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            落穂集第五巻(p125)
      5-1 小田原落城と徳川家関東入国
その頃伊豆国韮山の城に北条美濃守氏規が立て籠もっているのを、秀吉卿の命令の下で
福島左衛門太夫正則、蜂須賀阿波守家政、 長岡越中守忠興、蒲生飛騨守氏郷、中川
藤兵衛秀政、森右近太夫忠政等に織田信雄卿の軍勢を添えて韮山の城を攻撃していた。
家康公からも監使一人を添えて攻撃に参加する様にと秀吉卿が云うので、小笠原丹波守を
韮山へ派遣した。 しかし城兵の防禦は堅く城も堅固であり、簡単には攻落す事が出来ず
諸将の評義をもどかしく思ったのか、小笠原父子は無理に城中へ突っ込み従卒共に残らず
討死してしまった。 そんな時家康公から秀吉卿へ何か相談があり、その後内藤三右衛門が
韮山へ行き、城主の氏規を同道して小田原へ帰ってきた。 (p126)その後秀吉卿の命令で
攻撃軍は全て引上げて城は内藤三右衛門へ明渡しとなった。

天正十八年(1590)七月五日、小田原城中では氏直は謀叛人松田尾張に死罪を言渡した後
家康公の陣所を訪れ、籠城も続けられなくなったので父氏政を始め城中の者達を助命あれば
城を明渡すとの事である。  家康公は、私は貴殿と親戚であり仲介する事は難しいので羽柴
下総守を通して秀吉卿の方へ直接申し出る様にと指示があった。 そこで氏直は下総守を頼み
羽柴勝雅はその趣旨を秀吉卿へ伝えたところ、氏直の願い通りで良いとなった。
翌六日、 家康公より榊原式部太輔康政、秀吉卿より脇坂中務少輔安治、片桐市正貞盛
の三人が派遣され小田原城を受取った。

この後七日より九日迄の三日間に籠城の人々は城中から退散する様に云われ、数万の人数で
混乱が予想されたが、脇坂及び片桐方より警護や検査を行い何事も起こらず九日の昼には全員
諸方へ立退いた。 その夕方氏政と氏輝兄弟は本丸を退去し医師の田村安栖の居宅に移った。
秀吉卿より大谷刑部少輔を通し家康公へ、氏直は助命して氏政と氏輝両人は切腹させようと思う
旨相談があった。 家康公はそれを聞き、氏政氏直父子共に死罪かと思っていたのに、氏直が
助命されるとは私としては大きな喜びですと返答した。 その時秀吉卿の指図で家康公は翌十日
芦子川口の内部へ移った。(p127)

同十一日氏政氏輝兄弟は医師安栖の居宅で自殺した。 秀吉卿より石川備前守、中村式部、
蒔田権之助、佐々淡路守を検使とし、家康公よりは榊原康政が派遣された。 氏政氏輝兄弟の
首は石田治部少輔に命じて京都へ送り一条戻橋に晒された。
註 北条一門の中でも氏政、氏輝は主戦派で氏直、氏規は和平派だったという。 会議が堂々
  巡りで結論が出ないのを小田原評定と云うが、この時の北条家中の会議から来たと云われる。

同十二日氏直は高野山へ籠もるため小田原を出発した。 秀吉卿からの指示は侍階級三十人
とその従卒合わせて三百人以内となっている。 北条一門では美濃守氏規、左衛門太夫氏勝、
従士として松田左馬助、山上強右衛門、内藤左近、諏訪部惣右衛門、依田大膳で是は氏直
側近である。 家老分として大道寺孫九郎が総勢の最後から供している。 
家康公は芦子川の門櫓から氏直一行の出発を見ておられたが、牧野半右衛門と小坂助六の両人
に命じ用があるとの事で孫九郎を呼寄せ、氏直の道中の事及び高野山中の住居について種々
指示された。

同十三日秀吉卿は小田原の城へ入り、今迄の北条家の領知の配分を諸将に割り与えた。 
是迄の北条家領知の跡国(伊豆、相模、武蔵、上総等)、及び上洛の時のためと近江の知行
九万石、東海道筋では石部、開の地蔵、四日市の夫々宿々で千石宛は従来通、 是迄の料地の
中では白須賀、中泉、清見寺で各千石宛と嶋田二千石をこれも又上洛時用として家康公へ進上
あった。

その頃織田内府信雄は故有って改易となり下野国那須へ流されたので、其跡の尾張国並び
北伊勢五郡は(p128 ) 近江中納言秀次へ与えられた。 家康公の旧領の内、三河吉田の城地
十五万石は池田三左衛門輝政へ、同国岡崎五万石は田中兵部太輔長政へ、遠近江国浜松の
城邑十二万石は堀尾帯刀吉晴へ、同国掛川五万石は山内対馬守一豊へ、同国横須賀の城地
は渡辺左衛門へ、駿河国は中村式部一氏へ、甲斐国は加藤遠江守へ、信州小室の城五万石は
仙石越前守へ、同国伊奈郡は毛利河内へ、諏訪城地は目根野織部へ、小笠原を石川出雲守
(元の名伯耆守)と夫々に与えられた。
註: 織田信雄は小田原陣後の領地割りで家康の跡地(三河、遠江、駿河等)へ国替を命ぜられ
これを拒否した為秀吉の怒りを買い改易となった(通説)。

七月十四日秀吉卿は会津の伊達政宗を退治する為として小田原を出発した。 十五日に江戸に
至り所々見分した後、下野国宇都宮の城に着陣し、ここに逗留し奥州各地の国分けを行った


同年八月朔日 家康公は小田原を出発して江戸の城へ移った。 この時以来今に到るまで俗に
関東入国として徳川家の記念すべき日である。 この時小田原城代として大久保治部少輔忠隣
が任命され、その後直ぐに拝領となった。(後相模と改める))

          5−2 小田原陣と関東入国余話
  小田原陣に関連して種々の異説もあるので以下書き記す
1. 秀吉卿の出陣出立ち
秀吉卿が沼津へ着陣する頃、 家康公は織田信雄卿と共に出迎えに出た。 秀吉卿の馬に先
立ち到着した餌差、鷹、犬、小鷹等を連れた鷹匠の中から稲田喜蔵と云う者が家康公の前へ
走り寄り平伏した。 この喜蔵は家康公が初めて大阪へ上った時、秀吉卿から鷹狩りの為の
世話役として付けられた者で、以後上洛の度に(p129)世話を行い、 家康公も特に目を掛けた
者である。 彼がそっと家康公に、 殿下は間もなく到着されますが、ご覧になると分りますが
大変異様な出立で御座いますと云う。

急な事で家康公もどう対処するか思案していた時、武田家の侍曲淵庄左衛門がお供にいたが
三尺余りの朱鞘で大鍔の大刀を横に置いているのを見ると側に呼寄せた。 庄左衛門が後ろに
畏まって座っていたが、秀吉卿の馬が近ずくと、家康公は自分の刀を外して庄左衛門の大刀と
差し替えた。 その時秀吉卿が到着したが、其出立の異様な事は金の立烏帽子に緋緞子の袖付
具足、羽織に紅金繍の括り袴、更に顔には作り髭、金作りの太刀をはき、金の土俵うつほを、
手には唐国羽を持ち小ぶりな佐同馬に乗っている。 

