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   落穂集前編      落穂集巻四

             秀吉妹朝日御前との婚儀   43歳
天正十四年(1586)正月、秀吉卿は織田信雄と羽柴勝雅を大阪城中へ招いて、前から云って
いる通り私は家康公が上洛する事を希望しているが未だ実現できていない、 此の事てあるが
家康公に私の妹を嫁せたい、 親戚となり親しくしたいが信雄卿の計らいに任せるとの事である。
そこで秀吉卿の頼みなので信雄卿は家臣の下総守勝雅を浜松に派遣してこの趣旨を伝える
事にした。
勝雅は大阪を出発すると先ず吉田城に立ち寄り、徳川家家老の酒井左衛門尉忠次と打合せ
二人で浜松城へ下った。 下総守は外宿して忠次が登城し家康公に報告して老中達と相談の上
決定となった。 下総守も登城して婚儀の事を調えた後大阪に帰り信雄、勝雅両人が登城して
(p95)事の首尾を報告したところ、秀吉卿は大変喜び勝雅を感賞した。

同年二月下旬、北條氏直が領分の境目を始めて見分する事になり親父氏政も同道する旨知らせ
があったので、家康公より氏政方へ、隣国に有なから未だお目に懸らず疎遠となっています、
特に近年は親戚になりましたが氏直にも未対面です、今度良い機会なので、どこかで面談したい
ものですとの書状を送った。 氏政からの返答は、おっしゃる通り、こちらもそう思って居りました。
良い機会ですから木瀬川を隔てお目にかかりたいとの事である。 
家康公から再度、木瀬川を隔てての対面ではまるで隣国会盟の儀式と同じです、これでは親戚
の立場もなく他への聞こえもよくないので私が三島へ行って面会しましょう。 旅館であれば接待
らしい事も不要ですと書状を送る事にした。 

その時調度酒井左衛門尉忠次が浜松に詰めていたが、これを聞いて大変不満を覚え側衆を通し
、氏政への面会を申入れたら川を隔てて外でお目に懸ると云う、こんな馬鹿な事を云うなら
その通りで良いのに,こちらから三島迄出向くのは好くない。 これでは徳川が北条家の旗の下に
なった様に世間では誤解するだろうと云う。 側衆も左衛門尉が云う事なのでそれを申上ると
家康公は笑って、私の思い入れだから其の通り書状を送る様にとの事だった。

その後氏政からの返書(p96)があり対面の日時も決まり家康公は前日より沼津の城へ行き翌日
三島に入った。 氏政・氏直父子とも対面が済み、帰る途中で沼津の松原で家康公は輿を止め、
北条家より見送の使者がついている者の名を尋ね連れてくる様にと事である。 
御前で山田紀伊守と申上たところ、其方ここまで送り御苦労である、もうここで帰る様にと云えば、
紀伊守は、私は道中ご機嫌よく駿府へ御帰城される迄お供する様にと氏政と氏直から云われて
おりますと云う。
家康公が、あれを見よと指差す方を紀伊守が振り返ると沼津の城の大手に人足が大勢集まり
門塀を毀している。 紀伊守が不審に思っていると、今日氏政、氏直父子へ対面した以上、領分
の境目に城は不要である、 あの城の本丸にある家屋敷は旅宿の為残すが外曲輪は今日より
取毀す。其方は是を土産にして帰りなさいと云い、氏政・氏直へ口上等も述べ其の上拝領物も
与えて紀伊守を帰した。
著者註:  氏政・氏直との面会の為相州小田原へ家康公が行ったと書いた記録もあるが、それは
   間違いである。 ここに述べた事は小幡勘兵衛殿の咄に基いて記した。

同年四月今度の婚儀打ち合せの為、本多平八郎(中務忠勝)を大阪への使者として派遣した。
一般的に和睦以後は秀吉卿とは事ある毎に付届の旗本使者の交流はあったが、今回は特別の
使いであるため家老の忠勝が使者となり秀吉卿も是をたいへん喜んだ。

同年五月十四日秀吉卿の妹君朝日御前の輿が浜松へと到着した。 先ず榊原康政宅へ立寄り、
上下の女中も各々支度を調へ終った後お城へ入輿したが女中従者は百五十余人だった。
浅野長政が輿を渡し酒井雅楽頭が是を受け取った。 この婚礼が済んだ報告には榊原康政が
使者として秀吉卿へ派遣された。

同年七月信州上田の城主真田安房守昌幸を討伐する為出陣となり、家康公が駿府の御城迄
馬を進めた時北条氏直からの使者があり、今度の真田追討のため上田へ出発されるに当たり
大道寺駿河守と成田下総守の両人に武蔵国と上野国の軍勢一万を添えて沼田と那久留美の
両城を責取ります、 その後直ぐに上田攻めに加勢をさせますとあった。 これで今度こそ真田も
滅亡疑いなしと家康公自身も出馬し、其上親戚の北条殿が大軍で加勢するとなれば真田も
存立できないだろうと世間で云われた。

ところが関白秀吉より駿府へ使者が到着し、今度真田を追討するということで出陣される由で
あるが今回は延期して戴きたい。 兎も角も貴殿の思いを私に調整させて貰いたいと云う事で
上田への進発は中止となり、家康公は八月初に駿府より浜松へ帰城した。
著者註:氏直が加勢すると言う咄は、世上に流布する記録等の中には見当たらないが北条家の
     事を記した古い書面にもあり、 更に天正十四年沼田城攻めで軍勢催促の廻文と
     伝えられる古い書物を私が若い頃上州で見た覚えがあるので書き記した。

同年の秋、羽柴下総守は秀吉及び信雄両卿の内意によって大阪を出発して東下した。 調度
家康公は岡崎城に滞在していたので下総守も岡崎に留り、今度の婚儀も無事に終ったお祝い
等述べ、その序に上京の事を申出た。 家康公は、前にも言った通り私は上京する用事とて
無いし、婚儀に付いては身分の高下問わず決まりがあり、私が上京すれば秀吉卿は下向
するのが慣わしである。 そうなるとお互いに無駄であるから現状通りにしておくのが好い。 
所で貴殿は今回に限らず、いつも私の上京を言い出すが何か理由があるかと言われ、下総守
はそれ以上何も言わず帰京した。 

