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落穂集第十巻
10-1 伏見城の戦い(p297)
その頃反徒側の諸将がいよいよ伏見城を攻める為に大軍を擁して大坂を出発したと云う情報が
伏見にも届いた。 留守居四人は相談して持場を決め、本丸は鳥居彦右衛門、西の丸は内藤
弥治右衛門、大手口は松平主殿頭、名護屋丸は松平五左衛門、松の丸は佐野肥後守及び
近江の代官岩間兵庫と深尾清十郎の二人が甲賀の侍達を指揮して塀の裏で守る。 御茶師の
上林竹庵も此丸に籠った。 伏見城の上下の総人数が二千人に少し足りない程度である。
留守居達は相談して、今度の戦いは決して運を開くための籠城ではないのでお互いに急場を
見ても応援はせずに夫々の持場で討死をしようとなった。
反徒側の主将は浮田秀家と長束大蔵として七月十五日大坂を出発した。(p298)総人数は三万
九千余の陣構えで伏見へ着陣して各攻撃口を決めた。 東の方は浮田秀家、長束大蔵及び
秀頼卿の旗本の部隊十組、西の方は島津兵庫頭義弘、同中務、鍋嶋信濃守、北は野村肥後、
松浦伊予守、北西は小早川秀秋、垣見和泉、熊谷内蔵その外少身の九州侍が参加する。
石田三成の手勢は高野越中と大山伯耆の両人が引率し、毛利輝元の軍勢と一緒に大坂を出発
した。 城攻めに際しては何処でも城兵が突出した所へ駆けつけて最初の合戦に間に合う様にと
三成は二人に指示していた。 ある日鍋島信濃守の持場の番人交代時間に合わせ松平主殿頭
が城門を開いて手勢を率いて自身が指揮して戦った時、 三成が残して置いた二千の部隊が
高野越中と大山伯耆の指揮の下で横から突いて掛ったので、主殿頭は前と脇からの敵を受けて
小勢ではこの一戦は無理と見切り、人数を纏めて城中に引揚げた。 その時石田と鍋島部隊が
主殿の部隊を追い城中に入ろうとしたが、 塀の裏に配置してある鉄炮隊により烈しく打掛けられ
石田鍋島の部隊も追詰める事が出来ず引揚げた。 この時石田方で渥美孫右衛門、大石将監、
松田六右衛門と云う三人が特に働き、三人共に首を取ったと云う事で三成が佐和山で褒美を
与えたと云う。
著者註 この競り合いの咄はその時代の事を記した旧記等にも載っており人々の申伝にもあるが
万治年中(1658-1660)に松平隼人正殿が著した家忠日記と云う書にはこの事が載って
居らず人々は不思議に思っている。(p299)
猶この高野越中は関ヶ原の戦では討死しなかった事を内府公が聞き、高野越中は何と
しても召捕えたいと思った。 これは石田が主人の関白秀次の事を秀吉へ逆らわせて
腹を切らせ、 其石田に仕えるとは高野は不届千万と云う事である。 その時公義の手配
者三人の中の一人が高野越中との事を聞いて、恐れ入り近江国伊庭村と云う所に住む
地侍の徳永茂左衛門と云う娘婿の方に暫く隠れていた。 その後浅野左京太夫幸長が
紀伊国を拝領して大身に成った時召抱えられ三千石を与えられた。 この越中も若い頃
から色々戦場があったが、中でも伏見城攻の時の自身の働きは最上のものとして報告した。
一度公義の御尋者になったので其後は高野越中と名乗らず、平尾刑部と改名した。
その子孫は高野の名字で安芸国広島に居ると言う。
伏見城は通り掛けの一勝負位に反徒側は考えていたが、予想とは大違いで今の侭では何時
落せるかも分からなく寄手の大軍も攻め倦んでいた。 そこで長束大蔵は計略を考えて
自分の部下の浮見藤助と云う甲賀侍を呼出し、内意を言含めて城側松の丸を守っている甲賀
侍の山口宗助と水原十内と云う二人に矢文を送らせた。 内容は、お前達の仲間で相談して
反逆を行い、城中の家屋に火を付けて内応すれば秀頼公より重い褒美が与えられる。 さも
無ければお前たちの村に残している親類は全て磔罪になるとした。 山口、水原は城内の甲賀
の者四十人余りと相談して、明日夜中12時に城中(p300)で火の手を揚げる旨返答した。
これを長束は浮田秀家に伝え、全軍に通達して総攻撃の準備をして待った。
約束の日時になると松の丸の御殿を始め、その外所々の役所から出火したので城内では皆が
慌てふためいた。 寄手の方は全軍一気に進み同時に攻め込んだので、松の丸に籠っていた
城兵は内外の敵の為に全滅となり、岩間兵庫、上林竹庵は討死し深尾清十郎は生捕と成り後日
大坂で処刑された。
名護屋丸へは小早川秀秋の軍勢が攻入ったのを、松平五左衛門が中門へ出張って自身鑓を
持って働いたが、 秀秋の家人である比奈津角助、田島勘右衛門両人に討たれて比奈津が
終に五左衛門の首を取った。
三の丸へは島津義弘の部隊が攻め入ったが、松平主殿頭家忠が手勢を左右に従えて自身鑓を
取って島津の大人数を三度迄押返し粉骨を尽したが、 島津勢も怯まず攻込み家人も残り少く
なり、自身も数ヶ所の疵を負い終に島津の家人に討たれた。
内藤弥次右衛門は若い頃から著名な弓の名手だったが、今回も自身が弓を使い敵を若干名射
倒した後配下の安藤治右衛門に向って、私は自害するので倅の与一郎を頼むと言い捨て、事前
に乾燥草を積んだ鐘撞堂の中へ入り火を付け自殺した。 次男与一郎はこの時十六歳だったが
目覚しく働き数ヶ所の疵を負い、 父弥次右衛門と一所に自害しようと走り帰ったが鐘撞堂も
燃上っているので、その近くで自殺をした。 其後安藤治右衛門も討死を遂げ、この様に外郭は
全て落城し残るは本丸だけになった。
各方面からの寄手は一所に集り本丸へ向かった。 中でも小早川秀秋の軍勢は(p301)名護屋丸
から直接本丸の大手口へ攻寄せた。 しかし鳥居は堅く守り、城門を閉じて横郭の塀裏より烈しく
鉄砲を打掛けたので秀秋の家中では負傷者死人が多数出た。 秀秋の先手組の侍大将に
松野主馬と云う者がいたが、兎に角焼討ちにしようと指揮して火矢を放させたところ、太鼓櫓へ
燃えついて焼け始めた。 鳥居彦右衛門はこれに気付き、加藤九郎右衛門と云う侍を呼んで、
あの火を消して来いと云い、加藤は梯子を掛けて櫓の上へ走り上り火を消し止めた。 しかし次々
火矢を打ち掛けるので、矢が中り九郎右衛門は屋根より空堀へ転げ落ちて絶命した。
是までの事は竹弥と云う茶坊主が只一人其場を逃れ出て後に人々へ語った。
其後本丸の建物が燃えている時、 彦右衛門の命令か城門が開かれたので押し掛けていた寄手
が早速入ると、門から六七間の所に侍は勿論、中間や小者と見へる雑兵に至る迄皆鑓や長刀を
取構へて二三百人も立ち並んでいる。 そのため寄手の者も押入る事が出来ず暫くの間敵味方
で睨み合いとなった。 その内に城内の者が二三十人程一度に突て出だので戦いが始まった。
