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落穂集第十三巻(p401)
         13-1 大御所駿府にて政治を取る
慶長十五(1610)年閏二月二日、堀越後守忠俊の家臣堀監物と其弟丹波守が兄弟間で争いを
起こした。 忠俊の一門は此争いが内々で解決せず公義の裁許と成れば、越後守の身上にも
支障が出ると恐れ、色々仲介をするが丹後守は受け入れず終に駿府へ出頭し大御所へ訴えた。
此日御城へ堀兄弟を呼んで諸大名列座の中で兄弟が対決する事になった。 その時丹後守が
言上した事は、 監物は国で私的に浄土と法華教の僧達に宗教論争を行わせ、是非を判断して
浄土宗の僧十人に縄を掛けて殺害した事を訴えた。 大御所は障子を隔てて聞いていたが
自身で障子を開けて(p402)不機嫌な様子で、其宗論の是非を判断したのは誰かと尋ねた。

監物は、知者により其是非を判断して非の方を処分しましたと答えると再度上意があり、争論は
天下の禁止事項である、それを妄りに行わせ其方の悪意により是非を判断して僧達を殺害する
とは言語道断の不届きである、 この一事だけで十分であり外の事を聞く必要はないと障子が
閉められた。 監物の負裁判となり、監物は最上出羽守へ御預けとなり、越後守は家臣の論争を
鎮める事が出来ない器量なしであり、 国郡の主として置く事は出来ないと越後の領地を
召上げられ岩城へ配流となった。 丹後守は罪科は無いとは云え、五万石の領地は取上げ
代わりに信州の内に新たに三万石が与えられ以後直参となった。

同月三日、上総介忠輝公に越後国が与えられた。 夫までは信州川中島が領知だった。
八月六日、島津家久は琉球国の中山王を携えて駿府を訪れ、同八日に登城した。 中山王は
大御所に拝謁して段子百巻、羅紗百十二尋、蕉布百巻、大楽布二百巻を献上した。
註1: 松平上総介忠輝 家康六男、後に改易となり自殺
註2: 1609年の薩摩の侵攻で琉球王国は薩摩の属国となった。 

十月十八日、本多中務大輔忠勝が死去した、行年六十三歳。 其子美濃守忠政が後を継ぎ
伊勢桑名十万石を拝領した。
この年井伊掃部頭直孝(井伊直政二男)へ上州の内に二万石が与えられた。
この年秀忠公より山内対馬守に松平の姓及び諱の字が与えられ、忠義と号して四品に叙し
土佐守に任ぜられた。

慶長十六(1611)年三月六日大御所は上洛の為駿府を出発し同十七日に京都到着した(p403)
同廿一日勅使が訪れ、大御所を太政大臣に任じ菊桐の紋を勅許となる旨が伝えられた。
大御所は太政大臣を辞退し、新田家の元祖大炊助義重を鎮守府将軍及び亡父広忠に大納言の
贈官を勅許される事を願った。 又菊桐の紋の事は有りがたい事であるが、 源家は新田と足利に
分れて両家は互に武威を争った。 後醍醐帝の時足利尊氏に菊桐の紋が免許された以来は
足利家の氏族が古来より是を用いており今になって初めて新田の家にこの紋が勅許となっても、
当家の名誉とならないので、この事を奏達願いたいとなった。
三月廿日、新田大炊助義重に鎮守府将軍が賜られ、 松平広忠に大納を贈られる旨勅使大納言
兼勝が伝えて来た。
註: 徳川家康は三河岡崎の城主松平広忠の子であるが、新田氏の末裔と言う事になっている。
   新田義重は源義家(八幡太郎)の孫で新田氏の祖(1114-1135)

三月廿八日、秀頼卿は大阪城を出て二条の御城へ上って大御所と面会して接待を受けた。 
秀頼卿が大御所に面会する為に上洛する事は今まで前例もなく、 上京は如何なものかと側近は
疑問視した。 しかし浅野幸長、加藤嘉明の両人が上洛面会せぬ場合には秀頼卿の為に宜しく
ないと強く進言した。 福島政則は病気と称して大坂に残ったが、加藤肥後守清正、同左馬助、
池田輝政、浅野幸長等が秀頼卿の乗輿に付添い皆二条城に控えた。 肥後守清正一人が城内
迄行き御前へも呼出され刀等拝領した。 秀頼卿は二条より直に北の政所(秀吉正妻)の亭へ
行き、成長後初めての面会となった。(p404)
秀頼卿が二条城参上の時、中将義直公(家康九男、後の尾張徳川家祖)及び少将頼宣公(家康
十男、後の紀州徳川家祖)が途中迄迎えに出たとの事
四月二日、今度秀頼卿が上洛した返礼として、義直、頼宣両公に大坂へ訪問させ贈り物等持参
した。

三月六日、浅野弾正長政死去、行年六十五歳。
同年六月廿四日、加藤肥後守清正死去、行年五十歳。
同年九月廿八日、将軍家の姫君(その時四歳、後の高田殿)は三河守忠直へ輿入れし、越前
へ向かう。 土井大炊頭が輿に随い、其外渡辺山城守を始め数人が添えられた。 駿府に一日
逗留したが、二の丸で大御所が歓待したとの事。
九月廿五日、広橋大納言兼勝と勘修寺中納言光豊の伝奉衆より、春日若宮両社の千木折落れ
ました、これは古来より天下の凶事ですと連絡して来た。 その時大御所は、これら両社共に建立
以後数年を経ているので朽折れる事もあるだろう、 将軍家へ訴えて修復を願うが良いと答えた。

此年越前国松平三河守忠直の家来久世但馬(一万石を領する)と岡部自休と云う奉行職の者と
諍いがあり、家老の今村大炊、清水丹後、林伊賀、中川出雲等は自休に荷担した。 今村と同職
の家老本多伊豆及びその外牧野主殿、竹島周防等は元々自休側に非があり但馬に誤りがない
事を知っており、家内の評議が二ツに割れて結論が出なかった。 忠直は今年十七歳の若輩で
あり正しい判断もできない中、 但馬に非が有ると聞惑い但馬を成敗しよう討手を向けた。

そこで但馬は従卒百人余りを従え、飛(p405)道具(鉄炮)を用意して自宅屋敷に閉籠った。その為
北の庄中の諸侍が我も我もと馳付て塀を乗越えて久世但馬の家人従卒を全て成敗したので但馬
は自殺した。 しかしその後も争いは収まらず越前家中の騒動は続くが、この事は江戸へ聞こた。
その時伊予守忠昌(忠直弟)は十六歳の若年だったが将軍家(秀忠)に可愛がられて毎日登城
していた。 ある日老中列座の場で、私に御暇を下さいと申し出たので老中は、それは何の用で
何処に行かれたいのかと尋ねた。 忠昌は、この頃北の庄家中で大へんな騒動が起こっている
と聞きます、 御暇を戴き私は越前へ行き、兄三河守と相談して何とか収めたいのですと云う。