秀吉卿は家康公と信雄卿の出迎えを見ると馬から下りたので両人もそこへ立寄った。 秀吉卿は
在陣の労をねぎらい、唐国羽で家康公が指す刀の柄を押へて、是は中々よい物をお持ちだと笑い
ながら云った。 以後三人連れで半町程歩行したが、参陣の諸大名達も近寄ってくるので、家康公
が馬に乗る様勧めると、それでは陣中礼なし、ご免と云い秀吉卿は馬に乗り諸大名の前では馬上
から夫々に言葉を掛けた。

2.秀吉卿討死の武士を惜しむ
山中城攻撃で一柳伊豆守が討死した夜、 秀吉卿は本陣へ伊豆守の弟市助と供した家老二名
を(p130) 呼寄せた。 秀吉卿は、今朝山中城攻撃で伊豆守が討死した事は残念であるが、その
家督は市助が継ぐ様に、 この戦いに伊豆守が連れてきた家中の者は主を失い力を落としていると
思うが、今日からは其方の家来となるので十分目を掛けてやる様に。 また家老両人は今日からは
市助を伊豆守と思い気を入れて奉公し、家中の者達にもよく言い聞かせる様にとの事である。
又市助の方へ向って、 其方は聞いていた以上の兎口である、侍の兎口は武辺の相として誉れ
であり喜ばしい事であると云った。 
この市助は後には監物と云ったが男子を多数持ち、その末の一柳助之進と云う者が松平安芸守
光晟の家来として安芸国広島に居り、 私(作者)へ直接話した事である。
註 松平光晟(1617-1693)=浅野光晟、 浅野弾正長政の孫

3.山中城一番乗りの真実
山中落城の夜、戸田左門が家康公の本陣へ来て榊原式部太輔に面会して云った事は、今日城
攻めの時、徳川家の先手の者達は中村式部少輔の部隊の者と同時に城際に迫り、中でも拙者
と青山虎之助は一番に城に乗入れ、中村殿家来の藪内匠云う者と互に言葉もかけ合ました。 
ところが山中城には中村殿家中の渡辺勘兵衛と云う者が一番に乗込んだ事になっています。 
決してそれは真実ではありません、 中村殿家中でも内匠を始め3−5人程が拙者共と同時に
乗入れましたが、その中に鳥毛の指物を持っていた者はありませんでした。 

殿様としては北条家の領知と境界を接する甲斐、駿河を領する以上、今回の戦いでは当然ながら
諸軍勢に先がけて先手となる筈であり、山中の城は徳川家が攻落すと家中では皆思っていたのに
(p131)近江中納言殿が先手と定められ家中一同心外に思っていました。 しかし道筋が替り偶然
に城攻めの先手の機会を得、しかも中村殿の者と同時に城へも乗入れました。 
関白殿より派遣された黄母衣衆も見届けておりますのでこの事を報告致したく存じます。 決して
私共が骨折をした事を認めて戴く為に云うのではありませんと云った。

榊原康政が家康公にこの件を報告したところ、左門を呼出し家康公は直に、其方が陳べる事は
尤である、 しかし婿の氏直が所持する城を私の部隊が攻落したとしても手柄になるものでもなく、
其方達が骨を折った事は私が聞いて置けば良い事である、 今後も山中城攻の事はとやかく
言わぬ様に青山にも十分説明する様にと云った。 以後左門は山中城攻めの事を尋ねる人が
あっても、混乱の中でありはっきり覚えていないと答えた。 

一方青山虎之助は、山中の城では無駄骨を折って、中村殿の家中の渡辺勘兵衛一人の手柄に
成った、殿も人が好すぎるなどと云うのを目付衆が聞いて報告すると家康公は笑いながら、青山
がそう云うなら言わせて置けとの事で咎めもなかった。 しかしその後江戸のお城に移り、家中の
皆が新しく知行を拝領した時、戸田左門へは川越領の内で五千石が与えられた。
註:黄母衣衆 豊臣秀吉の馬廻りからなる親衛隊。 緒田信長の黒母衣衆に倣った。

4.奇怪な風聞
山中の落城後、上方勢は夫々箱根山中に在陣した。 その時家康公と信雄卿が示し合わせて
小田原北条家に味方をし、両家の(p132)軍勢で秀吉卿の本陣を始め諸陣全て焼討する。
それに呼応して氏政氏直父子が小田原の城兵全てを率いて上方勢を攻撃する計画であるとの
噂が出た。 種々噂が飛び交い各陣営共に気を遣っている時、小早川隆景は京都に用事があり
遅れて参陣したのを幸に秀吉卿と相談し、隆景案で家康公陣所へ秀吉卿が訪問する事にした。

日時が決まり、その日に秀吉卿は伊達染の小袖に緋緞子の羽織を着、脇差だけで刀は小童の
肩に掛させ、織田内府、隆景、法印達、その外の随員も皆脇差だけで手を引き杖を突いて談笑
しながら家康公の陣屋へ入り、昼前から夜半まで種々饗応があった。 その後織田内府の陣屋も
秀吉卿、家康公、隆景等が同道して訪問した。 その後秀吉卿の本陣へ家康公と内府を招いて
昼は能興行が催され、夜に入ると酒宴が始まり踊りや小歌等で盛り上がり、明方になって家康公
も帰った。 それ以後は諸大名の陣々でも会合があり、皆が落着いてくると自然に噂は消えた。
その時秀吉卿が作った歌、この小歌は家康公の作等と云い陣中上下の人々が歌い流行らせた
ので、私も歌いましたと小木曽太兵衛と云う老人が語るのを私は若い頃聞いたので書留める。
   人かひ船ハ 沖をこくとても うらるゝうらるゝ 身をしつかにこけ(p133)
   我を忍ハヽ思案して 高ひまとから すなをまけ 面かと云て出あほふ

5.領国経営の真髄
箱根山の陣中で家康公が伊奈熊蔵を呼び用を言いつけた時熊蔵は、去年から領国の米大豆
等貯へ置く様ご指示あり支度をしてきました、 今回の戦に必用と思い沼津の国境まて運んで
おきましたが、ここ山中の穀物の値段は江尻や沼津と同じなので、領分の米や大豆等の運送は
止めて全て当地で買う事になりましたが、これは納得が行きませんと申上げた。
家康公はこれを聞くと、 それは皆長束大蔵かやった事である。 長束はそれほど武功は無いが
全般に考えの深い者であり、秀吉に認められ少身から段々と出世して城主に迄なった。

