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                落穂集第六巻

         6-1 豊臣政権の奥州一揆処理
天正十九年(1591)家康公は三月下旬に京都より江戸に帰った。 六月初頃奥州の南部大膳
大夫信直の親類家老である九戸修理が主人信直に対して謀叛を企て、九戸に同調する者が
多く信直自身では鎮圧できないとの知らせがあった。 早速奥州へ出陣準備を進める様に
指示し、先発は結城秀康公に榊原康政を添える体制で決まった。

この南部の情報は京都へも届き秀吉卿も様子次第出陣するが、先ずは尾州中納言秀次が
出発する事になった。 蒲生氏郷は在京だったが同じ奥州であり先陣となるため、仕度の為
急に会津へ帰る事になった。 氏郷へ加勢として秀吉卿から浅野長政、秀次から堀尾吉晴が
添えられた(p161)ので、 家康公も井伊直政を氏郷の加勢に任命し直政は早速奥州へ向った。
家康公は七月十九日江戸を出発し、氏郷は配下の二万を率いて七月十四日会津を出発した。
浅野、井伊、堀尾の加勢三人は直接南部へ向った。

九月朔日氏郷の先陣蒲生源右右衛門、同忠右衛門は九戸の籠もる穴太井の城を取囲むと、
叛徒は城中より弓鉄砲を放し厳しく防ぐので、源左衛門と忠右衛門の配下は多数戦死した。 
その日関右兵衛が氏郷軍の後備だったが、城兵等が城より突出して右兵衛の陣を切崩そうと
したが、これを幸と引受て一人残らず討取った。 九戸の仲間である根曽利の城兵が穴太井の
城を救うため三百騎程で駆けつけたが、氏郷の家来田丸中務を始めその他門崖、寺村衆、梅原、
新国上総等と云う者達がそれぞれ攻立て、大半は討たれて残兵は穴太井城へ逃込む。
これを幸と氏郷軍は穴太井の城へ攻込もうとし、この日井伊直政も氏郷と力を競い軍功を尽した。
浅野弾正、堀尾帯刀は搦手へ押寄せ猛烈に攻撃したので城兵全て戦い疲れ落城も見えたが、
夜になり四方の寄手も部隊を引揚げ、翌日早天より城を攻める事になった。 その日寄手の諸将
の部隊が討取った首は千以上になった。 

その夜中、叛徒の将、九戸正実が浅野長政の陣へ来て、主人南部信直の本領が安堵される
なら降参して城を明渡すと云う。 長政が是を受け入れたので叛徒側は城を長政に渡した。
長政は賊将正実と櫛引の両人を三の丸へ呼出して番兵を付けて置き、 城兵数百(p162)人は
矢倉へ上げて火を付けて全て焼き殺した。
この時中納言秀次が三の迫に着陣したので浅野長政は井伊直政と共に南部の反乱が鎮圧された
事を述べ、九戸、櫛引等を引連れて穴太井城攻撃の次第を報告した。 叉降参の両人は当分
会津へ送り、氏郷に預けて秀吉卿の指示次第としたい旨長政は言ったが、 秀次は、私が殿下の
名代として来ている以上、京都へ伺う事は不要という事で九戸・櫛引両人は三の迫で殺害された。
秀次は家康公と相談して奥州方面の制法を定め、 以後平泉を見物して帰陣した。 叉家康公は
岩手沢より古河の城へ入り、十月廿九日江戸へ帰着した。

その頃秀吉卿は木村伊勢守が自分の領地内で起きた一揆を始末できなかった事は失策と云う事
で領地を取上げた。 叉伊達政宗は一揆の者達と内通していたとの噂があるので、政宗の本領を
減らして木村が所持していた葛西、大崎を与えた。 政宗の本領であった出羽の長井郡、奥州の
村塩松、伊達、信夫、新田全てが氏郷の奥州各地における軍功への褒美として与えられた。
この時政宗は自分の旧領が全て氏郷へ恩賞として与えられたのを心外に思い、叉自身が一揆と
同類と云う事も氏郷の報告によっての事と憤り、且つ妬んだ。 そこで旧領である伊達・信夫等の
所々で一揆を煽動して氏郷を襲って討とうとした。 ところが政宗の家来である山田八兵衛と手越
内膳と云う二人が主人政宗に背き、氏郷に属したのでこの計画を通報した。 氏郷は直に軍勢を
向け一揆方の責任者達を捕え、その場で殺害したので間もなく氏郷領分は静かになった。(p163)
註1 穴太井の城 別名九戸城、福岡城、白鳥城 二戸氏福岡町
註2 木村伊勢守 第五巻葛西、大崎の乱の処理

          6-2 秀吉の朝鮮進攻(文禄の役)
天正十九(1591)年三月廿八日秀吉卿は突然関白職を尾州中納言秀次に譲り、自身は大閣と
呼ばれ専ら朝鮮征伐の事を言出し、叉山城国小幡山に新城を建築し隠居所とするとの事である。
文禄元(1592)年の春、秀吉卿はいよいよ朝鮮を征伐すべきとして、 家康公も二月二日江戸を
出発し、京都へ向った。 榊原康政が江戸に残り秀忠公の輔佐をする様にと指示あった。

同月十九日松平下野守忠吉公は武州忍の城へ移るので、前の城主松平主殿頭家忠には下総国
上代の城が与えられたが、其後又同国小義川の城に替った。
註1 松平忠吉(1580-1607)家康四男、秀忠同母弟  忍城:現埼玉県行田市

同年三月十七日、家康公は京都を出発して肥前国名護屋へ向う。 この時秀吉卿は、伊達政宗、
上杉景勝、佐竹義宣、南部信濃等の関東大名は、家康公の指示で後から出船する様にとの事
である。 同廿六日、秀吉卿も京都を出発した。