押入ったり押出されたり二三度繰り返す内に城兵は全て討死した。 建物も益々燃上がるので
本丸へ詰掛けた寄手も皆引取った。
前出松野主馬は何かの理由で小早川家を去り京都の黒谷川門前に住居したが、 京極高次が
若狭の国を拝領した後浪人分として呼寄せたいと思い、松山右馬介と云う松野を知る者に内々の
接触させた時、右馬介に主馬が語った事である。 この時主馬が云うには京都の町人で鳥居
彦右衛門方へ親しく出入りした佐野屋と云う者の咄では、籠城前伏見を訪問した時城中に居る
鳥居家の者は漸く二百人余だった様だと(P302)人々に語っていた。 この事から落城の時本丸
で取ったと云う首数は小早川家の合計は覚えているが、外の夫々の家中での首数を其の侭
計算すると全く合わない。 その為伏見城本丸攻の時は寄手側討死の者の首迄も鳥居側の首と
したのではないかと、その頃噂されたとの事である。
その時長柄、鑓、長刀等の柄を黒くし菊桐の蒔絵紋が付いた物を素肌者(甲冑のない雑人)の首
に添えて持って来た者が家中に多く居た。 私の家来の中にも長刀を持った中間と思われる者の
首を取って来た者が一人いた。 この様な事は後々の記録にもなる事だが、きっと彦右衛門が命令
したと考えるのが妥当である。 と是も主馬が右馬介に語ったと中西与助から聞いたので書留た。
註: 桐同の蒔絵 豊臣家の家紋のひとつ
伏見落城の時、外郭で討死を遂げた内藤弥次右衛門、松平主殿、松平五左衛門等の最期や戦
の次第及び家来達の戦死の様子は、中で生き延びた人や雑兵に紛れて逃げ延びた人から様子
が伝えられて世間に知れたものである。 しかし本丸は三ヶ所に門があったが、彦右衛門の命で
二ヶ所の門は通行不可能とし、大手口の門一ヶ所だけ残した。 鳥居自身の命令故一人も逃出す
事も出来ず、侍ハ勿論下々雑人に至る迄残らず討死した。
彦右衛門の最期の様子は家中諸士の討死の様子共に分からなかったが、西賀孫一云う者が
彦右衛門の首を捕ったと云う記録があり、 孫市は後に桑原忠兵衛と名乗り黒田甲斐守長政方に
居たが、其後彼家を去り浪人となり本名に戻って西賀孫市と名乗っていたという。
彦右衛門嫡子の鳥居左京亮殿がこの事を聞き彼孫市を招いて、亡父彦右衛門は其方が手に
掛けたそうだが、最期の様子を委しく聞きたいと告げた。 孫市は、お尋ねの上は申上げます。
伏見落城の時私も(p303)本丸へ駈付ました。 門の内外にある彦右衛門様の御家来衆と見える
多数の死骸を乗越えて行きましたが、彦右衛門様は唯御一人で玄関の箱櫃に腰掛て居られ
私の名前をお尋ねになりました。 西賀孫市と名乗り鑓を取直すと、我は鳥居彦右衛門なるぞ、
私の首を取って高名にせよと云われました。 私は、兼ねて御名前は伺っておりますが私なぞが
御手向いする方ではありません。 御自害なされば介錯をして差上げ、お印(首)を頂戴しますと
申上げました。 するとその侭大広間の上へ上られ具足を脱がれるので御手伝しましたが、肌着
の上より脇差を突立てられたので則介錯申上げました。 私が御首を取上げて出るところへ私の
家来が来ました。 そこで何でも持って帰る様に云ったところ、下々の者なので何の弁えもなく
御肌着迄も取て帰り、今も私の手元にありますと云った。
親の形見でもあるので、いつか見たいものだと左京殿が言うので其後孫市が持参した。左京殿は
一覧してたいへん落涙した。 孫市は、此品々は元来御家の物ですから差上げます。御家に保管
されるのが良いでしょうと申上げたが、 左京殿は、ありがたい事ですが私の手元にあっても納戸
に仕舞い込んで置くだけです。 其方の手元にあれば人も見る事で亡父の為にもなりますので
戴かない事にします、 そうは云っても肌着はその時の垢も付いて汚れた物ですから私の方へ
戴きますと云う事で今でもこの肌着は鳥居丹波守殿方に有り、亀甲の付いた浅黄小紋の木綿の
肌着との事である。
註1 鳥居左京亮(忠政1566-1628) 鳥居丹波守(忠瞭1681-1735)下野壬生藩主
註2 西賀孫一 =雑(さい)賀孫一 雑賀衆
註3 伏見城の戦いは慶長五(1600)年7月18日ー8月1日の約2週間
10-2 織田秀信の不了簡
其頃 内府公は濃州(岐阜、清須辺)に在陣している諸大将へ毎度使番衆を遣わして口上で、
その地に在陣ご苦労様です、私達父子も間もなく出発しますと伝えた。 しかし出発が延びて
諸将達が待ち兼ねていたところへ、再度使番の(p304) 村越茂助が到着した。 井伊直政と
本多忠勝が対面し、いつも使者が来ると我々が一緒に立会うので今日も両人が立合います。
ところで両殿様(家康、秀忠)の出発日時を皆が尋ねるだろうから、 私の出発した後必ず出馬
されますと答えるのが良い。 皆さんが出発を待ち兼ねており、この頃は我々からも出発を催促
しているので、今江戸を出発すると思いますと色々言含めて同道した。
茂助が諸将達に口上の趣旨を述べると、案の定内府公出発の事が尋ねられた。 茂助は答えて
その事ですが、内府の供をする家中の者達は小山から帰城して皆用意をしており、内府の出発
日時の発表を待っていますが、私が江戸を出発する時に日時は云われませんでしたと云うので
井伊本多両人は手に汗を握っていた。 諸将達も皆呆れ果てた様子であり、福島政則は扇子を
使っていたがその扇子で畳をハッシと打って立上り、 茂助の前に来て扇子をひらいて茂助を
扇ぎながら、さてさて貴殿も良く云ったものだ、 我々も当地に来て内府卿の御出発を待って居る
ばかりで、鼻先にある岐阜の城一ツを落す方策も無く数日を過しているとは手ぬるい事と内府卿
に思われ面目ない事です。 御父子共に出発を延ばされている理由が思い当りました。 そこで
貴殿は二三日当地に逗留し、岐阜の城を攻落とす様子を見届けて帰られるのが良いと云う。
茂助は、私は皆様方へ在陣の御苦労のお見舞いだけの使者であり、岐阜城攻(p305)の検使に
来たのではありません、皆様よりお答えを戴けは早速帰って報告しますと答えた。 政則は井伊
本多両人に向かい、茂助を一両日も逗留させる様頼みますと云うので両人は、承知しました、
それは私共にお任せ下さいと云う事で其日直ぐに岐阜城攻撃の相談が決まった。
著者註 この事は旧記にもあり、違いは無い様である。 徳永寿昌法印は其日夜になる迄
政則方に居たが政則が云うには、今度一戦前に色々手立てを廻らして敵方の大名を
味方へ引入れる事に努める様に内府卿から云われたので、細川越中守と相談して
浮田秀家を味方へ引入れる事ばかり考え、岐阜の城を攻める事に気付かず無駄に
数日を送った事は大きな油断でした、と政則が残念がっていたと法印は語った。