この状況を報告すると秀吉卿は特別不機嫌の様子でもなく、 家康の疑心は未だ解けないなと
言った。 その夜夜更けに織田信雄卿と羽柴勝雅両人に急遽登城されたいと連絡があり、両人
早速登城したところ、秀吉卿は伊達染の小袖を着流しにして左の手に脇差を下げて右の手には
紅染の細帯を手繰り持ちながら座に付、両人を側近く招き寄せた。 秀吉卿曰く、夜中に諸君を
呼出したのは別の事ではない、 家康が上京せざるを得ない方法を思い付いたので是を諸君に
聞かせたく夜中に拘らず呼びに遣ったと。 信雄卿(内府)がそれはどんな思い付きですかと]
聞けば、私の母である大政所を証(p99)人として差出せばまさか家康の疑心も解けない訳がない
だろうと言う。 織田内府も勝雅も共にそれは良いお考えですと感心して退出した。

今回も使者として羽柴下総守が行くと人々は思ったが特に指示は無かった。 しかし浅野弾正
長政方より榊原小平太(康政)迄内々の相談があり、大政所が到着次第家康公も早速上京すると
言う事に決まった。 井伊直政、本多忠勝、榊原康政等三人の親族の内各一人宛証人として
上方へ登らせる事も決まった。

           秀吉政権の与党となる  43歳
天正十四年(1586)十月四日 家康公は権中納言に任せられる。 
今月十八日 大政所が岡崎へ到着となるので、家康公は同地で大政所を迎えてその後直ぐに
上京する予定で浜松城を出発した。 御供には本多忠勝、榊原康政、酒井忠次、鳥居元忠、
永井直勝、其外阿部善右衛門、西尾隠岐、牧野讃岐等を召連れた。 大政所が岡崎城中に逗留
する間の警固は井伊直政と本多作左衛門重次両人が指名された。 そこで作左衛門が御前へ
出て、御前は大政所が到着次第上洛するとの事ですが、それはいけません。 理由は上方方面
には内裏上臈の年寄の類は幾らでも居ります、 秀吉卿が殿様を欺いて何者かを大政所と
称して差出す事も有り得ます、 御前始め秀吉卿の母君を見知る者は家中に一人も居りません。
これは大事な思案のしどころですと言う。  家康公もその通りだと思ったか、大政所到着後
4−5日過ぎて御台所(朝日御前、実娘)を浜松から岡崎に来させる予定だったが、直ぐに来て
面会(p100)する様にと連絡した。 しかし何かと支度に手間取り十八日の晩方岡崎城へ御台所が
到着した。 既に到着している大政所は輿の戸を明け御台所が輿より出て来るとそのまま抱き合い
落涙したので、それを見た女中達も皆々涙を流した。

翌十九日 家康公も大政所へ始て面会し、明けて廿日に上京のため岡崎を出発した。
その後本多作左衛門の指図と言うことで柴や薪を取寄せて大政所が居住する屋形の周りに山の
様に積み上げた。 これを見て驚いた女中が是は何事かと思っている所へ井伊直政が機嫌伺い
に来たので、あの柴や薪は何の為のものかと聞いたが直政は、私は全く知りませんと言う。
直政は大政所の機嫌を毎度伺って、時々時節の果物や菓子等届けるのて好ましい人として
大政所を始め全女中達から兵部殿、兵部殿と人気があった。

一方本田左衛門が来ても何もないので誰が言うともなく、あの柴や薪は今度大阪に登った家康公
の身に万一の事があった時、庭に積んだ柴や薪を全部屋形へ持ち寄り大政所を始め全女中達を
焼殺すためで、これは作左衛門の仕業との事だという噂を下々の女中が聞きつけ遂には年寄
女中や大政所の耳にも入った。 全く憎らしい男だと全女中達がたいへん作左衛門を悪く言った。
著者註: 大政所が帰京した後、本多作左衛門を是非とも家康公より貰請けて死罪か遠島処分
   にしたいと(p101)秀吉卿へ強く望み、秀吉卿も女性の愚痴事と思っても老女達迄も願う。
   そこで止むを得ず家康公に、作左衛門を今後上方に連れて来ぬ様にして欲しい、但し国元
   ではどの様に使われても良いとの事であった。 その為家康公も彼の取立てが難しかった。 
   併し子息飛騨守の代になり、越前少将忠直の家老達の争いがあり、幕府による調査の結果
   問題の家老達を処分したので残った家老は本多伊豆守一人となった。 越前家が家老一人
   ではと、両御所(家康、秀忠)の裁断で飛騨守を昇進させて丸岡の城主として、越前家の家老
   とした。 これ以後越前家の両本多と世間で言われた。
註 越前家は家康二男結城秀康を初代として御三家に次ぐ徳川一門の家である、秀康が早世して
   嫡男忠直が継いだが年若く家老達の争いを処理できず混乱を来たし幕府が介入した。

天正十四年十月廿六日 家康公は大坂へ到着すると大和大納言秀長の宅が旅館と定められて
おり、お世話も秀長へ命じてあった。 即日秀吉卿も旅宿を訪問して家康公に、遠路上京戴き
久しぶりにお目に懸り非常に嬉しいと挨拶があった。  秀吉卿はもう少し咄もしたいがお疲れ
でしょうから、明日廿七日に待って居りますと言う事で帰って行った。 そこで本多忠勝を使者と
して御礼に訪問させた。

翌日廿七日 家康公が大坂城へ登城すると秀吉卿が式台迄出迎えて待って居る。 織田信雄卿
も出迎えたが秀吉卿の家康公へ対する扱いが全て慇懃なので式台の下手に控えて、中納言殿
お先へと云ったが、家康公は控えて、内府のお先へはと言う。 そこで譲り合いが果てないので
秀吉卿が家康公(p102)の手を取って、今日は貴殿が私の客であるからと誘い入れた。 信雄卿
が家康公の後に続くのを見た秀吉卿の家来達はたいへん驚いた。 
註: この時秀吉は関白、信雄は内大臣(内府、大納言)で家康は中納言で信雄より格下の位階。