同年四月十二日、朝鮮国へ先陣として加藤主計頭清正と小西摂津守行長が名護屋を出船して
朝鮮へ渡海した。 その年七月に肥後国で薩摩の住人梅北宮内左衛門と云う者が、清正と行長
の両人留守を狙って一揆を起した。 この事が名護屋へ報告あり、浅野左京太夫幸長が父弾正
の部隊を率いて一揆鎮圧の為肥後国へ派遣される事になったが、秀吉卿は家康公へ、
左京太夫は未だ若いので御家の本多中務忠勝を添える様にと頼まれた。 そこで忠勝も幸長と
一緒に出発する支度をしていたが、一揆の指導者の梅北が既に誅罸され(p164)残党は皆退散
したとの報告があり、両人の加勢は中止となった。

その頃京都から大政所(秀吉母)の病気が切迫していると言う知らせがあり秀吉卿は家康公へ、今
朝鮮征伐の最中ではあるが、実母の病気は特別ですから私は小船に乗って直ぐに帰京します。
その間、朝鮮国征伐の事は貴殿の采配に任せるので宜しくお願いする。 斯く言う以上はどんな
重要な事でも海を隔てた私の方へ相談する事は不要です。 まして他人の思惑を気にする事も
なく貴殿の考えで全て進めて下さい。 浅野弾正を始め他の面々にも私が貴殿に言った事を
心得る様に言います。 と云って五十挺立の関船に乗り京都へ帰った。 秀吉卿が家康公へ采配
を頼んだ事を聞き、皆家康公が秀吉卿に厚く信頼されていると思った

同年四月廿五日京都で大政所逝去した事が江戸表へも連絡あり、 秀忠公は八月十五日江戸
を出発して上京した。 秀吉卿はたいへん是を喜び、京都逗留の間九月九日に秀忠卿は従三位
権中納言に任官となり江戸へ帰った。 尚秀吉卿は十月二日京都を出発して再び名護屋へ向い、
同地で越年した。
註: 名護屋城: 大陸進攻の基地とする為秀吉の命で城が作られた。 佐賀県唐津市

文禄二(1593)年八月三日、秀頼(幼名捨)誕生の知らせが大坂より名護屋へあると、秀吉卿は
大喜びで、今後朝鮮国の事は家康と利家両卿へ任せるので、然るべく指揮されよ、私の在陣は
もう不要と言い、更に朝鮮も沈惟敬との和睦の(p165)交渉が間もなく成立するので、両卿もやがて
帰る事ができるでしょうと言って、又前回の様に小船に乗って上京した。 
その後家康公が名護屋から上洛した時秀吉卿は、永々の在陣でお疲れでしょうから、早々帰国
されると良いとの事で京都を出発して江戸へ帰城した。
註1 沈惟敬 (?-1597) 明人、欺瞞外交で日本の再出兵を招いたとして万暦帝に処刑された

           6-3 名護屋在陣余話
      この名護屋に在陣中の事を次に記す。
その一 浅野弾正の諫止
朝鮮在陣の人々から報告によれば、同国で皆頑張り所々で勝利はしているが朝鮮より明国へ
援兵を求めたので、明国が大軍を準備して近く進軍してくる情報がある。 もしそうなると現在の
日本側の兵数では不足して思う様な成果は挙げられないとの事である。 秀吉卿は腹を立て、
名護屋に在陣している諸将を招き集めて言うには、朝鮮在陣の面々は明国の多勢に対し味方の
人数不足では問題有りと言って来た。 これについては追加の兵を送るのではなく、再度の情報
によっては私自身が渡海して、明国はおろか天竺迄も攻込み 朝鮮に味方する国はどこでも切り
従えずには置かぬ覚悟である。 私が渡海する以上、北陸はもちろん奥州の軍勢迄も出陣する
事になるので、 今度各々方も皆渡海する事になる。 ところで私が朝鮮に在陣した時の留守役
は江戸大納言殿へ任せるので、関白秀次と相談して然るべく処理する事を頼むとの事である。

前田利家を始め伊達、佐竹、南部等は何れも朝鮮へ渡海して外国の連中と一戦を交え、異国に
武名を留(p166)める事は一生の幸と言う。 その時家康公は、今度関東から出陣して以来、若し
太閤が朝鮮へ渡海される様な事態になれば、先ずは私が先陣として渡海しようと覚悟して相応の
人数を連れて来ています。 この名護屋にも諸家の部隊に先立って着陣した事もその積りだった
からです。 私の在国より遠い奥州の諸家迄も朝鮮へ渡海する事になれば私一人が残る理由も
ありません。 まして貴殿が出陣されるなら、私が先立って出船するのが当然と御心得下さいとの
口上である。 太閤は、それは貴殿が私の指示に反すると言う事か、それは貴殿には似合わぬ事
と不機嫌になる。 家康公が同意しないので太閤はたいへん立腹し、一端私が言出した事は誰で
あろうと反対されては天下の政治を執行する私の立場がないと言う。 

家康公はそれを聞くと、仰る通り、通常の国政に関する事では貴殿の言われる事に反する事は
致しませんが、朝鮮渡海の事は武士道に拘るものです。 たとえ勅許や院宣であろうと私が納得
できぬ事には承服できません。 まして貴殿の指図とは言え、末代迄武名の恥ともなる事故
この家康は従えませんと顔色を変えて言い放った。 太閤は益々不機嫌となり一触即発となった
ところで浅野弾正が家康公と太閤の座の真中へ進み出た。 家康公へ向って、今度太閤が朝鮮
渡海の後に残れないと言われるのは良い考えで当然と(p167)感心しました。 昔から人を取ろう
とする亀は人に取られると言いますが、今九州、四国、中国内で体の健康な侍は大方朝鮮に行き
国内の武士は少くなっています。 此の上又今度太閤御自身だけでなく北陸や奥州方面の軍勢
迄も引連れて朝鮮渡海となれば、日本国中益々人が少なくなります。 そうなるとこの機会を狙い
外国が日本を取りに来るか、叉は日本の中でも所々で大きな一揆等が起るかも知れません。

