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          落穂集巻三
 
    3-1 武田家滅亡と本能寺の変 39歳
天正十年(1582)の春信州の木曽左馬頭義昌が武田勝頼に背き織田信長の旗下と成ったので
信長信忠父子は甲信の両国に兵を発して武田家を追討するとし、近国の諸大将と相談し
駿河国方面には家康公三万五千で進発した。 関東方面から北條氏政・氏直父子が三万余
の軍勢を率いて向った。  飛騨方面からは金森五郎八長近が参三千余の兵で進入し、木曽
方面からは織田信忠が五万余を率いて向った。 信長の旗本は七万余の人数で全軍の後から
進発することにしていた。 そこへ信州の下条伊豆の配下の下条九兵衛が勝頼に背き信長へ
傾き、濃州岩村の城代である河尻肥前守軍勢を引入て信州伊奈の城を信忠へ引渡した。 それ
以後武田家の諸勢(p61)は力を落して織田家へ降参する者が多くなった。

同じく家康公も二月十八日浜松を出発し駿河の田中の城を攻めたところ、城主芦田右衛門佐は
和を願ったので大久保七郎右衛門に城を請取せた。 それより同国の真国寺の城へ向ったところ
城主朝比奈駿河守は降参して城を明渡した。 同国江尻の城主穴山陸奥守入道梅雪はかなり
大きな勢力で城に立て籠もっていたが、家康公は旗本の長坂血鎗九郎を城中へ派遣して
交渉させたところ、 梅雪は長坂の意見に随い味方と成り、江尻の城を明渡したので駿河国中
の武田方の各城は残らず当家の手に入った。
三月九日、家康公は駿河を出馬し穴山梅雪を案内者として文殊堂、市川口より甲州へ入り、
同十一日に甲府へ着陣し織田信忠と対面した。 

それより前武田勝頼の軍勢は日々に少なくなり、甲州に留まることも難しく行く末を失ったが
信州上田の城主真田安房守方からの使いがあり、早々私共の方へおいで下さい、 命に賭け
御世話しますとある。 勝頼は是非との気持ちがあったが、その時は未だ長坂釣閑と跡部大炊助
の両追従者が付き添っており、色々反対意見を述べて郡内の小山田が武田家代々の家老筋で
あるので小山田に頼むと言う事で郡内へ落ちて行った。 ところが小山田は全く同意せず、それ
どころか足軽の兵を出して弓鉄砲を打掛けて寄せ付けなかった。
それより天目山の麓、田野村と云う所へ落ち行き百姓の家に(p62)潜んでいたが、知られて
滝川左近と川尻肥前両部隊の者達が田野村へ押掛け終に勝頼・信勝父子を討取った。

その首を甲府へ送ったので信忠は葉原助六・関嘉平次と云う侍を添えて信長へ持参させた。
信長は勝頼の首を庭先に置いて、親父信玄以来の色々の悪事を云いたて悪口を行った後、
この首を家康へも見せる様にと指示した。 上の両人の使いは首を家康公の陣所へ持参した
ところ勝頼の首をくきやうに載せる様にと言い、首対面の取扱で見られた後信長への返答を
しようとした。 しかし両人の使者が、私共は今からこの首を京都に持参しますのでというので
返答は出さなかった。

さて信長は上の諏訪に滞留して関東各地の処理を進めたが、駿河国一国を家康公へ進上し
今度好都合なので富士見物をしながら東海道を上ると言う事である。 家康公としては駿河、
遠江、三河の三ケ国の領地のそれぞれの場所で信長を御世話する事になるが、その準備は
半端ではなく、道橋掃除等は小栗仁右衛門と浅井六之助の両人へ指示し信長は満足して
安土へ帰城した。

その後月初めに家康公も浜松を出発して穴山梅雪を同道して安土へ行けば、信長もたいへん
歓迎して色々応接があった。 同廿一日梅雪を連れて安土を出発して京都に行き、その後
堺の港を見物しようと下向した。 南北の商家の者達が昔からの伝えられた珍器等売って
いるのを梅雪は田舎人であるから見物する様にと云い堺に逗留していた。

六月二日丹波国亀山の城主明智日向守光秀は羽柴筑前守秀吉が毛利家と対陣している
場所へ出発するので、(p63)中国へ下ると触れて軍勢を調えて亀山の城を出て桂川を渡る
頃急に謀叛の趣旨を述べて信長の宿寺本能寺を急襲した。 当番の武士達はたいへん驚き
防戦したが敵わず、信長は四十九歳にて自殺した。 明智は直に二条新宮へ押寄せて嫡子
信忠にも腹を切らせたと言う知らせがあった。
家康公は堺より直に上洛して明智を討果したいと思いはあったが、人数も少なくその上明智
に同意する人々の有無も不明なので、拙速な上京も如何なものかと思慮していた。 そこへ
近江の瀬田の城主山岡兄弟が駆けつけたので、勧めに随い山岡を案内者として伊賀越え
をして岡崎へ帰城した。 

近日中に上京して明智を退治すると言う事で出陣の触れを駿・遠・参三ヶ国に出して、
酒井左衛門尉忠次を先鋒とする事が決まった。 忠次が部隊を率いて尾張の津嶋迄来た処
羽柴秀吉から家康公へ使者があり、今度山崎において明智と一戦に及び直ぐに勝利し
反逆の輩は残らず討果したので上方方面は平穏なのでご安心下さい、 出陣は不要です
との事なので先鋒の部隊も津嶋から帰陣した。

註 織田信忠(1555-1582) 織田信長長男
註 明智日向守(光秀1528-1582) 信長の重臣、 美濃の守護土岐氏支流
註 亀山城 京都府亀山市荒塚

      3-2 甲斐他旧武田領の争奪、北條家と和睦 40歳
信長在世の時上の諏訪で勝頼領地の分を誰にどう割与えるか決めたとき、西上野全体は
滝川一益に給わり、厩橋の城に常駐する事とし、甲州半国は川尻肥前に与えるとの事だった。
その時信長が家康公へ(p64)言われた事は、甲州は駿河と接しており領地並であるから
川尻に色々協力する様にと直々言われた。 信長が横死したので肥前守も力を落している
と考え、本多百助を甲府へ派遣して肥前守と諸事の相談相手になる様にと言い含めた。 
ところが肥前守は内心でこれは家康公の計略と考え違いを起こし、ある夜児小姓に命じて
百介の寝首をかいて殺害した。 