さて座敷での饗応が終ると秀吉卿は家康公を案内して天主閣の五重目の座敷へ上る時、秀吉卿
の指示で浅野弾正長政も一緒に上った。 家康公は座敷の大矢間から四方の景色を見て大に
賞美すると秀吉卿が言うには、私は貴殿も聞いて居られる通り、非常に身分の低い者だったが、今
この様に成ったのは偏に貴殿のお蔭と思っています、 理由は昔越前国金ケ崎における戦いの時
討死も止むを得ないと覚悟しましたが、貴殿の部隊の活躍で窮地を脱する事ができ、その後
段々と武運に恵まれ大功を遂げる事ができました、 貴殿の事に付いては愚弟の秀長と少しも
替わらない程感謝の気持ちがありますと言う。 信雄卿も秀吉卿の此一言を確かに聞き家康公を
たいへん敬った。 その後今昔の四方山話で数時間が過ぎたが、間もなく退出するという前に
家康公は千家宗易に面会し茶道の事など尋ね、日も暮掛ったので暇乞をした。 
帰館の後、榊原康政を使者としてもてなしのお礼を伝えた。 

大坂御逗留の間に秀吉卿より名物の茶器その他種々の贈物があり、浅野長政、大谷刑部の両人
を旅館に詰めて諸事の用を足す様にとの事で、たいへんな接待を受けた。
家康公は正三位に叙せられ、榊原小平太(康政)は従五位下に叙し式部大輔に任ぜられた。 
是は当家の家来が任官された(p103)最初と言う。 その後家康公は大坂を出発し京都へ登る時
も大和大納言秀長が付添い方々で接待した。 今後の上京時の為にと聚楽の城内に屋敷が
提供され、家作は好み通りにと言う事なので籐堂与右衛門高虎を建築責任者と定めた。 
又この屋敷の近くに家来の屋敷も割り与えられた。 この様な関白秀吉卿の家康公に対する
接待を見て、家康公とは尋常な人ではないと其頃の京都大阪の貴賎上下共に評判となった。
著者註: この内容はその時代の事を書記し世に流布した書物とは少々違うが、私が若い頃
      浅野因幡守殿の家老に徳永金兵衛と言う人がいた。 此人は若い時太郎作と言い
      浅野弾正長政の児小姓をしており、八十五六歳の頃迄存命して如雲斉と言う名で
      覚書にしたものをここに書留める。

同年同月十一日 家康公は岡崎へ帰城したが、その前に若君(秀忠公)も浜松から出張して
おり待っていた。 十九日には大政所も上方へ帰るので道中送りに井伊直政が派遣された。
大阪へ帰城の後大政所を始め付々の女中迄も口を揃えて直政を誉め良い報告をしたので
秀吉卿も満足して、兵部、兵部と大に接待し種々の贈物等も給わった。 この時大坂城中に
おいて秀吉卿は石川伯耆守数正を同席させた。 直政は数正に対し親しく接する様子もなく
むしろ敬遠している様子だった。 これを見ていた秀吉卿の旗本達は感心して(p104)流石
家康公の目がねに叶った人物だけの事はあると直政を誉めたという。
著者註: この咄も金兵衛覚書の通りである。 現在世上に流布する書物等にはこの時直政
     は秀吉卿の家臣達に向って、人面獣心とは此伯耆守の事ですと悪口を言ったという。
     しかし金兵衛覚書には悪口の事は無いが何れが事実か分らない
註: 石川数正は徳川家の家老職だったが一年程前徳川家を去り秀吉に臣従した。

この年十二月、家康公は浜松城から駿府城へ移ったが、既に年も押し詰まっているので家臣
達は来春の都合の良い時移る様にとの事だった。

            豊臣秀吉の天下統一へ向けて仕上げ 44歳−46歳
天正十五年(1587)四月、秀吉卿は三河少将秀康公と共に軍勢を率いて九州征伐に出陣し、
家康公は本多豊後守広孝を加勢ではなく、陣中付使者の様な立場で派遣した。
豊前と筑前の境にある巌石城を島津方の熊井備中と云う者が守っていた。 秀吉卿は一気に
責落とすべしと一番手に蒲生氏郷と前田利家の部隊、二番手は三河少将秀康公に秀吉卿の
旗本勢を添えて、佐々陸奥守成政と水野和泉守忠重の部隊が参加する。 この部隊が山を
半分程攻上った時、 前田と蒲生方からもう敵城を攻落したと連絡があったので、成政は馬を
乗返して、落城したので馬を引き入れるのが良いでしょうと言えば秀康卿は、今日は初陣
なのに城攻めの戦いに遭わずに残念と落涙した。 成政は、敵城がこの様に早く落ちたのも
偏に御前の御威光ですと慰めて漸く引戻した。

事の次第を秀吉へ雑談して、流石は徳川殿の御子息ですねと言えば、(p105)秀吉卿は、成政
が言う通り少将は家康の子息ではあるが、私の子として養育したので、武辺気質はこの私に
似たのだと言った。
一方本多広孝は先手の部隊に加わり軍功があったので秀吉卿より褒美として金鍔の脇差並に
羊の皮の羽織を給わった。
同年八月八日 家康公は権大納言に任せられて正三位に昇進した。

天正十六(1588)年四月十四日豊臣秀吉卿の聚楽亭へ後陽成天皇の行幸を仰いだ。
此時徳川家家中では井伊兵部、大沢兵部、本多中務、酒井兵部太輔、大久保治部、平岩主計、
本多豊後、岡部内膳、菅沼大膳、牧野右馬丞の十人が従五位下に叙せられた。 他家でも主人
の官位に随って家来も数人任官し、是を世に聚楽諸太夫といった。 特に当家では井伊直政、
大沢基宿両人は侍従に任ぜられ、家康公の威光が大きいと世間では専らだった。
註 聚楽亭(第) 秀吉の京都における関白執務館

同年八月北條氏政・氏直父子の方より関白秀吉卿への使者としての北條美濃守が上京する時
駿府へ参上して家康公の内意を伺った。 そこで榊原康政、成瀬藤八郎両人を案内のための
差添とした。 この理由は去る五月に北條氏政と秀吉卿の和義が決裂したが、 家康公がその
修復に努力して調整を図った事による。 
美濃守が大坂へ参上すると秀吉卿は美濃守および榊原、成瀬両人共に城中へ招き対面した。 
その時美濃守は、氏直が来年必ず上京致しますので今迄懸案の真田安房守が領有している
上州沼田を先年の家康公との約束通り明渡す様にご指導願いたいと言う。 (p106)秀吉公は、
家康との国境の問題は私の与り知るところではない。 その件については再度使者を送り詳しく
説明する様にとの事だった。