そうなれば大納言殿一人では難儀になる事は確実ですから、その苦労よりはいっそ朝鮮へ渡海
した方が楽と考えられるのは究めて自然です。 この弾正めは始めからその覚悟です。 全般に
最近の太閤には狐でも取付いたのでしょうか、そのため今の様な事を言われるのでしょうから余り
気にかけない方がよいでしょうと言うのを太閤は聞いて、やあ弾正、己れは私に狐が付いたと言う
が何の根拠があって言うのかと咎めれば弾正は、あなた様へ狐が取付いたかと私が言うのは特別
の事でもありません。 数年続いた戦乱で天下の人民は困窮しております。 北条家を退治し、
出羽奥州迄も手に入れられ、日本国中が統一されました。 もはや諸人が戦場で苦労する事も
なく安心できるような政治こそが肝要です。 それなのに是に気付かれず、日本へ対し何の罪
もない朝鮮を征伐するなど又々諸人が苦労する様な事は、あなた様の本心とはこの弾正は思い
ません。 それ故にこれは狐に取付かれたと言うのです、 よくよくお考え下さいと苦々しく言う。

太閤は非常に立腹して、己れ慮外者めと言い(p168) 脇差の柄に手を掛けて立上るところを
織田常真と前田利家の両人が押しとどめ、弾正そこから立去れと言った。 しかし弾正は聞き
入れず、この年寄り命は惜しくもないので、お好きな様に成されるが良いと云い秀吉卿の側へ
にじり寄る。 これを見て家康公が、弾正を勝手へと云ったので、徳永寿昌と有馬法印が座を
立て、弾正を引立て無理やり勝手へ同道した。 この結果家康公と太閤の口論は脇へ行き、
秀吉卿と長政の喧嘩となって終り太閤渡海の件も無くなった。

其後長政は病気と称して出勤をせず全く隠居の躰となっていたが、肥後国で梅北一揆の
報告があり、嫡子浅野左京大夫幸長が若輩ではあるが、その器量があると云う事で一揆退治
の主将に選ばれたので、父弾正長政も止むを得ず出勤した。 
これらの話は徳永如雲斎の覚書の紙面からである。 如雲斎の若い時の名は太郎作と云い、
弾正が名護屋在陣の時もお供していた者である
註1 織田常真 織田信雄隠居名
註2 浅野弾正(長政1547-1611) 秀吉政権の奉行、 この時45歳
註3 徳永寿昌(1549-1612)高須藩主

その2 陣中水争い
名護屋在陣中、 家康公陣所の前に清水が涌いて流れる場所があった。 その清水の側に
小屋を造り番人を置き、外の諸陣から水汲に来た者は番人に断って水を汲む事になっていた。
或時日照が続き、水の湧出が少くなったので、番人が他陣からの水汲みをさせなかったが、
加賀大納言利家の陣所から水汲が十人程来て水を汲むので、番人がそれを制止したが却って
雑言を投げかけた。 番人達は我慢ならず口論になったところ、番人仲間の中間が汲んだ水桶を
ひっくり返し、一滴たりとも汲ませるものかと双方の中間達が掴み合となった所へ(p169)加賀の
家中の下侍が駆けつけ、今迄汲んでいた水だから、汲んで当然と云って喧嘩となり、加賀側から
上下大勢が加勢に来た事が家康公陣中へも知れ、何事とも分らず我も我もと駆け出し、加賀勢も
更に増え、双方の人数は三千程になった。 鎗や長刀の鞘を払い刀や脇差を抜きかけ、将に
勝負をする雰囲気になった。 

そこへ家康公陣所から本多中務、榊原式部、松平和泉の三人と御使番、御目付衆が走り出て、
双方の中へ割って入り喧嘩の制止をした。 中でも本多忠勝は渋手拭の鉢巻、榊原康政は諸肌
脱いで走り回った。 その時物頭の服部半蔵と渡辺忠右衛門の両人は預っている鉄砲同心と
与力を率いて喧嘩の場所ではなく、 加賀利家の陣所近くに待機して組の与力同心を立並べた。
その外の物頭達も我も我もと駈け付け名護屋中の騒動となり、利家方からも上級幹部と見える
面々が早馬で馳付けてきた。 しかし徳川家家老衆が喧嘩を制止しているのも見て間もなく騒ぎ
は鎮まり双方共に引いて無事に収まった。 

その時家康公は陣所の屋敷から喧嘩の始終を見ていたが特に意見は無かった。 収束後、榊原
康政が御前へ出ると、其方が秀忠から陣中見舞いに遥々派遣されたので、接待のため珍しい
喧嘩をさせて見せたが、たいへん骨を折ったなと笑った。 この水争の事が太閤の耳にも入った
のか、その後加賀利家の陣所が替った。

その3 秀吉の大言
名護屋在陣中(p170)、 家康公、前田利家、その外在陣の諸大名方が太閤の陣営で参会の時、
秀吉卿は、家康公、利家の両人を初め其外の衆中も良く聞いて貰いたい。 一般に人間の命は
定めが無いもの故、今進める明国征伐の間にもし私が重病に掛って死んだとしても、関白秀次を
主将として日本勢が一丸となり明国と戦うべきである。 その場合私は鬼神となり黒雲に乗って
天に昇り、身は鉄の楯となって味方の諸軍勢の矢面に立塞り、明国四百余州の奴らを片っ端から
蹂躙して本意を遂げる積りである。 これに付いて柘榴を口に含み火炎を吹出した男の名を何とか
言ったが、と言うので施薬院秀成が側から、それは管丞相と言う公家で今の北野天神の事ですと
答える。 太閤はそれ聞いて、そうだ菅丞相の事だ、菅丞相程度の男さへ自分の一念を通して
雷神となった。 その菅丞相は秀吉の睾玉の垢程も無い男であると云うので、一座の大小名は
すっかり興ざめとなった。
註 管丞相 菅原道真(845-903) 平安貴族政治家、 政敵藤原氏の為左遷されると都に
  祟りが起こったので、天神として祭って祟りを払ったと言う

        6-4 関白秀次の謀叛容疑
文禄三(1594)年正月、秀吉卿は伏見小幡山に新城を造り隠居所にするとの事で、諸国から人夫
を三月中に伏見に集める様に号令をかけた。 このため徳川家では江戸城普請を予定していたが
これを中止して榊原康政の下へ諸役人を呼集めて伏見城普請に登った。 国役等は壱万貫に付
人夫二百人とし、準備の都合上二月中に伏見へ到着する様に言渡した。

