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                    小林誌

                  
 序 
 呉竹(クレタケ)の世々に語り継ぎ云い伝えてきた事等も、書にして跡が残っていなければ
凡てが善くは伝わらぬものである。 昔から諸国には史官を置いて、何でも由緒有る事は
全て書物に記す習慣があった。 しかし此の郷の事を何かと書いた物も無い訳ではないが、
漏れた事、誤りも少なくない。名前があっても由来がはっきりせず兎に角事足りないものが多い。
私自身常に不満であり別に書くことを浅茅原つくづくと思い、若い頃よりある人の記したものに
心を寄せ、あれこれと年々書き写してきた。
しかし筆下手で巻数も多くなり、それを分類整理するでもなく唯一つに集めて綴ったのは
天保の初め(1830)だった。その頃公務が多忙になった上、江戸にも度々出張し、国に
帰っても放置しがちで多年が過ぎてしまった。ところが今年の初め、思いがけず病にかかり、
その病床で思った事は、これを完成させぬとは不本意此の上ない、若し朝露の消える様に
命が尽きれば、此事も共に消えてしまう。 何としても概略だけでも正しく書残したいと思い起し、
苦痛を押して筆を執った。

それは先ず霊幸布(タマチハフ)神社を初め、国・所・山川等の旧跡を尋ね廻り、山寺の荒れた
跡を探り、亦其所の絵図を著し、玉鉾の道の遠近、物の数を記録し、昔の武士達の戦の跡、
著名な人の屋敷に至る迄遠い昔を偲ばれる事、更にそれ程重要でなくてもこの郷に関する
限りは残らず取上げて書き、夫々の話題の傍らには正しい神話を初め参照書からの抜書きし、
又その時代の識者の説、自身の考え等取り混ぜ注書きをして小林誌(ショウリンシ)と名付けた。
更に広く意見を求め、考えを深くして思いが足りない所は次々と書き加える積りである。
これは強いて人に見せる為ではないが、郷内の事を知らずに過す我子供達やその仲間が、
石上(イソノカミ)故(フルキ)を尋ねる便にもなればと思う。 
元来劣り気味でまして病の為心急かされ書いたものだから、誤りや遺漏も多いと思われるが、
読んだ人が修正し補う事は此の上ない幸である事を此処に記す。 
            明治二年三月(1869)           赤木越智通園

注1 呉竹の世々 呉竹は世の枕詞
注2 浜千鳥 跡、の枕詞
注3 浅茅原(あさぢはら)つばらつばらにも思(も)へば  
         故(ふ)りにし郷(さと)し思ほゆるかも 
                       大伴家持
    *つばらつばら つくづくと
注4 霊幸布(タマジハウ)神の枕詞 神の瑞垣=神社
注5 玉鉾 道の枕詞
注6 石上(イソノカミ)古、故(フル)の枕詞
注7 赤木通園 文化十一(1814)年生まれ鹿児島藩士、小林郷士年寄を勤める赤木家の
   分家出身、 国学者平田篤胤に師事する。 明治六年(1873)死去、享年五十九歳 

     
 小林誌目次
 
第一巻
 一 日向国・諸県郡・真幸院・小林郷等の名称
 二 島津庄真幸院郡司の系図並び伝記
 三 歴代小林地頭
 四 小林郷の周辺
 五 小林より鹿児島及近隣他郷や他邦の境に至る遠近、距離
 六 石高総計
 七 士族石高
 八 人員総計
 九 牛馬総計
 十 家・戸数の総計
 十一士人の家数並び姓氏
 十二小林全図
 十三足軽家数並び苗字
 十四神社家並び神社付家の苗字
 十五下人家数及び人数
 十六増人家数及び人数
 十七転住者家数及び人数
 十八居住者家数及び人数
 十九村落
 二十町の部
 廿一穢多

 第二巻
 廿二 神社部
 廿三 山部
 廿四 池部

 
第三巻
 廿五 古跡部
 廿六 古城部
 廿七 古戦場部
 廿八 寺院部
 廿九 古墳墓部
 三十 木浦木遍路番所
 三十一橋部
 三十二産物


             
 小林誌第一巻

     
一日向国、諸県郡、真幸院、小林郷等の名称
  
○日向国
 古事記に云う、伊弉諾尊と伊弉冊の尊が筑紫島を生むと、此島も身一つで面が五つあり
面毎に名前があった。筑紫の国を白日別、豊の国を豊日別、火の国を速日別、日向国を
豊久士比泥別(トヨクジヒネワケ)、熊曽国を建日別と云った(注1)。 
日本書紀景行天皇の条に、天皇が十七年三月子湯県に行き、丹裳小野(児湯郡西都原)で
遊んだ。 その時東を望んでお側の者に云われるには、この国は真直ぐに日の出る方に
向いているなあと云われたので日向と名付けたと云う。(注2) 

六人部是香(ムトベヨシカ注3)は、日向と云う名は高千穂の峰より天孫が降臨する以前から
常に呼んでいた名である。それは猿田彦が天孫を天の八衢で出迎えた時に筑紫の日向に
案内すると言っているからであると。 八田知紀(注4)は、 日向と云う名称の起りは襲峰
(高千穂峰)にしても、丹裳小野(ニモノオノ)でも、其地が直接日に向かうと云う事から来た
名であり、日向は日向いの意味によると云われて来たのは当然であると。 

又推古天皇の歌に辟武伽(ヒムカ)とあり(注5)、古は字の如く此牟迦(ヒムカ)と唱えたらしい。 
和妙抄(注6)に此宇加(ヒュウガ)とあるのは音便よくした後の言い方であり、清少納言の
冊子にも比宇加とある。 但し日向国は今の薩摩と大隅を含め、本は日向一国であり所謂
熊襲国と云い、後に又隼人国とも又日向とも云った。

日向の中に薩摩と云う地名があって後に薩摩の国が建てられ、その年代は定かではないが
大宝年間(701)から霊亀年間(716)迄の間と思われる。 理由は大宝二年(702)の記録に
唱更(はやひと)の国とあり、養老元年(717)の記録に始めて大隅・薩摩二国の隼人と
記されている(注7)。 
大隅国は元明天皇の代、和銅六年(713)四月、日向国から肝坏(キモツキ)曾於、大隅、
姶良を割いて始めて大隅国を置くとある。

さて国と言うのは既に記紀にもある様に上代よりの名であるが、本居翁(注8)の古事記伝で、
一国を二つに分け、又二国を一つに合わせる等、その時代時代で色々変わってきたが
嵯峨天皇の時、弘仁十四年(823)に越後国を割って加賀国を建て六十八国、(但壱岐は
島と云、対馬も国とは云わず)に定められた後、今に至る迄永く変更される事はなかった。 
国々の名の一字を取って某州と云うのは、後に昔の中国風に倣って私的に言い始めた事で
公の定めではなく、我国には州と云う制度はなかったと云われる。

今薩摩国の総周り百三十里二十六町十六間三尺(520km)、石高三十一万五千五百石余、
大隅国百十五里十一町四十間四尺(458km)、石高十七万八白三十三石四斗九升一合、
日向国二百八里三十三町(800km)の内、九十五里七町十間三尺(378km)、
石高十二万二十四石五斗八升、
以上総計が我国主の領二百二十六里四町六尺(890km)で今もその通りである。(注9)

注1記紀の引用は弥生時代や古墳時代(五世紀以前)に既に日向国があったと云う事を
 言っている。  三世紀の 魏志倭人伝では「倭国は分かれて百余国」とある。
注2景行天皇 書紀では十二代天皇、四世紀から五世紀の古墳時代の大王と云われる、
 ヤマトタケルの父で熊曽征伐の伝説がある。
注3六人部是香 むとべよしか1806-1864 江戸時代後期の国学者、神道家。
 山城向日(むこう) 神社の神職、 平田篤胤の門人で関西平田派の重鎮。著作に
「顕幽順考論」「長歌玉琴(たまごと)」など。
注4八田知紀(1799-1873)江戸末期の歌人、薩摩国鹿児島郡西田村に生まれ、父知直は
 薩摩藩士。  文政八(1825)年に京都蔵役人として上京し香川景樹に会う。文政十三
 (1830)年には正式に入門し桂園の有力者と認められる。維新後は新政府に出仕して
 歌道御用掛などを勤める。  家集『しのぶ草』、歌論『しらべの直路』など。
注5推古天皇(554-628) 三十三代天皇、飛鳥時代の女帝、仏教が伝来し蘇我馬子や
 聖徳太子が政治を行った時代。天皇が大臣の馬子に与えたと云う次ぎの歌がある
  真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば日向(ヒムカ)の駒、太刀ならば呉の真刀 
          諾(ウベ)しかも 蘇我の子らを 大君の使わすらし
注6和妙抄 平安時代中期(930年代)に作られた日本最初の辞書
注7大宝・霊亀 飛鳥時代末大宝二年(702)大宝律令が諸国に発令され古代国家の完成点に
 達したと云われ、国・郡・里の行政組織が編成された
注8本居宣長(1730-1801)江戸時代の国学者、古事記注釈で有名、後に出るが、小林誌著者
 赤木通園は、宣長が影響を与えた平田篤胤(1776-1843)の弟子。
注9総周り及び石高 日向国の内鹿児島藩領とは諸県郡(現宮崎県南西部及び鹿児島県
 志布志市)の分と思われるが、原本総周りの総計は合っておらず何故か百里余少ない。 
 石高総計は記されていないが記載三ヶ国合計は六十万石余と見える。薩摩七十二万石と
 江戸時代を通じて云われるのは琉球国の分が加えられているので正しいと思われる。

  
○諸県郡
 諸県郡は八代、須志田、綾、向高、真幸院、庄内、志布志、大崎を含む。 和妙抄に諸県郡は
牟良加多(ムラカタ)とある。 本居翁の説に、何れの古書にもみな諸県と書いてあるから毛呂
賀多だったものを牟良と後に訛ったものとあり、又賀多は阿賀多(アガタ)であるから必ず「がた」
と濁るべきと云われている。 
考えるに諸は毛呂(モロ)と読み牟良(ムラ)と音が共通である。 県は阿賀多と読む字であるが
某県と云う時は阿を省くので、毛呂賀多(モロガタ)と云うのも自然である。即ち阿賀多は上の
田の意味で本来は畠の事であるから、河内には大県、美濃に方県、山県、信濃に小県、但馬に
二県、安芸に山県、日向に諸県等と云う郡名や其他郷や村の名称にも多い。
本は皆畠より来たものである。 
 
