舟は出世の糸口を掴んだ。 

  「嘉永雑記第九冊(内閣文庫所蔵)」には勝他数点の上書の写本が載って居るが、
「幕末外国関係文書之1−2(明治
43年)」を調べると嘉永六年七月-八月の2ヶ月の間に
提出された
70件程が載って居り、中には吉原女郎屋の経営者とか深川の材木問屋などが
町奉行に提出した真剣なのかも知れないが荒唐無稽の意見もある。 各意見書の大勢は薪水
供給や漂流人の保護は良いが交易は反対、軍艦などの軍備を整えるべきとの意見が多い。
 交易反対の根拠は国是であるからとか、金銀の流出、或いは物価の高騰を招くとの理由で
あり、一方戦争は避けたいので穏便に断るべきという意見が多い。 

  勝の意見は彼我の力を正しく認識し、無いものねだりをせずコストを考えながら段階的
に富国強兵を実現する考え方である。 特に軍艦・武器等の充実には交易の利益を充てる事、
軍事教練学校を設立し西洋流の兵制に変える事、有益な洋書を正しく翻訳し出版を官費で
行うこと、そして困窮する下級武士階級を兵士として転用する事や、幕府管理の武器工場で
活用する事などが述べられ、軍需産業の国家管理の萌芽も既に見られ極めて合理的な意見で
ある。 

実現性の無い空元気の攘夷論や無いものねだりの理想論の意見が多い中で、勝の意見は
新鮮で実現性がありと為政者の目に止まったものと思われる。 その後幕府は洋書研究の
為の蕃書取調所(
1857年)、教練の為の講武所(1856)や長崎海軍伝習所(1855)を設立し、
勝は長崎の海軍伝習所の幹部候補生としてスタートする。 

○嘉永六丑年七月勝麟太郎上書   ○
同現代語訳
      ○阿部伊勢守の諮詢書状

参考文献
幕臣勝麟太郎 土居良三 文芸春秋
勝海舟 石井孝 人物叢書



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