老中方は、さても貴殿は奇特千万な事であると皆感心して将軍家へ報告したところ、大御所へも
報告された。 大御所もたいへん感心はしたが、あの子倅が行ったところでどうにも成るものでも
ない、裁判の為双方共早々に来させよとの指示があった。 そこで当事者双方が江戸へ下って
一日西の丸で御前対決となり、その結果本多伊豆守が報告した通りで決着が付いた。今村大炊を
始めその仲間は全員配流となり、 本多伊豆、牧野主殿、竹島周防は越前へ帰した。
註: 越前北の庄(後の福井)では城主の結城秀康(家康二男)が死去し、嫡男忠直が継いだ
   直後お家騒動が起り、結局家康の裁判となった。

慶長十八(1613)年正月廿六日、池田三左衛門尉輝政が播州姫路で死去した、行年五十歳
七月九日、大久保石見守の息子藤十郎と外記兄弟が成敗された。父石見守が今年四月廿五日
死去したが、死後悪事が(p406)が露見した為という
八月廿五日、浅野紀伊守幸長が紀州和歌山で死去した、行年三十八歳。 嗣子が無い為弟の
右兵衛長晟を駿府へ呼び、兄の後継を命じ紀州を与えた。
註: 大久保石見守長安は能楽師だったが、財政手腕を家康に見込まれ異例の出世をした。
   しかし彼の死後、在任中の汚職などが露見し、子供達迄成敗された。

十二月六日、大御所が関東で鷹狩をして駿府へ帰還する為、途中の相模国中原に到着した日、
馬場八右衛門と云う者が大久保相模守忠隣に異心がある事を言上した。 そこで本多佐渡守へ
内密に調査を命じ、それから江戸城へ戻る為稲毛に到着したが、将軍秀忠とここで落ち合い閑談
した後、大御所は江戸城へ入った。

慶長十九(1614)年正月十七日、大久保忠隣を京都へ派遣し、キリスト教を厳禁する様にと指示
した。
同月十八日、最上出羽守義光が死去した、行年六十九歳。
同月廿日、大久保忠隣の罪科の調査が終わった。
同月廿二日、 安藤対馬守、本多出雲守、浅野采女正、松平越前守、高力右近大夫の五人へ
忠隣が在城する小田原城を請取る様に命じた。 忠隣の二男右京亮と三男主膳は武州川越へ
預けられ、嫡孫の仙丸が父加賀守忠常の跡を継ぎ二万石を拝領した。 しかし祖父忠隣は蟄居
を命じられた。

二月二日、大久保忠隣は井伊右近大夫直勝へ御預けとなり京都を出発し近江佐和山へ行く。
大久保相模守が御預けとなった日、誰が云いだした事か忠隣は何の罪も無いのに江戸で人の
讒言で身上を失った。 今度供で上洛した家来達が徒党を組み(p407)、主人忠隣を奪い取って
旅宿に火を付け禁中へ立て籠もると噂が流れ京都中の騒動となった。 忠隣はこれを聞くと江戸
から持参した弓鉄炮、長柄槍、持槍等に至る迄全て縄で縛り、使者を添えて所司代の板倉伊賀守
方へ持ち込ませたので、その噂は消滅した。

其後井伊直孝が用事があり上洛して佐和山の城へ立寄り忠隣へ面会した時、貴殿は功績ある人
なのに何故こんな事になったのですか、何か思い当る事はありませんか、と日頃親しくしている
相手なので尋ねてみた。 それに対し忠隣は、全くの所私には覚えの無い事ですと答えたので
直孝は再度、本当にそうであれば何か申し開きする事もできるでしょうに、そのまま黙っているのは
理解できない事ですと言う。 忠隣は、確かに貴殿の言う通りです、明日にでも上より詮議が
あると云う事であれば申開きもできるでしょうが、私の方から申し開きはしない覚悟です。 もし
申し開きが通ったとすると、上(大御所)が讒言に惑わされたと世間で言われる事は明らかです。
それは決して上の為になりませんと答えたので直孝は深く感心したと言う。 虚実は判らぬが世間
で云われた事なので書留た
註1: 大久保忠隣(1553-1628) 家康譜代の家臣で大久保忠世の嫡子。 嫡男忠常は病死
註2: 井伊直孝(1590-1659)井伊直政二男、長男直勝が病弱な為、井伊家の本家を継ぐ

三月七日、高山右近はキリスト教から改宗をしないので南蛮国(フィリピン)に追放された。
松倉豊後守が島原の城を拝領した時、公儀(将軍家)へ申請し、南蛮国を自力で占領したいと
云う希望で調査の為に侍二名、足(p408)軽廿人程、高山を訪問する名目で南蛮国へ派遣した。
しかし一人の侍は船中で病死して吉岡九左衛門と云う者がフィリピンに着岸した。 右近に面会
したが日本で言うなら長崎の様な場所でかなり大きな家に住んでおり、朝晩の何の不自由も無い
様に見えた。 

南蛮の都(マニラ)辺に寄付ける様子はなく、松倉豊後守からの書状も封の侭で贈り物等と共に
その地の奉行か目付の様な者が六七人来て受け取り、 都へ持たせた様であった。 都は余り
遠くは無いようで往復五日程である。 書状と贈り物は少々が都送られ、残りは高山に帝王から
賜られた様である。 九左衛門は別宅に置かれ、高山の前に出る時は南蛮人が四五人程宛
側に付いているので到底秘密の相談はできなかった。 又その時召連れた足軽廿人の内十八
人余りも船中にて死亡したと言う。

海路に松の生えた島があったが其松の木の上に布で覆った様に大蛇がいた。 この蛇どもは船
を見掛けると海上を泳いで来て船の後に付いてくる。 船員達は慣れているのか、握飯を紙に包み
薪に結付て投げ出す。 すると大蛇は銘々是を咥えて島へ戻って行く。 船頭によれば、これは
あま龍というもので何の悪さもしないと云う。 長さ二間余あり日本の蛇とは大きく異なり、頭に毛が
生えている様に見え、四足で眼は特別光ると言う。 私(作者)が若い時広島で吉岡九左衛門から
直接聞いた。 九左衛門は知行(p409)千石で浅野家で先手物頭の組頭を勤めていた。