 考えるに此諸県も古代では牟良賀多と称する一つの地名があり、後に広く今の郡名と成ったも
のだろう。 同様の例は我が郷にもあるが委しくは真方村の項で論ずる。 
さて郡とは記伝では幸徳天皇(在位645-654)の時代に、夫まで県と云う程の地を皆郡と名付け、
全国全て国を分けて郡を定めて某国の某郡と云う様になった。 日向五郡とは臼杵、児湯、
那珂、宮崎、諸県を言い、或人によれば諸県は日本第一の大郡であると言う。

注1幸徳天皇(在位645-654)中大兄皇子(後の天智天皇)や藤原鎌足が国政を牛耳っていた
 大臣蘇我氏を亡ぼした時、天皇に祭り上げられ大化と言う最初の年号が始り、大化の改新で
 それまでの氏姓制度を廃し、中央集権体制を強化した。実権は中大兄が皇太子として掌握し、
 藤原鎌足が協力した。 

  
○真幸院
 延喜兵部式(注1)駅馬の条に駅名で真斫(マサキ)とあるのは此地である。 古代にはこの
真斫は飯野と加久藤(飯野内にあった久籐村を分けて加久藤郷を建てたと云う)の旧名だったと
思われるが、中世より吉田、馬関田、加久藤、飯野、小林の五郷を真幸院と称した。
其は院司が任命された頃から院の名となり双方隣接の地は此院に附属したと思われる。

宝光院寺記には、伴姓の北原家(注2)が三の山(小林)に代々居住して領知した地域を一般に
真幸院と称したと云う。 此名称について私の先輩である稲留翁は、真は例の誉言葉で幸と言う
事は物産が豊富な地であるからと説くが、字義による説とは言え当るとは思えない。
後醍院真柱翁は前後野岡が続くのを真幸と言うと。 和田秋郷翁の説では真幸は諸県郡の
地名であり、延喜兵部式の日向国の駅馬の条に真斫(マサキ)とあるのが即ち此の地で、
中世以来此れを真幸と呼び、其地は今五郷に渉り所謂吉田、馬関田、加久藤、飯野、
小林で俗にこの地域を真幸表五ケ郷と呼ぶ。

考えるに建久八(1197)年の日向国図田帳(注3)注文に諸県郡内真幸院三百二十町は
殿下御領島津庄(注4)寄郡千八百十七町の内とし、地頭は右兵衛尉忠久とあり是は我が
島津家の太祖である。 又同郡内吉田庄三十町、これも地頭は同じ。又同郡馬関田庄
五十町は安楽寺領六十三町の内で、地頭は須江太郎とあるのを見れば、吉田と馬関田は
その前は共に一つの庄として真幸院に含まれていたとは見えない。
  
  
○真幸の地形
此真幸と云う名称は、書紀の神武天皇記に天皇が腋上の嗛間丘に登り国の形を見て、
内木綿(うつゆふ)の真迮(まさき)と云うけれど蜻蛉(とんぼ)が交尾をしている様だ(注1)と
云ったのは真迮国の事で、「迮」は「狭」同じで今の「幸」字は延喜式に現れる「斫」と共に
仮名である。

そもそも此地は西南の方に栗野嶽、飯盛嶽、白鳥山、甑嶽、韓国嶽、夷守嶽で霧島山脈を
構成している。 東北の方は肥後の球磨山に続く大山脈となるが、其中には白髪嶽
(球磨山中)、狗留孫嶽(飯野の山中、熊曽嶽が転じた事は疑いない)があり、それより北西に
目を向けると熊峰、般若寺越などと云う険しい山路が立ちはだかり、栗野と吉松との境を
なしている。 そして是等は何れも東北にある球磨の大山脈に続く。 
その間に内木綿(うつふう)の真狭(マサキ)の様に包まれた地形であるから、上代の人々が
真狭と称したものか。
古代には大隅国桑原郡に属する吉松と言う地より飯野に至る迄の各郷を全て束ねて称したが、
元暦(1184)以来幕府の制度として院司を置いてから今の様に五郷になった。
 
其は同郡の栗野の地から吉松に出る為には、其処の境となる熊峰は非常に険しく、大隅と
日向との国境を此峰とした。 一方吉松から飯野迄の間に吉田、馬関田、加久籐と続き、
東西は五里程で長く、南北は狭くて一里に満たない場所も多いが、其間は究めて平坦で
坂道もない。 中に大河が一筋流れており左右は何処も田地で、此河は飯野の大河平と
言う山中より流れ出て大隅の菱刈郡の各郷を通り、薩摩の山北にある祁答院などと言う所を
流れて高城郡水引に至り、それより高江の久見崎で西海に入る。 これが所謂川内川である。

さて此様に西南は霧島の大山脈と東北は球磨山の大山脈とに包まれた細長い地形であるから、
実に内木綿の真迮(まさき)であると、此の地を訪れた人は大方が納得する筈である。 
但し私がこの様に云うのは間違いであると言う人もあろうが、古事記をよく読み解き、昔の事が
有って今があると信じ、上代の事を考えの及ぶ限りに深く思い、知ろうとする人は納得するだろう。

注1 書紀神武天皇記のこの部分は今でも明確な解釈はない。 元々実在しなかった天皇と
云うのが定説であり場所名等も明らかでない。 唯日本の古名を瑞穂の国とか秋津島と
云う事があるが、此の蜻蛉(とんぼ=あきつ)から来たと云われる。 
  
 
 ○小林の真幸院入り
 斯くして其吉松を除いて小林を真幸院に含めているが、それは此院が称えられた時以来の
事だろうか。これは飯野より小林に出ようとする時、其境は明確で疑いの余地がない様に
見える。 その昔は上江通と云い、上江は飯野の地名だが一ヶ所の陸峡の坂道を登って
小林の南西方と言う地に出る。 今の新しい街道もやや坂道を登り広野に出ると小林の麓
(注5)である細野迄三里の野路で、この野を小林原と呼ぶ。   

 此小林の地は西方に高千穂の山脈が高く聳える夷守嶽の麓だが、東は野尻、南に高原と
境界して東南は遥かに広がっている。 そのため彼の真狭国の謂れに預かる地形ではない。 
延喜兵部式でも夷守とあるのが即ち此地であり、小林が真幸院に属したのは何時からと明確で
ないが、多分中世以来幕府の制度として院司職或いは庄司などと云う職が置かれた時に
此地は真幸の飯野の隣であるゆえにその院内に付属したものか。 

 天智天皇(在位668-672)以来、それ迄伝わった封建の制度を廃して郡県の制度に改ため、
郡司などの職掌が置かれたが保元・平治(注6)以後に其制度が廃れた。 
その後天下一統武家の世となり元暦以来鎌倉将軍家の政権になると従来の総追捕使(注7)の
制度が転化して諸国に守護・地頭を置き、其迄の郡司の職に倣って院司や庄司の称号が始った。 

 其院とは今国々郡の中にある郷や村を幾つにでも別けて取合せ、其郷村の中の何処かに
官舎を建て、その館を何院、某院と称して、その地域を支配する職を院司と称し、又は其院の
下司と言う事もある。 そして院司はその館の範囲の公収を支配して是を官に納める事を
任務とした。 即ち今の郡代又は代官等の様なものである。

 斯くして此真幸は既に述べた様に初めは小林を除いて吉松から続いて飯野迄の五郷に渡る
大地域の名だったと思われるが、後には一つの地名と成り、其は延喜の頃(901-92227)、
此地に真斫(マサキ)と記された駅があった事から分る。 駅が何処にあったか知る事は
難しいが、今の加久藤と飯野両所の間ではないだろうか。其訳は建久の図田帳で真幸院
三百二十町、吉田庄三十町、馬関田庄五十町とある事から、吉田と馬関田は夫々一つの庄で
真幸院とは別と思われるからである。 しかし広義に昔は真迮(マサキ)と呼んだのは吉松から
始まり吉田、馬関田、加久藤、飯野の五ヶ所(注8)を称したのは此地形に由るものと思われる。

 又小林も一つの駅と見え、延喜兵部式には夷守とある。これによっても延喜の頃には小林は
真幸の地ではない。 或人が云うには、一向宗の僧が記した書に長谷と記したのは飯野から
吉松辺迄との事で、是も地形により名付けた事は明白である。

注1延喜兵部式 延長五年(917)に発令された律令の施行の為の細則で、其中の兵部省
 細則に諸國の駅の傳馬制度(道筋)を定めて駅馬の義務を定めている。
  ◾大隅國 驛馬(蒲生、大水各五疋)
  ◾薩摩國 驛馬(市來、英禰、網津、田後、櫟野、高來各五疋)
        傳馬(市來、英禰、網津、田後驛各五疋)
  ◾日向國 驛馬(長井、川邊、刈田、美彌、去飛、兒湯、當磨、
        廣田 救麻、救貳、亞椰、野後、夷守、真斫、水俣、
        嶋津各五疋)
        傳馬(長井、川邊、刈田、美彌、兒湯、去飛驛各五疋)
注2伴姓北原家 大隅肝付家の一族、第二章郡司系図で詳述
注3建久図田帳 鎌倉幕府が建久年間(1192-1195)に作成させた諸国
 土地台帳で薩摩・大隅・日向のものだけが現存している。
注4島津庄 平安時代後期(11世紀前半)から開発された摂関家の私領で、最大で南九州で
 八千町を超えた。 島津家はこの荘園管理で下向して島津と名を替えた惟宗忠久を祖とする。
 此の頃の島津庄の所有者は近衛家。
注5麓 江戸時代に入り幕府の一国一城制が施行されると、鹿児島藩ではそれ迄あった各郷の
 城と城主はなくしたが、郷の支配と防衛のため、地頭館を設け武士を郷士としてその周辺に
 住まわせ、これを麓と云った。 外城(トジョウ)制とも云う。
注6保元・平治 保元の乱(1156)天皇対上皇、平治の乱(1160)上皇対近臣の争いに
 武士(源氏、平氏)を巻き込み、一気に武士の勢力が拡大し先ず平氏の時代になり、
 三十年後源氏の時代となり源頼朝による鎌倉武家政権が確立(1185)した。
注7惣追捕使 律令制の下、警察・軍事の役所で最初の設置は平安中期だが次第に全国的に
 なり、 源頼朝は1190年に全国惣追捕使に任命された。 
 即ち諸国の惣追捕使の任免権が朝廷から鎌倉幕府に移り追捕使は守護と名を替える
注8吉田、馬関田、加久藤、飯野は何れも現在のえびの市、吉松は姶良郡湧水町