下野の小山で内府卿が私に云った事は、今度の事は偏に石田、小西等が悪意により
秀頼への忠節と称して諸大名を引き込んだ事であり、一旦は反徒側になっても一戦前に
降参すれば和談を行い、諸大名の家々も従来通りとする事が肝要と心得る様にとの事
だった。 そこで其方達へも相談して南宮の神主右衛門太夫に、何とかして毛利家の
面々を味方に引入れる様に知恵を絞った訳である。 今になって見れば、大垣・岐阜・
犬山の三城は近くにあるのに放置し、手始めの一戦をしなかった事は内府卿の味方
としては有るまじき事である。 内府卿が出発を引延ばした事もそれが理由に違いない
と徳永掃部と稲葉外記の両人を呼出して法印は語ったと言う。(p306)
岐阜中納言織田秀信は、会津へ出陣される様にと内府公から通達を受けたが、支度するにも
家中の侍達は武備の嗜みを忘れ乱舞や茶湯の会など遊興に打ち込んでおり出陣の用意が
中々調わず出発が延びていた。 その折に石田三成方から川瀬左馬と云う者が来て、上方
へ味方する様にと伝えてきた。 そこで家老達を呼集めて相談したが、木造左衛門、百々越前の
両人が云うには、返答は十分考えられる方が良い、 あなた様は信長公の御嫡孫であり、秀吉は
信長公の御取立により卑賤の身から成り上がったのに、その厚恩を忘れて貴方様を一外様大名
と同じ程度の小身にしました。 其上自分の一字を与えて秀信公と名乗らせるなどは、当家の
恥辱であり、残念な事だと私共は日頃思っておりました。
一方内府卿は信長公の御取立と言う事でもなく、 懇意にしていたと云うだけで叔父様信雄卿の
為に長久手の一戦を遂られた事は天下の武士の誉れと云われました。 その内府卿へ敵対
なさる事は道義が立たない事です。 しかし今上方へ断りの返答をする必要はありません。
是から十分検討して連絡しますと云う事にして、 川瀬を厚くもてなして良い道具などを与えて
帰されるが良いでしょうと申上げた。
秀信公が納得したので両家老は安心して帰宅したが、その後で中納言秀信は入江右近、伊達
半左衛門、高橋一徳斎と云う重臣を呼出してこの件を相談した。 三人が揃って云うには、一旦
秀吉公の御厚恩を受けながら秀頼公の御為とある事を粗略にしてはなりません。 其上今度の
一戦(p307)は、日本国中が東西二ツに分かれて天下分めの戦いと思われますが、 上方勢は
たいへんな大軍です。 内府卿は領分である関八州の手勢だけで徳川家だけです。 会津討伐
のため関東に下向した諸大名は内府卿へ味方すると云う噂もありますが、彼らの大部分は故太閤
秀吉卿の御取立に預かった者達です。 又その妻子方を夫々大坂に置いているので、 一旦は
内府方に尽すように振舞っても真意は上方の味方と言う事に疑いありません。
随って流石の内府も家運が傾いて来たので、その事を考えずに自分の領知を離れて上方へ出陣
するなどは、 徳川家の滅亡の時が来たと世間では言っておりますと三人が云うので秀信も全く
三人と同じ考えに至った。
翌朝になると川瀬を呼出し上方に味方する事を三成方へ返答した。その上で家老達始め、外主
立った者と全て呼んで、今度考える事あり秀頼卿の味方となる旨返答したので、これ以上異見を
述べる事は堅く禁じ織田大明神の照覧をかけて変更ない旨言渡した。 木造、百々の家老両人
は云うまでもなく、外にも心有る人々は無念に思った。 両家老は余りにも情けなく思い、前田
徳善院の異見を求めた。 徳善院玄意は秀信が若年の頃から後見の様に太閤から指示されて
いたので何事でも玄意法印の差図に任せていた。 両家老は早駕籠に乗て京都に上ると
折から在京の徳善院に面会した。 玄意は両人を数奇屋へ招き事の次第を聞くと、両人に向かい、
中納言が上方に味方するとはとんでも無い事です。 其方達両人の中一人は急いで関東へ
下り、大坂奉行より今回この様に云われたが同意ぜず内府卿に味方する覚悟を決めましたので
ご出発を待ちます、又御参陣の節は居城岐阜を明渡しますので安心して(p308)着陣下さる
様に、と申入れよと内意があった。 両家老は夜通しに岐阜へ帰り秀信に、 この間は御誓言に
より私共は異見を申上げる事が出来ませんでした、玄意法院の内意はこの様ですと報告した。
秀信はたいへん不機嫌となり、私に許可も求めず上京したのは不届であると結局無視して徳川家
への敵対を明確にした。
註 織田秀信(1580-1605) 家老:木造長政、 百々綱家
10-3 岐阜城の戦い
岐阜城攻めの時、福島政則と池田輝政が大手か搦手で論争したところ、 井伊直政と本多忠勝
が輝政を説得して収まったと記等には書かれているが、そんな事はなかった。 理由は大身
だろうが小身だろうが敵地に近い所の領主が先手となるのが日本では昔からの武家の決まり
だった。 随って尾張清須の城主である政則が一の先手、続いて三河吉田の城主輝政が二の
先手となる。 特にこの二人は別格で、小山の陣所で内府公が直接指示した事でもあり両人の
間では論争はなかったが、其外の大身小身達が大手の七曲り口へ向う事を好み、搦手からの
寄手を嫌った。 そこで大手、搦手及び犬山城の押へ軍勢が必要と云うのは皆理解したものの
其人数割の所でなかなか結論がでない。 そこで井伊本多両人が皆に提案して、人数を勘案し
大手、搦手、犬山の押さえと籤引きで決める事になり問題は解決した。
この説は旧記とは異なるが、 三代将軍家光の代に旗本へ採用された大道寺内蔵助は若い時
遠山長右衛門と名乗ったが、岐阜城攻めの時は福島政則に属しており、大手口で働いたが
老後に(p309)この籤の事を語ったので書留めた。
この時犬山城に籠城していた稲葉右京亮も岐阜城に加勢に行っているとの情報があったので
政則諸将と打ち合わせ、使番の侍に、明朝全軍を挙げて犬山城を攻めると触れさせた。 敵方
から間者が入っており、是を事実を思い帰って報告した。 犬山に残って居た石川貞正方から
岐阜へ連絡したので、加勢に行った者達は夜中に岐阜城を引払って犬山へ帰った。
これは政則の計略が図に当ったとその時云われた。
岐阜城攻の日に当り大手の主将左衛門太夫政則を初め、 細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、
生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高、蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政達は
萩原の渡りを越して敵地の民屋に放火して太郎堤に布陣した。
搦手は主将池田輝政に浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏、一柳監物直盛、等は河田川岸