美濃守は小田原へ帰り氏政と氏直へその趣旨を報告した。 そこで北条家では坂部岡江雪に
詳細を言い含め上京させる事になったので江雪は大坂へ登った。 秀吉卿に呼び出され
江雪は、 氏直は来年12月初の頃には必ず上京する事に間違いありませんと云い、沼田の事を
詳しく説明した。 秀吉卿も納得して、それでは上州沼田領は北条家へ明渡す様にするから、
来年中に氏直が必ず上京する様にとの返答があった。 江雪は大喜びで小田原へ帰る途中で
駿府城へも立ち寄り、大坂で懸案も全て解決した旨を家康公へも報告した。

著者註: 一説には江雪はこの時北条家の使者として大坂へ登り逗留の間秀吉卿に気に
  入られて、時々登城して氏康(北条家第二代当主 氏政父)以来の見聞した事を雑談した。
  そこで当人は利発な者と秀吉卿が見定めたので、北条家滅亡後に江雪を呼出され伽衆の
  一人に加えられ常に雑談の相手となった。 或時秀吉卿は江雪へ、其方の名字坂部岡は
  余りに長過るので以後は坂部の両字を除き岡にせよと言った。 今当家旗本に属する岡の
  名字の人々はこの江雪の子孫との事である。

天正十七年(1589)五月十九日 若君(秀忠)の母公の西郷の局が逝去したので、同廿四日
府中『静岡)龍泉寺に葬り宝台院と号した。
同月廿七日 秀吉卿の妾腹に男子が誕生した。 幼名を鶴松君と云う(p107) この祝儀として
家康公は大坂へ登ったが、秀吉卿は黄金弐百枚及び白銀二千枚を家康公へ贈った。
註: 鶴松は秀吉(53歳)と淀君の子、三才で病死。 有名な秀頼はその後に生れる。

同年七月秀吉卿の使者として富田平右衛門と津田四郎右衛門両人が駿府城へ訪れ、上州
沼田の城地の件で北条家へ渡す様真田安房守に伝える為上田へ行きます、この事を家康公の
耳にもいれる様にと秀吉卿から言われたので参上しましたと言う。
それでは此方からも使者を差添ますと榊原式部太輔に詳しい口上を伝え、秀吉卿使者両名
と連れ立って上田の城へ向った。 三人共に真田に対面して秀吉卿の命令を伝えたところ、今度
安房守は少しも異議なく早速明渡すと言う返答で三使共に帰路についた。

同年九月、家康公は甲州都留郡中窪、根津やその外所々順見したところ、鳥居彦右衛門元忠が
白銀十枚、綿百把、漆百桶を献上した。 家康公は、其方をこの地に居住させ諸事頼んである事
を良く処理して呉れるので甲州は心配ないと満足していると語った。

同年十一月、北条氏直は沼田の城を受取、北条氏邦を沼田城に居住させた。 この沼田の近くに
那久留美(名胡桃) と云う小さな城があり、以前から真田が所有していた城地である。
沼田城を明渡した後もこの城は其のままで真田安房守は番人を置いていた。 ところが氏邦の
家老で猪俣能登という非常に軽率な者が居り、彼は上野国全てが北条家の領地となると云う事で
今度沼田城も真田方から明渡したのであるから、那久留美一城だけを真田が領有する理由が
ないと那久留(p108)の城を預っている者へ明渡しを申入れた。 名胡桃の城兵達が同意しない
ので猪俣は怒って軍勢を出して突然押寄せて城を攻め取ってしまった。 

敗れた名胡桃の城兵は上田城へ帰り事の次第を報告した。 怒った真田は早速大阪へ使者を
立て報告すると共に駿府へも使者を送り榊原康政へ言上した。 秀吉卿は当然の事で家康公も
たいへん立腹した。 この為秀吉卿は大谷刑部少輔を通じて家康公へ云った事は、私は北条氏政
との関係は決して良くなかったが、貴殿とは近い親戚であり色々仲介されるので是まで大目に見て
来た。 ところが最近真田安房守の領内那久留美城を攻め取った。 又貴殿と先約が有ると云う
上州沼田の城地を渡せば氏直が上洛するというので、早速真田方へ指示して沼田を明渡させた。
しかし氏直からは上洛する知らせもなく重ね重ねの不届の限りである。 つまるところ是は天皇をも
軽んずる罪も小さくはないので近々北条父子の所行を天皇に報告して征伐を加えなければ、秀吉
が関白職にある意味がないと考える。 その相談のため大谷を下向させたので、もし別な意見
あれば率直に伺いたいとの事である。

家康公が大谷吉隆へ云った事は、 秀吉卿が云われる通り北条家と私は関係もあり、心配して
今まで何度か異見を述べました。氏直は同意していた様子だが親の氏政は頑迷で聞く耳持たず
私の手にも負えないものです。 偏に北条家滅亡の時節到来と思う意外ないので此処に及んで
(p109)別に替る意見もありません。 朝廷の政務を行う関白の処置として私も当然と思いますので
秀吉卿に能々了解した旨伝えられたいと聞き大谷は大坂へ帰った。

この様な動きが小田原へも聞えてきたので、北条家では石巻左馬丞を使者として大坂へ登らせ、
今度那久留美の城を責落して城地を押領した件は氏政氏直父子が全く知らない事であり、外様の
者の愚かな仕業です。 不届千万な事であり早速取調べ責任者の猪俣を処罰する為現在は身柄
を確保しております。 この事を使者によりお知らせしますと言う石巻の口上を聞いて、秀吉卿は
益々機嫌を損じ、とやかくの返事もせず石巻と従者二人を虜にする様命じ、その他の随員は
全て小田原へ追返した。