    ○小林郷
 小林郷は小林城の名があり、慶長頃迄は小林村と呼ぶ村があったが、今は真方村に属し
村名は無くなったが小林門と云う門名がある。 又古倍志波留(コベシバル)又は
古倍志田万(コベシダマ)と云い、是は林をヘシと俗に云い慣わしたもので小林原も同じである、
田万は千町田万某田万と言うのと同じで田面(タノモ)のノをムとはねてタムモと常に云えば
ムモはマに詰まる。故に「む」を「ま」に言い習わす。 
さて小林城の名称」は小さい林があったのでこう云ったのだろう。其後城の名から村名となり
後に郷の名となったものである。現国主の管轄に成って(1576)後は城の名を用いて小林と
改められたと伝えられるが、何時からかは不明である。

文禄年間(1592 ‐95)の諸文書には三ノ山とあり、慶長(1596-1614)以来は小林と記されている。
古代の郷の名である夷守は今でも比奈毛里と云う地が広くは無いが田畑等の名にあり此地に
夷守嶽もある事から明らかである。 更に延喜兵式の駅馬制度に亜揶(綾)、野後(野尻)
、夷守(雛守)と街道の駅名として載せられている事からも確認できる。 尚夷守の名については
雛守神社の項で諸説を述べる。
注1小林城は三国名勝図会によれば北原氏が築いたもので宇賀城と呼んでいたと言う。
 一方旧記雑録では三ノ山城と呼んでおり、伊東氏から奪った後に小林城としたとある


   
○小林は大郷、薩隅日郷名一覧
 或人が言うには小林は大郷であるから昔から公に示された文に大郷の部に入れられている。
大郷と題して(17郷)
  出水、加世田、頴娃、指宿、谷山、志布志、末吉、高岡、大口、
  伊集院、小林、国分、川辺、諸県郡高城、串良、高山、小根占
中郷と有る郷(43郷)
  伊作、甑島、田布施、阿多、大根占、大姶良、鹿屋、桜島、姶良
  財部、穆佐、大崎、溝辺、横川、栗野、吉松、加久藤、飯野、本城
  山崎、羽月、大村、樋脇、東郷、水引、高城郡高城、野尻、阿久根、高江、
  恒吉、市来、串木野、隈之城、長島、鶴田、鹿児島郡吉田、蒲生、帖佐、
  高原、福山、清水、踊、曽於郡
小郷と有る郷(33郷)
  馬関田、松山、百引、高隈、牛根、坊泊、久志、秋目、百次、薩摩 郡山田、
  中郷、野田、高尾野、山野、郡山、諸県郡吉田須木、高崎、倉岡、山之口、
  内之浦、勝岡、式根、田代、日当山、川辺郡山田、山川、曽木、姶良郡山田、
  、湯之尾、馬越以上とある。

 思うに寛文三年(1663)より居地頭の制度が廃止された後は、鹿児島在住の地頭となり
管轄地頭所に参勤したが、最初の勤務で就任披露があり、これを初入部と呼び諸事の式や
饗応があった。 その際万の事は此大中小郷に応じて取り計らう為にも此様に分けてあった。
他にも色々の規則も定められていたとの書もあるがここでは略す。
注1 小林は江戸時代には大郷に分類されているが、その時の大郷十七郷の内、
 現在(2018年)自治体名を残しているのは出水市、指宿市、志布志市、小林市の
 四市だけである

  
○三ノ山
 中世の小林の名称である三ノ山は矛峰(高千穂峰)、韓国、夷守の三山から名付けられた
と云う人があり並穂翁も同意しているが、それは夷守こそ小林に属する山だが矛峰、
韓国嶽は他地にも跨った山であり、無理な説ではないだろうか。 しかしその様に考えられた
事は此邑に三ノ山又道ノ山と言う地名がある事で気付かれたのではないだろうか。 

 三ノ山と言うのは矛峰の北西半里程に両部池と云う池の辺に往昔三ノ山と呼ぶ山があったと
見え、古い絵図などにも其名が記してある。 其池も往古の噴火跡と思われるが、享保元年
(1716)九月、両部池の間より噴火したと云う。 その噴火以前には確かに頂上が三ツに
分かれた山があり、その名を取ったのではないだろうか。 

 度々の噴火があり、文化年間(1804-1817)にも大きな噴火があり終に頂上も無くなり
三ツ山の名を失い、今では新燃嶽と呼んでいる。委しくは峰の部・池の部で説明するので
此処では概要だけ述べる。 従って享保已前までは其山を三ノ山と呼び小林郷に属して
いたので、此名から郷名にしたものかもしれない。
しかし所謂霧島の大山脈の真中に有る様なもので況して大隅国曽於郡の郷に隣接しており、
小林の麓よりは遥かに遠く五里程もあるから、単純にこの一ツの山の名から取ったと云うのも
無理がある。

 又道ノ山とか三ノ山とも呼ばれたのは、夷守嶽の麓に有って今俗に吉富城山とも云うが、
旧くは三ノ山城と呼んだと云う事が諸書に記されている。 高サ五十歩計、南北一町余、
東西には長く尾を引いた様になっているが、その中四町程間隔を置いて二本の道路がある。
霧島山に小林の中心より登るには此街道を必ず通るので、霧島山に向かう道ノ山の意味か。
又此地の南北は田地で、曽於郡や高原等から飯野に通う道筋である。 
上代に景行天皇が高屋行宮から球磨山の方に向かう道筋も此処であろうから、古の道ノ山とも
考えられる。 ツとチは同意であるから、美津乃夜万(ミツノヤマ)と云ったのだろう。

 又既に述べた様に、小林城と呼ぶ名が後に郷名を小林と改めたのと同じく、古代には
夷守だったものを、其後三ノ山城の名を採って郷名を三ノ山としたのではないだろうか。 
何れにせよ、この二つの流れ、即ち道の山と三ノ山城の名から三ノ山の謂れと考えられる。
 
   
○ムラ(邑)とサト(里、郷)
 出雲風土記(注1)で郷の名は霊亀元(715)年の通達で里を改めて郷とするとあり、後の
備中風土記でも霊亀年中の事とあると、我が師の平田大人が古史徴(注2)で述べている。
一般に国は広く郡県等と云うとそれより狭く、又郷村等は更にそれより狭い事を云い、
これは昔から余り違わずに国を小分けにした時の名に用いる。 
但し本居翁は、郷とは佐刀(サト)であり昔から一つである。 字について後で分かれたのは、
幸徳紀の通達で里とあったのは即ち郷のことなのに、出雲風土記等では郷の中に里が有り、
その他にも某郷の某里と云う事がある。 

古代には国又は県と云えば、其凡ての地を云う名であり、牟良(ムラ)又は佐刀(サト)等は
人が住んで居る所を云う名である。元来その意味は異なるが、凡ての地は広く、人の住む
所は其の中にあり狭い。 其広いか狭いかに因って自然と大きいか小さい名となる。
又牟良(ムラ)と佐刀(サト)との違いは、同じ程度の名前であるが、佐刀は大きくても
小さくても通用し、広く言う名と思われる。 京都を美佐刀(ミサト)と云い、奈良が都だった
時にも奈良の里とも云い、旧都を布流佐刀(フルサト)と云う事からも知る事ができる。 
牟良は此の様に京などを云わない。 それぞれ名の意味は牟良(ムラ)は人の家が群がる
意味で、佐刀(サト)は居住所(イドコロ)の意味である。
注1 出雲風土記 和銅五年(712)に朝廷から全国に風土記編纂を命じたが、その中の
 出雲国の風土記で733年に完成した。 現存する風土記は少なく、中で最も原型を
 留めていると言われている。
注2 古史徴 平田篤胤(1776-1843)の著書で文政元‐二(1818-19)発表、古伝説、
 記紀(奈良時代初期の書)、新撰姓氏録(平安時代初期の書)について論じている。
 篤胤は秋田藩士で著名な国学者、神道家



   
   二 郡司変遷

    
○日下部(クサカベ)時代
      島津庄の内、日向地方真幸院の郡司系図
 1真幸太夫日下部宿禰 次男高依 但し是以前の七十五代系図は略
 2嫡子権介日下部 久見
 3太郎忠源    供奉
 4行事  久末
 5行事  太郎  成末
 6次郎  末貞 元永譲状           *元永1118-1119年
 7太郎  真重 永暦御状           *永暦1160-1161年
 8次郎  重兼       次男貞綱     *元暦二1185年頃惟宗忠久島津庄下司職
 9太郎  貞頼       分家① 舎弟 貞信
10孫太郎 貞能          ② 貞光
11孫太郎 貞継 法名願行   ③ 貞兼
12次郎  貞季 法名妙覚    ④ 保貞   
13左衛門 三郎貞房       ⑤ 貞氏   *1333年鎌倉幕府滅亡 
                    ⑥ 貞保   
         以上日下部氏系図
    
 五代某は言う、考えるに日下部氏は古代より代々郡司を奉職した真幸院の領主である。
日下部は瓊々杵命の長男、火進命の末で阿多事人や大隅隼人等と同族である。 古代より
建久の頃迄日向等で特に勢力を持っていた。
日向国図田帳を調進者の姓名に権介等日下部宿禰盛綱、日下部重直、日下部行直、
日下部盛直、日下部依包等があり、これらの名は系図と異なるが皆同族であろう。 
島津家初代忠久公が島津庄を任された時は真幸太郎日下部重兼が領主だった。 
夫より貞頼、貞能、貞継、貞李、貞房と続いて島津家五代貞久公の時に至るが、
鎌倉幕府滅亡と共に郡司職を失っている。 
代わりに伴姓の北原右兵衛佐兼幸が日下部氏に代って真幸院を領知し(注1)飯野に在城し
小林も管轄した。 