を臨む所に布陣した。 岐阜の城兵百々越前守は三千計の人数で新加納に出張し、川端へ備え
を出して守る体制である。 一柳直盛は黒田の城主であり、川口の渡り瀬を熟知しているので一番
に川へ乗り入れた。 彼の部下達が浅瀬を渡るのを見て、輝政の先手である伊木清兵衛を初め、
家中一同が瀬を渡る。 続いて浅野、堀尾を始め其外の軍勢も夫々渡河して向う岸へ馳上った。
城方の兵達も弓や鉄炮で防ぐが、 大軍一度に押懸ければ総崩れとなり引退く。 この時□□勘平
を池田備中守吉長自身が討取った。 城方の主力は新加納に控へて防戦したが、叶わずに城中
へ逃込んだ。 搦手へ向う諸部隊は新加納のせり合で敵の首七百余を挙げて、これを輝政から
江戸へ報告した。(p310)
太郎堤へも其知らせがあり政則は大手担当の諸将達へ向かって、各位は如何思われる、搦手
へ向った組は新加納で一戦の機会を得たが、こちらには敵が出て来ず戦えなかった。 明朝の
城攻めでは絶対搦手組に先を越されない為に、今夜中に岐阜の城下迄部隊を進めようとなった。
皆これに同意して急いで準備をして夜七時から八時頃迄に総勢が岐阜の町はずれ近く布陣した
夜が明けるの待ち次第に攻上ると、 搦手側も主将輝政を始め各着陣して一同に攻上る。
その時政則は大橋茂右衛門、吉村又右衛門両人に命じて大手方の諸部隊が進む時左右にある
家々を焼き払った。 その煙が山の下の方に吹き流れ、池田を始め搦手の諸軍勢は此口から
攻入る事が出来ない。 輝政は大へん怒り軍勢を引き返して長良川の方に廻り水の手より攻上る。
大手口は城兵木造、百々、津田の部隊が突いて出て坂の途中で防戦をするので、寄手の大軍も
簡単に攻める事ができない。 搦手口へは城兵は出て来なかったので、城中に入り瑞龍寺の辺り
迄進んだ。 この瑞龍寺の砦には石田方からの加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助両人を首将
として二千人余りで守っていた。 そこへ浅野左京太夫幸長の家中の者達が一番に攻め掛けると
搦手担当の諸部隊が一斉に攻寄せ烈しく攻め込んだ。 城兵は防戦したが大手口より攻上った
諸部隊が次第に攻め入り、間もなく出丸が落ち、樫原彦 右衛門は浅野幸長の家人岸九兵衛尉
に討取られた。 川瀬左馬助はこの時二の丸に居たがその後本丸へ籠った。
爰で花やかな格好の若武者が甲付の首を討取ったが息切れしたと見えて休んでいた。 そこへ
(p311)鎌鑓を持った侍が駆け寄り、その首を奪って走り去ったのを一柳監物が見ていた。 監物は
その若者の側へ寄り、其方は誰の家来にて名は何と言うと尋ねると、 私は浅野左京太夫家来の
浅野左門と名乗った。 監物重て、其方は未だ若いようだが年は幾つかと尋ねれば、左門は当年
十六歳になりましたと答えた。 監物はそれを聞いて、其方の手柄になる首を奪われた事は私が
しっかりと見ていた。 幸長へ伝えるので私に付いてきなさいと云い坂を少し上ると幸長にあった。
左門の事を幸長に伝えると、 確かに私の家来です貴殿が見届けられた事は左門にとって名誉
な事と喜んだという。 私(作者)が若い頃安芸国で一柳助之進から直接聞いたので書留めた。
さて大手、搦手の軍勢全てが攻め上がり城兵多数が討取られた。 敵は二三の曲輪を捨て本丸
に籠ったが、池田家の旗奉行は歴戦の者だが城内へ手早く旗を入させたので、岐阜の城は
輝政が一番乗りの様に見えた。
この時城主秀信の家老木造左衛門が政則の方へ降参して、主人秀信を助命して戴けるなら本丸
を明渡す旨告げた。 政則は問題なしと返答して家人の可児才蔵に使番の侍を副えて味方の
諸部隊へ戦闘停止を触れさせた。 其後寄手の諸将が集った所で、秀信を助命するのは疑問も
あったので政則は、秀信は自身の浅はかな考えで一端は内府へ敵対したが、正当な信長公の
嫡孫である事は事実であり、我々の味方の諸公の中には信長の厚恩に預った家々もあるので
この政則の処理を悪くは思わないでしょう。 私は織田家(p312)に贔屓すべき家筋では無いが、
助命を申入れられた以上、了解する旨返答しました。 秀信を助命した事が内府卿の意と異なる
場合は、私の今度の働きに対する報いが無くなるだけの事ですと言うので、その後は誰も反対は
しなかった。 秀信は政則の世話で芋洗と云う村に暫く逗留した後、関ヶ原合戦後紀州高野山に
登り程なく病死した(25歳)という。
註 岐阜城は慶長五年(1600)8月23日の一日の戦いで落城
秀信が出城した後、城の受取について政則と輝政の論争があった。 政則は城主秀信の助命
あれば城を明渡すとの事であり、願の通り助命したのだから城は私が受取る事になると云う。
一方輝政の考えは、確かにその通りだが、私の旗を一番に城内に入れた事も事実だから
軍事の慣習に随い私が城を受取るべきだと云う。 大手搦手の諸将は皆立ち会っているが、
自分達とは関係ない事で難しい論争に巻き込まれたくないので皆口をつぐんでいた。
井伊直政と本多忠勝が政則と輝政二人の間へ入り政則に向って、先程から伺っていますが、
双方共に理屈もある事ですから御両人の家来衆立会いで城を受取ってはどうかと提案した。
政則は、夫は通常に預かっている城を受取る場合の事で、攻め取った城はそれとは違いますと
結論がでない。
その時本多中務忠勝が一柳監物の側で何か小声で云っているのを輝政が聞いて、中務は貴殿
に何を云ったのかと尋ねた。 監物は、中務は今度反徒の追討で皆命を掛けて内府へ協力なさる
(p.313)以上、少々の事は我慢して内府の為になる様にしたいと云いましたが、私もそう思います
と云った。 輝政はそれ聞いて、確かに中務の云う通りです、内府の為に足りないとすればそれは
私の事です、政則が城を受取るのが良いと収まった。 その時政則は最初井伊本多両人が云った
様に両家立合で受取るので輝政の家人も出す様に云う。 しかし輝政は、私の家来は出る必要
ありません、時間も立っているので早々城を受取って下さいとなった。
岐阜城攻の時政則と輝政の論争があったと世間で言われたのはこの事の様だと一柳助之進が
語ったので書留た。 きっと親父監物殿が雑談した事と思われる。
岐阜城攻の時、黒田長政、藤堂高虎、田中兵部、桑山伊賀、戸川肥後の五人は犬山押えの籤
に当ったが、犬山の城兵はその夜中に城を明けて撤退したので岐阜城の攻撃部隊に参加しよう
と部隊を移動したが、岐阜城もその前に落城したとの事である。 五人の諸侯はがっかりしていた
ところ、岐阜城の応援として大垣の城から二万計の敵軍勢が向かっているのを見かけ、これ幸い