一般に大名が常に倹約を心掛け不要の出費を嫌い質素にするのは、何か異変があった時に出費
を惜しまず自由に遣うためである。 しかし常々も倹約を実行し、必用な場合にも遣わないならば、
金銀米銭は何の役にも立たず土石にも劣るものである。 其方の役目から納得できる筈の事が
できないと云うこと自体、私は納得行かぬぞと云われ、熊蔵は大へん困惑した。
この咄は土井大炊頭殿が家老達へ話した事であると大野知石が私に話してくれた。
註 伊奈熊蔵 関東入国後徳川家勧請方の重鎮となり治水に力を揮う。

6. 江戸の選択
笠掛山の陣城工事が終り秀吉卿が引越したので家康公と信雄卿が同道で訪問した。 秀吉卿は、
この山の一角から小田原城内がよく見える所があると言い、家康公を誘うと信雄卿も同じく
立上り(p134) 家康公の側に付いて離れない。 それを秀吉卿は気の毒に思ったか、その場所に
到着すると小袖の裳を捲り上げながら、昔より馬鹿のつれ小便と云う、さあ大納言殿も此処へ
と云うので、家康公も秀吉卿の側近くに立て袂を引いて城中の方を見ながら二人で雑談している
ので信雄卿はあちこち徘徊している。 

その間に秀吉卿は、小田原の城中の家作等も現状通りで明渡したら貴殿は其の侭居城に用いる
かと聞く。 家康公は、将来は兎も角、先ず当分は小田原に在城する外無いでしょうと答えると 
秀吉卿は、それは大きな考え違いです、此処は境目として重要な場所だから家来の中から確実な
者に預け、貴殿自身は此処より二十里程隔てた江戸と云う所があるが、人の話しや地図からも
ここは繁昌する良い場所ゆえ、江戸を居城に定めるべきです。 今度この小田原陣が終ったら奥州
へ出発しますが、その途中閑を見て私も江戸の様子を見てくるので、その上で又相談しましょうとの
事である。
この咄は前述の様に他人が入る余地はない筈だが、その時代から云われており私も若い頃
聞いた事があるので此処に書留める。 但し虚実は不明である。

8.秀吉卿の鎗
ある時家康公は信雄卿を同道して秀吉卿の陣所を訪問した。話しが終り両人連れ立って退去
する時廊下の様な所で、 跡から秀吉卿が十文字の(p135)の抜身の鎗をひらめかし家康、家康
と呼ぶので、 家康公は右手に持った刀を左手へ持替えて別段驚いた様子もなく立止まった。
秀吉卿は大笑をしながら鎗の柄を持替えて石突の方を家康公の手先へ差出し、此鎗は私の
秘蔵の持鎗だが貴殿へ進ぜようと云う。 家康公も深く御礼を云った所へ、秀吉卿近習の侍が
鎗の鞘を持って来て納め玄関へ持出して家康公のお供に渡した。

秀吉卿が追掛けて出て来た時、信雄卿は家康公を一人残して足早に退出したのを秀吉卿を
始め近習の諸侍達も見ており、信雄卿の行動を軽蔑し悪い評判が立った。
その後この鎗は家康公は後々迄秘蔵して持鎗の一つとした由。 実、不実は分らぬが古い人の
物語として書留める。

9.秀康、結城家を継ぐ
秀吉卿の陣所へ下野国の結城左衛門尉晴朝が参陣して対陣を労い、叉昨年十二月以来お願
していた養子をお取り計らい願いたいとの事である。 秀吉卿は、駿河大納言家康公の息男を
以前から手元に貰い、羽柴少将秀康と名乗らせている。 これ以外には私の親族としては該当者
がいない。 幸いにこの陣へも連れて来ており陣が終れば奥州へ出発するが下野国宇都宮に
在城する時に貴殿に遣わそう。 この秀康を養子とする事には家康も異存は無いと思うが、私から
も念の為伝えておくとの事である。 晴朝はたいへん喜んで結城へ帰った。

10.伊達政宗の遅参
奥州会津黒川の城主伊達政宗は家老片倉小十郎を伴い、一千程の軍勢を率いて甲斐国を
経て相州へ(p136)着陣した。 軍勢を三四里も後ろに残して、政宗は片倉一人と手廻りだけで
箱根の本陣を訪れ、大谷刑部少輔を奏者に頼んで小田原城攻の部隊に加わりたい旨秀吉卿に
面会を申し込んだ。 しかし秀吉卿は全く受付けず、私は政宗に面会する用事はない、 早々追
返す様にとの指示だったが、 其後如何思ったか本陣へ来るようにとの事で、政宗が出仕すると
諸大名が皆列席しているところへ政宗は呼出された。

浅野長政が秀吉卿に代り述べたのは、 越後の上杉は味方に加り数城を攻落し、水戸の佐竹は
指示あり次第出陣するとして小田原に使者を張付け、 既に武蔵国忍城攻撃に際して軍勢を
出した事を承知している筈である。 此処まで遅参したのは北条家の成行を見ながらの延引
であり、とんでもない不届きである、 第一会津は芦名の領知であり、昔奥州征伐で戦功があり
右大将源頼朝から芦名の先祖へ与えられ数代持伝へた所領である。 それを理由もなく切取り
押領した罪は重い。 従って北条家同様征伐されるべく朝廷の意向であるので、私の考えて許す
事はできない、 早々帰国して朝敵として我等の征伐を待つようにと申渡した。 次に長政が
云った事は、以上の通り決まったからには今日中に当所を退去する様にとの事だった。 
政宗は、云われた趣旨は深く恐れ入る外はありませんと席を立ち退出した。 その顔の表情は
只者ではないと諸人感心した。 是より直に伊達政宗追討として会津への出陣が(p137) 
諸軍へ通達された。 

この咄は徳永金兵衛の雑談からである。 金兵衛は浅野長政の近習を勤め、小田原陣にも参加
した者であるから実説と思われるので書留めた。
今その時代の事を記した書物では、政宗は巧く秀吉卿へ面会して押領の芦名領だけを返上して
本領米沢は安堵されて会津へ帰ったとなっている。 すると金兵衛の咄とは少し違っている。

11.関東入国準備
奥州会津へ出陣の通達が出された時、 家康公へ秀吉卿が、貴殿は差迫った国替で家中上下
共に多忙を極めていると思い奥州陣軍役は免除する。 これ迄の領知を早く明渡して貰わぬと
後の面々の収納にも影響があるので遅れぬ様にとの事である。 家康公も、その積りで進めて
おりますと返答した。  駿府に滞在する勘定方の諸役人及びその外五ヶ国の諸代官手代以下
に至る迄早々に江戸に集めて、青山藤蔵、伊奈熊蔵両人の指揮の下で関東の知行所を全て
見分した。 古来からの城地は勿論、 在所在所に至る迄見立て家中で従来地方の知行を
取っていた面々に残らず知行割を行い漏れがない様にした。 特に小身の者程江戸城下近辺
で割渡す様に指示があり、諸役人は昼夜を分かたず働き知行割を行い、間もなく(p138)
割定めも終った。 急な事だったのでこの時の知行割は大数一村切、叉は村続きで一まとめに
割りつけた。