    
 ○北原時代
北原氏の先祖は天智天皇の皇子である大友皇子に繫がり、其子余那が始めて伴姓を賜わる。 
その六世の孫兼遠が薩摩に移り、兼遠より四世の孫を右兵衛佐兼貞と云う。 兼貞に三子が
あり長子兼高は梅北の祖、次子兼俊は肝属の祖となる。 第三子右兵衛佐兼幸が北原氏の
祖となり、始めて日向真幸院の主となる。その後北原氏は代々伊東・相良と組んで日向を
乱す事があり、日向・大隅の近郷を併呑して其領地は非常に広がった。 

ある時北原周防守範兼は又二氏と同盟し球磨城主相良近江守前続は兵を真幸院に派遣して
北原を応援した。 この時範兼は相良前続の弟祐頼を加久藤郷の徳満城に招き宴会を催したが
意見が合わず喧嘩となり双方刺合い死んでしまった。 其以後相良家との関係も悪化したので
範兼の子、左馬頭久兼は島津家七代守護の元久公に保護を求めた。  元久公は軍を発して
真幸院に駐在していた相良軍を追払い、其地を全て久兼に与えた。 しかし其後北原氏は
又賊徒と組み日向・大隅を侵略するなど長い間、守護島津家に対する謀反と服従を繰り返した。

島津家十五代貴久公の時、永禄五年(1562)北原家で内乱があった。
これは北原左馬介久兼の嫡孫北原兼守が病死した後、一向宗の内乱が起り士卒は日向方面、
球磨方面へ落ちて行く者が多かった。此時北原掃部介は大河平家に頼んで横川ノ城に退いた。
又当主北原又八郎兼守が三ノ山城で病死して跡継ぎの子がなかった。 兼守の妻は伊藤義祐
の娘だったので義祐が三ノ山に来て、北原の親戚と会議して後継を立てようとした。

意見が一致しないので義祐は北原一族の馬関田右衛門佐を立て、其上で兼守の妻を
再嫁させた。北原の家来達はこれに反発し、三原遠江守(曽於郡城主)と白坂美濃守(踊武士)
は皆に先立ち貴久公に降り、夫々の地に配置された。この結果、栗野・吉松・馬関田等の士は
全て貴久公の下に走った。

この時の伊東家臣である壱岐某は私信で以下述べている。
永禄五(1562)年二月頃、真幸北原殿の家が乱れました。 此の理由は一向宗の為です。
北原兼守は此方(伊東義祐)の婿殿ですが、女子一人のままで早世する時、兼守の従弟である
同名民部少輔殿の子息を養子にと遺言しました。 この方針に決まっておりましたが、この姫も
三四歳で早世しました。 
そこで兼々一向宗と他宗の二派がありましたが、北原民部少輔と白坂下総介の両人は一向宗の
棟梁です。 一方三ノ山の平良殿(平良中務大輔伴兼賢か)や其他の家臣は一様に一向宗は
嫌いであり、又内々の恨みもあったようですが、あれやこれやで民部少輔殿がどこか立て篭って
いたのを呼寄せて親子共自害させました。 それにより当家へ連絡がありましたので、御屋形
父子(注2)共に高原迄来られました。 ところで内々御屋形は一向宗が嫌いなのを知って
いるのか、白坂下総介は自身の高崎城を棄てて去りました。 御屋形が高原に来られた時、
北原代々の士は出仕を申出て、御屋形も誰にでも親しく言葉を掛けられましたが、白坂が
呼ばれる事はありませんでした。 これを恨んだか又は身に危険を感じたか分りませんが、
春中に薩摩を引きこみ(注3)、五月には球磨へも内談をして真幸を取り返しました。 此方は、
漸く野頸、三ノ山、高原三ヶ所迄は押さえました。 
此以後真幸口の戦いが始まり、同六月には真幸の内大河平の村を此方で勝取りました(注4)

永禄六(1563)年二月(三月とも思われる)、貴久公は軍を発して三ノ山城を攻めたと云うが
この戦いは明かではない。 所謂壱岐の私信で永禄六年三月真幸南方くぼ谷の町全てを
薩摩軍が大勢で破るとするのみである。
久保谷は永禄九(1566)年十月に三ノ山城を攻めた時、花立口には義久公、義弘公、久保谷
には左衛門督歳久陣営などと有る。 久保谷とは小林城より三-四町程西に当り、今でも
久保谷と云う地があり、其辺に本町又たきの口等云う地があるので符号するから三月であろう。
この時貴久公は北原掃部介兼親に真幸院を与え飯野に在城させた。

この北原兼親についての背景は次の理由による。 これより前北原八代目の又五郎貴兼が死去
して、長子豊前丸は未だ幼かったので叔父の長門守立兼が家督代(九代目)となるが、文明
年間(1469‐86)日向飫肥の戦いで戦死した。 そこで立兼の弟である民部少輔兼珍が院主
地位を簒奪して十代目として真幸院を領有した。 その後三世代続き又八郎兼守(十三代目)
に至る。 長享二(1488)年に前述豊前丸は球磨に逃げて相良氏の世話になっていた。 
相良氏の妻は豊前丸の叔母だった事による。成長して中務大輔義兼と称して相良左近将監
時泰の娘を娶った。 其子を武蔵守兼泰と云い、兼親は即ち其子(豊前丸の孫)である。

その由緒により兼親を球磨より招聘して真幸院を与えたので、兼親は再興の恩を感じ、北原氏
の親戚も兼親に勧めて伊東や相良との関係を絶ち一筋に島津家に仕える様にさせた。
ところが兼親の叔父左兵衛は吉松に居たが、密かに伊東や相良に通じて兼親を亡ぼす事を
謀った。 貴久公は、兼親が境を伊東・相良に接して孤立しては対抗できないと考え、移転させ
伊集院神殿(コドン)村を代わりに与えたので兼親はその地に移った。 初代の北原兼幸より
十五代兼親(注5)に至って移転となった。

     
○島津家の真幸院取得
 永禄七(1564)年、この結果貴久公は真幸院を次男義弘公(注6)に与えて北方の押さえとし,
十一月に義弘公は加世田より移り飯野城を拠点とする。 
この頃三ノ山は伊東氏が領有しており、兵を三ノ山に集め真幸を狙っていた。 そこで貴久公
は伊東氏が重兵を三ノ山に駐屯させて球磨の相良を誘ってしばしば真幸院に侵寇する以上、
早く三ノ山城を押さえ敵を退けなければ後患になると考え長男義久公を総督、三男左衛門尉
歳久を副将として義弘公と飯野で会議し、永禄九年十月廿六日軍を発して三山城を攻めた。

敵将米良筑後守が城を守っていたが、事前に菱刈氏より密かに通報があったので、予め軍兵を
増して城の防備を固めていた。 義弘公は城東の水ノ口より攻め、歳久は城西の大手口より
攻める。歳久の兵が烈しく進み、先ず外域を破ると義弘公も二ノ丸を破った。 此時伊東方の
戦死者は米良主税助、福永新兵衛、米良筑後、同弟美濃、肥田木段右衛門、紙屋図書、
北原雅楽助、同又八郎、橋口河内等の名が見える。 敵は退いて本丸を保ち、矢石を飛して
堅く守り落城しない。 

その時伊東氏の須木の兵が救援に駆けつけ、援兵は城東の稲荷山に布陣して弓鉄砲を飛ばす
事雨の様である。 我軍は前後に敵を受けて苦戦に陥り、其上義弘公が重傷を負い痛みも
激しい。 そこで義久公は城を一度に落とす事は難しいと判断し、五百人を帰路に伏せて、
兵を撤退させながら戦った。敵が追って城外に出ると伏兵が起り反撃したので敵は敗走して
城に入った。

此戦いで城を落せなかったのは、予め敵が守備兵を増やした事によると云う。 翌永禄十年八月
貴久公は、再び三ノ山を攻めると偽って兵を飯野に集め、自らも飯野に行き軍議を行なった。 
菱刈氏は又是を伊東方に通報したので、敵は守備を増やして我軍を待ち構えた。
十一月廿四日義弘公等と命令を改め、義久公軍を潜行させ突然菱刈氏の馬越城を攻めて是を
抜き、勢に乗じて関連九城を陥れた。更に進み菱刈大膳亮隆秋を牛山城に包囲して翌年に
至った。

一方伊東氏は飯野の隙を伺い田原塁を築き真幸を狙った。 田原塁は飯野城の南々東に
当たる広野である。南の方に細い尾根の小道があり、其外東西北共に深い谷で飯野城に向って
一筋の入口がある要害の砦である。飯野城から四キロ余でその間にはハキ岡と云う小さな岡が
ある。 義弘公が城から見ると此岡の蔭で田原砦が見通せないので、士卒や百姓を投入して
険阻を切崩して砦が見える様にして朝夕監視していた。

義弘公が大口より飯野に還る頃、伊東義祐は会議して、今や島津氏の勢いは日々強大と
なって行く、もし我方へ薩摩軍を受ければ我軍は危ういだろう、故に先に軍を発して飯野を
取るべきとして、大軍を三ノ山に集めた。 そして飯野の田原塁より伊東家の領域内迄連砦を
設け守備兵を置き、烽火を上げて緩急に対応する準備をした。この連砦は田原塁から龍峰、
三山、岩瀬、野尻、戸崎、矢筈、紙屋等で東に伸びている。 そして元亀三年伊東軍は三山
より大挙して飯野へ侵攻したが、義弘公はこれを大に木崎原で破ったので以後伊東氏の
勢いは衰える。

天正四(1576)年八月、義久公は義弘公、歳久、家久等(注6)と共に高原城を攻めた。 守将
伊東勘解由が城を棄てたので、是以西の三山、高崎、内木場、岩瀬(内木場、岩瀬共に
小林ノ地)、須木、須師原、奈碕(須師原、奈碕共に須木ノ地)の八城は戦わず城を棄てた。
義久公は三山城に入り勝鬨を発し諸将と勝利を祝い凱旋した。 
是以後我軍の威勢は日向に拡大し、翌年十二月伊東氏の本拠である佐土原を破った。 
大将義祐は一族と共に豊後に逃亡した。

義弘公は凱旋すると直ちに川上四郎兵衛忠兄に命じて三山城を守らせ速やかに城壁を修繕
させた。 忠兄は年十六だが性質は鋭敏で才略もあったので、足軽を動員して民家の板戸を
集めて城上の垣にして短時日で修復しので、公はその速成を誉めている。
其後鎌田尾張守に三山城を守らせた。 