と爰で一戦を遂げようと川辺に諸部隊を配置し、鴗ケ嶋の札の辻に五人一所に寄り集り、川を
越して戦うべきか、又は敵に川を渡させて後戦うか相談した。 その時高虎は長政に向かって、
あそこに居る銀の天衡の指物で黒母衣を羽織っているのは貴殿の家臣の後藤ではないですか
と尋ねた。 黒田甲斐は、確かに私の家来の又兵衛ですと答える。 高虎は、それでは又兵衛の
考えも聞こうと云う。 長政は皆さんで相談しているところへ後藤などの考え(p314)の及ぶところ
ではありませんと言うが、高虎は、あの後藤は気が利いた事を言う者ですと自身扇を揚げて招き
使いに呼びに行かせた。
後藤が来て五人が並ぶ床机の前に膝まづくと高虎は、あの敵とも川向こうに近づいてくるでしょう
その時、此方から川を渡って一戦を仕掛けるのべきか、又は敵に川を越させ待合せて戦うのが
良いのか、 其方の考えはどうかと問う。 その時又兵衛はにっこりと笑って、ここで皆さんが相談
されているのを向こうで聞いていました。 相談は時により事によるものです。 皆さんが受持った
犬山の城は城兵が夜中に撤退してしまい、岐阜の城攻めに間に合わず何を内府卿へ報告され
ますか。 ここでの一戦を逃しては皆さんの立場はありません。 仮令敵が川辺迄来たとしても、
必ず川を渡るとは限りません。 この川が死場と思われるのが良いでしょうと目を三角にして捲し
立てるので、高虎始め皆其通りだた感心した。
程なく敵は川向へ到着したが、長良川は満水で渡り場所が分からずにいる。 味方田中兵部の
家来でここで生れた者がおり浅瀬の案内をしたので、兵部の部隊が一番に川を渡るのを見て
全軍が一度に川を渡り向こう岸へ駆け上がった。 大垣勢の方でも足軽が弓鉄炮を放し掛けて
きたが、 関東勢の大軍は川を渡った勢いで遮二無二突掛け、即時に敵を追崩して二三町の
間追討し、味方が討取った首数百余に及んだ。 黒田長政自身も鑓を取て石田方の軍士渡辺
新介を討取ったのもこの時の事である。 石田の家中で頭分の侍侍杉江勘兵衛が敗軍の諸勢
の殿で退いたが、 田中の徒士が辻勘兵衛と名乗って杉江を馬上より(p315)突落したところへ
仲間の松原善左衛門が駆けつけて杉江の首を取った。 大垣城が近くなったので、長政と高虎
両人の指示で敵を追留め早々兵を引揚げた。
著者註 この長良川の一戦の事は世間に流布する旧記等には見えないので、ここに書きとめた。
辻勘兵衛は後に浅野家へ仕え、松原善左衛門義は越前家(結城秀康)へ呼出された。
註 田中兵部(吉正 1548-1609) この時岡崎城主五万石
慶長五年九月朔日内府公は江戸城を出発し外桜田門を出る頃岐阜からの首桶が届いた。
事前に品川より報告があったので増上寺表門前に置く様に指示してあった。 芝神明の社は
その頃小さな祠の宮があり、その前の萱ぶきの拝殿があった。 その上に上り首桶を見てから
歩行で増上寺へ入ると存応和尚が大門迄迎えに出た。 和尚同道で本堂へ上り、間もなく
乗物で出発した。
今時流布する記録等には本堂で僧達が仏法の問答をするのを聞き、方丈とも色々雑談した
と書いてあるが、本堂では礼拝する程度の時間しかなかったと小木曽太兵衛は語っている。
10-4 上田城攻め
内府公が江戸を出発する前宇都宮より本多佐渡守を呼び、近日中に出発するので秀忠公は
支度次第に宇都宮城を出発し中仙道を登り、信州上田の真田安房守へ使いを立て降参する
ならば許して先手の中に加える様にとの指示をした。 そこで秀忠公は八月廿四日宇都宮を
出発し、同廿八日上州松枝へ着陣(p316)した時に、 内府公は九月朔日に出発する事が
発表されたとの報告を受けた。 松枝を出発して信州小諸へ着陣して、そこで真田安房守方へ
内意を伝えた。 勿論安房守嫡子の伊豆守方からは舎弟左衛門佐及び家老たちへも色々
説得したが同意なかった。 それどころか意外な返答の口上もあり、終に上田城攻めの方針が
決まった。
秀忠公自身出馬し染屋の台と云う所より上田城の様子を見て攻め口を定めた。 その時榊原
康政は、味方の諸部隊は大軍だからと油断をすると真田は軍事に長けた者ですから、夜襲
などを必ず仕掛けて来ると思われます。 諸部隊とも夜の守りに油断しない様に指令されると
良いでしょうと申上げた。 秀忠公も同意し、これを厳しく通達せよと云う事になり、康政は使番
衆を動員して諸部隊に通達した事は、夫々の陣の一町程先に捨て篝火を焼いて、侍と足軽を
組になって夜番を勤させよとした。
城主安房守は左衛門佐を招いて、寄手諸部隊の中で油断している陣を探し、そこへ夜討を
掛よと指示した。 左衛門佐は日暮前より夜討の支度をしていたが、寄手側は前述の指示が
出ており、六時から全部隊が捨て篝火を焚くので白昼の様になり、其上夫々番人が配置され
中々夜討など掛られる様子ではない。 これを父安房守に左衛門佐が報告すると、成るほど、
そうか、徳川家には甲信の侍が多く居るから夜守の作法等は心得ている筈だなと云った。
上田城外の加賀川辺に尼ケ淵と云う竹木の生茂った古い要(p317)害がある。 そこは城方
より必ず斥候を忍ばせているかに見えるので、その敵を探し出して討取ろうと牧野右馬亮が
手勢を率いて加賀川を乗越して尼ケ淵を捜索した。 案の定伏兵が立ち上がり足軽は鉄炮を
打懸け侍は鑓を取て向ってきた。 牧野の配下が勇んで進むのを見て旗本の兵士戸田半午、
御子神典膳、 朝倉藤十郎、中山助六、鎮目市左衛門、太田甚三郎、辻太郎助が馬で馳付て
戦功があり、この七人をその時上田の七人衆と云った。 その時大久保相模守、酒井宮内少輔
本多美濃守など先手の者が牧野の部隊が掛るを見て、 同時に川を乗渡り総勢が一丸となり
城兵達が引下るのを食止めた。 城門近く迄追討したところ、思いがけず虚空蔵山の林の中
から大人数が鬨の声を揚げて鉄炮を打掛け、その後より鑓さきを揃へて突て出てきた。
寄手がかなり苦労している頃を見計らい、真田左衛門佐幸村は大手の門を開き一斉に突いて
出たので味方の諸部隊は一気に敗走した。 真田父子は間もなく追留めの鬨の声を揚げて
城内へ引取った。 この事が秀忠公に聞こえ、上からの命令もなく、 主人の指示も聞かず
勝手に少人数で戦端を開き、其上少身の真田の部下に追立られ、負けをとるとは不届この上
ないとたいへんな立腹であり、上司の指示もなく抜け駆けをした先手の頭分の者は処罰する
と云い渡した。
其夜中に上田城攻についての会議の席上、榊原康政が戸田左門を紹介した。 左門父子は
(p318)出発前江戸で内府公に呼出され、其方は明日当地を出発して信州へ行き、秀忠公の