           13-2 国家安康鐘銘事件
慶長十九年三月九日、将軍秀忠は従一位右大臣に昇進する

同月廿一日、京都大仏の供養が有るとの事で秀頼卿の名代を兼ねて大仏建立の総責任者の
片桐市正及び同主膳、其外諸役人が大坂より京都に行き、 導師は三宝院と如法院の両門主
及び其外著名な僧徒が参集して大きな催しが予定された。 ところがその前日板倉伊賀守から
片桐に、明日の大仏供養は延期されるのがよい、理由は清韓長老が書いた大仏の鐘の銘の文句
の中に所庶幾者国家安康と有るが、これは秀頼卿が大御所を調伏する為に大仏を再興する様に
聞こえます。 駿府では前将軍(家康、大御所)はたいへん立腹しているとの事です。 今無理に
供養を進める事は宜しくありませんと云う。 

市正は、云われる事も解りますが、この鐘の銘は秀頼自身の意見でもなく、つまる所韓長老の不手
際です。 既に全ての準備も調い明日が供養ですから、今延期する事は困難です。 全ては私の
責任にして先ず供養を行い、その上で将軍、大御所からお咎めがあれば私の落度として切腹する
覚悟ですと言う。 伊賀守は、 その様に成されては貴殿の申分は立つかも知れぬが、私は不肖と
云えども所司代職を勤める身ですから、前将軍(家康)を調伏の為とある大仏殿の供養を中止せず
供養を行わせたとなれば(p410)私の立場は全くありません。 通常でも供養の時は人込が多く
与力同心等を警固に出しておりますが、この様な状況では尚更やるべきではありません。 兎に角
延期されるのがよい、それは秀頼卿の為ですと云うので市正も止む無く供養を取止めた。
大仏近所では十日程前より準備をした売店を急に取り壊し、遠方より上洛して集った貴賎、僧俗
共に興味を失い離散した。 そのため国家安康の鐘の銘の事は諸国一様に話題となったと云う

米村権右衛門は以下語った、私の前の主人大野修理亮と片桐市正は初めは関係も良好でしたが
後に仲が悪くなりましたが、 これは大仏再興の時分からです。 片桐の考えは異国に迄聞こえた
大仏殿が消えるのも如何なものかと再興すべきとの意見でした。 一方大野は異国に迄有名となり
日本国の看板ともなるものなら将軍家(徳川家)で建立するのが宜しい、 以前の大仏殿は太閤の
威勢で建立したものだが、今の秀頼卿の立場では再興する理由がないとの考えでした。 一方の
家老片桐が奉行として建立を執行する事になり、内心では悔しい思いもありました。 特に大坂
城中の金蔵から大量の金銀が大仏建立費用として度々流出するのも修理が気に入らなかった所
ですが、 鐘の銘の事で問題が起きた頃から特に仲が悪くなりましたと。

大阪冬夏両陣の原因はこの大仏鐘の銘及び棟札の文字であると世間で言われ、その時代の事
を(p411)記した書物でも見られるが、 或いは一説では加州中納言利長(前田利長)に秀頼卿と
母淀殿が故太閤以来の事を述べて近い内に何か頼みごとがある旨伝えた。 利長からの返答
では、近く何か御頼みとの事ですが、もし財政的に苦しく金銀が必要と言う事であれば一年間
ですと云った書状について本多安房守に駿府へ報告させた。 大御所は次第に歳をとり、今後の
事を心配したと云う。 虚実は判らぬが書留める。

著者が若い頃大坂物語と云う書物が上下巻あり、この外には大坂両度の戦いを書記した書物は
無かった。 そこで阿部豊後守忠秋殿が老中の時、万年不休と二階堂才兵衛と云う者二人に命じ
難波戦記と云う書物を出させた。 この不休は阿部備中守正次に気に入られ、常に側近に侍り
古い咄を聞いていた。 又自身の才智もあり、諸大名方の家々に伝えられた事を聞き合わせて
書記したので難波戦記は当世の正記録とも言うべき物である。
従って大坂両度の陣については特に書く必要もないが、万年不休や二階堂が聞き落とした事や
聞き間違いと思われる事等を少々以下に述べる。
註: 阿部豊後守(忠秋1602-1675)老中期間1633-1666 阿部正次(1569-1647) 大坂城代

大仏鐘の銘の申訳のため片桐市正、同主膳及び大野修理の三人が駿府へ派遣されたが、三人
は府中へ入る事を遠慮して鞠子の徳願寺に止宿した。 その趣旨を本多上野介方へ連絡した
処、上野介は、そちらでお待ち下さい、こちらから伺いますとの答え、この事を大御所に言上すると
安藤対馬守直次、成瀬隼人正政成(p412)及び上野介が鞠子へ行き詳細尋ねる様指示あった。
彼等が鞠子へ行き、片桐等三使に対して伝えた事は、私達は未だ上意をはっきりとは聞いては
いないが、 秀頼卿の行跡が宜しくないと駿府に聞こえ江戸からもその様に報告されている。
内容は諸国の浪人を呼集め、又近習の人々に武器の準備をさせて偏に合戦の用意をしていると
聞く。 其上今度大仏の鐘の銘及び棟札等に認めた文字は何れも将軍、大御所の考えに反する
との事、皆さんはどの様に考えているのかと質問した。

これに対して三使の答えは、新に武器を準備し、諸浪人を呼集めていると云うのは皆人の噂です。
大仏鐘の銘に付いては秀頼が考えた事でもなく、単に筆者の誤りです。 その為韓長老も連れて
来ておりますので調査して下さいとの事である。 韓長老は此時彦坂九兵衛へ預けてあり、上野介
宅へ呼寄せて質問もした。 三使は四月中より六月迄鞠子に滞在したが、特に何も沙汰が無い
ので片桐より上野介に返答を頼んだ。 上野介はその旨申上げた処、大御所からは返答は無く、
以下の様な意見があった。

故秀吉の末期の遺言により、幼少の秀頼を守って天下の諸大名も尊敬する様にした事は偏に私
の功績ではないか。 それを慶長五年には秀頼の命と称して、毛利・浮田・上杉等の大老職及び
石田・増田・長束以下の奉行達が相談し、諸大名を語らって何の咎も無い私を討果そうとし、濃州
関ヶ原で一戦となったが、私に武運があり小勢で大軍を切崩した。 徳川家の運を開く上は(p413)
その時秀頼も討果した方が良いと皆が云ったが、秀頼は未だ幼年であり其上故太閤の事を思えば
こそ助命したものである。 のみならず大坂の城地を替えずに其侭差置き一国の主とし、更に縁組
迄した事を有りがたく思うべきで、次第に老衰する私や新将軍も同様に大切にすべきである。
ところが諸浪人を集めて武器をを貯え、其上今度鐘の銘や棟札の認め方などは思いも寄らぬ事
である、 そうではないかと大御所が言われたと上野介が語ったので三使共に恐縮して以後は
静かに逗留した。
註: 秀頼の正妻は将軍秀忠の娘千姫で大御所家康の孫になる