本多の家来達は大変憤慨して百姓の家へ寄集り、主人を殺されて生て帰ったとしても
助かる事はないと考え、川尻の家へ押込み切死をしよう、しかし主人の敵川尻を打漏しては
悔しいと言っているのを武田家の浪人が一人二人と聞きつけて、例の百姓家に集り色々
相談した。 まもなく彼等は一揆を起して川尻の家を囲み、早速攻め破り川尻始め従卒全てを
討殺した。 中でも肥前守は甲州の武川衆の内三井十右衛門が討取った事を本多の家人達に
使者を添えて浜松へ報告した。 家康公は大変喜び、その後岡部次郎右衛門、成瀬吉右衛門
両人に芦田右衛門佐を添えて甲州へ派遣し、徐々に甲州経営が始まった。

その頃滝川左近将監一益も上州厩橋の城に滞在していたが、信長横死の知らせを聞きたいへん
驚き力を落し、関東を捨て上方へ上る考えであるので北條氏政・氏直父子が出陣されるのが
良いと、新田の由良信濃守やその他の上州衆や武州忍の成田等から小田原へ注進があった。
氏政(p65)氏直父子は三万余の軍勢を率いて厩橋城を攻めた。 滝川も流石の者で北條家
の大軍をものともせず厩橋の城から討って出て小田原勢と一戦を遂げる。 しかし小勢の事であり
終に戦い負けて厩橋の城へ引退く。 その後笛吹峠へ越えて木曽路を経て上方へ去った。
したがって西上野の旧武田領は全て北條家の持分となった。

その後北條氏直は西上野の人数を合せ四万余の軍勢で笛吹峠を越え信州へ侵入した。 芦田
や真田を始として信州侍を全て味方に付け、五万に及ぶ兵を率いて川中島へ進出した処、
越後の上杉景勝も信州へ出馬し善光寺辺に逗留して犀川を隔て対陣となった。 その時北條家
の一門や家老の面々は氏直へ異見して、小田原に接する甲州を差置いて此処で上杉家と対陣
しても利益とならないと言う。 氏直も同意して直ぐに軍勢を引揚げ、そのまま甲州へ侵入して
若神子で七月末より十一月迄五ヶ月の間家康公と氏直の対陣となった。 

それより前に甲州浪人達から浜松へ報告があり、北條氏直は今信州へ出陣しているが、親父
氏政は小田原に居残って相州三板の城へ軍勢を貯え、甲州黒駒辺への出張を考慮中との事
なので、直ぐにでも出馬されたいと要請があったので浜松を出陣した。 その頃は古府中に
滞在の予定だったが、氏直出陣の報告があったので新府中へ布陣して氏直と対陣した。
この時家康公は朝比奈弥太郎を使として北條美濃守氏規方へ書を送った。 内容は甲斐
国は(p66)は駿河と接しており、最寄でもあるので当方より支配とすべきである。 西上野の
武田の旧領を添へて上野一国全体を北條家で支配されるのがよい。 この趣旨に氏直が
納得するなら以後和睦を結び、来春になり親父氏政が隠居され氏直が家督を相続された
なら当方の娘を氏直へ嫁がせる。 幸い隣国の事なので円満に話し合いたい旨詳しく書面に
してある。 それを見て氏直を始め北條一門や家老達もこれは最もな事となった。
氏直はその意見を得たので早速小田原へ報告し、氏政よりの返答次第で美濃守が新府の陣所を
訪れる旨回答した。 氏直は近習の侍遠山新四郎を小田原へ遣わしたところ氏政も納得は
したが、決断の評議が済まず使者の新四郎は小田原に逗留している内に寒気の季節になった。 

山の手に布陣している信州先方の侍達は小屋の普請を始めて冬支度をしている事が家康公に
報告されたので、たいへん立腹して、或日の早朝北条家一の先手大道寺駿河守の陣所へ
朝比奈弥太郎が馬を乗りつけて、先日も御目に掛かった弥太郎です、家康からの使で参りました
と言うので駿河守が陣屋へ呼入れた。 弥太郎は、家康が云うには先頃和平の事を申し入れ、
小田原からの情報次第で美濃守が参陣されるとの返答だったが、数日待っていたが返答が
ないので、ここに至ってはと諸陣では小屋普請をしている。 これは和談をすると言うのは真実で
なく時間稼ぎの策略であろう。 時間が立つと(p67)互いに人馬の融通もできないので今日中に
一戦を遂げるので、これは断交の使いであると言う。 駿河守は驚いて、家康公の御腹立される
のは当然である、しかし氏直の気持ちは最前美濃守よりお伝えした事と今とは少しも変って
いない。 何れにせよ美濃守と直接話されるのが良いと言う。 弥太郎は、その事に関しても
家康が私に指示したのは、誰でもよいから先陣の人々に伝えて直ぐに帰って来いという事です
から、此陣へ来て貴殿へ直接申し上げた以上美濃守殿へお話する必要はありません、と座を
立つのを漸く引き止め、駿河守は本陣へ駆けつけ事の次第を報告した。 氏直始め皆たいへん
驚き、此上は美濃守が新府の家康本陣へ行き、何とか事なき様に交渉せよと一決した。 

証人の為、駿河守嫡子大導寺孫九郎を美濃守に同道させ、朝比奈弥太郎を案内者として
新府へ駆けて行く道すがら、榊原小平太、大須賀五郎左衛門、土井豊後の三部隊は若神子の
上の山手へ押上っており、 左側の軍勢は酒井左衛門尉、石川伯耆守、本多平八郎の三部隊は
北條方上野衆並に信州佐久小縣衆へ差し向いに布陣して部隊毎に偵察を出して合戦を
待ち押出そうとしている。 その両陣の中を弥太郎が氏規(北條美濃)と直繁(孫九郎)を同道
して通るのを見て、左右の陣から使いが駆けて来て事の次第を聞くと暫くは部隊の前進を
押し留めた。

そんな中で三人は新府の陣所へ乗付て、弥太郎が本陣へ参上して右の次第を報告したので
早速家康公は美濃守に面会した。 氏規は、先達ての和睦の回答が(p68)遅れている理由を
一つ一つ申し上げ、不手際の至りで困っていますと申し上げれば、 家康公も、そのような
間違いはよくある事だと機嫌よく笑った。 この上は一戦の必要ないと云う事で先手の面々も
部隊を引揚げるようにと指示があった。 孫九郎にも面会して、ところで美濃守も若い時は
北條助五郎と云ったが親父氏康から駿河の今川義元方へ人質として送られ、その頃家康公も
竹千代君と云い駿河の富ケ崎と云う所で屋敷が並んでおり、朝夕の様に出逢った事など
雑談があり、美濃守と孫九郎に弁当の料理を下された。 