お供をして登る事、何でも尋ねられたら遠慮なく申上げる事、倅の新次郎は旗本に残すので
少しも心配しなくて良いと親切な言葉で此方へ派遣された者であるから、左門の考えも聞くのが
良いでしょうとなった。 秀忠公もそれではと左門を呼び、この城攻めについて意見を述べよと
云う事になった。
左門は、憚りながら私が思うには、城主安房守は軍事に長けていますが、何と云っても少身者
ですから、夫ほど大きな事は出来ない筈です。 随って押さえの部隊を少々残して、御前様は
一時も早く上方へ出陣されるのが良いと思います。 しかしそうも出来ないと思われるなら、味方
の人数は少々損耗しますが、諸部隊で急襲して真田父子の城兵を成敗して明日中にもここを
引払われ、上方の一戦に間に合う様に成されたいと申上げた。 秀忠公も左門の意見に同意し、
家中の誰もが左門の両様の考えは良いと思った。 そこへ本多佐渡守が進み出て、内府様が
ご出発前に私を江戸へ呼ばれ色々云われた時、 御前様(秀忠)はお若いので強過た働きも
あるかも知れぬ、これだけが心配と云われていましたと述べた。
随って急襲すると云う議論は止めになったが、 最初から押さえの部隊を置いてその侭なら
ともかく、 一度も二度も反抗する真田を其侭にして置く訳にも(p319)行かなかったのか部隊を
引揚げる事が遅れてしまった。
10-5 大垣杭瀬川の戦い
慶長五年(1600)九月十三日内府公は岐阜へ着陣したが、その時厚見郡西居村亀甲山立政寺
の住僧が大きな柿を差上げた。 公はたいへん御機嫌で近習衆へ、皆これを見よ早くも大柿
(大垣)が私の手に入ったぞ、皆で奪い取れと座敷にばら撒いたので御前に伺候していた人々は
これを奪い取った。
これによりその頃は大垣を大柿と書き換えたと云う。 旧記の中では安八郡瑞雲寺住僧が柿を
差上げたとあるが、これは違う由である。
翌十四日彼地在陣の諸大将は何れも手廻りだけ連れて呂久(揖斐川)の川辺迄迎えに出た。
その時水野六左衛門勝成も居り、其方は今何処に居るのかと尋ねられたので、私義は井伊
本多両人の指示で敵方押へのため、曽根村に在陣しておりますと答えた。 曽根は大切の
場所だから当然の事である。 各部隊の人夫を集めて古城を修復するのは二三日内に出来る
と思うかと質問があったので、縦令大勢の人夫で取り掛かっても六七日では中々城と云う程に
ならないと思いますと答えると、それではそれは止めて其方は曽根村に在陣する様にとの事
である。 六左衛門は、前に井伊本多両人から曽根在陣に付いて云われた時も御前様御在陣
迄勤めますと断ったのですが、私は今から御旗本へ属して御一戦の時は戦陣の中で御奉公の
覚悟ですと申上げた。 家康公は、其方等は外の者と違うので、兎にも角にも私の為を第一と
思い、自分の功を立てたい思うのは其方らしくない事であると厳しく云った。 勝成はそれ以上は
一言も云わず曽(p320)根村へ帰って行った。
註 水野勝成(1564-1651) この時は刈谷城主、 家康側近
九月十四日の昼時前内府公は赤坂に着陣した。 夫より前に井伊直政と本多忠勝両人に
指示してあったので諸将の陣場等も出来ており、それを巡見した後岡山の本陣へ入った。
夫までは先手の諸大名方が岡山近所に陣取していたが、十三日になると岡山御本陣より四五
町(四ー五百米)程前の方に陣を移して、岡山の左右及び後の方に旗本衆が陣を構えた。
註 赤坂 現大垣市赤坂町 岡山: 現赤坂町字勝山 関ヶ原戦いの家康本陣があった。
大垣の城中から石田の家老嶋左近、蒲生備中及び浮田家からは明石掃部、本多但馬を首将
として部隊が杭瀬川を渡り、雑人達に刈田をさせた。 味方中村一学の陣の近くであるため、
武田五郎兵衛と云う者が一間余り有る鳥毛の棒の指物を立て一番に駆け出し、石田の兵と
戦い二三人を鑓で突いたが鉄炮に当り即死した。 これを見て中村の侍が我も我もと駆け付け
るので家老の野一色頼母や藪内匠等も続いて押出した。 その時石田三成の配下は水野
彦次郎、林半助、伊前頼母等を始めとして五百人程で、浮田秀家の家来は明石掃部、本多
但馬、稲葉助之進、不破内匠等を始め八百余の者が布陣していた。
石田の隊長嶋左近と蒲生備中が相談して木戸一色村の藪陰に伏兵を置いたが、 中村の
部隊は予想していなかった。 刈田の警固と見へた大垣勢が逃げるのを追い掛けると一色村
の伏兵が一斉に起上って鉄炮を打懸け、その後ろから百人余りが手に鑓を持って突掛った。
中村の部隊は苦戦となり奮闘したが成合平左衛門を始め数人が討死して、中村部隊が終に
追われて引下る。 その時野一色頼母は金の三つ幣の差物で鳥毛の団子の馬印を川べりに
(p321)押立て、敗軍の味方を制して、頼母が是に控えているぞ、皆の様子は見苦しいぞと
大声を上げる。 同役の藪内匠が引下がって来るのを見て頼母は、其方は何故引くのかと詞を
掛ければ内匠は振返り、私は手傷を負ったので退くと云って川を西に渡った。 頼母はそれでも
踏留り自身も鑓を取って働いたが、石田の家来梅北市右衛門と云う者が打ち掛けた鉄炮に中り
落馬した。 配下の侍杉村信助が立寄り頼母の死骸を運ぼうとしたが、石田の兵達が来るので、
頼母の具足の上帯を切って刀脇指だけを取って退いた。 その後で石田の兵が野一色の首を
取った。
中村の家臣中村進助、河毛新八等と言う者を始めとして廿八人が討死し、中村の部隊は既に
壊滅かと見えたが、陣場が並んでいる有馬玄蕃部隊の数十人が駆け出した。 中でも稲次
右近は鳥毛の半月の指物で真先に進み川を乗り渡り向こうの堤へ駆け上がった。 そこへ
金の制札の頭立った様子の横山監物と名乗る武士が稲次に掛り互に馬上で戦ったが、双方馬
より下りて組打となった。 横山は稲次を組伏せて上へ乗懸ったところへ右近の若党が駆け着け
横山の具足の綿噛を取って引き返すと、右近は下から跳ね返して乗り掛かり首を取ろうとする。
そこへ横山の家人が駆け寄って右近の甲のしころを取ると又右近の若党が駆け着け一刀
切付けると、 しころを放し刀を抜き切合う内に右近は横山の首を取り立ち上がり、監物の若党
も切殺して其首を馬の鞍に結付、横山の首は馬上に引下げて自身で旗本へ持参した。
此時有馬家の部隊も追々駆けつけたので、中村の部隊も陣隣りからの応援で味方の勢いも
つき、大垣勢と競り合った。 内府公は(p322)岡山の陣所から見て渡辺忠左衛門に行かせ
部隊を引上させ連れ帰る様に指示した。 渡辺は金の手桶の指物で川を乗り渡り、中村と有馬
の配下の中に馬を乗入れ、 色々指示するが中々収拾できない様子である。 そこで今度は
井伊兵部少直政に本多内記忠朝を添えて早々引取せよとの指示があり、両人が行き敵味方