         北条家追討小田原の陣   47歳
天正十八年正月三日 若君(秀忠)が初て秀吉卿へ対面のため駿府を発駕して上京するので、
井伊直政、酒井忠世、内藤正成、青山忠成の四人が御供に付けられた。 同十三日京都に到着
すると秀吉卿からの使者として長束大蔵太輔が参上した。 同五日聚楽の城へ登る時は酒井忠世
が太刀持ち役、井伊、内藤、青山が側近くに付き添った。 秀吉卿は若君への対面に上機嫌で
尼奥蔵主を呼出して、若君のお世話をする様に申しつけて大奥へ導いた。 既に用意してあった
衣服、刀,脇差に全て改めた後、奥蔵主に手を引せ秀吉卿も付添って表へ出た。 夫迄全て田舎
風に見へたのが上方風に改められ、皆が寄り集まりこんなに装いが替わるのか、最初とは見違える
など(p110)と言い、奥向でも上下褒め称えた。

秀吉卿は直政に向って、今度は遠路の所御息男を上洛させ対面したが、予想以上に成長しており
その上全般におとなしく見え、喜ばしい事であると伝える様にとの事だった。 又初ての上京でもあり
暫く逗留したらよいとも思うが、未だ幼年であり大納言(家康公)もきっと待ち兼ねていると思うので
早々帰国させる様にとの事だった。 井伊直政を初め四人の面々へ黄金と時服を賜った。
同月十七日に若君が出発の後で去る十四日聚楽亭で浜松御簾中(秀吉卿妹、朝日御前)が逝去
したと発表、京都の東福寺に葬る(号南朝院)

同月廿八日秀吉卿より使者が遣わされ、若君上京のお礼と共に小田原に進発の際、領内の城内
に旅宿したい旨の要望があった。 家康公の返答は、私もその積りでしたので既に道路や橋の
掃除等を指示しておりますと伝えた。 上方の使者が到着する前にこの事が予想されていたので
本多佐渡守、本多作左衛門両人に指示し、使者が下向してきた時は大方完了していた。
同二月十日、家康公は、小田原へ出発する秀吉卿が駿府を出てから接待する為に用意させた
街道筋の茶店その他を視察し、伊奈熊蔵忠正に富士川の船橋の用意をさせた。

同年二月一日、秀吉卿の先陣部隊は京都を出発し、その数は十七万である。 織田信雄卿は
伊勢、尾張両国の兵一万余を率いて出陣した。 家康公の軍勢は甲斐、信濃、駿河、遠江、
三河五ヶ国の軍勢二万五千余である。 これらを合わせて追討の総数は二十万五(p111)千余と
なる。 更に京都の警備の為に秀吉卿の差図として毛利右馬頭輝元が中国軍勢四万余を率いて
残り、前田徳善院も又輝元に添えて京都に留めた。
註:前田徳善院、前田玄以(1539−1602) 信長家臣から秀吉に臣従

同月十九日、秀吉卿は駿府へ着陣した。 事前に家康公が浅野弾正へ伝えた事は、今度秀吉卿
が下向するに際し街道筋の旅宿城々で接待を予定していたが、それは必用ないと貴殿より言われ
それに従った。 しかし駿府は私の居城ゆえ特別と考え、お供の人々迄も軽い料理を出すことに
していたが、 これが了解されて秀吉卿も満足との返答だったので前々から準備を進めていた。 
ところが駿府到着の日になり突然駿府城に泊まる事を秀吉卿が不安だと言い出したので浅野弾正
長政と大谷吉隆と内談して後、長政が秀吉卿の前へ出て暫く閑談していたが、以後様子が変わり
駿府の御城へ入った。 

翌廿日 家康公も駿府の城へ出た。 事前に秀吉卿からも料理を戴く程の者達は陣中ではあるが
上下を着用する様にとあったのでたいへん城中も賑やかだった。
そんな中で本多作左衛門は平服の上に木綿の古びた柿渋の羽織を着て出て来て、家康公が浅野
長政、大谷吉隆、石田三成その他医者達と話しているの見掛け、殿、殿と呼び掛けた。(p112)
家康公が振り返ると作左衛門は、是は何事をなさるのか、国持の人が自分の居城を明けて人に
貸すとはとんでもない事です、 こんな事をする人は奥方様さへ人に貸しかねないと。 家康公は
これを聞き、何を馬鹿な事を言うな、と言えば作左衛門は座を立ちながら、誰か馬鹿かと独り言を
言いながら勝手口の方へ引き込んだ。 

一座の人々は是を見て不審に思っていると、この様子を見て家康公は笑いながら、あれは本多
作左衛門言う私の譜代の者ですが、何ともならぬ我まま者で場所を弁えず自分の言いたい事だけ
を言う奴です。 しかし御払い箱にする訳にも行かぬ由緒もありそのままにして居ります。 皆さん
にご迷惑をかけますと言えば、大谷や長束を始め他の人々も口を揃えて、ご家中に本多作左衛門
と言う有名人がいると上方でも聞いておりました、流石に貴殿は好い人を持たれていますと言った。

駿府城内での饗応も終り家康公が座を立った後、大谷刑部少輔は山中山城守を招き、少々ここで
相談したい事があるので貴殿は他人が来ぬよう控えていて欲しいと言い、浅野長政へ向い、先ず
は今日卿大納言殿(家康)の饗応も無事に済み喜ばしい事です。 ところで昨日昼の休息所で
貴殿の強い説得がなければ、この城に寄らず大納言殿饗応も中止になったでしょう。 それは
どんな結果になったろうか。 今度の北条家追討は大切な事であるのに、誰が何の目的で(p113)
駿府城に寄らぬ事を進言したのか全く分らない、 小田原攻めは重要な事なので是は殿下(秀吉)
の為になる事と思ったら、皆に相談の上で進言するのが当然である。 今後は誰であろうと一人
だけで言上するのは好くないと大谷が苦々しく言えば、列座の面々は了解した旨反応があったが
石田治部少輔一人は何も言わすしかめ面をしていた。 そこでさては昨日駿府城に宿泊の中止
の進言をしたのは石田三成ではないかと皆が推量した。
著者注 この事は山中山城守の覚書とし小田原攻めの事を書いた本の中に見えるので書記した。