そこで六月末になり大御所は上野介へ、片桐兄弟と大野修理共に当地に居て大坂は大丈夫かと
尋ねられたので上野介はその事を通知した。 三人は相談の結果、片桐市正だけを鞠子に残して
置く旨上野介に伝えて、修理と主膳は大坂へ帰り詳細を報告した。 秀頼卿、母公共に心配になり
八月上旬に大野修理の母大蔵卿、渡辺内蔵介の母正覚比丘尼、渡辺筑後の母二位の局の三人
を駿府へ派遣した。 この三人は以前も時々駿府城を訪問したが、今回は遠慮して七間町と云う所
に宿泊して、上野介及び阿茶の局の両人に案内を頼んだ。 早速面会許可があり三女中は登城
して御前に出ると大坂の事を色々尋ねられ以前と同じ様に親しい様子だった。 大御所の機嫌を
見ながら、今度大仏の銘と棟札の文字がお考えに合わなかった事を秀頼、母公共にたいへん
(p414)困惑している事を申上げた。 大御所はそれを聞くと、母公はさぞ心配している事だろうと
それ程機嫌も悪くない様に見えたので三女は喜びその様子を市正にも告げ大坂にも報告させた。

其後三女中は上野介へ、そろそろ鷹狩りの季節ですから御暇したいと云った所、皆さんは此処迄
来た事でだから序に江戸へも行き大坂では皆無事だとと云う事を語ってはどうか、と大御所の意見
もあり江戸までの道中は万事を上野介が手配して三女中は江戸へ向かった。

            13-3 片桐旦元市正の苦心
其後本多佐渡守と天海上人が二人連れで鞠子へ来て片桐市正と面会した。 佐渡守は、今度
大仏の鐘の銘と棟札の書様及び大坂城中へ武器の集積は偏に合戦の準備であると天下の
人々の口に上り、 世の中が騒々しくなるのも当然です。 今になり貴殿が幾ら弁明しても夫は
無駄です。 何とか貴殿に考慮戴き将軍の気持ちを変える方法も無い訳ではありませんが貴殿
はどう思われますかと問う。 市正は、皆さんにそう云われても、差当たり私の思い付く事も
有ませんが、もし良い案がありましたら遠慮なくお聞かせくださいと答えた。

佐渡守は、それでは私の考えを三つ云います。 一つは秀頼を侘しい所へ所替をお願いするか、
次は他の大名と同様に江戸へ参勤し、往復の折には駿府に暫く逗留されて前将軍の御機嫌を
伺うか、又は母公を江戸に証人として差し出すか、この三つ以外は(p415)思いつきませんと言う。
この時天海僧正が云うには、佐渡守が云った三ケ条の中で、母公を江戸へ下向させる事は太閤
の時代にも大政所(秀吉母)を岡崎の城へ差出された前例がありますと述べた。 市正は聞いて、
この三ヶ条共にお二人の思い付きだけではないと推察しますので確かに承りました。 しかし直ぐ
返答も出来ませんので、十分考慮して後日に御相談しますと云う事で、両人は駿府へ帰宅した。

其後八月十五日になると上野介方より連絡してきて、徳願寺は少し遠く頻繁な会合も難しいので
府中(駿府城下)へ来られるが良いとの事で市正が府中へ移ったところ、九月九日の諸大名出仕
の時、市正も登城せよとの仰があった。 市正が登場して表向きの挨拶が済んだ後、大御所は
市正を召出し、長い間滞在している事を聞いたが大儀である旨の上意があった。

其後大御所は市正に尋ねた事は、最近大坂では諸国の浪人やあぶれ者が大勢入り込んでいる
と聞く。 秀頼が彼等に扶助を加えて抱えていると云うがこれは何の為か。 又武士であれば
武器の準備をして置く事は当然ではあるが、最近になり秀頼の旗本の侍達が大坂町中で人々が
怪しむ程武器を買い集めているのは何の為か。 其上今度大仏の鐘の銘と棟札の認め方はこの
家康を調伏する宿願だと世間では広く言われている。 其方はこれ等を如何思うか等である。

市正が謹んで答えた事は、 上意のご趣旨は当然とは思いますが大坂に諸浪人を集めている事
は秀頼の招きによるものではありません。 大坂や堺は下級の者達が生活するのに便利であり、
その上奉公を願う浪人達は九州、四国、中国(p416)の諸大名家の情報を取る為に、我も我もと
入り込んでくるものです。 万一秀頼に反逆の志が有れば故太閤に恩がある大名方も多い事
ですから、同意するかどうかは別に彼等に頼むはずです、縁もゆかりも無い浪人を招き集めその
力で徳川家に敵対する事考えられません。 秀頼の方からの依頼状が一通でもあるか、諸大名方
へお尋ねになれば明確になります。 それから大仏鐘の銘の事は秀頼の考えで指示したものでは
なく、全て筆者の不手際でございます。 もし密に御前様を調伏しようと云う気持ちがあれば、天下
の人々の耳目に触れる京都大仏の鐘の銘等に書く訳がございません。 これ等の事をご理解
下さる様お願いしますと述べた。

大御所は、秀頼に反逆心がある事は間違いが、其方がそれ程述べる上は先ずはその通りとしよう。
ところで秀頼は江戸の将軍(秀忠)と同じ様に私へ孝心を尽すべきものなのに、それも無く当家
へ敵対の様子が世間では言われている。 私も七十歳になるので明日は分らない、私が死んだ後
将軍と秀頼が不和になり天下の騒乱となるのは鏡に見る様に明らかである。 秀頼と将軍に水魚
の交りをさせ天下泰平の計がなければ成らないが、其方も深く考えて見られよと云った。

市正は聞いて、上意の事は御尤もですが、天下泰平の大儀を私如きの愚案では到底及ぶもの
ではありません。 しかし秀頼が大(p417)坂の城地を去て外へ移るとか、又はこの駿府や江戸に
参勤して親交を深めるとか、或いは母公を江戸へ差出すとかあれば自然と天下の噂も止むとは
思います。 しかし此三ケ条は皆軽い事ではなく、私の一存で決める事は出来ません。 大坂へ
帰り秀頼並びに母公へも伝えて、其上で私が参上するか、又は大野修理が参上し委しく言上
致しますと答えると大御所も機嫌良く、親しみある上意があり市正は御前を立った。

市正は上野介へ向って、貴殿もお聞きの通り三ヶ条に付いて私の考えを述べた中で、母公を
関東へ送る事は先例もあるので多分問題ない様に思います。 その場合江戸の品川辺に四五町
(500メートル)四方程の屋敷を与えられるのでしょうかと尋ねた。 上野介がその点を御前に出て
伺いを立てたところ、どれ程でも望み次第との御意があり市正にその旨伝えた。 
大御所は再度市正を呼び、いつでも好きな時に大坂に帰る様にとあり、其上紅裏の付いた紋付の
小袖を下さったので、それを戴いて御前を立ち帰宅した。 市正は元々本多佐渡守の縁者であり
其上長年親しくしてきた人々も多かったが、徳願寺で蟄居の様子なので皆が面会を控えていた。
ところが御前向に別条はなさそうと見えたので、人々の贈り物や手紙などがどっと押寄せた。 