引き分けて引き連れて帰った。
著者註: この一戦の次第は世間に流布する旧記にも大筋は載っているが、これに関する
諸説をこの後に書付ける。
九月十四日昼時前内府公が着陣した事は大垣城中でも知られて居らず、関東方先手の部隊
が四五町宛前へ陣を移したので、大垣城中で反徒方の諸将が集って評議する中で、内府が
着陣したに違いないと云う者あり、近い内に着陣するので諸軍の陣替をしているのではと云う
者もあった。 浮田秀家は、評議する迄もない、我々の配下に刈田をさせ、その警固として
部隊を付けて様子を見ましょうとあった。 三成は、それでは我々の配下も行かせようと言う事
になり、浮田家からは明石掃部と本多但馬、石田方よりは嶋左近と蒲生備中の二人宛の頭分
が出陣した。
中村の部隊が大垣勢の引取るのを追掛けて杭瀬川を渡るのを内府公は見て、川限りで追留め
をしなければ、と云っていると程なく追返されてきたので、私の云った通りだ、あれを見よと側衆
へ語った。
稲次右近が横山監物に組伏られた時、横山を引倒して主人(p323)に名を挙げさせた右近の
若党が味方に討たれ、首を持ち去ったものあった。 右近が驚いてどんな者だったかと尋ねると
馬の口取りの中間が云うには、何者でしょうか、母衣を掛た侍ですと云う。 右近は大変腹を
立て旗本へ行った時、自身討捕った首二ツ提出して感謝され首帳に付る時、拙者より先に首を
持参した人がありますかと尋ねたところ、堀尾信濃守殿の母衣の衆が首一ツ持参しただけです
との事である。 右近は、其首は私の若党の首です、味方討に間違い無いので帳面から取消
下さいと云った。 首帳付の役人は、貴殿の申入れで帳面を反古にする事はできませんと
互いに問答していた。 内府公がそれを聞き、何を云っているのかと尋ねたので首帳役人が事
の次第を申上げたところ、この様な取り込んだ戦いではその様な事もあるものだ、そのままに
捨て置けとの事だった。
しかし関ヶ原一戦後、この事が話題となり、堀尾信濃守の家中で母衣の衆は仲ケ間十人いた。
残る九人の同役は相談して、敵味方の見境も付かぬ者をその侭にして置かれるのでは我々
は母衣を返上しますと申し出た。 信濃守も扱いに困って親父帯刀に相談し、其者の母衣を
取上げ加増を与え、弓組の足軽三十人預けて先頭に任命した。
稲次右近はその時の誉れにより、有馬玄蕃頭は過分の加増を与えて家老職に任じた。
長命で寛永年中に肥前国の有馬城に籠り、切支丹成敗の時八十五歳で討死したと云う。
右近が討取った横山監物とは蒲生備中の家老との事である。
註1:有馬玄蕃頭豊氏 遠江横須賀三万石
註2:母衣(ほろ)衆 戦国時代の武将の親衛隊で連絡等に当ったエリート侍が着用したマント
の様なもの。 派手な色で信長の黒及び赤母衣衆、秀吉の黄母衣衆等有名
井伊直政は味方の軍勢を引揚させよと内府公に命ぜられた時(p324)、その服装は猩々緋の
羽織を着用し、金の蠅取の小馬印を馬の傍に付けて采幣を打振って敵味方が入乱れた中へ
乗入れ中村、有馬、田中三家の部隊を纏めて引き取った指揮は見事な様子だった。
本多忠朝は中村の部隊に乗付け、何故ぐずぐすしているのか、早く引揚げられよと大声で
指示すると、中村家中の兵野助之進と林文太夫と云う者が、指示は了解しました、ここは我々
両人に任せられ、有馬殿の部隊を指揮されよと云い捨て大垣勢を追立てた。 直政はこれを
見て、最初の合戦で中村部隊は多くが討たれ、既に川を渡って退却した者もある中で、部隊が
未だに持ちこたえているのは、この両人の働きかと深く感心した。
関ヶ原一戦の後、この両人を徳川家に招いたが両人の返答は、忝い事ですが幼少の主人一学
を見放し家を出る様な事は出来ませんと断り、その時代の人々に高く評価され武名も上った。
註1 中村一学、中村一氏嫡子10歳 一氏は駿河領主だったがこの一月程前病死した。
註2 本多忠朝 この時18歳 本多中務忠勝次男
この戦いの時、 大垣勢の中に白しなへの指物を持つ者がしっかり踏留まって殿(しんがり)を
勤めながら退いて行く。 その振舞いが勝れているのを内府公が岡山の陣より見て、あの
白しなえの振舞いを見よと側衆に度々云った。 外に一人白い大立物を持った武者も白しなへ
と同様に見事に働いた。
後日に両人の名前が判明したが、白しなへは林半助と云う石田家の使番の侍で、残る一人は
浅香庄次郎と云う。 浅香は木村伊勢守方で児小姓を勤め十八歳の時五千石の知行を(p325)
取り、奥州で伊勢守が一揆に囲まれ苦労した時に忠義の働きをした者である。 木村の身上が
果て後石田方へ呼ばれ客人分の待遇で仕えた。 この戦いの時は石田の勘気を蒙っていたが
てんの皮の羽織を着、銀の大釘の前立物を担いで働いた。 中村家の梅田大蔵と云う者が負傷
して引下がれないのを突き伏せて首を取って帰り、大垣城の角矢倉の上に秀家と三成が居る
前で、水野庄次郎です、この首を取ったので御勘気をお許し下さいと云った。 矢倉の上から
三成は、手柄を認めたので勘気も許す、 ご苦労だが先手に行って部隊を引き上げられよとの
事で、庄次郎は梅田の首を若党に持せて城内へ行かせ、自身は合戦場へ戻り、林半助と共に
殿を勤めて部隊を引取った。 関ヶ原一戦後は浅香左馬助と改名し、加賀の前田利長から
声が掛ったと云う。 石田方に属した時は水野庄次郎と名乗った由である。
10-6 関ヶ原へ
杭瀬川の一戦が物別れとなった後、嶋左近と明石掃部は同道で秀家、三成等が上って居る
矢倉へ来て戦いの次第を報告した。 その時浮田秀家は、内府は着陣した様子ですか、今度の
一戦(関ヶ原)は何時ごろとなりそうかと尋ねた。 嶋、明石が一緒に答えたのは、忍の者を送り
敵陣の様子を伺わせましたが、内府は昨日昼時頃着陣されたに違いありません。 又先手の
陣替をした事は勿論、内府の旗本の諸陣共に陣張を一枚も張らず、全て一夜陣の様子と報告が
ありました。 この事から私共が考えるには今度の一戦は明日にもあるかと思います。
そこで南宮山に布陣しておられる毛利宰相殿、松尾山に入られた筑前中納言殿(小早川秀秋)
も共にお若いので(p326)、 皆様(秀家、三成)がこの大垣城に居られては関ヶ原の一戦が
心配です。 当城は内府側が押への部隊を配置するので関ヶ原へ急に出陣する事は難しく
なりますので、この事を今御思慮されるのが良いでしょうと申し上げた。
秀家三成共に両人の意見に一理あると云う事で、矢倉を下り直ぐに本丸へ行き急ぎ諸将を召集
して相談した結果、関ヶ原へ移動する事に一決した。 各部隊とも提灯や松明等を燈す事は
せず、栗原山の篝火を目当にする様にと触れた。