同年二月廿七日秀吉卿は吉野の桜見のため大坂を出発、(p171)家康公も同道した。 秀吉卿が
吉野より直に高野山へ登ると言うので、家康公にも登山して後帰京して伏見城普請の見分をした。
松平主殿介家忠を始め其外の奉行の面々へ、関東より上った人夫達に油断させぬ様指示した。

同年九月秀吉卿は妹として、家康公の息女で北条氏直未亡人である西の郡様を池田三左衛門
輝政方へ再嫁させた。

文禄四(1595)年三月十八日、秀吉卿は車に乗って家康公の聚楽の館へ来臨した。 その時の
饗応として家康公より白銀三百枚、小袖百、綿千把、八丈島八百反、褶三百幅、長差の太刀、
馬一疋、秀忠公より白銀三千両、小袖五十、越後布百幅、馬一疋、結城秀康公より小袖三十が
秀吉卿へ贈られた。

同年七月初頃、 関白秀次卿に叛逆の企があると云う情報が秀吉卿に届いた。 そこで増田
右衛門、石田冶部、富田等を聚楽へ派遣してその事実を調査した。 秀次は色々釈明したが
秀吉卿の疑心が晴なかったので、秀次自身も伏見へ参上して、誤りが無い事を説明したが秀吉卿
の許諾はなかった。 仕方なく帰館したところ秀次の家来達が相談して、幸いに今江戸中納言殿
(秀忠)が在京していますから、何となくお招きして人質として取り当座の急を遁れましょう。 その
内に関東へ聞こえれば江戸大納言殿(家康)が上京され、仲裁されるでしょうから、ご身命は無事
となる筈です、と各々が勧めるので秀次も同意した。 

それでは明日早朝に秀忠公の方へ使者を向けようと言う事になった。 その夜中に伏見から緊急
事態との知らせがあったので、急に予定を変えて夜半時に秀次使者は秀忠公宅を訪れ、夜中
ではありますが、急いで相談したい事がありますので(p172)お出で願いたいとの事である。
この時大久保治部太輔忠隣と土井甚三郎利勝の両人は相談して、是は只事では有るまいと察し
ての返答は、中納言は夜前に来客があり、その接待のため大酒で深酔いしておりますので、今の
状態では言っても参上はできませんので、暫く様子を見てから言聞かせますと言い使者を帰した。

両人は秀忠公の前で、この頃良くない噂のある関白殿から夜中急に頼みがあるとは全く納得出来
ないので参上は止めて下さい。 今は静かな場所に居られた方が良いと思いますので伏見藤森の
下屋敷へ移りましょう。 その内に様子も明らかになるでしょうと申上げた。 秀忠公も各々が言う
通りと支度をして内々のお供で出発した。 その時道筋をとうするかとなったが、忠隣を始め数人は
竹田通りが良いでしょうとの事だったが土井利勝は、いやいや閑道へ入るのは良くない、単純に
稲荷海道を何時もの様に行きましょうと云い、本道を通り直接藤森の屋敷へ入った。

その留守に再び秀次卿より使者があり、今お出で下さいとの事である。 取次の役人は、中納言は
今朝伏見のさる人と朝茶の湯の約束が有ったのを忘れており、急に思い出しその方の所へ行き
ました。 帰宅の際には直ぐに御屋形へ伺うと言って居りましたと答えて使者を帰した。 それ以後
は二度と使者も来なかったが、夜が明けると秀次卿の屋形は四方の門が閉められ人の出入りを留
め、蟄居の指図があったという。
この時の事を後日家康公が報告を受け、忠隣と利勝両人の才覚をたいへん誉められたと言う。

同年七月八日、秀次卿は聚楽の屋形を出て、十日の晩方高野へ登(p173)山し、青岩寺へ入って
閑居していた。 昔から高野山は殺生が禁制なので、命に関しては大丈夫と皆が思っていたが、
同十五日に秀吉卿の命令として羽柴左衛門大夫、福永右馬介、池田伊予守三人が登山して奥山
上人に面会し、その趣旨を述べると秀次卿は終に自殺した。(この時廿八歳)雀部淡路守が介錯し
その刀で直ぐに殉死した。 山本主殿(十八歳)、不破万作(十八歳)、山田三重郎(十八歳)も夫々
殉死を遂げた。 又東福寺の僧際西堂も殉死したと云う。 これ以後高野山は科人が遁れる事が
出来ると言う風習は無くなった。
この頃家康公も秀次謀叛の件で上京するため、江戸を出発し七月廿四日伏見へ到着し秀吉卿
へ面会したところ、 秀吉卿は、遠路の所早速上京頂きたいへん満足である旨述べた上で、秀次
が常々不行跡を重ねていた事、並に今度の謀叛の行為等を語った。

七月晦日、秀次の子供(男子一人、女子一人)、抱えていた妾廿余人を荷車に乗せて洛中を
引廻した上三條川原で下々の役人に全て殺害させ、秀次及び二子の首と妾二十四人の死骸を
一ヶ所に埋め、その上に石を立て畜生塚とした。 今(江戸中期)でもこれは残っている。
其時秀次へ悪事を勧めた者達は殺害され、或は自殺し、叉は諸大名方へ預けられた。 家康公
の方へも一柳右近将監が預けられた。

同年九月七日秀吉卿は浅井備前守長政の娘を養女としていたが、秀忠公へ嫁がせた。
註: 秀吉側室淀の妹、江又は小督(1573-1626) 秀忠正室(八歳年上)、家光、千姫の生母

慶長元(1596)年五月八日 家康公は内大臣に任ぜられて、同十一日(p174)参内する。
同月十三日秀吉卿の息男捨丸(その時四歳)を権中納言に任ぜられ秀頼と号する。秀吉卿父子
は車に乗り参内した。