12.北条家のその後
北条氏直は高野山へ入山しても秀吉卿から扶持は与えられ、 その他の諸掛かりは大阪にある
家康公の屋敷留守居役の佐野肥後守方へ頼めば滞る事もなく何の不足もなかった。
しかし関東から付き添った従卒には乱暴な振舞があったり、時には山の法師を相手に喧嘩口論も
あった。 最も困った事は山を下りて魚類を持帰って食べるなどで、家康公も是を最初に禁止した
が下々の者は治らない。 孫九郎も非常に困り、何とか高野山上の居住から開放して欲しい旨を
榊原式部太輔に頼んだ。 康政も同意して高野山奥山上人と相談した結果、奥山の取扱で
手続きが終った。 秀吉卿の許可で高野山の住居を免じて天野と云う所へ下り、その翌年には
泉州堺の興応寺へ移り、更にその後大坂天満で織田信雄卿が住んでいた屋鋪が提供された。

その上河内の佐山と云う所に一万石の知行が与えられた。 その時家康公は聚楽の屋鋪へ
孫九郎を呼んで、氏直が早速高野の住居を赦免されて特に天満で大屋敷を与えられた事は
喜ばしい事である、 しかし一万石の知行は少ないので家計で必用なもの私の方で見るし、娘も
早々に戻したいと思うと。 この件を浅野弾正を通して尋ねたところ秀吉卿(p139)も、氏直は
屋鋪に関しては不足も無いだろうが一万石の知行ではどうかと思う、 近々中国方面で領国の
心当たりがあるので夫まで待つようにと内意があった。 そこで暫く待つように、又この事を氏直
だけに内々伝える様にとの事だった。

孫九郎は喜んで帰り氏直へ報告した。 今か今かと待っている内に翌年の11月氏直は疱瘡を
病み手当を尽くしたが死去してしまい、従者達もすっかり力を落とした。
その頃京都聚楽亭で岡江雪は毎夜秀吉卿の伽衆に加わっていたが、ある夜江雪がいつもと
違って打ちしおれているのを秀吉卿が気付き、江雪は気分でも悪いのかと尋ねると江雪は、
いやそうではありませんと答える。 秀吉卿は再度、気分も悪くないのに全く浮かぬ顔に見えるが
何かあったかと聞けば江雪は謹んで、大坂で氏直が元日より疱瘡を発していましたが治らず
死去したと私が氏直に付けておいた家来から報告がありましたと答えた。

秀吉卿も驚いて、夫ならば其方が不機嫌となるのも当然である、 家康公の息女もさぞ悲しんで
いるだろう、 ところで氏直には子供が居ないと云う事は本当かと尋ねた。 江雪は、一子も無く
氏直限りで北条家は断絶となる事も止むを得ない事ですと申上げた。 秀吉卿は、氏直へ今
不相応な大屋敷を与えたが私の気持ちからである。 人の運命は悪い時には悪い事が重なる
ものだ。 しかし北条の名跡を残す事は不可能ではないのでその点は心配しない様とあった。

その後北条美濃守に忌明次第参上する様にとあったので(p140) 美濃守が上京したところ、
秀吉卿は、叔父を甥の跡目にとは言付け難いが北条の本家相続を其方へ申付ける。 佐山の
一万石もその侭領知して良いとの事である。 氏規は喜んで大坂へ下り氏直に付随ってきた者
達を呼出し、私は思いもよらず本家相続を秀吉卿より命ぜられた。今後は皆私を氏直と思って
勤めて呉れたら満足であると云う。  孫九郎を始め皆、氏直公が死去され北条家は断絶と思い
皆歎いて居りましたが御家が相続との事は私達の本懐です。 貴方様は大聖寺殿の御末子です
から御主人と仰ぐ事は当然で、今日から氏直公と同様と思います。 しかし今度相続された事が
関東へ伝わると韮山時代の御家来が集り来て奉公を願う事は間違いありません。 先ずそれ迄
私達は勤めますと云った。

予想通り韮山で離散した浪人達が次々とやって来て人が多くなり、氏直の元家来は皆氏規へ断を
入れて大坂を立去り上京した。 この頃氏直未亡人の西郡姫君も京都に滞在して居り、氏直の
お悔やみと関東へ帰る暇乞をする為孫九郎が代表として、叉松田左馬之助は児小姓として氏直の
側近だったので常々氏直が語っていた事を姫君様に報告したいと云う事で両人揃って参上した。 
御局を通じて種々尋ねられたが、(p141)その上で関東より氏直の供をして高野山中を始め其外
所々に付添い苦労した者達であるから、何としても流浪はさせたくないと思うので暫く上方に逗留
する様にとの事であった。 一同申合せて誓願寺の寺中に止宿していたが、その内に姫君様の
御願が通り、孫九郎を始め残らず徳川家の旗本に採用された。
註1 孫九郎 大道寺直繁 父は大道寺政繁、北条氏政の家老。 直繁の孫が大道寺友山
註2 西郡姫君(1565-1615) 家康と側室西郡局の娘、督姫、北条氏直正室
註3 大聖寺 北条家三代目氏康の事、氏康の嫡子は氏政、氏規は氏政の末弟

        5−3 豊臣政権の奥州政策
今度会津へ出陣する事になり、秀吉卿に先立ち小田原から出軍した諸大名は宇都宮近辺へ着陣
すると同時に政宗の領分へ間諜を派遣した。 しかし辺りは物静で戦や籠城の準備をしている様子
は全く無いので、各部隊共に不思議に思っていた。 そんな時秀吉卿が宇都宮の城へ到着すると
政宗は家老の片倉小十郎只一人を連れ手廻りも少しで宇都宮へ来て、城下を隔てた禅院に止宿
していた。

政宗が片倉を使者として大谷刑部少輔方へ云った事は、先日初めて貴殿を知り、何かとお世話
戴き有難く思っています。 その時も申上げましたが私共は朝廷を軽んじた事はありませんが、
何しろ田舎育ちで万事弁えず、奥州辺りに気風で私に兵を動した事を今更申訳なく後悔しており
ます。 従って芦名領は勿論、本領米沢の城地共にこの度差上ますので宜しくご裁許戴き伊達の
名跡の継続だけは貴殿の取成しを御願いしたく存じます。 私が参上すべきですが道中で病気を
発しましたので、この件先に片倉より御願いしますとの事である。 

この口上を云い終ると片倉は封印した箱二つ持出して一つの箱の封を切り、是は芦名(p142)
旧領の地図及び目録帳面ですと大谷へ渡した。叉箱一つを持出して、是は政宗が先祖より相伝
した米沢領の地図及び目録ですと云い封を切ろうとするのを大谷は押止て、其箱は取り合えず
封印の侭で私が預りますと留置いた。 そして大谷は政宗へ片倉を通して、申入れは確かに承り
ました、病気の保養には油断されぬ様にと返答した。