美濃守がお暇を申し上げた所家康公は、貴殿がこの陣所に来て直談したのだから、人質は
必要ないので孫九郎を連れて帰りなさいと云う。 美濃守は、いやそれはなりません、
この様な事は幾重にも堅くするのが良いでしょう、氏直からそのように言われておりますので、
こちらに置いて下さいと云う。  それなら孫九郎の引替として此方から酒井左衛門尉の倅、
小五郎を貴殿に預けよう、しかし今日は夜も更けたので明朝引渡そうと云った。
美濃守は、こちらからの人質は必要としませんが、 それでもと云う事であれば氏直は明朝
陣を払い小田原に帰りますから、それ以後小田原へ送って戴けば結構ですと云い氏規は
帰って行った

その後で榊原小平太と鳥居彦右衛門元忠の両人を呼ばれ、北條氏直からの人質の孫九郎
を来年三月迄両人に預けるという。 その中でも彦右衛門はこの甲斐国に居残る事になるが
孫九郎をどこに(p69)置くかと尋ねた。 元忠はこの甲斐国も未だ確実に手に入った
訳でもありませんので心当たりも無く自分の手元に置く外はありません、と答えた。
家康公は、人は突然死んだり病気になったりするが、人質は大切な物であり他の置場所を
考えて見ぬかと重ねて尋ねた。 元忠は外には思いつきませんと云うと、家康公は究極
の場所があるのを思いつかぬか、孫九郎を富士の神社の社人へ預けよ。 富士の神社は関東
に多くの旦那を持つから、北條家の家老の子を疎略にはしないはずである。 私が幼少の頃
事情があって尾張の囚われとなった時、織田弾正信秀は自分の手元に置かず、尾張勢田の
神社の社人に預けた、と云われた。 元忠は最も至極の事ですと、その翌日孫九郎を連れて
富士の神社のある勝山村行き、小佐野越後と云う社人頭へ預けた。 

翌年三月(天正11年1583)に西の郡の姫君と北條氏直との婚礼が済むと、榊原小平太、
鳥居彦右衛門、水野藤十郎の三人が勝山村へ行き、社人達から孫九郎を受け取って相模国
三坂の城へ連れて行き北條美濃守に渡した。
この甲斐一国を徳川家が手に入れたのは、 黒駒において北條左衛門佐が相模上坂の城
から甲州へ浸入した時、鳥居彦右衛門が味方となった甲州衆と協力して(p70)駆けつけ
合戦となり敵の首三百余を討取って勝利を得た事と、若神子で氏直と百日余り対陣とした事
だけで甲斐の国全体を領地とした事はたいへんな手柄と世間では云われた。

註 川尻肥前守(秀隆1527-1582) 織田家家臣、信忠の補佐役
註 滝川一益(1525-1586)左近将監、織田四天王の一人
註 厩橋(前橋)城 群馬県前橋市
註 本多百助(信俊1535-1582) 三河以来の家康家臣
註 黒駒 山梨県中部笛吹市付近の旧名
註 若神子城 山梨県北杜市須玉町若神子古城 北條氏直が本陣を置いた
註 北條氏政(1538-1590)後北条第四代当主
註 北條氏直(1562-1591)後北条氏第五代当主
註 大道寺駿河守(政繁1533-1590) 後北条家臣、 落穂集の作者大道寺友山の先祖筋、
  その為か多くの紙面を割いている
註 北條美濃守氏規(1545-1600)北條氏政の異母弟、三崎城主
註 西の郡の姫君(督姫1565-1615) 家康と側室西郡局の娘 

       3-3  秀吉と対立、小牧長久手の戦い 41歳
天正十二年(1584) 尾張の織田雄卿の家臣である津川玄蕃、岡田長門守、浅井多宮の三人が
羽柴秀吉へ心を寄せ、信雄郷を裏切るという計画を告げる者があったので、信雄卿は立腹し此
三人を伊勢の長島の城中で誅殺した。 それ以後信雄郷と秀吉郷が不仲となり、尾張に軍を
向けて織田家を滅ぼすべしとなった。 信雄郷は信長の取立で立身出世した諸大名に出軍の
依頼をしたが、時の勢いは秀吉にあり誰一人協力する者は居ない。 これはもう家康公に援けて
貰う外はないと熱心に頼んだ。

家康公も、秀吉は今天下を握る勢いではあるが本はと言えば信長に大恩があり、仮令天下
を奪ったとしても信雄は本来主君である。 それを責め滅ぼそうとするのは武士道の姿では無い。
私は信長に特別に恩を受けた訳ではないが、日頃親しくしていた間柄なので息子の信雄を
見放す事はできない。 秀吉が出軍すれば何時でも私の方も出陣するので安心されたいと
返事をした。 それ以後直ぐに尾張へ出陣する準備を進めた(p71)。三河、遠江、駿河、甲斐
四カ国の軍勢に信州の協力部隊を合わせて総人数は堅く三万五千余となるが、越後の上杉
景勝の押へとして信州部隊は残し、叉相模の北條氏直は近い親戚であるが親父氏政には
油断が出来ぬため、駿河国の要所要所には留守部隊を残す。 その他三河、遠江,甲斐の
三ヶ国の留守居部隊を堅固に備えると結果として残るのは漸く一万五千余の軍勢を率いての
出陣となった。

その頃尾張の犬山城は信雄卿が中川勘右衛門に守らせていたが、勘右衛門が同国支城の
警備に行った留守に、秀吉卿に味方した池田勝入が三月十三日押寄せて即時に城を乗取、
勝入が代りに犬山城へ入った。 秀吉方の旗色を鮮明にして所々で放火をしている事を
家康公が聞き、 信長に厚恩がある勝入の行為は許されない事であり、何としても勝入を
討取らねばならぬと小牧から出陣したところ勝入は早々に犬山城へ引き込んだ。

十六日より犬山へ軍勢を進めたところ、羽黒の八幡等に森武蔵守と尾藤甚右衛門が陣取って
味方の軍勢に鉄砲を打掛けてきた。 そこで奥平九八郎、酒井左衛門、松平紀伊守の三部隊
からも鉄砲を打掛る。 鎗前よりかなり遠くに武蔵守の部隊から使いの武者らしき一騎が乗出
して来たのを味方の鉄砲がこれを打ち落とした。 是を見て敵の部隊が少しひるんだ所を
奥平九八郎が千人余りの手勢で直ぐに川を渡り、 武蔵守の三千計の部隊と(p72)一戦に及ぶ。
武蔵守は敵わず羽黒の内へ入った所を奥平が進み犬山近所迄追詰める。 敵方の野呂
助左衛門と同助三郎父子は引き返して討死を遂げた。
奥平に続いて味方の軍勢が押掛るのを見て犬山城外に布陣していた勝入父子の部隊と福葉
伊予守・右京父子の部隊も次々と城内へ引取った。 これを見て家康公は御使番を送り
深追いせずに早々に部隊を引揚げる様に指示をしたので先手の面々は追い止めの勝ち鬨を
挙げて引揚げた。