同年閏七月十三日の夜中0時頃、 大地震が起こり大地が裂けて水が湧出す。 京都や伏見の
大居宅をゆり崩し死去する者無数で、洛陽大仏の像等も崩壊した。 中でも伏見城中の地震は
強く、大殿が崩れて上臈や女房七拾二人、中居の下女達五百余人が死亡した。 この時家康公
の屋形も所々崩れた家が多く、 家臣の加々爪隼人正が押つぶされ死亡した。
註 加賀爪政尚(隼人正1562-1596) 家康近習

           6-5 再び朝鮮に進攻(慶長の役
慶長元(1596)年九月、朝鮮国と和平に関し明国より使者が来たが、その書簡の内容は秀吉卿の
意に沿わず、又朝鮮国王の太子も来朝がなかったので立腹して使者を帰し、再び朝鮮国へ渡海
の準備を命じた。 京都や伏見では将に浅野長政が言った様に、太閤には狐か狸が取付いたと
思えると貴賎共に囁きあった。

同十二月五日 家康公の家臣久野民部少輔宗秀と三宅弥次兵衛は遺恨から決闘して双方共に
その場で死んだ。 その時宗秀の老父久野三郎左衛門は出家して宗安と名乗っていたが、倅の
民部に頼っており老後の悲歎が大きい事を家康公が聞いて不憫に思い、下総国に千石の地を
宗安に与えた。 諸人是を聞き伝えて家康公の情け深さに感心した。

慶長二年(1597)正月廿五日加藤主計頭清正と小西摂津守行長は船の纜を解いて再び朝鮮へ
渡る。 その外の諸軍勢は二月になってから出船する様に秀吉卿は申渡した。(p175)

同年七月秀吉卿は前田玄意法印を呼んで、去年七月の大地震の時、大仏殿の本尊が崩れた
のは即ち土仏だからである、 今迄あった本尊が無いのもどうかと思うので今度は奈良の大仏の
様な金仏にしたいが今迄の堂では鋳物は難しいだろうから、木仏で建造する様にせよと言う。 
そこで玄意法印は京都中の仏師を呼集めて検討させた処、 仏師達が言うには、精確に測定して
作ればどんな大仏でも出来る筈ですが、今迄その様な大仏を造った事がないので確実に出来る
保証はありませんと言う。 この趣旨を玄意が伝えたところ秀吉卿は、仏師達の言う事も分るが、
今の堂を毀して金仏を鋳立てるのどうかと思うので思案するとの事である。 その後再度玄意を
呼出し、今の大仏殿に相応の本尊を思い付いた、信濃国善光寺の如来を持って来て大仏殿
の本尊とするとの事で、崩れた仏像を全て取り払い、その後に善光寺の如来を移し洛中洛外の
諸宗門の出家を呼び集めて供養をする様にと言う指示となり、 玄意法印はそれを実行した。
註 前田玄意、豊臣政権下の京都所司代、五奉行の一人、 徳善院、法印、丹波亀山城主

同年三月十二日、秀忠公は武蔵国稲毛へ鷹狩りに出掛けたが急に病気となり、江戸から医師や
老中、近習達が早馬や駕籠で駆けつけ、江戸中が混乱した。 しかし疱瘡だと言う事で段々快癒
したが、この事が宿継の飛脚で京都へも報告されたので、家康公も大変心配した。 そこで見舞い
として永井弥右衛門を江戸へ下らせたが、四日で稲毛の屋敷に参上した。 家康公の口上を
伝えるため(p176)秀忠公の御前へ出ると、容態も快いと言う事を宜しく伝えて欲しいと小袖等拝領
した。 早速弥右衛門は稲毛を出発して、同月二十五日には伏見へ帰り、容態についての医者の
言上など含めて報告した。 家康公はたいへん御機嫌で、弥右衛門が短時日で往復した事の労を
ねぎらった。

慶長三(1598)年正月二日、家康公は急に石清水八幡宮へ社参するので、お供の侍や付添い迄
忌服に改める様に指示があり、家中の上下の人々は不審に思った。 将来についての夢相により
参詣されたのだ人々は言うが、その詳細は誰も知らない。
此夜江戸で米津清右衛門の妻女が夢を見て一首の歌を詠んだ事が後日分った。
 盛りなる 宮古(みやこ)の花ハ散果(ちりはて)て
  吾妻の松ぞ代をハ継きける
註1 夢相 手相と同じように夢で吉凶を判断する
註2 歌の意味は京都の豊臣家の滅亡と関東の徳川家の代を継ぐ繁栄を暗示するか。

           6-6 蒲生家の所替および余話
慶長三(1598)年二月九日、 蒲生藤三郎秀行は親父氏郷が秀吉卿より拝領した百万石の領知を
全て放され、替りに下野国宇都宮に十八万石を拝領して所替となった。 この為会津の大家中は
上下共に肝を潰し大へんな混乱となった。
この秀行の所替に付いて一説があり、私聞き伝えた事をここに書き記す。 但し真偽は不明。
  
氏郷の家来に蒲生四郎兵衛と言う者が居たが、彼は元は赤座隼人と言い氏郷とは昔からの由緒
もあり、人物も利発で戦場での活躍も少なくなかった。 そのため氏郷に気に入られて次第に出世
し、 氏郷が大身になると四郎兵衛にも高知行を与えて松崎と言う所の城主に任命(p177)した。 
今では旅家老等と言う役割で、氏郷が在京の時は毎回お供して上方で瀬田掃部を始め、公儀の
役人とも親しく付合い、蒲生家にこの四郎兵衛が無くては為らぬと、諸人は持てはやした。 しかし
氏郷は良将だったので見抜いていたか、領内の大切な賞罰には四郎兵衛を関与させない様に
していた。

ところが氏郷が不慮の死を遂げ子息秀行の代になると、全てについて氏郷以来の手づるである
石田三成の内意を伺うのが常となった。 そのため四郎兵衛が上方の公儀周辺との付合いに
馴れており、外の家老達は余り関与しないので四郎兵衛の威勢は次第に増長して我侭な振舞も
出てきた。 しかし誰も四郎兵衛を押さえなかったが、唯一亘八右衛門と言う氏郷時代からの会津
惣奉行の重職にある者が、 四郎兵衛のやり方が良くないと蒲生源左衛門始め其外家老へ内々
で報告した。 四郎兵衛のやり方では秀行が成長して自身で判断できる様になる迄の間が不安で
あると云う事が語られているのを四郎兵衛が聞くと、須賀太左衛門と大塚七右衛門の両人に命じ
八右衛門を殺害させた。 