慶長四(1599)年伊集院源次郎忠真が自領庄内に籠もり叛いたので周辺の諸城は皆守備を
堅固にした。 その時当城は上井次郎左衛門尉及其子伊勢守覚兼が守り、以後代々地頭を
置くようになった。 以上が真幸院古来からの沿革の概略である。其事跡で三山に係るものは
大方挙げたつもりであるが、事実の脱漏、誤謬があるようなら後日是を再考すると云う事で、
此処彼処に著者自身追加したり、他書により書き加えたものもある。

注1 日下部貞房の時、鎌倉幕府九州探題北条英時に従ったが、足利尊氏に協力した島津
 貞久軍に破れ没落した(1333年)。 一方貞久はこの時薩・隅・日の守護として認められる。
注2 伊東義祐(1512‐1585)日向伊東氏十一代当主、戦国大名として佐土原を本拠として
 日向で伊東四十八城と云われる最盛期を築いたが、島津家に破れ天正五年(1577)豊後に
 亡命。  子義益(十二代)は早世(1569年没)
注3 球磨に滞在していた北原兼親を飯野に迎える様、守護の島津貴久に進言したのは白坂
 下総と云われている。この結果薩摩軍と球磨軍が飯野に駐留していた伊東軍を追い出したと
 云われる。
注4 北原兼親が飯野在城の時、永禄七年(1564)伊東家により大河平が侵略される。以後
 兼親は更迭され、島津義弘が代わりに飯野に入る。 以後真幸院の飯野以西は島津家、
 小林以東は二十年程伊東家の領分となる
注5 北原家の真幸院領主代々は次ぎの通り
   北原兼幸(初)・・範兼(五)左馬頭久兼(六)・貴兼(八)立兼(九)兼珍(十)久兼(十一)・
   兼守(十三)・兼親(十五)
注6 島津家真幸院関係者 
   忠久(初代)島津庄(真幸院含む)の代官職の後、日向薩摩の守護職 1185年
   貞久(五代)薩摩、大隅、日向の守護 建武元(1334)年
   元久(七代、烈翁公)北原家六代久兼を保護、球磨相良家の真幸院進出を押さえる
   貴久(十五代、大中公)三州(薩・隅・日)統一、戦国大名として島津家再興 
   義久(十六代、龍伯、貫明公)貴久長男、九州統一を進める。
   義弘 (十七代、 忠平、兵庫頭、惟新、松齢公)貴久二男 永禄七年(1564)飯野入城後、
      天正四年(1576)から全真幸院主、飯野時代含め廿五年間滞在
   歳久(左衛門督)貴久三男 小林城攻めに参加
   家久 貴久四男 高原城攻めに参加


2
 
 三 歴代小林地頭
川上四郎兵衛忠兄
  天正四(1576)年八月、三山(小林)地頭、年齢十六歳。
  三山城代或は三山城を守備
鎌田尾張守政年
  天正四(1576)年八月、其後龍伯公(島津義久)が政年に三山城を保持して
  守らせたと云う。
上井次郎左衛門尉秀秋(入道伝斎、後に諏訪と改める)
  義弘公の老中に任ぜられた。 或書では、三山が義弘公の所有になったので
  上井次郎左衛門尉秀秋を地頭に任じたと言う。
  後に綾地頭となり其処で病死し墓は伝徳寺の境内にある。
  或書に依れば、当城は上井次郎左衛門尉及び其子伊勢守覚兼が守備した。 
  是により代々地頭を置くと云う。此書に依れば此時地頭の名称が始まったと思われる。
諏訪伊勢守里兼
  初新五郎又は神五郎里兼とある。 後に義弘公の老中になる。
  後に次郎左衛門と称する。
上井仲五兼政 次郎左衛門里兼の弟である。
  文禄(1592)より慶長(1596)の頃迄か。 詳細不明
上井市正兼通
  上井右京と云う人の名が元和四年(1618)の文書にあるが市正と同一人かどうか
  不明だが、是も同じく地頭と思はれる。その理由は押川某の家蔵書に次の様に
  記されている。

    江戸城天守閣普請用腰板の供出 一組
  石高六百七十一石        上井次郎左衛門殿
  石高九百二十八石八斗七升    小林郷士一同
   外百七十八石七升引入の石高は除く
  石高二十一石七斗四升      四本主税之助殿
  合計千六百廿一石六斗一升(内一石六斗一升は過剰)
  板数九枚 但百八十石に付き一枚宛
 一板長七尺、幅一尺四寸、厚サ七寸、但し寸尺の本を添える。
   船元は上下を鋸引きの上、木口を厚紙で被せる事
 一十一月末迄に船元は物品を受取担当に渡し、墨付は市来八左衛門殿と
   山田民部少輔殿が近日中に承認。
 一船元に一括で引渡す事が難しい場合は、板数を前もって何処の倉庫に
   何枚届けると予定を通知し、山田民部少輔殿と市来八左衛門殿の了承を得る事。 
   揃った板は毎年の上納受取の倉庫を港毎に定めてある所に自由に届ける事。 
 一藩主直轄地及び無役の者も今回は供出の対象になるので、そのつもりでいる事
 一江戸城天守閣普請の為に進上するものであるから、手違いのない様に終始
   専念する事
    元和四年(1618)十月廿三日 
         諸右衛門、紀伊守、摂津守、図書頭、下野守(何れも藩家老)連署
    上井右京亮殿と宛書がある事による。

鎌田左京亮政喬 寛永初め頃(1624)の地頭と思われる。
相良親右衛門長貞 初め杢助長治、寛永の頃の地頭、年月不明
諏訪仲右衛門兼安 仲五兼政の後嗣、古名は上井
  寛永十一(1634)年七月に小林に移り、同十四(1637)年八月十四日此地で
  死去、 年五十三、昌寿寺に葬る。

諏訪杢右衛門兼利 家来の黒木氏両家は今でも小林に居住
  寛永十四(1637)年、小林地頭の石高は二百石に加増される
  寛永七年(又は十五年とも)頃から寛文三(1663)年七月三日迄地頭職。 
  此後居地頭制度はなくなる。 天正(1576)四年より寛文三年(1663)迄
  凡そ八十八年間は居地頭(現地住居)だった。
相良新右衛門長隆 付人の須賀主殿助は三十三石七斗で隈ノ城から
  寛文五(1665)年に小林に移り、同七年小林を去る。
  寛文三年(1663)七月三日地頭職。是については時の家老である
町田勘解由、島津中務より小林噯宛に文書がある。(注1)
伊集院十右衛門久朝 付人の伊集院以春は寛文七年に小林に移る。
  寛文六年(1666)十月十八日から同八年(1668)八月迄地頭職
  家老の新納五左衛門、島津帯刀、島津図書からの伝達書が小林噯宛にある。
高崎惣右衛門能延 付人衆の木脇六左衛門、鹿島次左衛門、伊瀬地十
  左衛門、木村平右衛門、橋口杢右衛門、堀之内宮内左衛門、江田半  
  左衛門は寛文九年(1669)当地に移り延宝六年(1678)阿多に去る
  寛文八年(1668)八月廿五日から延宝五年(1678)正月地頭職
相良新右衛門長隆 
  延宝五年(1678)正月十五日から同六年(1679)九月再び地頭職
比志島主膳国治 
  延宝八(1680)年申七月四日から天和三年(1683)二月 地頭職
黒葛原吉左衛門忠通 後に治部
  天和三年(1683)三月十三日から元禄九年(1696)十月 同上
樺山諸右衛門久福 
  元禄十二年(1699)三月廿八日から宝永二年(1705)十一月同上
樺山助太郎忠郷 
  宝永二年(1705)十一月一日から同三年(1706)正月廿七日同上
島津求馬久房 
  宝永三年(1706)正月廿七日から正徳二年(1712)五月七日同上
名越左源太恒索(初め平八) 
  享保十一年(1726)二月から寛保三年(1743)正月十一日同上
相良源太夫長儀 
  寛保三年(1743)正月十一日から延享三年(1746)八月 同上
仁礼仲右衛門仲古
  延享五年(1748)正月十一日から明和七年(1770)正月 同上
大野多宮久房(後隼人)
  安永六年(1777)正月十一日から寛政十一(1799)十二月同上
川上織衛久譲
  寛政十二年(1800)正月十一日から文化七年(1810)正月同上
市田壬生義宣(後長門)
  文化八年(1811)正月十三日から同十四年(1817)八月 同上
島津波門久住 
  文化十五(1818)年正月十一日から文政二年(1819)五月同上
末川将監久光
  文政三年(1820)正月十一日から同八年(1825)四月  同上
調所笑左衛門
  文政八年(1825)五月十五日から同十年(1827)正月  同上
野村主礼盛贇
  文政十年(1827)四月二十二日から天保二年(1831)六月同上
長束市郎右衛門正澄
  天保三年(1832)正月十一日から同十二年(1841)丑七月同上
名越右膳盛胤 
  天保十二年(1841)八月十九日から嘉永元年(1848)正月同上
岩下新大夫祐順
  嘉永元年(1848)正月十一日から同二年(1849)五月 同上
川上矢五大夫久連
  嘉永二年(1849)から同三年(1850)五月      同上
山口直記利紀
  嘉永三年(1850)五月から同五年(1852)正月    同上
森川利右衛門長喬
  嘉永五年(1852)正月十一日から ―以下原本空白―       
頴娃織部久武
  嘉永 ―原本空白―  から安政五年(1858)正月   同上
福崎助八李脩
  安政五年(1858)正月十一日から同七年(1860)正月  同上
郷原転久寛
  安政七年(1860)正月十八日から元治元年(1864)九月 同上