その頃秀吉は大阪から出陣しようとしていたが、紀州の根来近辺で家康公と信雄郷に同調する
一揆勢が所々に蜂起するので暫く出陣を見合わせていたが、泉州岸和田の城主中村式部少輔
が一戦を遂げて勝利したので一揆勢は退散した。
これで心配はないと三月廿三日、秀吉は拾二万余の軍勢を率いて大阪を出発し、同廿七日
犬山城へ入る。 初め秀吉は小牧山を本陣としてその近辺を諸軍勢の陣場としようと考えて
いたが、 家康公も先達て小牧山を選んだ信雄卿と一緒に布陣したので、秀吉卿の軍勢は
尾口楽田近辺に陣を取って小牧山へ向って土居を築き柵を設け、私の命令がない限り誰で
あろうと抜け駆けは罰せられると緒軍へ堅く言渡した。

その頃家康公は信雄卿と相談して、蟹清水、外山村、宇多津村に取土の城を築せ、中でも
岡崎への通路の為として小幡の古城も活用し、本多豊後守と甲州穴山梅雪の配下だった
穂坂常陸等に警備させた。(p73)

四月五日池田勝入が犬山城へ来て秀吉へ提案したのは、信雄卿を打滅ぼすのは非常に簡単
な事ですが家康の加勢があるので色々面倒になりました。 それについて私が思うには
家康公も上杉や北條の両家を警戒して甲信駿三ヶ国の城々に軍勢を残しており、三河と遠江
両国と旗本部隊だけて出陣していると聞いております。 従って留守は手薄の筈ですから、
不意に岡崎城を攻めれば、家康公はこの戦場を引揚げて岡崎へ帰る事は間違いないと思います。
その後で小牧の陣所を攻めて信雄卿を討取るのは簡単ですと言う。 秀吉卿もすっかりこの案に
納得し、岡崎攻撃の事は勝入の思うままにせよと云い、 森武蔵と堀久太郎両人を勝入に添え、
本隊として三好孫七郎秀次に率いさせ合計五万余の軍勢で岡崎城を攻撃する為に楽田を出発
した。 勝入は先陣であるので六日の夜10時に出発して翌七日朝10時には篠木柄井へ着陣し、
九日に三河に出発する事にした。

この時篠木村の住民がこの様子を家康公へ知らせたので小牧には酒井左衛門尉、松平主殿、
石川伯耆守、酒井与四郎等に留守を命じ、家康公は岡部弥次郎、榊原小平太、大須賀五郎
左衛門、水野惣兵衛、本多彦次郎、井伊万千代の六部隊合わせて四千二百余を率いて八日
の朝10時に小牧山を出発し、行軍には旗は絞り長道具の鎗は横たへて穏便に部隊を進めて
(p74)小幡城へ入った。 本多豊後守に偵察の侍十人程つけて龍泉寺辺へ行かせて敵勢が
南の方へ進むと見たら直ぐに報告するようにと言い含めた。 すると豊後守が早速馳帰り敵勢は
ひっきりなしに南の方へ進んで行くと報告したので小幡城を出発した。

池田勝入は八日の夜10時に篠木を出発して、丹羽勘介の居城を攻めにかかり、伊木清兵衛と
片桐藩右衛門の両人を先鋒として一気に攻める。 城主勘介はハ小牧に出陣しており、弟次朗介
が七人程で守っており、暫く戦ったが敵わず次郎介を始め従卒も皆討死を遂た。 勝入は幸先が
良いと大いに悦び、次は岡崎へと押掛ける。
九日秀次は池田、森、堀の三人を先手とし只岡崎へと何の疑いもなく進軍していた所、 徳川方
六部隊が秀次旗本部隊先頭の田中久兵衛の隊に襲い掛り散々に切崩した。 中でも榊原小平太
と丹羽勘助の両部隊は逃げる敵を追詰めて切りかけたので、秀次の旗本部隊は忽ち崩れて
大敗軍となり、 秀次は長久手の堤へ逃げて漸く引取ったと言う。 

この時池田父子、森武蔵、堀久太郎等は旗本部隊が戦いに敗れた事を知らずにいたが、その
落ち武者が五騎あるいは三騎と先手の方に逃加るので三人共大に驚いた。 各々川に部隊を
待機させ堀久太郎が大声で、今日の戦いは旗本が先手である、 敵が来たら近く迄引きつけ
一斉に鉄砲を打てと命令する。 味方の部隊は逃げる敵を追いかけてきたが、堀の部隊が手堅い
のを見て少し立ち止ると堀が真先に進み切りかけて来た。 その為(p75)味方の部隊も少々
討死はあったが、本多彦次郎康重は命を惜しまず戦い七ヶ所の疵を受けた。 堀久太郎は更に
味方を痛めつけて進んで来たが、井伊万千代(この時19歳)は部隊を率いて長久手の山へ上り
敵を目の下に見おろし鉄砲を烈しく打ち掛けて堀の進撃を阻止した。

森武蔵は自身で鎗を取って、続けや者どもと命令して掛って来たが万千代隊から打ち掛けた鉄砲
が武蔵の眉間に中り落馬し、そこへ本多八蔵が走り寄り首を取った。 是で森の部隊は敗走する
池田勝入父子が手勢を指揮して井伊の部隊に打ち掛ろうとした時、岩崎山の峰続きからり朝日の
輝く様な金の扇子の馬印が揚がった。 あれは徳川殿だと言うものもあり、池田の兵は忽ち
敗走した。 しかし勝入は少しも驚かす床机に腰をかけていた所へ永井伝八郎(この時廿二歳)
が勝入を突伏せて首を取った。 勝入の嫡子紀伊守を安藤彦兵衛が討って首を得た。
 
この一戦で池田父子、森武蔵等が討死し秀次も敗軍した事が楽田へ報告されると秀吉は非常に
不機嫌で、家康が戦いに勝ち誇っている所を蹴散らしてやろうと広言して、金瓢箪の馬印を挙げ
早速駆出した。 皆遅れまいと続いたので軍勢は雲霞の様にして龍泉寺へ着陣した。
そこで地元の者に状況を尋ねた所、徳川殿は昼の一戦が終るとそのまま小幡の要害へ引取ったと
言う。 それでは小幡の城へ押掛けようとしたが福葉伊予守は、 もう夜になり味方の軍勢も楽田
から駆けつけて疲れていますので今日は(p76)延期しましょうと諌めた。 それでは明日にしようと
言う事で龍泉寺の河原に野陣を張ってその夜を過ごした。