それ以後全家老達の争いとなり内々では解決できなくなったので、源右衛門を始め筆頭の家老
三人が伏見へ参上して公儀の捌きとなった。 伏見城で太閤が直々に裁許する事になり、在京の
諸大名、諸役人各々が列座する中へ双方が呼出され対決となる。 源右衛門は、氏郷が存命の
時以来(p178)、上下に限らず一人の人を殺すのは大変な罸であり、 どんな身分の低い者でも
死罪の場合は全家老の評議を経なければならないと家法で決まっております。 特に八右衛門は
太閤様も御存知の者であり、其上領内の賞罰を任せてある重職の者であるのに、家老達に相談
もせず、四郎兵衛の一存で殺害する事はできません。 私共が今度当城へ参上するにあたり、
家中大小の諸役人達を集めて細かく検討致しましたが、八右衛門に非があると言う者は一人も
居りません。 それは秀行のため、家のためと言う事ではなく、自分の意趣で殺害させた以外の
何者でもありませんと陳述した。

その時石田三成は蒲生家の担当、浅野長政は月番なので両人は中央に座っていたが、三成は
四郎兵衛に向って、其方の言い分はないのか、 何でもあれば言いなさいと助言したが、四郎兵衛
は一言も言わず謹んで口を閉じていた。 従って弁論は負けになる所だが、四郎兵衛は懐中より
一枚の書付を取り出し、それを目付役人が取次ぎ長政へ渡した。 三成、長政両人が一覧し、
双方共に立つ様にと三成が申渡し各々退出した。 この時太閤は病気の為出座できず、上段の
簾をかけた中で弁論を聞いていた。 三成一人がこの書付を簾中へ持参したが、その後秀吉卿は、
四郎兵衛は重大な落度なので重い罰を受けるべきであるが、助命して加藤主計頭清正へ預けと
すると言渡した。 この頃清正は朝鮮国に在陣しており、四郎兵衛も朝鮮国に向った。

その後藤三郎秀行は(p179)未だ若年と云っても家中の騒動を解決できず、公儀の裁許を請けた
事は、奥州の押へである重要な地に置く訳に行かぬとあり、知行を減らして宇都宮へ所替となる。
その後には上杉景勝が入り大身に取立てられたが、これは全て石田三成の計略だった。 
その理由は三成が智恵を働かせて考えた事は、 太閤の病気は治らないだろう、もし大綱が死去
すれば自分が天下の権力を握る事も可能ではないか。 その時に邪魔になるのは家康公だけで
ある。 特に家康公には蒲生氏郷が付いているので中々難しい相手である。 それならば枝葉を
枯して後その根を断つと言う諺の様に、何としても先ず氏郷を亡き者にしたいと悪意を持った。

そこで氏郷方へ家来同様に気安く出入りしている瀬田掃部という茶人を三成は手懐けて細かく
打ち合せ、氏郷を朝茶の湯に呼んで毒茶を与えたので氏郷はその毒に中り、間もなく病気と
なり死去した。 息男の藤三郎(15歳)への家督相続の時、例の四郎兵衛は伏見へ登り、家の用
の為三成方へ気安く出入りしていた。 三成は四郎兵衛の人となりを観察し、利発者ではあるが
芯の無いお調子者と見届けて目をかけていた。
 
或時四郎兵衛は瀬田掃部を通じて三成へ、 蒲生家は外の家と違い家老級の者が数名おり、
どんな事でも集って相談します。 多数の家老の中には賢慮ぶり我意を通す者あり、又(p180)
又全く無能の者も居るので、ややもすると結論がでない事が多々あります。 
主人秀行が成長する迄の間は行政(賞罰)の家老を二名程公儀より御指名なさらねば、奥州の
押への家柄とは云え、万一の場合秀行は若輩ですから、相談の結論が出ないのではと心配して
おりますと申入れた。 三成はそれ聞くとその通りだと同意し、秀吉卿へどの様に説明したのか、
外の家老達へ相談は不要である、其方一人の判断に任せて一切の賞罰など行う様にと書面
に秀吉卿の朱印を押したものを四郎兵衛に与えた。 前述伏見城での討論の時、最後にこの
書状を提出したので、四郎兵衛は本来は死罪の者だが助命されて流罪となった。

三成には前述の大望があるので、良い相談相手を捜して上杉景勝の家臣の直江山城守兼続
に目をつけた。 彼は右四郎兵衛と違って本当に智恵も才覚も人に勝れ、武道にも達して大器の
生れ付きである。 元来知り合いではあるので先ず親しくなり、それから無礼講と言う事を初めて
近習の者達も除いて二人だけで閑所で会った。 行儀に拘らぬ出会いから次第に入魂になり、
三成が日頃考えている事などを打ち明け、其方の助力がなければ事は成らないなどと頼みこめば
直江は、私を見込んで貴殿がお頼みとあれば命にかけて働く事は毛頭厭いませんが、主人景勝
が今の様な少身では何の役にも立たないでしょう。 せめて百万石以上の身上でなければ、今時
の徳川家などへ(p181)手向かう事はできませんと言う。 そこで三成は当然と思い、何とかして
景勝を大身にしたいと考えた事が始りで、 この謀計により秀行を所替にして旧地を全て景勝へ
与えた。
この話は関ヶ原の戦いの頃より世間で語られていたと、徳永如雲斎が書留めている。

瀬田掃部が氏郷へ毒を盛ったと言う事に関連するが、 或時家康公が茶室の管理者を呼んで、
瀬田掃部が細工した茶扚を取集めて持って来る様にと言われたので持参すると、六七本程筒に
入ったものを自ら節の所より折って、これを捨てる様にとの事だった。 それは氏郷へ毒を盛ったと
いう世間の噂は事実で、そのためにやはり掃部が下手人と思われたのでは、と近習達は噂した。
氏郷は掃部方で毒を盛られたとは思っていないが、その前日伏見の城へ上った時、太閤が饅頭を
出したのを一ツ二ツ食べたので、もしや毒の入った饅頭かと思ったか、病中の歌に以下がある。
       限りあれば 吹かでも花は 散ものを
         心せわしき 春の山風
註1.蒲生秀行(1583-1612) 氏郷嫡子
註2.直江兼続(1560-1619) 上杉家家臣