名越左源太時敏   旗頭兼用達 丸田竹翠
  元治元年(1864)九月 
    文書内容(注2)
 一大番頭格(戦時の指揮官)
 一御役料高百八拾石
 一小林居地頭兼加久藤、飯野、高原、野尻、須木
 一惣物主(惣物頭)       姓名
 右の通り役職並びに地頭職を命じられ役料を下される。
 小林は重要な地であるから、普段から人心の和を計り、武備を怠たらぬ事。 
 居住地『小林』は勿論、近郷迄も支配して、文武共に引立て軍備を調える
 藩の方針を十分理解し、全てに行届く様に心がけて勤める事。 
 馬関田の居地頭と万端良く打合せる事。 今回特別に昇格を許されたものである。
       (1864)九月十六日
    其後の文書
 加久藤については馬関田居地頭が支配する様に別途指示があったので申伝える。
       (1864)十月
 慶応二年(1866)六月、居地頭の「居」の字を除き、甑島、長島については
 移地頭の「移」の字を除く事になった。
 又其後馬関田及び諸県郡吉田、吉松、加久藤について
               名越源太
   右の通兼地頭職を命ずる。
     七月(1866)

中原周介高綱
  慶応二年(1866)八月小林、飯野、加久藤、馬関田、吉松、吉田
       高原、野尻、須木地頭職分として高百石拝領、小林居住
  後に小林一組
    物主(物頭)      名越左源太の代り
                         中原周介
   慶応二年(1866)十月命ぜられる。

谷川次郎兵衛      旗頭 千田佐左衛門
  慶応三年(1867)二月、九箇郷(小林、飯野、加久藤、馬関田、
                吉田、吉松、高原、野尻、須木)地頭職
    文書に記す
 大番頭役と勘定奉行を勤める役に地頭職を命ずる。
 役料百八十石は今まで通り下される。
 随って役職の趣意を貫徹し、万事行届く様命ずる。

近藤七郎左衛門国中
  地頭職分百石
  慶応三年(1867)八月小林、飯野、加久藤、馬関田、吉田、
                吉松、高原、野尻、須木の地頭職
  其後 小林、野尻、須木、高原、高崎
         地頭 近藤七郎左衛門
           但今まで通り小林に居住

  右は此度英国式軍制(注3)を採用するに当り、各郷の部隊編成が
 変更になるが、今度の編成では一隊の中に各郷が入り交り不便もある。
 そこで支障がない隊は現行通りとし、その他は右の様に地頭の管轄を変更する。 
 随って一大隊を構成する郷の中に二箇所宛重要な拠点を設ける為、右の様に
 郷を組合せて地頭を任命するので、攻守緩急自在になる様にして城下を守備する
 任務を尽くす様命ずる。
         慶応三年(1867)九月

注1 噯(アツカイ)地頭が現地不在であるため、通常の政務は郷士年寄(複数)の
 合議で進めた。これを噯(郷士年寄)と云った。
注2 寛文三(1663)より元治元(1864)迄二百年間、平和な時代の象徴か、
 小林地頭は鹿児島在で小林に居住していないが、幕末の元治元年より居住に変わる。
 又地頭は戦時には管轄郷士の部隊指揮官の役割を果たす事を改めて明示されている。
注3 薩摩は文久二年(1862)の生麦事件に端を発し、翌年(1863)英国艦隊を迎えて
 鹿児島湾で戦ったが、元治元年(1864)には洋式訓練の為開成所を設立すると共に
 急速に英国と接近し、慶応元年(1865)十九名の留学生を英国に(密出国)送っている。
 又真幸院の編成は全体を一大隊として飯野以西の郷で一中隊、小林以東の郷
 で一中隊を編成する為、地頭の管轄を分けたものと思われる。大隊の指揮官は
 城下士『鹿児島城下)が任じられたと言う。




    四 小林郷の周囲
 ○周囲 六万千二百八十一間半(111.4km)
  町の場合 千二十一町廿一間半(111.4km)
  里の場合 二十八里十三町廿一間半(111.4km)

註1 距離の単位 一里=三十六町=3.927km
   一町=六十間=109m 一間=1.82m
   

    
五 小林より鹿児島及近隣他邦郷、境迄の行程距離
 ○小林五日町御制札から鹿児島城下迄(註1)
   二十一里十二町二十二間(84km)西真幸筋白銀通り  *吉松経由
   十九里半六町五十一間(75km)東荒襲通り    *高原、霧島市経由
   国分浜ノ市迄十三里(52km)海上六里(24km) *現霧島市浜之市経由 
 ○日向国諸県郡
  飯野御制札(現えびの市五日市付近か) 
    三里(12km)北西方向、街道上、郷境の柳の本迄一里三十五町四十三間(約8km)
    但し小林御制札からの距離。 以下の各地迄の距離も同所から。
 ○右同
  須木(現小林市)四里十六町(約17km)
    北東方向で街道上郷境小杉ノ本迄二里六町四間(約8.5km)
 ○右同
  野尻(現小林市)三里十八町(約14km)東方向、郷境岩瀬川迄約4km
 ○右同
  高原 一里廿七町(約7km)南西方向、境目の後谷迄約6km
 ○右同
  上荘内(現都城市)南方向山路、郷境の火常峯(霧島山御鉢)勧請堂迄24km
  但し上荘内は元来都城の中だったが、明治二年都城を分けて上庄内と下庄内と云い、
  同四年新に都城県が建てられたので下庄内は又都城と云い、
  上庄内は荘内と称する旨布令が出た
 ○大隅国曽於郡
  襲山(現霧島市国分重久)南南西の方向で山路、境界の霧島山中瀬戸尾越
  (現高千穂河原)迄五里(20km)程
 ○同国桑原郡
  踊(現霧島市牧園町)西南西の方向で山路、境界の韓国嶽頂上迄六里(24km)余
 ○他県
  肥後国球磨郡人吉九里(36km)北西方向になり、加久藤越え経由。
  国境は北山山中方カ水池の元迄四里半(18km)北の方になる

注1 五日町 現小林市細野五日町、市内本町付近で今も商店街である。 
   制札は藩の禁止事項など掲示したもの。現在の国道221号線上で265号線の
   始点となる 本町一丁目付近(小林駅北東200m程)に制札があったと推定する。
   鹿児島への通路は霧島山脈の東の縁に沿う道(荒襲経由)と西の縁を行く
   (般若寺越え)があり、 東廻りでは霧島市国分の港から船も利用できたと思われる。


   
 六 石高総計
○総高一万二百三十石七斗九升六合六夕九才
 内高七千五百十三石七斗七升二合四夕六才   竿次帳現地
  内高六千五百六十六石六斗三合四夕四才   百姓請取
   内高二千五百五石八斗三升四夕四才    御蔵入
    高四千五十七石二斗八升三合五夕八才  御軍役高
   高九百四十七石一斗六升九合二才     諸浮免
  高八百十四石五斗六升五夕一才     漸々御竿入永作
  高千九百三十九石四升七合九夕八才     自作地
  高六十石四斗九升一合四夕六才       諸屋敷高

 田の総計 四百八十六町四反六畝廿八歩  
 畑の総計 六百三十二町七反五畝十六歩
  外に二十町三反三畝十七歩 屋敷
注1.総高は十九村落の当高の合計と一致するはずだが約200石多い
   百姓請高(百姓生産高)は同上村落の各村百姓請高合計と一致する
   筈だが200石少ない
   軍役高は七士族石数の軍役高2,364石より大幅に多い
   蔵入は一般に年貢の事を云い、鹿児島藩の場合、百姓は8割、士族は一割弱と
   云われるが少ないようである
   いずれにせよ関連性は更に検討の余地ある。

  
  七 士族の石数
○高二千三百六十四石一斗九升六合六夕五才 小林士族軍役高
  内高千四百八十八石八斗五升四合八夕五才 自作地
  高三百九石七斗二升四夕二才      門付高
   内高                高原広原村
  高五百十七石二斗六升三合二夕五才   自作高

注1 士の人口比率は江戸時代5-6%と云われているが、鹿児島藩の場合
   士族の比率が人口の20-30%と云われ極端に高い。
   江戸時代初期一国一城制が幕府方針となった時、同藩独特の外城制度を取った。 
   武士を外城郷に分散させ給地を自身で耕作する農兵的な仕組み取ったので、
   高い士比率を維持できたものと思われる。小林郷の士の石高数字も八割以上は
   自作農業である。 又郷内の士の人口比率はこの書の人別(明治三年調査)に
   よれば三十五%程になっている。
 

     
八 人数総計
○人員凡六千四百人      明治三午(1870)年調査
   内男 三千三百四十八人
     女 三千四十一人
   上記以外に男女凡六百人余の諸所からの転入者があるがこの年の数字に入っていない。


     
九 牛馬総計
○牛馬四千二百九十四匹
    内牛千三百二十九匹 
      内雄牛千九十九疋
        牝千二百十六疋
     馬二千九百六十五匹 
       内駒三百五十三疋(乗馬用)
        駄二千五百八十一疋(荷駄、農耕用)
  

     
十 家部戸数総計
○総家数 千七十五
○総戸数 千五百六十九


   
  十一 士族の家名及び姓氏
○総士族家数四百八十五家(分家含)注1
  人数二千二百四十四人
   内男千百六十六人
     女千七十八人
    外に五十家の転入があるが明治三年調査に入れない。
 以下姓、分家数、系図有無、出自及び名乗字をしめす。
  例 伊福家は分家含め四家、家系図あり、出自は平氏、名前に「景」が使われる