この様に政宗が降参して宇都宮へ参上した事が奥州地方各所へ聞えたので、出羽奥州のありと
あらゆる大小の武士は大変驚き、 我も我もと宇都宮へ参上するか或は名代を通して挨拶や贈物
を送って秀吉卿の機嫌を伺う事になった。 秀吉卿は暫く宇都宮の城に逗留しているだけで出羽、
奥州の両国を全て手に入れる事になった。

その後大谷方より秀吉卿が面会する旨の連絡があり、家老の片倉を連れて早朝登城する様にとの
事である。 翌朝政宗が出仕すると秀吉卿が面会し、その上岡江雪も相伴で政宗と片倉に料理が
出され茶も済んだ。 その後又秀吉卿の前へ政宗が呼出されると大谷が例の箱を持出して政宗の
前に置いた。 秀吉卿は、芦名旧領の地は取上げるが、其方が先祖から伝来した本領米沢も今度
差上ると云うが私の判断で是を返すので従来通り領知して良い、私も間もなく帰路につくが早々
帰城されよと暇もあったので、政宗は例の箱を押戴きお礼を云って帰って行った。 その時大谷は
片倉に向って、会津領はいつ頃明け渡し出来ますかと尋ねると片倉は、黒川の居城を始め其外の
(p143) 城々等も全て明けてあり、城番の侍、足軽等が少々残って居ますが明日でも差上げます
と云う。 政宗は勿論この片倉も中々尋常の者ではないとその頃評判となった。

さて秀吉卿は長岡越中守を城中へ招き、会津黒川の城を受取り在番を勤める様にとあったので、
越中守は了承して座を立った。 その後浅野長政を呼んで、私は黒川の城地を受取、彼地に在番
する様と云われたので先ずはお請した。 しかし貴殿も御存知の通り親幽斉が高齢の為、拙者が
会津に永く滞在は困るので、早々彼地の守護を選んで頂きたいと云い忠興は会津へ向った。
註 長岡越中守 =細川越中守忠興

この時秀吉卿は宇都宮より直に帰京すると云う事だったが、急に様子が変り、京都を出発した時
奥州外ノ浜迄赴くと発表したのに白川の関さえも越さずに帰るのは如何なものか、幸い会津
黒川の城地見分に行く名目ができ宇都宮を出て会津へ向った。 道すがら勢至堂、黒喜峠などの
切所を越し、中でも黒川の城近くにある背あふりと云う大切所も越えた。 秀吉卿は予定では黒川
の城に三四日程逗留する事になっていたが、唯一夜黒川の城に宿泊して翌日には早くも帰路に
つき、八月十五日には白川の城へ帰着した。 

今宵は明月であり当城中で月見の会を催すので、諸大名各位も登城する様にと触れがあった。
その日の晩方、蒲生飛騨守は今迄伊勢松坂で十二万石の領知だったが、四十二万石に成って
(p144)会津黒川の城主に任命された。 奥州の葛西、大崎三十万石の所を木村伊勢守に給る。
その日の暮方に皆が出仕した時氏郷も同じく登城した。 書院の柱にもたれて月を詠して居る所
へ日頃氏郷と親しい山崎右京が側近く寄って、今日は大身に出世して会津を拝領した事は大した
ものですと云えば氏郷は、云われる様に大身には成ったが最早この氏郷は終って奥州の田舎者
と成りましたと答えた。 これには山崎を初め一座の面々は氏郷の大器の程を推量したと云う

         5−4 宇都宮在陣余話
秀吉卿が宇都宮在陣中の事を以下に追記する。
1.三河守秀康公、結城家へ
秀吉卿は養子である三河守秀康公を前からの約束により結城左衛門晴朝の方へ婿養子として
出し、婚儀等もが調ったら私も結城へ行くので家康公も出かけられる様にとの事である。 
家康公も手廻り人数だけで下野国小山に行き、その後結城へ立寄り更に宇都宮も訪問して
江戸に帰城した。

2.佐藤忠信のかぶと
秀吉卿より 本多中務忠勝と面会したい用があるので寄越して欲しいと江戸へ連絡があり、家康公
も不審に思ったが、 その時忠勝は拝領の城地、上総国小多喜に滞在していたので江戸へ参上
は不要であるから直に宇都宮へ行くように指示した。 しかし忠勝は一端江戸へ帰って登城して
家康公に面会してから宇都宮へ参上した。 
秀吉卿は忠勝を城中へ招き、甲を一領忠勝の前に置いて、この甲は佐藤忠信の甲との事で奥州
よりもたらされたものである、 今この甲を用いる程の勇士は其方以外に思い付かないので、これを
其方へ遣すとの事だった。 忠勝はこれを頂戴し、私の家の家宝として子孫へ伝へます誠に忝い
事ですと云い、(p145)江戸へ登城して只一人家康公と面会した後、用の為小多喜へ帰った。
註1 佐藤忠信 (1161-1186)源義経の家臣
註2 小多喜 大多喜城 千葉県夷隅郡大多喜町

3.会津の守護選び
蒲生氏郷が会津の守護に任命される前、秀吉卿は家康公に、政宗が押領していた会津を返上
したので早速守護職を任命しなければならない。 会津は奥州の押への場所であり、その人柄は
大切であるが余り小身では勤まらない。 誰を任命するか考え二人程候補がある、私がこれはと
思う二名の名前を書付るので、貴殿もこれと思う二人を書いて入れ札とし、その上で相談して
決めたいとの事で、 家康公の書付を秀吉卿が受け取り、秀吉卿の書付を家康公が請取った。 
そこで互いに開いたら家康公の書付では一案蒲生氏郷、二に堀左衛門とあり、秀吉卿の書付
では一に左衛門、二に飛騨守となっていた。 

秀吉卿は、さてさて不思議な事である、一二の順こそ替れ、人の替りはなく相談して良かった、
ところで貴殿が一に氏郷とした理由はと尋ねると家康公は、先ず貴方様が左衛門を一番にした
お考えを伺いたいと云えば、秀吉公曰く、奥州者は全体的に強情であるから、左衛門の様な者で
ないと治らぬと考え左衛門とした、貴殿が氏郷を一番にした理由はとある。 家康公は、おっしゃる
通り奥州人は強情ですから、そこへ左衛門の様な者を任命すると俗に云う茶碗と茶碗のぶつかり
にもなります。(p146) 氏郷は武道にも勝れ、文学の素養もあり、その上歌道、茶の湯な等も好み
優雅さもあり、 強情な奥州者によくつり合うと考えて一番としましたと答えた。

秀吉卿はそれを聞いて、お考えは最もであるので氏郷に決めますとの事だった。 其後奥州辺の
所々で一揆起ったが、氏郷の処置は全く完璧であり百万石の領知を給わった。 その頃家康公が
上洛した時秀吉卿は、貴殿の見立てで氏郷を会津に置いたので奥州方面は安心だと云った。
註 蒲生飛騨守氏郷(1556−1595) 信長、秀吉に仕え名将の誉れが高いが若くして病死した