その夜中家康公は小幡の城を引払い小牧山の陣所へ帰ると、秀吉卿もその翌日楽田へ軍勢を
入れた。 その後六月十三日に秀吉卿は犬山城を引払い大阪に帰陣したので、家康公も小牧山
を引取った。 しかし秀吉方は楽田二重堀の土手の内に上方勢を残しているので、 小牧山の
陣所にも軍勢を残して置いたが双方共に対陣するだけで、互いに足軽を掛け合わす事もなく
終った。

その頃家康公は尾張の蟹江城を攻めていた。 この理由は滝川左近将監一益は信長が他界した
時関東より駆け付け羽柴筑前守秀吉、柴田修理勝家等と共に信長跡の相続を相談していたが、
色々あり羽柴と柴田の両家の仲が悪くなり終に戦いとなった。 滝川は柴田勝家と同盟したが
勝家が志津ケ嶽の一戦で秀吉に敗れ越前北の庄城で自殺したので、滝川は力を落して秀吉に
降参した。 信長より給った北伊勢五郡を秀吉へ献上して命は助かり、漸く五千石計の所を領知
していた。
今度は信雄卿へ逆らい秀吉への忠節を尽くそうと色々考え、尾張蟹江の城主前田与一郎と相談
して、九鬼右馬丞喜隆と同船して六月十六日の夜蟹江の城へ取籠った。

家康公はその時清須城に居たが、この話を聞くと直ぐに出馬し蟹江の城へ向った。井伊万千代
(p77)大須賀五郎左衛門、榊原小平太等一番に駈け付け海手を堅めたので、城内へ入遅れた
敵方は船から味方の軍勢に向け鉄砲を打ち掛けたが、 距離があるため何の用にも立たない。
その時城兵が二三十人程門を開いて駆け出し味方の勢と戦ったが、叶わずに城内に引き退く時
岡部弥二郎の隊の者が滝川一益甥の長兵衛を生捕にして御前に引き出した。 家康公はこれを
見て、既に生捕にしたのであれば縛って首を切るしかない。 そうなると滝川の家名が傷つくので
一命を助けて縄を解いて刀や脇差道具も返して城中へ放し入れる様にと指示された。 

長兵衛は感涙を流して忝(かたじけな)しと言って城中へ立帰り、伯父の一益に逢って一部始終
を報告した。 一益はそれを聞いて家康公の仁情に深く感じいると、急に心を変えて城中の
前田与一郎を殺害して、その首を家康公へ献上した後、自身は長兵衛を連れて城を出て越前国
の五分一と言う所へ行ったという。

註 織田信雄(1558-1630)信長二男、秀吉と和睦後内大臣、居城は長島城の後清洲城
註 犬山城 愛知県犬山市犬山北 織田家の城、江戸時代は尾張藩家老成瀬家の居城
誅 羽黒城 犬山市羽黒字城屋敷
註 小牧山城 愛知県小牧市小牧
註 楽田城 愛知県犬山市楽田 犬山の南、小牧の北に位置する
註 小幡城 名古屋市守山区西城2
註 龍泉寺城 名古屋市守山区竜泉寺1 小幡城との距離2.5km程度
註 榊原小平太(康政1548-1606) 徳川四天王の一人、江戸幕府老中、初代館林藩主
註 堀久太郎(秀政1553-1590) 信長側近、長久手戦後越前北ノ庄城主
註 森武蔵守(長可1558-1584) 河内源氏の棟梁、信長、秀吉に仕える、森蘭丸の兄
註 池田勝入(恒興1536-1584) 信長家臣、池田輝政の父
註 三好孫七郎秀次(1568-1595)秀吉姉の子,三好康長の養子、後の豊臣秀次
註 柴田勝家(1522-1583)織田家譜代の重臣、秀吉と対立、敗れて自害
註 九鬼嘉隆(1542-1600)九鬼水軍の棟梁、信長家臣、信雄から秀吉に寝返る
註 蟹江城 愛知県海部郡蟹江町蟹江本町城

           3-4 長久手戦余話
長久手の一戦については色々な説が伝えられているが、百四十年も前の事でありその時の正
記録等も無い。 これこそ実説と言うものも無いが大筋は上に述べたようなものである。 尚この
一戦に関して私が聞いた実説等をもう少し詳しく書き加える。 虚実は今述べた通りである。
その1 秀吉の挑戦状
長久手の一戦前、 秀吉卿は先手の面々が待機して(p78)いる二重堀の要害へ犬山の城より
移動して来ると小牧山の見える矢倉へ上り、高山右近を呼出し、明日明後日の間に是非一戦を
遂げて勝負を決すべきと思うので家康方へ書状を送り、我等十二万五千の軍勢を段々に備え
その後には土居堀を構へており、味方の諸部隊は一足たりとも引き下らぬ覚悟である事を
貴殿は承知されたい、と連絡せよとの事である。 右近は聞いて、それはやらない方が良いです、
とても家康からまともな返事は送って来ないでしょう、 そこで急いで無理な一戦をして負ける事
になるでしょうと答えた。 秀吉卿は、仮令家康がどんな返答をしようと急いで無理な戦いをして
負ける理由は無いと言って、 増田右衛門尉に命じて前述の文言で書状を調へて竹の先へ結び
付け、 細川与一郎(その時十八才)を呼出して、此書状を家康の陣から見える小山の上に
立てて来る様に言った。 

髙山右近は与一郎に、そなたが殿様(秀吉)の為を思うなら、書状を持参するのは無用であると
言う。 与一郎も手を付いて畏まっていたが秀吉卿は再び口を開き、あの小山の辺へは小牧山
からの鉄砲が烈しく飛んで来る所だからお前の様な若輩者では無理だな、他の者に持たせよう
と言う。 その時与一郎は高山に向って、貴殿が余計な事を言うからあの様に言われ私の立場
がありません、と云って竹を取って担ぎ片手綱で馬に走らせて秀吉が指示した(p79)小山の
下へ乗り付た。 馬より下りて竹を揺れない様にしっかり突き立てて馬に乗った所へ小牧山より
雨が降る様に鉄砲を打掛けてきたが何事もなく与一郎は戻った。

間もなく小牧山より月毛の馬に乗り茜の母衣を掛た武者が一騎来て、例の書状が付いた竹を
抜いて持ち帰るのを秀吉が見て、間もなく返事が来るぞと云った。 程なく小牧山の上より金の
琵琶へらの差物で鹿毛の馬に乗った武者が文書を竹に挟んで持って来て、二重堀の秀吉陣から
見える所に立てて帰った。 これを秀吉は見て、家康が返事をよこした、与一郎あれを取て参れと
言うので、与一郎は又乗出して取て帰り秀吉に渡す。 しかしそれは家康公の返礼ではなく
御鉄砲頭の渡辺半蔵と水野兵部佐の両人からの返礼だった。