家数 系図他 出自 名乗 家数 系図他 出自 名乗
野辺 7 家系  盛 伊福 4 家系  景
坂元 7 富満 13
押川 8  近 西田 6  時
上野 3 植村 3 本上村
永野 6 家系 柚木 1
平賀 1 旧石塚、中古後藤 藤原  祐 本田 4
竹之下 8  茂 斉藤 9 藤原  實
堀之内 1  年 黒木 4
西 3 古名淵上  頼 瀬戸口 1
森岡 6 平野 1
壱岐 2 宗像 2 本宗方
押領司 8 早田 3
永井 3 中窪 2
崎山 3 井之口 3
丸尾 1 川畑 2
柚木崎 2 前田 1 菅原
温水 6 山口 8
秋永 1 山本 1 旧松葉
永山 6 大牟田 4
山之内 1 井上 3 系譜  政
本村 2 四藤 本紫藤
宮原 4  惟 松田 5
有馬 3 橋口 4
高岩 4 水間 2
中山 13 楢木 2
横山 6 赤木 4 古名河野 越智  通
的場 1 時任 13 系図 藤原  為
栗屋 5 鶴田 3
川野 2 本河野系図 越智  通 恒吉 1 島津家支族家系  長
鳥集 3 大脇 3 旧佐々木  為
興呂木 1 永峯 2 家系長嶺 藤原  政
上井
山下 1 萩原 1
田畑 2 川添 2
籾木 1 立本 3
高野 1 深瀬 2
大坪 2 中古三浦氏  貞 園田 3
大川平 2 青山 2
脇元 2  祐 里岡
野坂 1 大山 1
塚田 1 川原 3
真方 1 永里 2  菊池家古文書 藤原  隆
馬場 1 八重尾 2 菊池氏流 藤原  矩
田口 2 山波 1
真崎 1 高野瀬 1 川之瀬、河瀬 藤原  頼
小田 1 松元 5
富永 1 中馬 1
高妻 1 松方 2
千里内 1 弓削 2
6 野元 2
赤崎 2 中村 3
湯山 1 相場 1 本愛場
宮之原 1 児玉 2
3 野田 1
関田 2 須崎 2 系図 藤原  祐
溝口 3 羽島 1 系譜 惟宗  友
柊崎 1 窪田 1
稲留 2 1 藤原  長
大岐 1 向井 4
脇田 1 石塚 1
安藤 1 湯之前 1
餅原 1 古名大塚  惟 大迫 1
中島 2 迫田 1
岩下 1 津久田 1
出水 2 黒江 1
柳川 1 湯山 1
中野 1 指宿 2
寺師 1 二ノ宮 1
片野坂 2 旧加世田士 宇都
肥後 1 旧川辺士 春田 旧川辺士
本田 1
以下安藤から門松迄の五十姓、凡百二十家は島津主殿家来
安藤 6 徳田 3  通 
飯田 1 田原 8
成合 1 大迫 3
小川 8 宇都 8
久留 1 2
有屋田 2 宮之原 1  重
田島 2 阿久根 2
高崎 6 重山 12  芳
黒木 7 枦山 3
田村 1 田中 1
1 北原 2
郡山 3 折田 1
山之内 3 鳥丸 1
野本 2 山下 8
大山 3 橋口 1
藤田 2 川野 3
川口 1 武石 2
斉藤 1 本田 1
堀之内 1 戸高 2
池田 1 岡元 2
古川 5 井前 2
金丸 1 前田 1
溝口 1 能勢 1
佐近充 1 伊達 1
鳥丸 2 門松 1
下の両姓七家は旧島津
松元 5 大山 2
鈴木 1 元高岡士


  
 十二 小林全図

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注1 鹿児島藩郡郷図
   「鹿児島県の歴史」より




  
 十三 足軽家及び名字
○足軽家二十一、  人数八十二人

鉾立三 野添四 川原一 武村一
浜田一 真方一 坂元一 有馬一
和田二 池田一 坂下一 藤田一
野崎一 木之瀬 重信一



    
十四 社家並神社付家部姓名
○社家並神社付家部十二

斎藤三 鹿口一 宮原一 夷守神社之内侍
浜島三 内村一 半学坊  金蔵



  
  十五 下人
○下人家部三十九
  人数百四十九人


    
 十六 増人 
○増人家部三十三
  人数百四十二人


    
 十七転入者  
○転入者家部百四十四
  人数


      
十八居住者  
○居住者家部凡二百余
  人数 不定


   十九 村落
  
○東方村
  旧高辻帳ノ高七百八十八石九斗三升五合三夕
  当高七百三十九石八斗三升九合三夕九才
   内高五百八十一石五斗六升六夕二才  百姓請取

鸙野屋敷 内門 中之屋敷 桑水流屋敷
山之口屋敷 飯谷門 大窪屋敷 栗巣野門
下之薗屋敷 下り藤屋敷 大久津屋敷 橘八重屋敷
中窪屋敷 上之原屋敷 遊木猿屋敷 西水流屋敷
深田屋敷 下津佐屋敷 東高津佐屋敷 橋満屋敷
上之薗屋敷 内之木場門 上原屋敷 永野屋敷
池之上屋敷 赤木屋敷 上野屋敷 谷之木屋敷
内久保屋敷 榎久保屋敷 坂之下屋敷 西高津佐屋敷

家部三十二 戸数六十七 人数五百六十人 用夫百九十七人
東方村は昔からの名前で、名称は郷の麓の東の方に当る処から、東ノ方にある村と
字の通りである。 そして村の意味は人家が群る事である。 委しくは既に小林郷の
所で述べているので参照されたい。 門と屋敷のことは後述する。
注1.門、屋敷は数家族で構成、用夫(イブ)は門、屋敷に属する15-60才の男子

  
○水流迫村
 旧高辻帳高二百八十八石五斗二合六夕
 当高二百九十石四斗一合五夕
  内高二百二十石四斗八升八合五夕三才 百姓請取

綿内門 田之上門 山之上門 水流門
萩之窪門 上之薗屋敷 小薗門  炭床屋敷
小水流門 立代屋敷 穂屋之下屋敷

 家部十一 戸数二十 人数百六十六人 用夫三十四人
水流迫村は大昔水流之迫村と呼んでいた。 此の地は元来岩瀬川の川沿にあり、
又綿内といふ所に泉があり、その溜池より村中を流れ通るので水流狭所(ツルサコ)の
意味であろう。 狭は狭い事を云い、所は彼処(あそこ)、此処(ここ)、何所(どこ)等と
同じである。

 
 ○堤村
 旧高辻帳高六百四十石二斗四升八合
 当高千四百九十七石三升八夕五才
  内高六百三十六石七斗一升五才   百姓請取

福留門 中村門   前田門 堤門 
有田門 岩淵門 岩満門 末盛門 
坂下門 田中門  竹之内門 水流薗門
西之薗門  有村門 新田門 楢木門
山田門 末永門 久保薗門  吉薗門 
富吉門

 家部二十一 戸数二十六 人数百二十人 用夫四十九人
堤村は元々堤分村と呼んでいた。 この地は元来川沿にある村であるが水を雍(セキ)
止める堤を多く築いた所である。 堤の意味は水を外へ漏らさず、溢れさせず包むの
意味から来ている。
字鏡に披陂は土で水を雍く事で豆々牟(ツツム)とあり、和妙抄に陂堤、豆々三、堤、
隄、堤とある。

  
○細野村
 旧高辻帳高六百三十二石五斗四升二合
 当高三千二百七十三石三斗一升六合三夕 
  内高二千二百七十三石三斗一升六合三夕  百姓請取

永田門  前村門  徳永門 本市門
外永原門 富永門 東脇本門 脇之上門
飯盛門 小屋敷門 内永原門 東薗門
村山門  新満永門 軸屋門 有馬門
中薗門  福島門 加治屋薗門  小薗門
北雑敷門 安影門 樋之口門 前原門
倉薗門  田之上門  六部市門 上仮屋門 
下仮屋門 城山門 森永門 大工屋門 
内仮屋門 前田門  沖満永門 宮之下門
内満永門 内田門 志戸本門 南雑敷門 
外薗門 前満永門 満窪門 水増門
吉永門 吉留門 大紋門 満薗門
吉本門 榎田門 轟之上門 塩鎌門
脇元門  南薗門 山中門 新村門
内村門 山下門

 家部五十八 戸数六十七 人数四百十四人 用夫百七十人
以前は十日町村(旧高千五百五十三石三斗三升九合)と云う所があったが、
今は細野村に属し全体を細野村と呼ぶ。
十日町村の名称は今も十日町と云う町があるが、その町が村の中にあったからである。
十日町の名称に付いては後述町の部で説明する。
細野村の名称は並穂翁によれば、穂裾野村から来ていると云う。 又穂添之村或いは
穂襲ノ村かもしれない。 それは農地が大変広い地であるから細野とするのは如何かな
と云う感じがするので敢て異説を紹介したい。
山裾に宮ノ原と云う広大な野原があるが、重豪公の時代、安永七年(1778)より天明
七年(1787)の間毎春に杉を植えさせ、凡そ杉の穂五百九十八万七千六十本余と云う。 
山裾に沿って東西一里十三町余(5km余)に渉り宮ノ原御仕建杉と名付けられた。
或人が云うには、藩内に比べる所がないと。 畑にする手もあろうが今尚野原もある。

 
 ○後川内村
 石高は前の細野村に合せてある。

柚木脇門 北之薗門 外島田門 木下門
小堀門 内島田門 堀之内門 大塚門
野間門 佃門 窪門 西之間門
井出之口門 内竹之内門  古薗門 新竹之下門
外竹之下門 永吉 倉元門

 家部十九  戸数四十 人数百三十六人
此村は元細野村の内だったが、後に割て枝村としたものである。 
後川内(ウシロカワチ)の名称は少し後に流れる辻堂川と云う川の内側に位置
するので後川内村である。

  
○南西方村
 旧高 六百三十四石五斗八升一夕三才
 当高 千五百三十三石一斗三升五合七夕八才
  内高九百十三石九斗四升四合一夕  百姓請高

鬼目門 黒沢津門 吉村門 西立野門
岡之薗門 熊之迫門 鳥越門 窪田門 
東立野門 広庭門 今村門 孝之子門
石氷門  谷屋敷 轟門 中津門
大出水門 上之薗門 上今別府門 下今別府門
今東門 立山門  神之原門 中之屋敷
田中屋敷 下之薗門  平川門 小出水門
中之別府門 東木場門 平木場門

 家部三十一 戸数五十八 人数三百七十七人  用夫百二十人
以前は西方村と呼んでいた。名称は郷の麓から見て西の方にあるからと思われる。 
後に今の様に南の字を加へた理由は此の地は少し南に寄っているからである。 

  
○北西方村
 旧高 四百三十二石八斗七升八合
 当高 六百九十四石三斗五升
  内高四百九十五石五斗二升八夕四才  百姓請取

有村屋敷 神之薗屋敷  今村屋敷 外種子田門
今別府屋敷 大窪門 脇屋敷 大丸屋敷
橋谷屋敷 牟田門  黒仁田門 深草屋敷
仮屋屋敷 柚木山屋敷 永久井屋敷 内種子田門
坊薗屋敷 入佐門 外入佐門 岡原門 
岡原名子 南薗門 西種子田門

 家部二十二 戸数四十三 人数三百五十六人  用夫九十七人
以前は北方村と云った。名称は郷の麓から見て北方向の村であるからだろう。
それを後に西の字を加えたのは、此の村が少し西に寄っているからである。