二月廿七日秀吉卿は沼津に着陣し、家康公、信雄卿を始めその他の諸将を招き集めて北条父子
が立て籠もる小田原城の責口を定めた。 家康公の軍勢は中窪を越え本山中へ進み、山中城の
北の山を越えて小田原へ部隊を向ける事になった。 さて山中城は近江中納言秀次が今度主将
として、中村式部少輔一氏、田中兵部少輔長政、堀尾帯刀吉春、山内対馬守一豊、一柳伊豆守
直末等総数五万に及ぶ大軍で同二十九日の朝十時から山中城へ攻めかかる事になった。 
註 山中城 静岡県三島市山中新田、 

家康公の部隊も中窪口より攻上ったが、 北条方は事前にて小田原から人夫を送って道を掘崩し
人馬の往来が出来ぬ様にしていた。 先手の部隊は一足も進めぬ状況になり、検使として先手に
付いていた御使番の面々が旗本へこれを報告に来た。 家康公はこれを聞いて、敵地山中(p114)
行軍する場合、通常とは違う事もあるのは当然である、 目的地へ行かずの留るわけにも行かない
ので道の有る方へ行けとの事で、前から甲州より採用していた黒鍬の者達数百人を先手部隊に
配置した。 
註: 黒鍬 現代の軍隊で言えば工兵隊にあたる。 行軍に必用な道や橋をつくる。 その名残で
   江戸時代、江戸城の営繕を行う集団を黒鍬組といった

先手部隊から山中城の城際へは道らしく見えたが大きな堀切があるので旗本から派遣された
黒鍬達が大勢集まり暫時の間に新しい道をつくり、何の支障もなく部隊は向かい側の高台に集合
できた。 そこからは三島口より進軍してきた秀次の先手である中村を始め其外部隊の旗も見え、
当家先手の面々も一時は心配したが無事城攻めの予定に間合い、喜び勇んで中村式部少輔
家中の者達と同時に城際へ迫った。 中でも戸田左衛門、青山虎之助の両人は特に早く進んだ

中村家中でも藪内匠、川木惣左衛門、成合平左衛門等は戸田、青山と同時に城屏へ乗上り、
渡辺勘兵衛はその直ぐ後で乗入れた。 勘兵衛が鳥毛の大半月の旗指物を立てているので
秀吉卿が控えている場所からもよく見えたためか、山中の城は鳥毛の大指物か乗取ったぞと言い、
黄母衣衆にその指物主を尋ねさせた。 これが中村式部少輔家来の渡辺勘兵衛と分ったので
渡辺か一番乗と言う事になった。 此山中城は北条家の松田兵部大夫と云う侍大将が従来城代
として守っていたが、今度の籠城に備え氏政・氏直父子の命令で北条左衛門大夫氏勝、間宮
豊前守好、朝倉能登守三人に領内の兵を加えて守りを固めていた。 

そこへ家康公の先手の旗が城近くに進み寄るのを見て、秀次の(p115)先手の面々は各々秩序を
乱して我先にと一斉に攻懸らざるを得なくなり急に押掛けた。 城兵も弓鉄砲で応戦してこれを
防ぎ、この時一柳伊豆守も城中から撃った鉄砲に中り討死した。 寄手は雲霞の如くに集り
攻入るので城兵も防ぎ疲れて到る所で全て討死したか敗走した。 城主松田を始め加勢三人の中
間宮、朝倉両人は討死し、北条氏勝も手勢は残らず戦死し漸く主従十七八人で城を退去した。
この山中城の戦いの様子を偵察するため山上強右衛門が小田原城から派遣され途中まで来ると
山中城から敗れて来た部隊に遇った。 流石の山上も敵兵が進軍して来たと勘違いし、叉山の上
に上方勢の旗が数限りなく立並んでおり、これは山中が落城して敵兵は小田原城へ向っている
と考え、途中から引返してこの旨を報告したので城中では全員がたいへん狼狽したと云う。

山中の落城後は箱根一山全体が秀吉卿の手に入った事になり、上方勢は思い思いの場所に陣を
構え、その日暮方より各陣で篝火を焚いたので、その火が天を染めるのが小田原城中から見えた。
その後城中の評義が替わり是迄城外へ張出していた松田尾張守、上田上野、北条陸奥守、成田
下総、皆川山城、壬生上総介を始めその他の軍勢も全て陣を引払い、城中へ引き入れて各防禦
担当を決めた。 それにより上方勢も段々と箱根山を下りて麓に陣を構へ、秀吉卿は湯本の真先寺
を本陣と定めた。 

ところが北条方の松田尾張守が謀叛を起して秀吉卿へ内通して、今の本陣の場所は低地で好く
ありません、笠掛山へ(p116)本陣を移されるのが好いでしょう、 その山上からは小田原城中を
一望に見下す事ができ、総大将の本陣として最もふさわしい場所ですと告げた。 
秀吉卿はたいへん喜んで早速陣城の工事を始め陣屋、塀、矢倉等に至る迄全て造り、小田原
城中から見える所には白紙を張り回し、その後で木を伐り枝を払わせた。 すると紙張の塀、矢倉
は白壁の様に見えるので、小田原城中の貴賎は是を見て、 秀吉卿は箱根の山中に長期戦の
陣を構えて必ず当城を攻抜く積りだと思い大いに憂鬱となった。  
四月九日味方の軍勢が小田原城を囲んでいたが、城兵等は弓鉄砲を以て是を防いだ。 此時
阿部左馬介忠吉が鉄砲に中ったが軽傷で命は別状なかった。


            関東各地北条側諸城の攻略
天正十八年秀吉卿の命令で加賀利家を主将として舎弟弥四郎利政、越後上杉景勝、信州真田、
芦田等を合せて四万余の軍勢が碓氷口より西上野へ進軍し、北条家の所持する各城、松枝、
厩橋鉢形、松山、川越、瀧山等の諸城を攻落した。

その頃武蔵国江戸の城主は遠山十右衛門重政だったが、自身は小田原城に籠り川村兵衛太夫
を城代として三田、牛込、富永等という郷士達が加わり籠城していた。 そんな時に武田家浪人
の遠山丹波、曽根内匠、真田隠岐守と言う三人の者が連れ立って小田原を訪れ、榊原康政に
面会して真田隠岐守が、今度北条家を滅ぼした後にはその領知は全て徳川家へ拝領になると
専ら噂されています、その通りになった場合私たち三人を共に知行一万石で採用して戴く様
お願いします(p117) もしお許し願えるなら私共の忠節を示す証として遠山左衛門の居城江戸
千代田の城を私共が智恵を働かせてご当家の手に入る様にしますと言う。 