4.秀吉の信玄・謙信嫌い
ある夜秀吉卿は諸大名、その外法印、伽衆等呼集めての談話の時、佐野天徳寺が信玄と謙信の
咄をした。 天徳寺は元々は下野国佐野の城主の子であり武道、文才もある。 佐野城下天徳寺
の住僧だが、何か理由があり佐野を立去り京都黒谷に隠遁の身で過ごしていた。 秀吉卿がこれを
聞き、関東地方の話を聞く為に召出して伽衆の中に加へたものである。 天徳寺は話上手で常に
色々古い咄をするので、秀吉卿のお気に入りだった。

その夜天徳寺は武田信玄、上杉謙信両将の咄をし、信玄は日本で初めて座備と云うものを行い
謙信は信州川中島で武田家と一戦した時、車掛りと云う方法で勝利を得たなど両将の事を大に
褒めそやした。 秀吉卿はこれを聞き、やあ天徳寺、其方が云う信玄や謙信の二坊主が生きて
いれば私が今度帰京する時、一人には長刀を担がせ、一人には(p147)は朱の扇を持たせて馬の
先で京入りの供をさせたのに、二坊主共に早死にして仕合せだった。 座備が何だ、車掛りが何だ
たわ言だと云って座を立ち引取った。 天徳寺を始め着座の面々みな呆れ果てたとの事である
今は俗に佐野天徳寺宗綱と云うが誤りで、天徳寺は佐野修理大夫宗綱と云う者の弟坊主である。
 
        5−5 国替と関東経営
其頃秀吉卿は白川より直に帰路に赴き武蔵の府中に着いた。 家康公より、江戸の城へ立寄ら
れる様にとあったが秀吉卿は、江戸については小田原から宇都宮へ行く途中立寄りよく見たし、
貴殿も取込中と察するので今回は寄らないと云う。 そこで家康公は府中の旅館へ出向くと秀吉卿
は、先頃江戸にも立寄り見分したが、以前から聞いていた様に随分と良い場所に見えるので貴殿
の居城となれば後々必ず繁昌の地となると云う。 
尚又秀吉卿は、ところで私は奥州方面の方針を大体は定め、これから寒くなるので帰京するが、
奥州押えのためと任命した蒲生及び木村は俄大名であり軍勢も少なく、この点が気になっている。
両人が身上相応の軍勢を持つ迄は貴殿を後楯にする様にと両人に云含めてきたので、其様に
お心得願うとの事であった。

小田原で指示された関東における家中の知行割は諸役人達が精を出し段々出来あがってきた。
八月初より加増により(p148)城地又は在所高を拝領した人々もあり、小身の人々も江戸府内
より五里七里十里の内外に隔てた場所で知行の高下次第に知行所が与えられた。 その知行所
の中で名主や頭百姓の家を明させ、或は寺院等を当分の居所と定めて、駿府に滞在している
妻子や老弱者を拝領の知行所へ直に引取ったので、大身少身に拘らず居所の無い者は一人も
無かった。 御城の番等を勤める者達は在所より出府して、在所の遠近により五日から七日も
在府すれば良く、一年に幾日かは全員勤める日があるが、一ヵ年の内に五度から七度江戸に
出てくれば良いというきまりだった。

後々は知行所内で屋敷を造り、在所に在合わせの竹木で軽い普請をして陣屋と名付て居住し、
遥か後に江戸に居屋敷を拝領して引越すようになった。 そのため今でも旗本衆の知行所には
陣屋屋敷と云うものがあると云う。 その時役目上江戸に居ない訳に行かぬ人々はお城の近くで
小さな屋敷を受取、そこに小屋掛けをして独身で住み勤めを果した。 その上北条家時代の城主
遠山の家来が居住した家も多数あるので、その家屋敷を支給された人々もあった。 
以上の様に命令により七月中旬に国替が決まったが、その年と八月末から九月初頃には駿河、
遠江、三河、甲斐、信濃五ヶ国に居住した家中の大小(p149)武士は残らず現地を引払った。
この事が秀吉卿にも聞こえ、家康公の処理を大変感心して浅野長政へ度々語ったと云う事が
徳永金兵衛の覚書にも記されている。

その頃徳川家一番の大身は井伊兵部少輔直政で上州箕輪に十二万石給わったが、箕輪の城地
が良くない由で今の高崎へ移った。 他には榊原式部太輔康政へ上野国館林で十万石、本多
中務太輔忠勝へ上総国小多喜に十万石給わり、この三人の外では相州小田原で大久保
七郎右衛門忠世へ四万石、下総国矢作の城地四万石を鳥居衛門元忠へ下された、 この二人は
徳川家で二番目の大身である。 その他の人々には一万石から三万石下さり、その頃一万石以上
の人を人数持衆と云った。

今時俗に井伊、本多、榊原と唱へるが、これは関東入国の時十万石以上の大身となった三人の
内一人宛替り番で上洛して、京都でも秀吉卿から居屋鋪を給り、その屋敷に家作を調へ、在京中
は秀吉卿の奉行の面々を始め国取大名達とも付合い、能興行にも招待されたので誰が言うとも
なく井伊、本多、榊原を徳川家の三人衆等と云った。 その頃の座席の序列は井伊、榊原、本多
だったが人々の唱え易さで井伊、本多、榊原となった。

この知行所割の時本多作左衛門重次に城地、増等の考慮があった。 しかし小田原在陣中、
家康公へ秀吉卿が、御家の本多作左衛門は今度私が下向するに際し道中所々の道橋(p150)
等で骨折った事を聞いたので、吉田の城中で私に会いに来るよう加藤遠江守を通して再三声を
掛けたが我ままを云い出て来ない、随分の我侭者と思われる。 一般に一芸で人を取捨するの
は軍事の時である。 貴殿も今や大身になったのであるから作左衛門の様な偏屈者を用いる事
もないでしょうと云われた。 つまり先年岡崎の城中で秀吉卿の母儀大政所を焼殺す用意をして
いた事に対する遺恨が残っていると思われ、家康公も一旦秀吉卿の憤りを避けようと思われたか、
作左衛門には上総国小井戸と云う郷で三千石の地を下され、鷹狩りでもして楽しむ様にと鷹等も
与えて知行所へ蟄居させたが終に知行所にて死去した。
しかし作左衛門の旧功を家康公も思い、子息飛騨守成重には越前の丸岡で五万石の城地を
給わり三河守忠直の家老を勤めた。

その頃江戸の城の明渡しを斡旋した甲州浪人の曽根、遠山、真田にも五千石宛知行を与える
内意があったが、 最初の約束は一万石宛であり五千石では請けられないとの事で榊原康政も
色々説得したが納得しなかった。 終に徳川家を立去り京都へ上り、石田三成を頼って関東での
事を報告し、身上も望まず秀吉卿の直参に成りたいと申入れた。 石田はこれを報告したところ
秀吉卿は、身上の望を捨てて奉公したいというなら採用するが、江戸の(p151)井伊、榊原、本多
三人の中からり書状を取る様に、それが無くては採用できないとの事である。 そのまま浪人して
上方辺にいる間、蒲生氏郷が大きな地を給わった時であり、秀吉卿よりの内意か又石田の世話か
蒲生家で身上が叶い一万石宛で会津へ下った。 遠山は間もなく死去し子は無く跡式断絶した。
曽根内匠は氏郷に仕えて会津城普請の総監督を勤めたので、会津の城には甲州流の設計が
今でも残っている。 真田は後に徳川家旗本へ採用となり五千石拝領した。