その内容は、御内書拝見しました、 明日明後日の間に一戦を遂げる時柵堀を最後の備えとして
戦われるので、 此方もその準備をせよとのお手紙の趣旨分りました。 そうせよと言われても此方
には不要です。 柵堀を造らなくても皆々関東の者ですから一足も逃げる者はおりません。 
従って家康へ報告する事でもないので、憚りながら私共より返答します、と云う事だった。

この書面を秀吉は見て、何と憎たらしい奴等だと云えば、高山右近は、だから私が申上げた通り、
ろくな返事を家康はしないと思いましたと云う。 秀吉卿は不機嫌になり、よしよしやる事があると
云って忠興(与一郎)一人を連れて馬で駆け出した(p80)ので近習達も遅れまいと続いた。
秀吉は例の小山の上へあがり、尻を捲くって叩き、家康これをくらへと云って帰る所、 唐冠の甲に
孔雀の具足羽織は間違いなく秀吉だと知って小牧山より雨の降る様に鉄砲を打掛たが中らない。
秀吉は、天下の将軍に鉄砲はあたらぬものだと広言して二重堀の要害へ戻った。
その2 二番煎じの柵  
楽田の二重堀辺りの上方勢陣所の前に溝を堀り、土手に柵を立て廻しているのを家康公は小牧山
より見て信雄卿へ、以前三河の長篠で信長卿と私の両軍で武田勝頼と対陣した時、信長卿の
差図で味方の諸軍の前に土手と柵を付けた。 勝頼は若気の至りでその柵を取り壊す様に諸軍に
命じたので、味方から打掛る鉄砲に中り負傷者、死人続出で終に戦いにも負けた。それを思い出
してあの通りに堀や柵を作ったのか、 と云う事は秀吉は内心貴殿や私が勝頼と同じ程度と見て
いるのかと笑った。
その3 秀吉の空振り
長久手で岡崎攻撃軍の諸隊が徳川方に戦ひ負、先手も旗本ともに大敗軍の様子が二重堀の
陣城へ次々報告あったので、秀吉は是を聞いてたいへん立腹し、家康が勝ち誇っている所へ
押寄せて蹴散らしてやると出馬したので、我も我もと駈け行き間もなく龍泉寺に着陣した。 
そこで土地の者に聞いたところ、徳川殿は戦いが終るとその(p81)まま小幡の要害に引揚げ
られましたと云う。 秀吉卿は馬上で是を聞き思わす手を打って、実に花も実もあり家康かなと
云ったと云う。
その4 小牧山陣へ戻る
秀吉軍が龍泉寺へ着陣以後、日暮になり小幡の城で榊原小平太、大須賀五郎左衛門、其外
の武将達が相談して家康公に、龍泉寺付近へ物見を送り秀吉の陣を観察させたところ
今日の昼楽田より駈けて来た諸軍共に疲れ果て、布陣の体制もなく至る所に伏せて居ると
聞きます。 夜中に戦を始めれば大勝利となりましょうと云う。  家康公は、いやいやと顔を
振り、それ以上何も云わなかった。 武将達が退出する時、豊後豊後と呼ばれるので
本多豊後守が立ち戻ると、其方城の門々を見廻り、誰であろうと門外へ一人も出さない様に
番人達に堅く言いつけよとの事である。 その後家康公は湯漬を食べて直ぐに出馬し、静かに
部隊を揃える様に言われたので、是はきっと敵軍を襲うのだと皆思ったが予想に反し小牧山
の陣場へ引揚げた。
その5 森武蔵守の首
森武蔵守は一戦の時に討死したのは確かであるが、その首を取って届けた者がいないので
家康公はじめ家中でも皆不思議に思っていた。 そこで木屋常貞と云う研屋が上方の者で
半年宛浜松にも詰めており、今度の戦いにも御供して小牧の陣場にいた。 この者を呼んで
其方は上方で森武蔵方へ出入りしなかったかと尋ねたところ、(p82)確かに武蔵殿宅へ以前は
親しく出入りしていましたと云う。 それでは森家の道具等も見覚へあるか、と尋ねれば大方は
道具の事も見覚えていますと云う。

それではと今度の一戦で確保した敵軍の刀脇差の中で歴々の道具類と思われるものを差出す
様お触れが出て、多数集ったものを常貞に見せたところ、 その中で刀と脇差二腰を見分けて
武蔵殿の道具に間違いありませんと云う。 その道具の出所を調べた所、本多八蔵と付け札が
あるので八蔵を呼出してその場の状況を尋ねた。 八蔵は、敵陣中で武者が一騎部隊を離れて
乗り出し走り回っていたが鉄砲にあたり落馬したので走り寄って首を取りましたと言う。 してその
首はと問えば八蔵は、首をお旗本へ持参しようとしましたが、もう首実検は済んだと聞きましたので
道端の竹薮に捨てましたと云う。 

以上の報告から、武蔵が討死した後に討死した池田父子の首は御覧に入れたのに武蔵の首
持参が遅れた理由を八蔵に確認されますか、と伺ったところ、 家康公は、森武蔵の討死は確か
であり、首を八蔵が捨てたのであればそれで良く詳しく尋ねる必要はないと云われた。 
上の処置は不問となったが、陣中の上下の評判は良くなかった。 中でも八蔵は折角取た首を
敵方へ奪い返されたと言う噂(p83)なども出た。 八蔵もそれを伝え聞いて無念に思ったか、
後の蟹江城を攻めるとき、無理に敵城近くに進んで鉄砲に中り命を落とした。
その6 蒲生氏郷の甲
秀吉が尾張へ出軍する時、甥の三好孫七郎秀次を先手の大将に任命した。 秀次は蒲生
飛騨守氏郷方へ、 貴殿が所持している鯰尾の甲を貸して下され、今度の晴の出陣に着用
したいと言う。 氏郷はお安い御用と云って持たせたが、秀次はその甲を着用して散々に戦い
に負け長久手の堤へ逃げて見苦しい敗軍をした。 帰陣以後この甲を氏郷方へ返したが氏郷
は一見して、大切な甲に疵が付いたので、もう私が着用する事は無いと云ったが、その通りに
相州小田原陣の時も別の甲を着用したと結解勘助から聞いた。
この右鯰尾の甲は現在松平安芸守殿方のあると云う
その7 本多中務の勇猛 
長久手の一戦で上方勢が勝利できず敗軍となった事が報告されると、秀吉は一騎駈けの様に
龍泉寺へ馳出したので、我も我もと皆続き、尾口楽田の二重堀の要害には人が居なくなった
ようだと小牧山の留守部隊に報告があった。 
酒井左衛門尉は留守居の面々へ向って、秀吉が多勢を率い駆けつければ、味方は小勢であり、
其上今日昼の合戦に骨を折って疲れているから小幡城での一戦は心配である。 二重堀の要害
に攻込み留守の番兵を全て討ち殺し陣屋へ火を付けて焼き立てればその煙を見て秀吉は取って
返すに違いないと思うが、各々方どう思われるかと聞いた。
    