註 毛利秀元(1579-1650)、小早川秀秋(1582-1602) この時21歳と18歳
三成も支度のため小屋へ帰ったところへ島津中務豊久が来て、島津兵庫頭義弘からの急用と
云う口上があり三成は面会した。 兵庫頭は今宵当城から関ヶ原へ移動するとの事だが、良く
考えるとそれは良くない事です。 兵庫の意見は当城に居る軍勢で今夜半頃に内府の旗本へ
夜襲を掛けられるのが良い。 御同意戴けるなら兵庫頭義弘が先手を受け持ちます。 秀家か
貴殿の御両人の内一人が関ヶ原へ行かれ、彼地の諸軍勢を指揮して内府の先手を滅茶苦茶に
切崩す事を相談下さい。 そのため私が連絡に来ましたとの事だった。
三成がかなり返答に困っていると嶋左近が出て来て、兵庫頭殿の頼もしいお考えではありますが
昔から夜討夜軍等と言うものは小勢の方より大軍の方へ仕掛けて勝利を得ると云う例は聞いて
いますが、 大軍が小勢の方へ仕掛けた例は聞いた事がありません。 明日は平地での一戦で
味方の大勝利は疑いありません。 この点ご安心下さる様に兵庫頭殿へお伝え下さい。 久しぶり
に内府の敗退を見る事ができますと言う。 三成も、只今左近が言う通り味方の勝利は明白ですが
(p327) 兵庫頭殿はより慎重な考慮の上ご意見戴いた事はありがたく思いますとの事だった。
その時豊久は左近の過言は不届千万と思ったが顔には顕さず、貴殿は内府の敗走を見られた
のは何時の事ですかと尋ねた。 左近は、私は以前故あって武田信玄の家来山県の下に居た時
山県の部隊が内府を掛川の城近くの袋井縄手迄追った事があり、その時内府の敗走を見たと
言う。 豊久は左近に向かって、それは俗に言う杓子定規と言うものです。 その時の内府と今の
内府を同じと思っては大きな間違いです。 明日の一戦で内府の敗走が貴殿が見られた様なら
喜ばしい事ですが全くそうは思いませんと云い捨て苦笑いして帰った。
著者註 この一説は関ヶ原記、家忠日記等の書には見えないが、浅香左馬助が語るのを直接に
聞いたと三輪大学が浅野因幡守殿へ雑談した。 其上以前私が島津帯刀と会った時に
尋ねたところ、委しい事は分からぬが関ヶ原一戦の前の夜、兵庫頭や中務の考えは
家康公本陣へ夜討を掛けようと考えていた事は伝え聞いているとの事で爰に書留めた。
十四日夜に入り十時頃から雨が降出したので、月夜に拘らず足元が見え難かった。 特に牧田
通りを通ったので大垣から移動する軍勢は皆難儀した。 夜半過ぎから雨も小降りになり、暁に
至る頃には空は晴れてきたが朝靄が深く、物の見分けが出来ない程だった。 朝九時頃から靄
も薄くなり、一戦が始まる時は敵味方の旗のぼり(p328)も見え渡った。 筑前中納言秀秋の家中
は一同に金のばれんの指物で朝日に輝き、松尾山を金色に染めた様に見えたと小木曽太兵衛
は語った。
慶長五(1600)年九月十五日関ヶ原一戦の次第については是まで関ヶ原記と名付けた書物は
幾種類もある。 その外家忠日記、村越道休の覚書、石谷去入斎の聞書などと言う物もある。
其時代の事を書いた旧記などを読み合せて見ても、大体は同じだが少しずつの違いも散見
される。 その是非虚実は明らかではないが、今時是は誰の家に伝わった正しい記録とか又は
比類なき秘書と称するものも多くあるが、それも皆近頃の作書でその時代の正しい記録などは
無いに決まっている。 一般に小場所や小競合いの事を書留めた覚書など委しい書留もあるが
関ヶ原の一戦は天下分目の合戦で、日本では古今例のない大合戦である。 その上僅か一二
時間の間に爰かしこで同時に戦ひが始り、程なく反徒方が負けて関東方の勝利と成った事で
あるから、 諸部隊諸方面の合戦次第を誰が細かく見届け、聞届て書留る事ができようか。
どの書も全て後の人の作書であるから、その積もりで広く其時代の書を取集めて、この事は是が
正しいと思う方を選択して納得する他はない。 それでも疑わしい事はその場に立合った人に
尋ねるのだが、私が若い時でも二度の大坂の陣に参加して走り回った人は多いが、関ヶ原陣に
参加した人は三人以外(p329)出合っていない。 まして今から百三十年前の事であり、誰に頼り
聞き糺す事もできない。 随って関ヶ原一戦の次第は概要を記すのみである。
九月十五日反徒方は毛利宰相秀元を首将として吉川以下の毛利家の軍勢が南宮山へ登って
陣を構えていた。 しかし既に関東方へ味方する事になっているので合戦が始まっても甲を着た
武者は一人もなく、足軽は鉄炮を自分の前に置いて麓の様子を見物していた。
これは裏切りに間違いないと近くに布陣した長束、長宗我部、安国寺等は気付き、毛利家の裏切
を心配している内に関ヶ原の一戦は上方勢の負となり、旗を乱して伊吹山の方へなだれ込む
事になった。 特に安国寺の部隊が一番騒ぎ立て麓へ逃下るのを見て四国勢(長宗我部部隊)、
水口勢(長束部隊)も同じく敗走した。 此三手の者達を追討して首の五百か千も討捕って忠節
を示せば、先祖元就以来の領知はその侭だったろうに残念な事と、今でも毛利家譜代の家臣は
悔しがっていると兼重勘九郎が語った。
十四日の夜半過頃福島左衛門大夫政則は祖父江法斎と言う者も使者として派遣し、反徒方は
今夜中大垣の城中を引払い、牧田海道を経て関ヶ原へ出陣します。 明日早朝より一戦を始め
切崩すために早々ご出陣されるのが良い伝えた。 法斎は以前より内府公も知っている者なので
則御前へ呼び直ちに出陣されるのか直接返答があった。 内府公は湯漬を食べ、支度する間
天正年間に長久手に(p330)おいて羽柴秀次との一戦の事を小納戸衆や小姓衆へ雑談した。
秀次方の大軍をどっと追崩してと言いながら直ぐに馬の乗るので納戸衆が、御甲はと言えば、
いやいやとだけ言い茶縮緬のほうろく頭巾をかぶるだけで出馬した。
南宮山に布陣した反徒側の首将である毛利秀元は既に味方となり、当座の人質迄も出したが、
内府公は猶も油断せず、其上長宗我部、長束、安国寺等は絶対の石田方であるから、押へと
して浅野左京大夫幸長に山内対馬守、有馬法印、徳永法印、同左馬助、金森法印、一柳監物、
市橋下総守、松下右兵衛、横井伊織等を差向けた。
ところで大垣城の本丸には福原右馬助、備中丸に熊谷内蔵丞、垣見和泉守、木村宗右左衛門
父子、 三の丸には相良左兵衛、高橋右近、秋月長門守等総人数七千余を配備していた。
しかし合戦が始る頃は城中には福原だけが残り、其外全ては関ヶ原の合戦場へ移動する事が
分かったので、大垣城の押へとして西尾豊後守、水野六左衛門、松平丹波守を配置した。奥州
の津軽方より派遣された家来達もその人数に参加して水野六左衛門の指揮下に入った。
岡山の陣所の留守居には堀尾信濃守が配置されたと言う。
落穂集第十巻終