 
 ○真方村
 旧高二百九十五石五斗一升五合一夕(旧真方村のみ)
 当高千八百八十四石七斗八升三夕一才
  内高千二百四十四石六斗八升二合九夕二才  百姓請取
   小林村 旧高七百三石四斗三升二合
   大豆別府村 旧高二百九十五石九斗四升九合
 右の二村は以前別個だったが、後に三村を合せて今は真方村と呼ぶ事になった。 
ところで小林村の名称は小林の城と云う城名が起源で村名に引継いだ。 今でも
小林原と云う地があるが、前に委しく述べた。 
又大豆別府の名称は遥か昔に豆を植え始めた所と言い伝えて、豆乃比布(マメノビフ)
と呼ぶ地があり、その名から転じたものと思われる。 名称は豆殖生の意味だろう。 
それを古代は万米乃比布(マメノビフ)と専ら唱えていたが、豆を大豆(マメ)とも常に
書くので、大豆別府となったものを今では音読みで陀伊豆比布(ダイヅビフ)と呼ぶ
事もあるが、土地の人が云う豆のびふと呼ぶのが古い言い方だろう。 
和妙抄に大豆ハ和名万米(マメ)とある。

小林門 前田門 杉薗門 杉鶴門 
中薗門 坂元門 中村門 倉薗門
内門 北之薗門 下之村門 松之元屋敷
有尾屋敷 窪谷屋敷  西窪門 亀沢屋敷
正学門 水流門 鵜戸門  西之村門
西之薗屋敷 橋之口屋敷 殿所門  市谷門
和田門  松尾屋敷 大豆別府門 榎田門
保揚枝門 宮之下屋敷 中之神門 南正覚門
吉丸門 松ケ迫屋敷 上之神門 木切倉門
有留門 青木門  内之倉門 吉永門
東窪門 今屋敷 海蔵門 田中門
吉之薗門 白ケ沢門 大部薗門  吉村門
宮窪門

 家部四十九 戸数七十八 人数五百七十七人 用夫 百八十人

真方村の名称は諸県村からだろう。 その理由は本居翁の説で、県は上田(アガタ)
であり元の意味は畑である。 単に田舎の事と心得るのは間違いで、田舎を県と云う
事はないと云われた。 
古代には朝廷の御料を作って貢進する地を御縣(ミアガタ)と云う事も御上田(ミアガタ)
から来た名前と思われる。 御と真と音通で使う字であるから真上田(マアガタ)では
ないかとも考えたが更に検討を要す。 其は漢字を使う時代になると此阿賀多に
縣の字を当てて書く様になり、又何縣と連ねて言う時は一般に阿は省く。 
随って諸縣は牟良賀多(ムラガタ)と云うことは前に述べたが、ムラとマは短く云うと
諸縣(マガタ)村になる。 元来真方村と呼ぶのは麓より北東に当り山手に寄り、特に
畑が広大な地である。 本来「真」は美称で完全な事に用いるから真方で当然と思うが、
著者の考えを述べた。 頼庸翁も真方の考察に少し理がある様で、尚良く考えて見る
様との意見だった。 

 
 ○広原村 以前は温水村と云った。
 広原村は延宝九年(1681)高原郷に付けられた。 理由は元高原内の高崎村を
切離し高崎郷として建てた事により、高原より訴訟がありこうなったとの事。
又其時同じく野尻より水流村を高原に付けた。
斯くして広原村は今では高原郷に属するが、従来通り夷守神社祭祀の日には此一村は
祭礼式などを行い、且つ同村神社は古例に従い小林神官が出張して祭りを執り行う。
広原村は水や土質が良く豊穣の地で戸数も多く八つの村を合わせて二千五百七十七人
である。

著者註
○是迄挙げた高辻帳高とは御朱印高の事で元は村数も十一村だったが、家康公已来
 今に至る迄代々の将軍家に其侭報告しているそうである(注1)。
○是まで述べた門又は屋敷と呼ぶ名称は説明していないが、記伝に門は家を云い、
 皇太宮をも朝廷(ミカド)と云う様に臣下の家迄も外むきは門と云うとある。 又門は
 家だけでなく 海河や国の出入口を云い、水門(ミナト)、島門(シマト)川門(カワト)、
 迫門(セト)などと云う。 
 屋敷の説は見当たらないが屋志伎域と思う。屋は舎屋敷で宮敷等と云う敷と同じく、
 下の域は垣など廻らした一構の所を云う名で屋敷域であるが、伎は重なるから一ツ
 省いてヤシキとのみ言習わしたのだろう。 そこで門は家を云うが家廻りを総て含み、
 屋敷は其中に建てた舎屋である。 

 随って此の区別により、大凡二十五石以上を司る家を門と云い、二十五石に満たない
 家を屋敷と云う。 これは古くからの制度として決められたものだろう。(注2)

注1 各村石高で高辻帳高とか旧高とあるのは家康公以来とあるが、豊臣秀吉の検地の
 時に定められたものを江戸幕府が引継ぎ、公式の御朱印高とし、鹿児島藩としても
 そのままにしていたと云われる。
   元禄期(1700前後)の元禄国絵図、日向国諸県郡目録(共に国立公文書館)にも
 小林郷の十一村の石高は以下(石以下省略)記されている。
 東方村788石、真方村205石、大豆別府村295石、小林村703石、水流迫村288石、
 温水村483石、堤村640石、十日町1553石、細野村632石、西方村634石、
 北方村432石 以上合計6,653石余となる。 
 六の石高総計に示す10,230石余は著者直近の幕末期の数字と思われるが
 元禄期(或いは秀吉検地時)より五割以上増えている。これは新田開発や畑の
 開墾によるものと思われる。
 尚真方村の旧高は写本では295石となっているが、205石の記述間違いと思われる。
 理由は外十村の旧石高は総て公文書館資料と一致し、真方分も石以下の数字は
 一致している。
注2 門制度は鹿児島藩特有の農村支配の形態と云われる。門毎に石高は割当てられ
 年貢が定められる。門と屋敷の名称定義についての著者の説明は難しいが、
 要は生産高(土地所有)の二十五石を境に門か屋敷と区別されていたと言っている。
注3 村毎に旧高、当高、百姓請高 が記載されている。
   旧高は注1の通り、当高は百姓請高(生産高)と士分の自作地による生産高を
 合わせたものと考えられる。但し各村当高の合計は九千九百十七石余となり、
 六の総石高一万二百三十石には満たないが理由不明。 


    
二十 町の部
 
  ○十日町

海老原二 大牟田三 原田一 岩元一
鶴丸二 上田五 町元五 村雲一
薗田一 瀬戸山二 橋口二 蛭川一

 家部二十六 戸数二十八 人数九十人
此町は古い記録に依れば霧島町又は鷹導町とも呼び、古代には修験者が銅銭を
葛に貫き品物を購ったと云う。 又京より遠い町だから遠か町と言う説もあるが
信じられない。 土地の人に伝えでは年に十日市が立ったので十日町と云う。
近年は此町に市の立つ事は無いが、市場の取締料として、目付役が立会う式の
事は今でも残っている。 
秋郷翁は古代の夷守駅は此の町の辺りだろうと云う。(注1)

  
 ○五日町

川野二 小村一 小野二 瀬戸山二
松元一 深瀬一 橋口一 岩沢四
池井一 萩原一 永山二 吉永一
永友一 成見三 森山二 蛭川一
田口一 薗田二 前田一 大山一
高橋一 渡辺二 森永一

 家部三十四 戸数三十七 人数二百八人
此町の家数及び人数は右に記すが、近年では定着の人が増えており、家が密集
する程賑わっている。 本来人々の往還通路筋であるから、昔から中央に制札を立て
側に駅を置いている。 又旅人、問屋、其他近郷問屋等が訪れる。 
特に近年は小林に地頭が常駐し近郷も管轄する様になり各郷の問屋の往来も増えた。
五日町の名称は年に五日程大市を立てる事で五日町と云った由。 今は市と呼ぶものは
七月五日より六日迄と十二月廿五日廿六日に諸方の商人が集り市を立てるだけでなく、
通常市中で販売する者も多く商品も少なくないので平日に市が立つ様なものである。

これらの販売品は呉服屋七八軒、油屋四五軒、其外酒屋、質屋、焼酎屋、麺屋、古手屋、
木薬屋、紺屋、味噌酢醤油屋、魚店、履物屋、笠屋、米穀屋、器物屋、合薬屋、綿屋、
菓子屋、縫物屋、万小間店数軒である。既に白尾氏(注2)も此小林の地は日向、大隅の
要所で四方の商売が此処に集り交易の市場となっている。 故に郷内が富み豊かな事
近隣に比べる地がないと云う。

ところで町の名称について未だ考察していないが、麻知(マチ)は町、市、坊、街、陌、
市、廓とも書き、一町々々毎に門を建て、或は縦横に行路を通し、家居区々に立つ事の
名であるか。又知夜宇(チヤウ)と云うのは町の字を音読みで凡三十六間、一町毎に坊の
名が別にすれば其町(ナニチョウ)と云う。
注1 古代には小林は夷守と呼ばれ、延喜式(十世紀初め成立)駅馬の制度で夷守駅の
 名が見える。  現在でも小林市細野十日町の住所があり、細野小中学校付近
注2 白尾国柱(1762-1821) 江戸時代中期-後期の国学者、 鹿児島藩士、記録奉行
 及び物頭をつとめた。江戸で塙保己一、村田春海にまなぶ。 藩主島津重豪の命で
 曾占春と成形図説」を編集した。 著作に「神代山陵考」「倭文麻環(しずのおだまき)など


     
二十一 穢多
○穢多家部二 戸数十一 人数八十六人 但男女
穢多は是迄戸籍帳簿外だったが、明治四年八月、政府よりの布令文に云う、
穢多非人等の称は廃止されたので一般民の籍に編入し、身分職業すべて同じに
取扱う様に、
 但地租其外の除外の例もあれば判例を調べ大蔵省へ伺う事。
    明治四年八月   太政官
別紙に
穢多非人等の称は廃止されたので、今より身分職業共に平民と同様とする事。
   明治四年八月    太政官
右の通り東京において通達されたと通知あったので、調査して申出る様に民事局へ
通達したので関係者も知って置く事。
   十月   鹿児島縣庁


第一巻終り

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