一同皆左衛門(p84)尉が云われる通りだと同意したが、石川伯耆守数正はその頃から秀吉へ
内通の気持ちがあったのか全く同意せず、堅く制止したので相談が纏まらなかった。 
その時本多中務は、各々方が此処に入って居られるのでこの陣所は心配ないので、私は小幡城
へ行き御供をして帰ると云い、手勢だけを率いて小牧山を馳せ出て程なく上方勢に追付いた。 
秀吉の旗本近くに並び、ややもすれば追い越す状況であり、秀吉の先手の面々より、あれに
見えるは家康の家来の本多中務との事ですが、押しかけて討取りましょうかと云えば、秀吉は何を
思ったか堅くそれを制止し、 成る程家康が大事にするもの当然だと馬上で独り言を言った。

その後天正十八年奥州陣の時、秀吉は宇都宮の城で中務を呼出し、佐藤忠信が着用と
伝えられる甲を自ら中務へ与え、その時長久手での事を挙げて誉めたという
   
註 母衣 馬上の武者が後ろからの矢を逸らす為、マントの様な布を着した。
註 与一郎 細川忠興(1563-1646)号三斉、細川幽斉の子 嫡男は細川家初代熊本藩主
註 高山右近(1552-1615) 切支丹大名として有名、最後国外追放となりマニラで死去
註 酒井左衛門尉(忠次1527-1596) 徳川四天王の一人
註 石川伯耆守(数正1533-1593)酒井忠次と共に家康の片腕だが、長久手戦後出奔して
   秀吉に付く
註 本多中務(忠勝1548-1610) 平八郎、徳川四天王の一人
註 天正十八年奥州陣 秀吉が天下統一し家康も秀吉政権に入った後、奥州での領土配分を
  宇都宮城で行った。

      3-5 秀吉と和睦 41-42歳
この年(天正12、1584)秀吉は家康公と和睦したいと考え、先づ織田信雄卿と和睦をした。 
その後信雄卿に家康公とも和平を行いたい旨熱心に頼むので、羽柴下総守、土方勘兵衛の
両人を信雄卿の使者として秀吉との和談を勧めた。 家康公は、私は秀吉に対しては少も疎意
はないが先頃の小牧への出陣は貴殿の御願で止むを得ず戦ったものである、 従って貴殿と
秀吉が和睦された以上秀吉に対して私の遺恨は毛頭もない、秀吉と(p85)貴殿がその様に
したいと言う事であれば、今後は従来通りにすると返答あり徳川家と羽柴家の和睦が成立した。

その後又信雄からの使いと言う事で羽柴下総守が浜松城へ来て、秀吉より信雄方へ伝えた事
は、先頃互に和睦の話合いをしたが、表裏なくお互いに親交を深めるため、ご子息のおきい丸殿
を秀吉が養子としたいと言っております。 ご同意あれば信雄も大変満足するでしょうと言う。
家老達を招集して談儀したが、此方にも男子は今の所なく其上世間で息男を上方へ人質に
出されたなど云われては当家の名折れではと皆が申し上げた。 しかしどの様な考えか信雄卿の
提案を受け入れ、其年の十二月に於義丸が十一歳の時上方へ登らせた。 児小姓三人を付け
その内一人は石川伯耆守の二男勝千代、一人は本多作左衛門息男仙千代、(後伊豆と改なり)
である

天正十三年(1585)三月、羽柴秀吉は内大臣に任ぜられ二位に叙せられた。 是迄は自ら
平の姓を名乗っていたが、内府に任官以後藤原姓にあらためた。

同年三月 家康公は背中に腫物ができて、既に他界したと他国では噂が出るほどの容態である。
最初は根太の少し大きなものだったが、前島長七郎、佐原作十郎、河野甚太郎三人の小姓達に
大蛤の貝でこの腫物を挟ませた為か、一夜の内に痛みが烈しくなったので(p86)家老達を始め
医師衆十人程で相談の上で勝屋長閑が治療したところ、家康公は、唐人流の荒侯薬と立腹して
付けた薬を洗い落としてしまった。 

そこで本多作左衛門が出てきて、先ず私を手打にしてから後で薬を止めて下さい、 今他界
されては他人は言うまでもなく、親戚の北條殿を始め皆この国をねらうのは間違いありません。 
家中の面々も幼年の殿の下では力を落して果々しい合戦もできません。 そうなれば跡は
潰れる以外にありません。 私は六十歳になりますが目は片方切潰され、指も三ツ切られ、脛にも
疵を負い、足もびっこになり、世の中の人の片輪と云う片輪を私一人で抱えています。
今日迄は殿の御情で家中でも人を多く抱えています。 今ご死去されたらこの作左衛門は即時に
飢死する以外ありません。 もし存命したとしても家康公に仕えた本多作左衛門と云ものは何を
楽しみに命を惜しむのか、と諸人に後ろ指を指されては生きる甲斐もありません。 

最近迄武田殿家中で甘利殿と言えば諸人の尊敬を得た武士ですが、主人の家が潰れたので今は
本多平八郎の配下になり、松下や匂坂党の者達よりも下になっています。 信玄の武威が盛んな
時は甘利殿などはこの様な事を夢にも思わなかった事です。 是は偏に勝頼が無分別な為
長篠合戦より八年目に武田家は滅亡し歴々の武士さえ前述の通りです。 殿が今長閑の薬を
付けないと言われますが、それも大将の無分別と同じ事です。 と筋道立てて順々と涙を流し
ながら説得したので家康公も納得して、この上は其方の云うとおりに治療しようとなった。(p87)
長閑が出て薬を付け、灸も双六の筒の大きさにして作左衛門自身が三火迄全て進上した。 更に
内服薬も飲んだところ、その夜半に腫物が破れ膿が大量に出た時作左衛門は声を揚て嬉し泣き
に泣き、本多佐渡も同様だったという。 その後腫物は間もなく平癒した。