          6-7 太閤秀吉の死去、大陸から撤兵
慶長三(1598)年四月、羽柴筑前守利家(前田利家)は従三位に叙せられ権大納言に任せらる。
同六月二日、太閤の病気が重いとの知らせがあり、家康公、秀忠公其外在京の諸大名が城に
登り病状を伺う。 医師達より快気は難しいとの説明があった。

同六月十六日の夜に入り、伏見中が何故か騒々しいので、藤森辺に在宅の家臣上下共に伏見
の家康公宅付近に集った。 家老達が御前へ出ると家康公は井伊直政へ、この騒動は当(p182)
所の騒ぎでも無い様だ。 京都の方を見ても夫ほど大事の様にも見えないが、空が明るい様に
思えるので早々見に行かせよとの事なので、直政自身が馬に乗って駆け出して稲荷辺行ったが、
京都近くなる程一段と物静かになる。 そこで早々帰ってその旨を報告している中に伏見中の騒ぎ
も止んだ。

この事は後日判明したが、その頃京都大仏殿の本尊が必要となり、太閤の指示で信濃より善光寺
の如来を運び本尊に据えた。 元来善光寺の如来ハ華やぎを嫌うのに無理に移設するのは仏意
に叶わないから罰が中ると下々で噂していた。 これが上にも聞こえ北の政所を始め、淀殿等
から早々送り返す様にと催促があり、急にその夜返す事になった。 その夜京都を去る仏像に京中
の人々は名残を惜しみ、至る所で灯りを一ツ二ツ宛燈した。 これが空に映り少し明るくなり、人声
などもあった事によると言う。 これは米村権右衛門の話である。
註:北の政所 秀吉正室おね(1547-1624)後の高台院

七月八月の両月の内、二度に渡り秀吉郷は家康公を呼び、私の今度の病気は快復しないだろう、
もし私が死んだら天下の政事は貴殿に任せると、皆に伝えて置くのでその積りに願いたいと特別
に頼みがあったが、家康公か堅く辞退した。 そこで幼年の秀頼卿へ天下の政務を譲るには、
今の侭では不安があるので家康公を始め、前田利家、毛利輝元、浮田秀家、上杉景勝を五大老
職と号して天下の大政を司る様にとあった。 そして浅野長政、前田(p183) 徳善院、増田長盛、
石田三成、長束正家を五奉行として天下の大事は五大老が執政し、其外の雑事については全て
五奉行の相談で進める事、又中村一氏、堀尾吉晴、生駒親正の三人は中老と名付けて、五大老
と五奉行の間で確執等あった時にこれを仲介して収めるものとした。

八月九日になると秀吉郷の病気は更に重くなり家康公と前田利家を寝所に招いて、私の病気は
日々悪化しており快復の見込はない、死去した場合は暫くこれを隠して私の命令として、浅野弾正
と石田治部の両人を朝鮮に派遣して、彼地に在陣している軍勢を残らず帰帆させたい。 しかし
最新の朝鮮情勢が不明なので、若し撤退できない旨の報告が両人からあれば、両卿の中どちらか
一人渡海して、朝鮮国内各所に在陣する諸軍勢を一所に集め大軍を編成して、明国軍を切崩し
一手並み見せて頃合を見て撤退する様命令されたい。 又利家には相談しなかったが、今度
私の病気の事もあり、二度に渡り内府(家康)へ相談したが引受けない為、止む無く幼年の秀頼へ
天下を譲る事にした。 秀頼は未だ幼年で成長にも不安があり、その上無事成長してその能力が
どれ程かも心配であるので、秀頼が相応の人に育つ様に利家に任せる。 又秀頼が幼年の内は
天下の政治は内府郷へ任せるので、如何様にも取計らう様にと遺言があった。

家康公と利家郷は共に(p184)挨拶してその場を立った。  家康郷は利家郷へ向って、太閤は
秀頼の事を心配している様に見えるので、貴殿と私が一筆を認めて披見に入れてはどうでしょうか
と云えば利家郷も、なるほどそれは良いお考えだと云い、両卿から神誓文を出したところ秀吉郷
は大へん喜んだ。 家康公と利家郷の神誓文は、今日云われた事は全て承知しましたとあり、
残る三老からの神誓文は翌十日の日付で今日という文言は無い。 宛名は五大老共に秀吉郷宛
である。五奉行、三中老は同役連名で家康公と利家郷宛である。 これらの事から同じ五大老と
云っても家康公については、太閤の信頼は特別だった事は間違いない。

同月十日京都東山にある将軍塚が烈しく鳴動して、丹波亀山淀の城内迄もその鳴動が聞こえた
との事で、京都や伏見では貴賎共に不安を感じた。
同月十八日前関白豊臣秀吉郷は山城国伏見城で薨去した(行年六十三)。 しかし遺言で当分
喪は伏せ京都東南の阿弥陀か峰に葬ったが、奉行の前田徳善院および高野山奥山上人が
密葬を執り行った。
註1 将軍塚 円山公園の華頂山頂大日堂境内にある円墳、 坂上田村麻呂伝説
註2 阿弥陀が峰 京都市東山区、 豊国廟、豊国神社、方広寺もある

同月十九日の早朝、石田三成は浅野長政へ、太閤からの指示で家康公へ宇治の白茶と言う
銘茶一袋と淀鯉二本を貴殿の手紙を添えて送る様に言われた旨相談した。 長政はそれを聞き、
いくら当分発表はしないと言っても太閤は昨昼他界されたのだから、これは後日の為にも宜しく
ないと返答した。(p185)三成は再度、その事はもっともであるが、当分内密と言う事の確認でも
あるからと言うので長政は三成の主張に任せた。 ところが十九日の十時頃このお礼と容態見舞
として家康公は秀忠公も同道して登城すべく途中迄来たところ、 石田の家来八十島道与斉と
言う者が道脇で下座している。