その頃江戸に向かった三人の女中が帰って来て七間町の旅館ではなく大野壱岐守屋敷へ落着
登城して江戸の様子等を報告した。 御城の女中方とも雑談したところ、大坂の母公(p418)様も
やがて江戸へ移られるとの事ですから、今後はもっと気安く時々お目に掛れるでしょうと、皆が
集り喜んでいた。 三人の女中はたいへん驚き疑心を持って市正の旅館を訪問して様子を見た
ところ、諸方の贈り物や書状が山の様に積上げられ室内は非常に賑わっていた。 益々疑念が
沸き情報を集めたところ、市正殿は大御所様にたいへん気に入られて御紋付の小袖なと迄頂戴
したとの事を聞くと三人の女中は市正を疑い憎んた。 この事から全てが起り終に秀頼が滅亡
する事になった。
著者註 この事は趣難波戦記や其外の記録等にも書記してあるが、少しづつ違いがあるので
    明確ではない。 私が若い頃牧尾又兵衛と名乗る薄田隼人に奉公した者が語ったもので、
    その時代に生きた者であるから、実説かも知れないので書留めた。
           
             13-4 和平派片桐市正の失脚
片桐市正は九月廿三日に大坂へ帰り、直に出仕して例の三ヶ条について述べた。 しかし三人の
女中が先に戻り市正の事を種々悪し様に報告していたので、 秀頼、母公共に何も尋ねず大切な
事であるから吉日を撰んで母公に面会の上で相談するので先ずは帰って休息する様にと市正を
帰した。 その以後片桐を成敗しようと云う相談が始った。

秀頼卿は大野修理、木村長門、渡辺内蔵介三人を使として織田常真を訪問させ、片桐の誅罰に
付き意見を聞いた。 常真は頭を振って云うには、勿論三人の女中の言葉に偽りはないだろうが、
片桐は故太閤が取立た者であり、其上武名(p419)も世に聞こえています。三女中の一方的報告
だけて死罪にするのは人聞も悪いでしょう。 七組(秀頼旗本)の中で誰でも良いから、有能の者を
選び片桐の云分もよく聞いた後で、どの様にでも処分にするのが良いと答えた。 三人の使いが
報告すると、秀頼卿も常真が云うのも当然と考え、速水甲斐守時之に細かく言含め片桐方へ
派遣し対談させた。

片桐が甲斐守に云うには、貴殿がよく聞て報告して欲しい。此方の旗本の諸士が武器を準備して
いる事、諸方の浪人を招き集めている事は皆事実であり申開きのしようもない。 鐘の銘や棟札も
韓長老不手際とは云うが、下書を提出した時私を始め何の気にも留めず国家安康の二字を鐘の
面に彫付させ天下の人々の耳目に触れ世間の批判を受けた事も申訳の立たないものである。
そこへ天海上人と佐渡守両人が伝えた三ヶ条の趣旨は自分達の考えとは言うが、前将軍の内意
である事は間違いない。 これを一ヶ条も受けられませんと云えば破談となるのは明らかである。
そこで母公を江戸へ預けることを私が承引したのは考え有っての事である。 具体的には江戸
品川に四五町四方の屋敷を下されたいと上野介を通して云ったところ、幾らでも望み次第に渡す
との事だった。

其屋敷を受取って地形を整え石垣等を築くのに一年程も掛り、其後家屋建造するために大坂より
材木等を廻して屋形を建てるのに一年は掛る。 其上で母公は御病気です(p420)と云って又
一年も移転を延期する。 かくして三四年も過ぎる間にどの様にも方策を考え故太閤の恩を蒙った
大名の五人から十人も味方に引入れ軍忠を尽させるべきである。 何のゆかりもない浪人達を招き
集めてその力で両将軍へ敵対して一戦を遂げる等は思いもよらぬ事であると此旦元は考える。
貴殿にどう思われるかと説得したので甲斐守は大いに納得して帰った。 

甲斐守が帰った時丁度織田常真も天満から訪問し秀頼の前に居た。 そこへ甲斐守が出て片桐
が述べた事を細かく報告すると秀頼もそれは当然と思う様子が見えたので、大野と渡辺両人進み
出て、片桐は関東の一味である事に間違いない事で自分の過ちを隠す為に今色々理屈を云い
ますが裏切り者不忠の者に間違いありません。 この様な者を其侭助けて置く道理は有りません
と強く主張するので秀頼も迷い、常真も興ざめの様子である。 

木村長門守は、今甲斐守が報告した事に付いて私にも考えがあります。 内容は三女が市正に
先んじて帰って報告した事を聞いた時には、両将軍の考えも事を荒立てる様子も無いように聞こえ
ました。 しかしその後天海上人、佐渡守両人が市正へ述べた事からは、両将軍の怒りは軽くない
様です。 これは一事両様と言うものです。 つまり片桐は武名も高く古老の者ですから、御前
(秀頼)のお考えに反したので誅罰され、亡き者なる様にと云う謀計かも知れません。 異国、本朝
共にこの様な事は多くあります。 申上げる迄もありませんが十分ご賢慮の上相手の手に乗らぬ
様にして下さいと云った。(p421) 常真も、其方の云う事も当然と同心し秀頼も納得した。

その後大野と渡辺は閑所に集って話合った事は、常真は小牧合戦の時に前将軍の厚意に預って
いるので是は関東側である。 木村は元来大臆病者であるから、当面当地に異変が起こることを
恐れてとやかく云うのである。 君命を受けない所もあると言う古人の詞もあるが、秀頼卿の仰と
称して市正に討手を向けよう。 しかし常真へは此事を言わぬ訳にも行かぬと、大野と渡辺両人は
常真方へ行き説明した。 常真は、片桐が明確に謀反と有ればとも角、秀頼の考え次第です。 
今後両将軍へ敵対となった時、何でも私に仲介と言う事は堅く断ります。 理由は私は老人で閑居
している身として、そんな大きな役を担えば世間の目も如何と思います。 決して賛成できませんと
両人に断り、以後は病気として閑居した。