榊原式部太輔はその旨を内々家康公へ報告したところ、 秀吉卿にも相談されたのか早速この
浪人達の提案を受け入れる事になった。  そこで曽根、真田、遠山は江戸へ行き、どんな手を
使ったのか城は問題なく明渡すと言う事で、江戸城内外の曲輪の数その他城近辺を概略図に
して小田原へ持参した。  家康公は上機嫌で則江戸城受取りは榊原康政の家来を遣わす様に
との事で付人の家老三人、組付の侍、 旗本からは検使二名を添えて曽根、遠山、真田も江戸
へ行き城代川村より千代田城を受取った。

この頃相州玉縄の城主は北条左衛門太夫氏勝だったが、前述氏勝は箱根山中の城の加勢として
行き落城に際し従兵は皆討死して、漸く主従十七八騎になり本丸へ入り切腹する覚悟でいたが
堀内日向と言う家老が熱心に留めた。 止むを得ず城を出て主従みな髷も切り居城の玉縄へ籠り
上方勢を引受て一戦をして後切腹しようと待っていた。 しかし攻め手は来ず、その上氏勝も
以前より家康公と知合いで、先走らない様にと内談もあったので玉縄も当家の手に入った。

ここで家康公は秀吉卿と相談の上、武州の内忍、岩槻の両城を責取る事になった。 岩槻の城主
は太田十郎氏房だが、(p118)自身は小田原城に籠もり、家来の伊達与兵衛が城代として本丸を
守り、妹尾下総、片岡源左衛門の両人には二の丸を預けて兵士も多数籠もらせていた。
秀吉卿は岩槻城の攻撃は浅野弾正長政を主とし木村常陸を加えた。 家康公は本多中務忠勝
を主に鳥居彦右衛門、平岩主計頭、上村土佐守、三浦監物等を岩付に派遣し、浅野弾正と
打合せて城を攻め取る様指示した。

これら寄手の面々が岩槻の城外へ押詰めて城を順見し各々の攻め口を定めた。 大手口は
浅野弾正、本多中務、上村土佐、三浦監物、搦手口ハ鳥居元忠、平岩親吉、和気口は木村常陸
が担当する事になった。 五月十九日諸部隊が一斉に城へ押寄せ、大手は浅野長政と本多中務
忠勝両家の部隊が責掛った。 この時浅野長政の嫡子左京太夫幸長(十六歳初陣)が大手の橋の
上へ進み、采配を振って士卒を指揮する様子を見て、誠に武将の器だと皆が感心した。 

城兵も懸命に防いだが本多と浅野部隊が大手の門を攻破り城内へなだれこむと、城将妹尾
下総が兵の先頭に立って力戦したが 忠勝嫡子本多平八郎忠政(十六歳初陣)が渡合い終に
妹尾を討取った。 この時三浦監物は討死をした。 
搦手口では鳥居、平岩の両隊が死力を尽くし攻めるが、城兵もよく防戦して責入る事ができない。
そこで鳥居の兵が本丸の付曲輪へ乗入れた。 本丸から防禦が烈しく元忠の従士吉田善兵衛、
小田切又三郎、一宮左太夫等を始めとして三十余人討死し負傷者も多数でたが、 鳥居、平岩
の両部隊(p119)は終に城中へ攻入った。 城兵等も全て戦い疲れて本丸へ撤退した。

城将二人の内妹尾は本多忠政に討たれ片岡は重傷を負い、これ以上籠城は難しくなったので、
本丸の城代伊達与兵衛は浅野長政方へ使を出して、防備の手段も尽き籠城も不可能となった、
城代与兵衛は城外へ出て切腹するので城中の者達は助命願いたいと申出た。 長政は忠勝に
相談すると、貴殿の思い通りなさる様にと返答あったので、長政は与兵衛の願通り城中の人々を
助命し、城代伊達も今は切腹せずに良い、城下近くの寺院に止宿する様にと申し渡した。 
その後本多忠勝も立会って城を受取り、両人より岩槻城を責落した次第の報告書を作成し小田原
に送った。 家康公、秀吉卿共に感賞があり、秀吉卿より両人へ使者を下し、のし付作りの脇差を
給った。 その時長政は忠勝へ、私は忍の城へ行き石田三成と相談をして城を受取る様にと
小田原から指示があったので早速当地へ行きます、この岩槻城は貴殿に引渡すので今後の処理
は全て貴殿より小田原へ問合せて指示を受けて下さいと言って忍へ向った。

その頃武州忍の城主は成田下総だったが自身は小田原で籠城するので、忍の城は酒巻靭負と
云う者を城代として士卒を添えて守らせていた。 そこへ秀吉卿の命令で石田治部少輔三成が
小田原より来て城を見たところ、大きな沼が城を取巻いており攻撃は自由にならない、 仮令
(p120)どんな大軍で攻めても容易には責落せない様な城である。 それでは城外に堤を築いて
河水を落し入れて水攻にする以外は在るまいと、宇都宮、下野、水戸の佐竹等の武将と相談して
いた。 そこへ浅野弾正が岩槻より来て三成が水攻の相談中に長政は、今度北条家が所持する
城々は残らず落城し、どの城も攻撃に苦労した事がないのに当城だけ水攻め、兵糧攻めとは
小田原の本陣へ聞こえが悪い、 願わくば力戦して責落すのが殿下(秀吉)の考えに沿うものと
長政が同意しないので水責の支度は中止となった。

その後城の攻め口の担当を決めた時、 長政は新田口を請取り攻める支度を調えた。 一日
木戸口迄押寄せて戦ったが、城中の防禦も厳しく長政の士卒は中へ攻め入る事ができない。 
そこで長政は部隊を引揚げて謀略により城兵等を説得した結果、城代酒巻は城を長政へ渡した。
この忍の城攻以来長政と三成の仲が悪くなった。 理由は長政が岩槻の城責めでの即功を三成
が妬しく思った事が一つ、 最初三成が考案した水攻の予定が長政が岩槻からきたため中止と
なった恨みが二つ、 三つは長政が城中へスパイを入れて城兵達を説得し、城代酒巻も長政を
頼り降伏して城を明渡した。 これで忍城攻めに関しては三成の働きは一つも無い事になった。
著者註 三成と長政の仲が悪く成った事は他の書には見当らないが、徳永金兵衛の覚書にあり
      特に浅野家の事な(p121)ので事実と思い書き留めた