同年七月秀吉は関白に任じ、この時列国の諸大名の多くが昇進し、於義伊君も三河守少将
秀康公となった。

同年八月 家康公自身は出馬しなかったが、軍勢を派遣して信州上田の城主真田安房守昌幸を
攻めた。 事の起りは一昨年(1583)甲州若神子で北條家と対陣して和睦した時の約束で、向後
甲斐、信濃の両国は徳川家で支配するので、武田の旧領である西上野添えて上州一国は全体を
北條家が支配すると言う事で終った。 そこで北条家が切取た信州佐久郡は早速北条家から
徳川家へ渡したが、真田安房守は沼田の城を抱へて北条家へ渡さない。 そこで北條氏直より
催促があったので、早々明渡す様に真田方へ伝えたが安房守の回答は、上州沼田は武田家より
給わったものでなく、自分自身の力で切り取ったものであるので本領の上田の城と何も変わらない
のに、親戚の北條殿へ明け渡せと云われるのは余りにも情けの無いことですと云って同意しない。
その上秀吉卿の威勢が日々に盛になる事を伝え聞き、(p88)表向きは徳川家に随って人質を
浜松に置きながら、内々では秀吉へ取入っている様子も聞こえて不届と思っていたが、 今回
思いがけない回答に接し家康公もいよいよ立腹し、真田を攻める評議が決まった。

そこで攻撃の面々は大久保七郎右衛門忠世、鳥居彦右衛門元忠、平岩七之助親吉、岡部弥次郎
長盛、諏訪小太郎□忠、保科弾正直、入竹左衛門佐勝永、柴田七九郎、三枝平右衛門、其外
遠山、知久、下条、大草、武川、芦田などである。 彼等は相談して上田城へ向かい八月二日より
城を取囲み攻撃した。 しかし城将真田はよく守り防ぐので戦闘毎に寄手の勝利は稀であり、城兵
は毎度勝っているという報告が浜松にあったので、 更に大須賀五郎左衛門康髙、井伊兵部直政
松平周防守康重の三人を上田へ派遣し、先の軍勢を引揚げさせて一緒に戻る様に命じた。

三人の者が上田へ着いて命令の趣旨を伝えたが、三人が城地の様子を見たところ城の構えは浅く
それ程堅固とも見えないので何か攻め様もあるのではと三人とも思い、叉先発の面々も自分達で
こんな小城一ツ落とせず空しく帰るのは実に残念と思い、何れも今少し様子を見たいと思った。
ところ城主安房守方から関白秀吉卿へ援兵を依頼したので、秀吉卿より越後春日山の城主
上杉景勝に大軍を動かして上田の城へ加勢する様に命令が出て、近日上杉勢が出発するという
情報があり、 もしそうなれば問題だと相談の結果何れも上田(p89)の城下を引払って帰陣した。 
しかし上田の押へとして大久保忠世は小諸の城に残り、その外信州衆の芦田、保科、下條、諏訪、
和久、大草等はそれぞれの持ち城に待機して小諸の大久保忠世と打合わせて真田を押へた。

同年十一月、三河国岡崎の城代石川伯耆守数正が関白秀吉卿へ属する為に、妻女を連れて
岡崎城を出て尾張に立退く時、 松平源次郎と家老の松平五左衛門近正の所へ家人の天野
又左衛門を遣わし、仲間になれば秀吉卿の覚えは私が宜しく取り持つからと言わせたが
五左衛門は同意しなかった。 そこで信州小笠原右近太夫貞慶から預っていた人質だけを
連れて出た。  その時五左衛門は後難を恐れ。数正側からの誘い及び自分の返答を書類に
認めて一子新次郎に源次郎の家来両人を付き添わせて浜松へ詳しく報告した。
家康公はたいへん感賞し、今度数正の勧めに応じず、昨年は蟹江城攻めで軍功あり浅からぬ
忠節と誉め、倅の新次郎に脇差を与えて大給の城へ返した。 この理由で五左衛門は後に
側近に召出され、関ヶ原戦の前哨戦で伏見城を攻撃された際の留守居四人の内の一人で
討死した。 

石川伯耆守が尾張へ退去した時、家康公より北條家への使者に書状を持たせた。 
   先頃飛脚で連絡しましたが、重ねて二科太郎兵衛を遣わします。 去る十三日
   石川伯耆守が尾張へ退散し、信州小笠原の人質を連れ去りました。
   上方(秀吉方)と相談の結果と思いますので油断はできません。
   詳細は太郎兵衛の口上に言い含めてあります。 恐々謹言
     十一月十六日          家康
        北條殿(p90)

同年十二月信州方面で小笠原右近太夫貞慶が兵を率いて同国高遠の城を攻撃したが、城主
保科弾正正直は戦い防ぎ勝利を得て敵兵多数を討取った。 結果貞慶は敗走したという報告が
あったので弾正方へ感状並びに御腰物(包永)を下さった。

この年(天正十三、1585)羽柴下総守勝雅が浜松へ来て信雄卿の言葉として、関白秀吉卿は
貴殿が上京される事を望み度々催促があるので、大儀ながら上京されると私も嬉しいのですが
と云う。  家康公これを聞いて、私は貴殿も御承知の様に信長公在世の時に毎度京都へも
登った事ですから上方は珍しくもなく、その上用事もないので自分の仕事を差置いて上京する
事は考えもしない事ですと云った。 下総守はそれを聞いて、秀吉卿が上京を願っているのを
御存知ながら上京されないなら、秀吉卿が立腹して三河守秀康殿へどのように当るかわかり
ません、その事を信雄も気遣っていますという。

家康公これを聞き、三河守は人質や証人として出した訳ではない、秀吉が養子としたいと
云うので信雄卿の取持に任せたので私の子では無い。 人の子を養子としてそれに辛く
当っても良いと云うなら、仮令三河守を殺害しようとも秀吉の気持ち次第である。 その様な事
では益々上京など思いもよらないと云う。 下総守もそれ以上は何も云わず退出して尾張へ
帰り、それから大阪へ行き報告した。 勝雅の予想外に秀吉卿は益々機嫌よく、流石は家康
だ、その通りだと言うと程なく秀吉卿の妹朝日御前を家康公へ嫁せようと内談が始った。(p91

この年秀忠公が七才になると青山藤七郎忠成(後号陸奥守)を御伝役に、浅井半兵衛、
鴨田権右衛門、瀧六蔵三人を御抱守に任命された。

註 真田安房守(昌幸1547-1611)信玄家臣、武田家滅亡後自立、豊臣政権で領土安堵
註 大須賀康高(1527-1589) 五郎左衛門 家康家臣
註 大久保七郎右衛門(忠世1532-1594) 徳川譜代家臣、 北条氏滅亡後小田原城主
註 松平五左衛門(近正1547-1600) 大沼城主、大給(おぎゅう)松平家家老
註 保科弾正正直(1542-1601)武田家臣、後徳川方、高遠城主
註 小笠原貞慶(1546-1595) 織田家から家康、秀吉に付最後は家康、人質は子秀政
註 羽柴下総守(勝雅1543-1610) 本名滝川雄利、織田信雄に属して小牧長久手戦後信雄
   に秀吉との和睦を勧めたと言う。
註 徳川秀忠(1579-1632) 徳川家第二代将軍
       

  落穂集巻之三終
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