さて大野方から明廿四日母公と対面の上駿府への返答を相談したいので登城する様にと連絡が
あり、市正はその支度をしていた。 そこへ廿三日の夜半頃、石川伊豆守から常真へ書状があり
常真はそれを見ると家来の雅楽助に其状を持せて片桐方へ送った。 市正は雅楽助に直談の上
返答し、家来の小島庄兵衛を片桐主膳方へ行かせた。 そこで主膳を始め片桐の親類縁者及び
其外の親しい者が馳せ集まり、市正は夜中より病気で伏せているので今日の(p422)登城は難しい
と断った。 大野修理と渡辺内蔵介は疑念を抱き、常真か伊豆守の両人から内意を洩らしたに
違いない。 此処まで来たら放置できないと、片桐の屋敷の隣にある織田有楽屋敷の内に討手の
兵を集めた。 片桐方でも上下共に甲冑を帯びて討手が来るのを待構えているので、廿四日の
晩方から其夜中迄大坂城中はたいへんな騒動となった。

その時秀頼の近従今木源右衛門と云う者が片桐方を訪問の上対談して細かく聞き、その内容を
秀頼へ報告した。 秀頼はそれで納得して市正へ自筆の書状を送り、市正は涙を流して感謝した
と云う。 この上は有楽斎の屋敷に居る討手さへ引取るなら、自分の方に集った人々も退散させる
と云う事になり、討手が引揚げたので片桐方も解散して城中は静かになった。
その時大野と渡辺は秀頼卿と片桐が和睦した事をたいへん憤り、 片桐が管理する番所にいる
番人を皆追払い、その跡で番人を入れ替え、更に本丸に部隊を集め、何が何でも片桐を討果す
構えを見せた。 そのため市正の方も又々前の様に加勢の人数を集め再び騒動になった。

片桐は大野と渡辺方へ使を立て、我々兄弟を讒言する者が誅罰すると云って討手を向ける事を
承ったのでお待ちしましょう。 何時でも部隊を向けられよと云うので両人は益々腹にすへかねて
討果そうとしたところ、 七組の頭達が相談して、今度の騒動はあながち秀頼の考えから出たもの
ではない。 大野渡辺と片桐の遺恨によるものであるから、我々が関与する事ではない。 我々は
秀頼公さへ守護すれば(p423)良いと云って取りあうものがなかった。 其上大野と渡辺が片桐の
宅へ押掛て一戦に及ぶ最中に呼応して、城中に居る片桐一派の者が所々火を掛けて裏切る等
の噂もあり、其事を気遣ったか決着は延引した。 

秀頼旗本七組の中でも堀田図書と伊東丹波の両人は、是程の騒動を我々が他所事と見なす事も
問題である。 何とかして仲裁しなければと云えば、皆が当然だと云うので両人は片桐の宅へ
行き本心を尋ねた。 片桐は、私には何の誤りもないのに悪人共が讒言をして註罰されるべきと
言い、彼等が討手として攻めて来ると聞いたので、 奴らを向かえて一戦をして気持ちよく討死
する以外は何もないと云う。 両人は打つ手もなく帰って皆に話すと速水甲斐守は聞くや否や
片桐の考えはこの前と替わっていない、 私の老後のひと働きとして片桐と大野の両人に会って
和談を調えねばと席を立ち、直に片桐宅へ行き面会した。 

速水甲斐守は色々説得し、御息の出雲守を私に預けませんかと言うと片桐は、それが秀頼公の
為になるなら出雲守は貴殿へ渡しましょう、 しかし大野が何を考えるか予想できないがと云う。
甲斐守は、七十歳になる私が貴殿を色々宥めて、大野が納得しなかったらその侭で済みますか、
その点に付いては私に任せなさいと言う。 そこで片桐が甲斐守に出雲守を渡すと則自分の家
に送り、自身は大野の宅へ行った。 大野に面会の上、種々意見を延べ(p42)て大野に納得
させ、息男の信濃守を受取り、自分の家に預かった上双方の和談を調え先ずは収まった。

其後十月一日の早朝に片桐旦元は上下三百人余甲冑を帯び、鉄炮の火縄に火を付け大坂城
の玉造リ口を出、 河内路を経由して鳥飼の渡りを越えて茨木の城へ帰った。 其夕方になると
石川伊豆守も大坂を立去り、織田常真も天満の屋敷を去って京都へ上り、津の幸庵の元に閑居
した。 そこで種々の噂が飛び次第に大坂は騒がしくなってきた。 片桐と大野の子供達は大坂
の町外れで互に取替たと旧記に表現あるが違うとの事である。
著者註: これらの事は難波戦記を始め其外旧記にも記されているが異説もある。 片桐市正が
     大坂城を立去った事が大坂一乱の根元でもあるので、旧記と比較する為に私の聞いた
     事をここに書留たが虚実は分らない。

             13-5 大坂冬の陣の臨戦態勢
其頃大坂へ諸浪人が方々から寄集り、中でも著名な浪人は毛利豊前守勝長、長宗我部宮内
少輔盛親、 真田左衛門佐幸村、同大助、山口左馬助(大聖寺城主山口玄蕃二男)、仙石宗也
後藤又兵衛基次(元黒田甲斐守家老)、明石掃部全登(浮田秀家家老)、小倉作左衛門行意
(蒲生飛騨守家老)等何れも秀頼の招きで集った。 その中で毛利、長宗我部、真田は三人衆
として皆が尊敬していた。

大野修理、渡辺内蔵助等は相談して、諸浪人ばかりでは城中が手薄になると言う事で加州利常
(前田)、島津家久、伊達陸奥(p425)守、浅野但馬守、松平武蔵守(池田)等を始め故太閤に
由緒ある大名衆へ秀頼卿書状に名作の刀脇指等を添へて使者を送り頼んだが、誰一人として
協力を申出る者は無かった。 その為益々諸浪人を手厚くもてなした。 

其頃大野修理は本心では後藤又兵衛と明石掃部両人を三人衆の仲間へ加えて諸事の相談
相手としたいと思っていた。 しかしこの二人は元陪臣であるので三人衆には遠慮があるから
と断っていた。 一方城中での評判は、三人衆は何れも関ヶ原一戦の時には関東へ敵対したが
真田殿は親の時代の事であり、両将軍の憎みも軽く、其上兄の伊豆守、叔父の隠岐守は将軍家
に奉公しているので真意は分らない。 それなのに本当の味方と思われているのは間違いでは
ないかと言う説もあった。 それを真田幸村は伝え聞き、心外に思いながら過していた。

そんな或る日城の構えに続いた山の出先に誰が行ったが分らぬが城の設計をして竹木も少し
集めてある所があった。 幸村はこれを出丸として自分一手で籠り関東勢を引受、晴れやかな
一戦を遂げて人々の悪口を漱ごうと思った。 そこで同席の毛利、長宗我部とも相談し、大野へ
も語った後、出城を設計し工事に取り掛かった。 ところが後藤基次が薄田隼人に会って、私が
思付き出丸を構築しようと設計し、竹木等も少々集めて置いた場所を誰かが設計も捨て、集めた
材木等も外へ運び出して工事をしようとしている。 仮令お上の用地であっても(p426)一応は
届けるべきであり、まして他人の行いとすれば理不尽であり我慢できない。 明日にも自分の部下
を連れて其場所を取り返さずには置かないと言う。 