        5−6 奥州経営と一揆勃発
秀吉卿が白川の城に逗留の時、蒲生飛騨守と木村伊勢守の両人が浅野長政、大谷吉隆、石田
三成の三人へ申入れた事は、 私達は今度思いも寄らぬ御取立に預り、其上奥州押への場所に
滞在する事になり、名実共に忝い仕合せですが、両人共に是迄小身でしたので自身の手勢だけ
では御奉公は勤まりません。 新たに人を召抱えなければなりませんが私達は今度拝領した知行
所を放置して上方へ上る事もできません。 従って上方に留守居を命じた家来の才覚で多数の人
を評価して採用して送込むことは数に限りがあります。 其上奥州辺の者は当分採用も難しい
様子であり、 特に人不足は困っております。 御聞になっている通り奥州地方は一揆の多い所
ですから、殿下がお帰りになった後万一の事があっても、大体は両人相談して解決(p152)します
が、両人の力で解決できない事も有り得ます。 その様な時戴いた知行高相応の御奉公が困難
な事は人数不足の為ですから、 この点各位もご理解戴き其様な時には宜しくお願いしますとの
事であった。

三人共に当然と考え、その趣旨を報告したところ秀吉卿は、両人の云う事は尤である、身上相応
の人が不足している事は私も理解している。 しかし誰でも片田舎に住む事は好まぬから、相応
の身上を望む事もあるだろうから、両人は夫を心得ておくべきである。 人不足は私も何とかする
から気を遣わずに良い、万一両人の力で解決できなければ早々江戸へ連絡し、家康公の指示を
受ける様に良く云い聞かせよとの事だった。

天正十八年(1590)九月朔日、秀吉卿は帰京すると直ぐ増田右衛門尉長盛に指示して京、大津
大阪の三ヶ所に高札を立てさせた。 其札の近くに蒲生及び木村の家来が出張して奉公を希望
する浪人達を面接して役人達から紹介状を付けて奥州へ送り込んだ。 又高札の文言を聞伝へ
諸国、各所から直接会津や大崎へ下った者もあるので、諸方の浪人は招かずとも奥州へ集った
と結解勘助は話していた。 この高札の文言は
  今度蒲生飛騨守、木村伊勢守は俄に大身に取立てられ
  人が不足しているので奉公を希望する浪人は勿論、たとへ旧主
  と問題起した者、又は小身で主人へ不満ある者は
  右両人方へ来て面談次第で知行を取る事が出来る。 もし先主より(p153)
  支障を云われても、今度の事は殿下より御裁許が成されるとの事である。
                    以上
 
この時中村式部少輔の家来に成合平左衛門と云う者がいた。彼は有名な人物で秀吉卿からも
直に感状等を給ったが、何故か式部少輔は知行を僅か二百石与えているだけであり大変不満
を持っていた。 今度山中城攻めの時も平左衛門は藪内匠と同時に城へも乗入れたが、新参者
の渡辺勘兵衛只一人の手柄になった事も不満だった。 そこで木村伊勢守が葛西大崎の守護
と成ったので中村方を立退き奥州へ下った。 伊勢守は日頃から目を掛け彼の器量も知って
いるので喜んで採用し、其方へは百倍の立身を申付るぞと云い、一隊の頭と二万石の知行
を与えて領内佐沼の城代に任命した。 
註1 葛西、大崎 葛西氏、大崎氏の旧地で宮城県北部及び岩手県南部の地域
註2 佐沼城 宮城県登米市

其頃徳川家でも永井善左衛門、三宿勘兵衛の両人が旗本を立去り会津へ下り氏郷に仕へた。
氏郷死去の後、藤三郎の代に少身となり野州宇都宮へ所替になると二人は浪人となった。 
其後上杉景勝に採用されたが関ヶ原の一戦以後上杉家の知行が減少になると又叉浪人したが、
両人共に越前中納言秀康卿に採用された。 嫡子三河守殿の代に至り永井は旗本へ帰参仕り、
三宿は秀頼卿の家人と成り大坂の城へ籠り、五月七日越前の大野主馬組により討死した。
註1 藤三郎 蒲生秀行(1583-1612)氏郷嫡子、父の病死で会津92万石から宇都宮18万石へ
 
天正十八年(1590)十月奥州にて木村伊勢守は大崎に在城し、葛西の城には嫡子弥市右衛門を
配置していた。 今後は父子が一所に居る方が良いのではないかと相談のため、伊勢守は(p154)
葛西へ目指し、弥市右衛門は大崎目指して出かけ、 途中で父子が思いがけず出逢ったので
この相談をしていた。 そこへ急に一揆が起り、葛西と大崎の通路を遮断して多勢で木村父子を
取囲んだ。 父子共に力を尽くし従者達も命を惜まず防戦し、当座の一揆は追払う事ができたが
葛西と大崎の通路が押さえられ、どちらにも帰る事ができなくなった。 そこで成合平左衛門に
預けて置いた佐沼の城が比較的近いので、父子共に佐沼の城へ駆け込んだところ、一揆勢が
押寄せて城を取巻いて烈しく攻めた。

このため氏郷方へ加勢を依頼したところ、氏郷は心得ましたと云い先ずは状況を家康公へ連絡し、
国丸中務を通して伊達政宗にも出勢する様に伝えた。 政宗も心得ましたとの返答があったので、
氏郷三千の軍勢を率いて出陣し政宗の陣所へ立寄り、明早朝に出発して佐沼城へ向いますが、
ここから佐沼迄の間に一揆方の城は幾つ有りますかと尋ねると政宗は、佐沼迄の間で一揆方の
城は清水と云う城だけですと返答した。 氏郷は、それでは先ず清水の城を攻落してから
佐沼で戦い、一揆の奴等を打果します。 私はこの辺の土地は不案内ですから貴殿が先陣なさる
のが良いでしょうと云えば政宗は、元より私もその積りですと云う。

氏郷は陣所へ帰り政宗の出陣に続いて出馬する積りで支度をしていたところ、その夜中に政宗
が使者を遣して、明朝出勢する約束で予定して居りましたが、昨晩より持病が起り臥せている
状態で、明早朝の出発は難(p155)くなりました、保養し少し良くなれば後から出陣しますと言う。
氏郷は、保養が大切です、私は先に出陣しますと云ったが、政宗の急病は疑わしいので急に
行軍の編成を替えた。 先手だった関忠次郎を後備として政宗への押さえとし、蒲生弥左衛門
を先勢として清水城へ向った。 ところが途中の名生の城に籠っていた一揆勢が突然出て
氏郷の部隊に掛かって来たので、蒲生源右衛門、同忠右衛門、其外の者達が力戦して一揆勢を
追立て、逃げる敵に押続いて城内へ攻入り二三の曲輪を乗取った。 それを聞いて氏郷自身も
城際へ乗付て諸勢を指揮して即時に本丸に乗込み、楯籠る一揆勢五百七十余人を討取った。