六月五日の夜中、小田原城中で和田と三浦の従卒百五十余人が自分達の持場に火を付けて
その騒ぎに紛れて城から逃亡し夫々の在所へ帰ってしまった。 この頃忍の城主成田下総守も
秀吉卿へ内通した事が露顕して、氏政・氏直は怒って成田の持場の廻りに柵を廻せて山上
強右衛門組に警固させた。

六月十四日小田原城中で北条家の大身の家老、松田尾張守憲秀が謀叛を企て、秀吉卿へ内通
した。 それは長岡越中守忠興、堀左衛門尉秀政、池田三左衛門輝政の三家の軍勢を自分の
持場に引入れ、城中所々に火を掛け其火を相図として諸方の寄手が一斉に城へ乗込み本丸へは
憲秀自身が案内者として三家の軍勢を引入れると云う手筈を決めたものである。

十五日の夜に入、尾張守は身近かな一家及び親類を呼集めてこの計画を聞かせたが、皆憲秀に
従う事で同意した。 憲秀の次男左馬之介は氏直が寵愛する児小姓で常に本丸に居住しているが
偶々この時病気で父の役所に下り養生していたのでこの一座に列していた。 左馬介は父憲秀に
向って、北条家には人材が多いのに当家は三老職の一人に備わり、 恩禄も厚く蒙り何の不足も
ないのに謀叛を企て背くべきでないと云った。 憲秀は怒って私が既に企を決定したのに偉そうな
教訓を云うとは老父に対する不孝の至り、不届であると聞く耳持たない。 どうして(p122)同意
しないなら殺害か監禁すると云い更に付け加えた事は、先ほど聞かせた事は一旦考えて私の
思いも一応伝えたが、この事が成就したら伊豆、相模の両国を宛がうと秀吉卿が云われるので、
これは一家繁栄の基にもなると説明した。 

左馬介は、父上のお考えも尤です、 しかし私に案があります、明十六日を一日延されてた方が
良い、何故なら明日は「成功しない日」と云い、この様な大計を行うにはたいへん良くない日と伝え
聞きますと云えば、 憲秀も機嫌を直して、其方が云うのも尤だと云い十七日の夜半決行と決めて
寄手の方へも連絡した。 左馬介は病気養生として閉じこもり寝ていた様子だが、本丸に置いて
ある具足を取寄せると云って、具足櫃を本丸へ運ばせその中に入り本丸へ入り込んだ。

氏直へ向って、憚りながら誓って親憲秀の一命を私へ下されば申し上げたいことが御座います
と左馬介が言えば氏直も誓って様子を尋ねた。左馬介は両眼に涙を浮べて事の次第を白状した
ので、氏直は大へん驚いてこの事を親父氏政と相談の上、松田を本丸へ呼んだ。 
北条陸奥守氏輝と坂辺岡江雪両人が、其方が敵方に内応していると云う者があり、貴殿に有得
ない事と思うが一応尋ねる様に云われたので聞きたいと云えば松田はそれを聞いて、私が敵方へ
内応など根も葉も無い事です、この様な事は大抵敵方からの謀略で古今よくある事です、仮令
その様な噂が有ったとしてもこの此尾張を呼び出してお尋ねされるものではないと言う。

氏照は(p123)元来短気な方なので松田に向かい、今の言葉は無根と言うが、貴殿の謀叛は
他人が云った事ではなく子息左馬介が直接言上したのであるから、どの様な申訳も立たない
はずであると云う。 松田が甚だ赤面したところを待機していた鎧武者五六人屏風の蔭より出て
憲秀を組伏せ腰刀をもぎ取り縄を掛けた。 其日の晩に急に松田の持場の部隊を入れ換え、
即刻本丸より検使を出して塀裏に飾った旗、馬印等は夜明に取替る様に指示した。 又今晩
夜更けに敵勢が近く迫るかも知れない。 その時は城門を開いて討って出ずに月夜に敵を
見定めて鉄砲で全て打殺す様にと指示されたので、一晩中待ったが敵は一人も来なかった。

一方堀、池田、長岡三家の軍兵は松田と打合せた場所に部隊を進めたが約束の時刻になっても
城内へ案内する筈の松田新六郎、同弾三郎の兄弟が来ない。 時刻が過ぎたからと早速
引揚げるのもどうかと考え暫く様子を見ていたが、明け方も近くなったので部隊を引揚げた。 
何かの間違いが起こったかと不審に思っていると翌朝に塀裏の旗、馬印等を取替ているので、
さては松田の陰謀が露顕したなと推量した。
著者註 この咄はその時代の事を記した書物の中にも見へるが、少々違っている。 ここに書留た
     事は大道寺内蔵介が若い頃遠山長右衛門と云う者に聞いた話である。 長右衛門は
     この頃小田原城中に居たのでよく覚えていたとの事である

(p124) 六月廿二日井伊兵部少輔直政と松平周防守康親両家の部隊は小田原城の笹曲輪へ
責入った。 その訳は笹郭辺の地形は金堀を使うと良いと専門家が云うので、直政と康親の持場
から金堀を入れて漸城内へも掘付かと云う辺りで大雨となった。 すると如何した事か城廻りの塀
や櫓が廿間程崩れ剥れた。 城中の大騒ぎに紛れて乗り込もうと直政と康親両家の軍兵が烈しい
雨の中で例の崩れた口より攻込み役所に火をつけた。 城兵は味方に内通したものがいて敵を
引入れたかと気遣い防戦する者もなく、 一方直政、康親の部隊も後に続く味方もないので深々と
攻入る事もできず早々部隊を引揚げた。 味方の諸陣では城中から夜襲の部隊を出して直政の
陣屋へ火を付けたと思いたいへんな騒ぎとなった。 家康公もどうしたと心配したが松平主殿頭
家忠が一番に馳付けて事の次第を報告したので安心し、早く知らせた事に感賞があった。

落穂集第四巻終
                                   
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