薄田隼人は後藤に、貴殿の立腹は当然です、私が聞いた以上は良い様に取り計らうので、明日
になり私の方から連絡しない内に早まった行動は取らないで下さいと断った。 それから登城して
緊急の会議を始めて皆が相談して明石掃部を呼んで、有楽、雲生寺を始め毛利、長宗我部、大野
薄田等が口を揃えて、貴殿より他に後藤を説得できる人はいないので何とか丸く収めて欲しいと
頼んだ。 そこで明石は後藤の小屋へ行って種々宥めたが、真田殿の所行と聞いた以上猶更我慢
できないと言って納得しない。 その為山川帯刀、北川次郎兵衛の両人を明石に加えて説得し、
今後は後藤を三人衆の一列に加えると言う秀頼卿の内意に任せて後藤は矛を収めさせた。 
明石も同列に加わり其後は五人衆と云った。 これに毛利、長宗我部、真田等も後藤、明石が
同列に入る事に反対もないので兼々大野が望んだ体制となった。
著者註: この件は旧記等には見られないが、米村権右衛門が語ったので書留めた。

この様な状況では関東との対立が収まらなくなり、両御所(将軍、大御所)から必ずお咎めを受け
討伐の軍勢を向けられる事も有り得ると、秀頼卿の近習達は相談して籠城の準備を始めた。 
先ず河口へ奉行を派遣して兵糧を買集め、又大坂町中の米、大豆等を城内へ取り込み、僅か
四五日の間に三十万石の兵糧を確保した。(p427)
関東へ廻る御城米二万石余り大坂にあったが、板倉伊賀守は今度籠城の入用に城内へ取入れ
と言って大野方より川舟に積み、京都に運んだ。 この時の伊賀守の計略を諸人は誉めたと言う。
又板倉伊賀守は家来の朝比奈兵右衛門と言う者を浪人に見せ掛けて、伊東丹後守が抱える部隊
の一員として入り込ませて大坂城中の様子を報告させた。 次の夏の陣の時は秀頼の船奉行樋口
淡路守配下として朝比奈を付けた。。

十月一日、駿府城では観世三十郎の能舞台が予定され、松平右衛門大夫が準備を進めたが
夜中から雨が降出し翌朝には降り止んだ。 その朝京都より早便で注進が来た時、大御所は大奥
にいたので、本多上野介は阿茶の局を通し書状を渡したところ、上野介を奥へ呼び暫く面談の上
指示があった。 上野介はその後表大広間で指示書を調えたが。成瀬隼人正は尾州へ行って
おり、安藤帯刀と上野介の両名の判だったと言う。 その趣旨は、駿府から京都迄の各地城主は
準備出来次第上京する事。 藤堂高虎、井伊直孝、松平下総守は東寺より上下鳥羽の間に布陣
して非常体制に備える事。 松平隠岐守は伏見城をしっかり守る事等である。

しかし上野介がこの指示書を説明する時、松平右衛門大夫は御前へ出て、雨も晴ましたので能を
御覧になりますかと伺った。 大御所は、近く出陣する身であるから能など見物はできないと言う
事で初めて城中の諸人が知って驚いた。
         
         13-6 第一次大坂戦争(冬の陣)始る
堺の代官芝山小兵衛方より片桐の茨木勢に加勢の依頼があった。市正は大坂を立退く時家財
雑具等を芝山へ預けており、その上前からも親交があったので(p428)市正は捨てては置けぬと
松尾兵左衛門、今村三右衛門、日比加左衛門、十川久兵衛、河路五兵衛以下侍分の者三十二
騎、足軽五十人、雑兵含め二百人程加勢に送った。 その中で多羅尾半左衛門と富田太郎助の
両人は妻子を堺に置いているので断って侍達に先んじて出発したが、本道の通行は難しいので
尼ケ崎へ廻り、城主建部三十郎政勝に船を借りて堺へ渡って芝山の家へ行った。 しかし小兵衛
は既に高野山へ立退き、 跡に大坂方の者達が入り込んでいた。 それを見て急いで今井宗薫方
へ行くと宗薫は早くも大坂方に生捕れたとの事なので、如何したものかと思っていると大坂より
入込んだ警固隊の牧島玄蕃と赤座内膳の部隊が押寄せてきた。 そのため多羅尾は家に火を
かけて自害し、富田は何とかその場を逃れた。

外の茨木勢は尼ケ崎へ行き、城主建部に船を借りて堺へ渡ろうとしたところ、近辺の村々で貝を
吹き鐘を鳴らして一揆を催す様子である。 茨木勢は渡海を中止して尼崎の城中へ入れて欲し旨
建部に頼んだが、松平武蔵守方より加勢として来ている池田越前、南部越後、田宮対馬などが
同意せず建部の思う通りにも行かない。 その内時間も経過して一揆方から大野修理方へ
告知したので、大野の部隊が馳せ来て一揆と一体となり押掛けてきた。 茨木勢は止むを得ず
伊丹迄引下がったが、大坂方が烈しく攻めてくるので伊丹の村へ入ろうとしたが、村入り口の
木戸を堅く守り村に入れてくれない。 仕方なく又茨木の方へ退却するのを大坂方と一揆方が
烈しく押寄せたので、片桐の茨木勢は神崎(p429)から伊丹茨木の道筋の間で大部分討たれて
二百計の人数の中で殆ど茨木へは帰らなかった。

片桐は大いに腹を立て、京都所司代の板倉伊賀守にこれを報告すると、板倉は宿次の飛脚便で
駿府へ報告した。 大御所は機嫌悪く、尼ケ崎在番の者達が片桐の家来達を保護せず、味方を
捨殺したと言う事は何を考えているにかと松平武蔵守(池田利隆)に厳しく尋ねよと指示した。
そこで板倉伊賀守より武蔵守の陣所、西の宮へ使者を送り、その事を伝えたところ武蔵守は大へん
困惑して幹部の侍を尼ケ崎へ派遣した。 城主三十郎は未だ若年であるから万事相談の為として
古老の面々を加勢として駐在させたのに、茨木勢を大坂方に討たせて城中の者が見殺したと
あっては我々の立場がないので、この点を必ず説明せよと言った。 

城兵達は集り相談して、片桐の家来達が一揆勢に取囲まれた事は見たが、 当城は海港の守りを
怠る訳に行かない、 敵地でもあり城内に人数も少なく、城中より人数を出して茨木勢を救おうと
すれば、 一揆勢との戦い半ばに若し海手より敵が攻寄せてくれば城の防御も難しいと思い茨木
勢が討たれるのに掛り合わなかったと言う事にした。 其時田宮対馬と云う者は、その答えは良く
無い、尼崎は大坂に地であるから加勢等も十分に行ない堅く守る様にと、 武蔵守殿が御暇の時
大御所からの直接に言われている手前、 城中が手薄と言う口上は武蔵守殿の立場を悪くすると
云って(p430)彼一人同意しない。 