そこへ政宗が後から出陣して氏郷の部隊の様子を見させたところ、後備の関忠次郎は足軽や
長柄鎗等を最後尾に配置して、明らかに政宗を押へる部隊配置である。 さては氏郷も用心して
油断が無いと政宗も判断した。 氏郷が名生の城下に野陣を構えていた所へ政宗一万程の
軍勢を引連れ、氏郷方へ使者を送って言うには、夜中にも連絡した通り、急な持病が起り今朝の
出発は延期し、名生の城攻めに間に合いませんでした。 貴殿の京都への報告を気にして
おりますと言う。 氏郷は、病気なら止むを得ない事です、ところで貴殿も御存知無かったのか
清水城以外は一揆方の城は無いと昨日言われましたが、この城を始め他にも古河松山、宮沢
等という城も一揆方と聞きます。 その内古河松山の一揆勢は退散しましたが、(p156)宮沢には
一揆方が立籠っているとの事ですから、貴殿の部隊で攻落されれば京都への申訳も立ので早々
出陣されるのが良いと返答した。

名生城中の掃除等も終ったので氏郷は城中へ引入、佐沼城へ軍勢を送り木村父子を呼迎へた。
更に氏郷は政宗方へ使を送り、宮沢の一揆鎮圧を催促した。
この名生の城が落ちた夜、政宗譜代の侍で須田伯耆と言う者が政宗への不満から、伊達家を立
退き蒲生源左衛門を頼って蒲生家への奉公を望んだ。 その時源左衛門に語った事は、先日
氏郷が佐沼の件で加勢の相談のため政宗方へ来陣した時暗殺する用意をしていたが、京都への
聞えを憚りそれは中止した。 そこで所々の一揆を扇動して氏郷の軍と戦わせ、その後で政宗が
軍勢を送り氏郷を討果し、それを一揆の為に討たれたと京都へ報告する計画を立てた。
そこで急病と称して出陣を遅らせたが、氏郷もそれに気付いたと見へ後備を堅固にして、名生
の城も素早く乗取ったので政宗の事前の準備と違ってしまったと細かく陳べた。 それで政宗が
宮沢の城を責めるの引延ばしている理由も全て明らかとなった。

其頃浅野弾正長政は秀吉卿の命により甲斐、信濃両国の土地見分のため帰路についたが駿府で
奥州一揆の事を聞き、それより取って帰り江戸に来てお城で家康公の考えを伺うと家康公は長政
へ、奥州一揆の情報は氏郷より注進があり、重ての注進次第で私も出陣する積りです、先手は
結城(p157)三河守秀康に榊原式部太輔を添え、その他諸部隊の準備を進めており今でも氏郷
からの情報次第で出陣します。 貴殿は先に下られ方が良い、との事で長政と奥州へ下った。
其後秀吉卿よりの使節として石田三成も来て、今度奥州一揆蜂起に付いて殿下も重ての注進
次第出馬する積りとの事で、先陣の清須中納言秀次は近く江戸へ着陣します。 御待合せては
どうですかとある。 家康公は、私は奥州へ出発する積りで結城三河守と榊原等義は先立ち出陣
したので秀次の着陣を待つまでもありません、貴殿はこれからどうしますがと尋ねれば三成は、
私は今から水戸へ行き、佐竹義宣へ出馬する様に伝え、直に奥州へ下りますと云う。 

その直後出陣通達を出し、天正十九年正月三日に家康公は出馬し岩槻の城に在陣して奥州
からの注進を待った。 政宗は家康公が下向すると聞くと、自身の難を遁れる為に浅野長政の
旅陣を訪れて身の誤りが無い事を陳べるので弾正は、貴殿が云う通り野心が無いというなら
家臣の片倉に家老の内今一人を添えて氏郷方へ証人として差し出すのが良いと指図した。
政宗は指示に従い、片倉含め都合家老二名を名生の城へ送って来たので氏郷は彼等を携へて
黒川の城へ帰陣した。 これで奥州方面の一揆は治まったので長政は二本松から江戸へ使者を
送り詳細報告して出陣不要の旨を陳べた。 家康公はこれを岩槻の城で聞き、先手の人々へ
(p158)早々帰陣する様に通達し、正月十三日江戸へ帰陣した。 翌十四日に尾州中納言秀次
が奥州へ向うとして武蔵の府中へ着陣した。 家康公は府中を訪れ、私も岩槻より帰ったので
今から帰陣されてはどうかと相談した。
註1 一揆勢 葛西大崎は元来葛西氏、大崎氏の領知だが伊達政宗の影響下にあった。両氏共
   小田原不参を理由に改易となり、跡を木村伊勢守が拝領した。 そのため葛西大崎の浪人
   となった旧家臣達が一揆勢となった。

天正十九年(1591)閏正月三日 家康公は関東御入国以後初ての上洛のため、江戸を出発して
同十五日京都に到着した。 蒲生氏郷も会津拝領の御礼として上京していたので、在京中毎度
参会していた。

この参会の時、家康公が氏郷へ会津城普請について尋ねると氏郷は、芦名時代より会津の城は
全て芝、土居でしたが今度残らず石垣に築直します。 不肖の私を奥州の押えに任命頂き過分
の御恩に預り、せめて居城でも見苦しくない様にしたいと思い、諸国の城の建築を見ました。
そこで毛利輝元の居城である芸州広島の城が私の気に入りましたので、会津城の本丸、外郭共
に広島の城に似せる様に設計しようと思います。 

家康公は、全体に居城の大小は城主の身上相応の心得も必要です。 本丸を始め二三迄の
曲輪は矢倉等に十分念を入れて丈夫にする事が肝要です。 その外の曲輪も一二の門扉の形
等は急な普請では出来ないので事前に普請をして(p159)置かねばなりません。 一般に構えや
塀等は心がけさえして置けば急でも出来るので、普段は土居か石垣だけでも良いでしょう。 
長塀を掛けて置くのは役に立たないものですから、芸州広島の城の様に外郭まて塀を掛け回す
必要は無いでしょう。 松永弾正が工夫した大和国志貴の城にある多門矢倉と云うものを二三の
曲輪内に造ると大変便利なものですと語った。

氏郷は京都より帰ると前から考えていた惣郭の城をやめて、三の丸には塀を掛け、所々に多門櫓
を立てようとしていたが、氏郷が死去してしまったので城普請は中止となった。 今でも会津城で
三の丸には塀も矢倉も無い。 蒲生家にいた結解勘助が浅野因幡守殿へ物語である。


落穂集第五巻終
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