そこで田宮は、片桐の部隊を救う為に城中より人数を出せば大坂勢も更に人数を出すだろう。 
そうなると城中よりの加勢を更に出さざるを得なくなる。 その時大坂方の別軍が当城へ攻寄せた
場合に城中には手薄で防ぎ様が無いのは明らかである、其上茨木勢と云っても片桐の侍達を誰も
知らない。 城中の人数をおびき出すための大坂方同志が戦い見せかけて居ないとも限らない。 
所詮茨木勢を見殺したと言う事は我々の落度となるが、 万一当城が大坂方に奪われた場合は
武蔵守殿の落度となり、天下の為に宜しくないと対馬が熱心に語るので城中の者はこれに決めて
返答する事にした。

その趣旨を武蔵守より伊賀守へ報告して、更に駿府城へも伴大膳と云う者を使者とし報告した。
直ぐ大膳は大御所の御前に召し出されたので、今度の尼ケ崎城の事を細かく言上した。 大御所
の上意は、尼ケ崎城中の者達が片桐の部下達を見殺しにした事を今になって色々言訳をしても、
武蔵守に前に指示したが頼りない事だと席を立とうとする。 そこへ大膳は大御所の膝元近く迄
這寄って平伏して、武蔵守は確かに姫君様の御腹より生れた方ではありませんが宮内、左衛門督
両人とは血を分けた兄弟ですから、御前様の縁者に間違いありません。 それなのに只今の上意
はお情けのない事と存じますと言う。 すると大御所は、其方が西の宮に帰ったら、尼崎についての
報告(p431)は了解した。 城兵達の言い分も当然なので今後共、他の事は良いから城を堅く守る
様に指示する様伝えよと上意があった。 大膳は有りがたいと涙を流して御前を立った。
註 松平武蔵守(池田利隆1584-1616)は池田輝政と前妻糸姫との子、左衛門督(池田左衛門督
  忠継(1599-1615) 宮内:池田宮内少輔忠雄(1602-1632) 忠継、忠雄は輝政と督姫(輝政
  後妻、家康娘)の子

其後大御所は側衆へ、其方達はあの大膳の人となりを知っているかと尋ねた。 皆、存じませんと
答えると、あの大膳は元々池田三左衛門輝政の馬の口取をする中間だった。 長久手一戦(家康
と秀吉の戦い)の時、親の勝人と兄の紀伊守父子(秀吉方)共に討死した事を聞いて、一所に
是非討死しようと馬を乗り出そうとした時大膳は、その様に親子三人共に死なれたら池田の家を
誰が継ぐのです、決してなりませんと云って馬の口を取って味方の方へ走り出した。 輝政は
怒って、おのれ、馬の口を放せと鐙で口取りの頭を蹴ったので直ぐ大きく腫上ったが、それでも
馬の口を放さず撤収した。
終には三左衛門に池田の家を相続させたので今では伴大膳と名乗らせ、知行も与え重い役職
にも就けている。 微賎の時から主人の為に身を返り見ない所の有る者であると上意があった。

十月十一日、大御所は駿府を出発、尾張宰相義直公は名古屋より出馬、遠江宰相頼宣公は
駿府よりお供したと言う。 同月廿三日京都に到着し二条城へ入る。
将軍秀忠公は十月十四日に江戸城を出発、留守は竹千代君(後家光)、国松君(後駿河大納言)
越後少将忠輝公、松平下野守、鳥居左京、奥平美作守、内藤左馬、酒井河内、福島左衛門
大夫、加藤左馬、黒田甲斐、平野遠江守等に指示し、十一月十日伏見城へ到着した。(p432)
註: 大坂の陣は直接秀頼を攻める為、豊臣恩顧の大名、福島、加藤、黒田等は留守をさせた
   ものと思われる。 

十一月十五日朝八時、 大御所は二条城を出馬し、お供の人々は皆小具足だけで甲冑は着けて
いない。 お供の中で使者の米倉六郎右衛門は伍の字の下に米倉丹後と書き、真田隠岐守は
地黄八幡の指物を許可をもらい是を使った。 小栗又市は物頭であるが使者も兼務する様に指示
されていたと言う。 
この日木津へ着陣して名主の家へ立寄、お供の人々も暫く休息して間もなく奈良へ向かったが、
お供は漸く五十騎程で其外は後から段々馳せ付けてお供した。 其夜は中坊左近方に宿泊し
延命喜四郎入道が出て咄をした。

大坂方では真田左衛門佐幸村の出丸の工事が終わりそこへ移るに当り、誰か私の相談相手を
願うと言うと、黄母衣衆の中から伊木七郎右衛門を真田に加へられた。 石川肥後守は自身で
真田に断り、願ってこの出丸に籠ったと言う

中国の軍勢も全て大坂へ着陣した。 松平左衛門佐忠継は神崎河を渡り、戸川肥後守、花房
助兵衛、同志摩守が後に従う。 助兵衛は老衰で歩行も出来ず、備中の知行所に蟄居したが、
大御所から松平左衛門督方へ内意があったので、忠継は使者を送り今度大坂へ同道する様に
と云ったが、歩行も出来ず家の中も駕籠で移動する程なので戦場へ出ても何の役にも立たないと
堅く断った。 しかし大御所の内意でもあるので忠継より再三使者を送って頼むので止むを得ず
志摩守を伴って出陣した。(p433)(

松平武蔵守利隆もほぼ同じに着陣したが、忠継の軍勢に先を越され大いに腹を立てた。 中島
の瀬に臨み斥候を派遣したところ、大坂方の織田有楽、雲生寺を始め其外大坂七組の面々が
見廻りとして中島の向こう側に控えているとの事である。 利隆は河を渡って一戦を行おうとした時、
家康旗本からの検使城和泉守が強く止めたので利隆と互いに問答になったが時間も経過して
夕暮になり、大坂方城兵は段々引揚げたので利隆の軍勢は空振りとなった。 
一方忠継は又軍勢を進めて中島下流の瀬を渡って進み、城兵十人程を討取った。 この時石川
主殿頭や毛利伊勢守の豊後勢は神崎川を越て中島に至る。 武蔵守と有馬玄蕃頭軍勢は天満へ
向かうと、城兵は小勢では守り切れぬと見たか天満を焼いて大坂城中へ引揚げ、寄手がその跡へ
入れ替った。 左衛門督忠継は住吉(家康本陣)へ使者を送り、神崎中島を乗取り敵兵少々討
取った事を言上すると大御所は機嫌が良かったと言う。

落穂集第十三巻終

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