家康公の顔見知りの者なので言葉をかけた時、 道与は刀を外して家来に持たせて駕籠脇で
何か用ありげにしているので御側衆が尋ねると、私は石田治部少方より使に参りました、直接
申上げたい事がありますと言うのでその旨伝えると、 駕籠を据え、御供も遠ざけ、道与と呼べば
道与は脇指も外して駕籠近く這いより、太閤は昨日昼時前に薨去されましたが、当分堅く内密に
という御遺言通りにしております。 あなた様も御存知ない事にして風気などと仰られて御登城
には及びません。この事を直接申上げる様に石田から申付かりましたと口上した。

家康公は全て心得た旨返答し、そこから父子共に帰館した。 その頃秀忠公は関東へ下向の
予定だったが、太閤の病気が重態という事で逗留していたが、今日の昼立で早々江戸へ向う
様にと指図があり急ぎ支度を調え出発したと云う。
其後太閤薨去の発表があり、在京の諸大名が各々伏見の城へ上り秀頼郷へ悔を述べた。
其時 家康公は利家郷と相談の上、太閤の遺言の趣旨を浅野長政と石田三成へ伝えたので
両人は朝鮮への出陣準備をした。(p186)

九月十六日浅野と石田は大坂を出船して名護屋へ向った。 その時家康公は利家郷へ向って、
此度長政と三成が行き、朝鮮在陣の軍勢が間違いなく撤兵できれば喜ばしい事です。 もし撤兵
が難しいと報告あれば、我々が渡海する必要がありますが、前もって在国の家中の者達に準備
をさせて置かねばなりません。 利家郷は、その際貴殿は上方の事を放置して朝鮮へ渡海する
訳に行かないでしょう。 太閤の御遺言も両人の内一人と言われたのですから私が行きますと。 
家康公は、おっしゃる事は御尤ですが、朝鮮の様子がどうなるか分りません。 もし直ぐに解決
しない時は朝鮮国の寒気は強いと云いますから、御老躰で特に病身の貴殿ですから大変です。
私は貴殿に比べて歳も若く当座病気もありませんので、先ずは私が渡海する予定で準備なども
指示する覚悟です。 何れにせよ朝鮮に渡海した両人からの報告次第ですから、その時に又
貴殿が行くか、私が行くかは相談しようと言う事になった。

家康公は井伊直政へ指示して総勢三万程で渡海を準備させた後、籐堂佐度守髙虎を呼び、
先日浅野弾正と石田治部の両人が下向したが、其方も朝鮮へ行って彼国に在陣する人々が
早々帰国出来る様に工夫する様にと指示した。 その日夕方髙虎方へ使者を派遣して、近日中
に出船すると思うが、今朝相談した事で追加が(p187)あるので今夕か明朝来て欲しいと伝えた
ところ、 留守居の者が、髙虎は御館より帰ると其の侭支度をして先刻出船しましたと言う。
使者が帰ってその旨報告すると、家康公は手を打って伺候の人々へ、あの佐渡守は私が知った
時は与右衛門と言う小身者だったが、太閤に見出され段々と立身出世しただけの事はある。 
万事素早い様子は只者ではない、若い者達は後学の為に彼を見習うが良いぞと言われた。
著者註 この話は今では籐堂家でも誰も知る人が無いが、 松平右衛門大夫殿が話していたと
永井日向守殿が語った事が浅野因幡殿覚書の中にあるので書き留めた。

さて髙虎が名護屋へ到着したところ浅野、石田両人も彼地に逗留しており、両人は髙虎へ、我々
は朝鮮へ渡海する積りでいたが、調度彼国に在陣する人々からの連絡では、島津兵庫頭義弘
が薩摩の大軍を率いて渡海して、明軍と手合わせの一戦で勝利して猛威を揮った。そのため明軍
は其威勢に恐れて全て撤退した。 そこでこれ幸の頃合と皆相談して近日帰帆すると言う。 我々
両人はそれを聞いて安心したのでこれから上京する相談をしていたとの事である。 髙虎も、では
私も渡海する必要はありませんと云い三人共に伏見へ帰り報告した。

家康公は大へん喜び、その後又(p188)徳永法印寿昌と宮城長次郎豊盛を呼び、両人が朝鮮へ
行き、在陣の諸軍勢を早々帰朝させる様にと指示した。 両人が渡海して諸大名方へ指示を
伝えたので、指示に随い十一月になって残らず博多の港へ帰帆し、伏見へ参内して秀吉郷他界
の悔みを述べ、早々朝鮮にて明軍との戦いの様子など報告した。 その時家康公は、島津義弘
一人の働により日本の諸軍勢が全て無事帰朝できた事を感じ入り、前田利家郷と相談の上、
恩賞の地を与えてはどうかと五奉行列座の中で諮った。

それに対し石田治部少は、秀頼様の代に至って初めての賞罰ゆえ、三人の大老方へも御相談
されたいと言うので家康公は、別に私から相談するものでもなく、奉行方より話してはどうかという。
そこで奉行より趣旨を説明したが、浮田秀家は全く同意せぬ口縁で、毛利輝元、上杉景勝両人
からは返事がない。 その旨五奉行の面々が報告したところ家康公は、秀頼卿は幼年であるから、
十四五年も経なければ自身の判断で賞罰は無理だろう。 賞罰は国家政道の根元であり秀頼が
幼年だからと言って功ある者を褒賞しないのは、犯罪の者を罰せずに置く事になる。 それで
政道が立つと各々思われるかと言えば、前田徳善院は、おっしゃる通りと私めは思いますと言う、
(p189)増田長盛は、 太閤様が御在世なら今度の加増は十万石以下ではないでしょうに、
島津忠恒は不運でしたと云う。 その時石田治部少輔はたいへん赤面している様に見えた
と浅野長政雑談が徳永如雲斎覚書にある。 その後島津忠恒へ四万石恩賞の地が与えられた。

同年十二月初め頃から秀頼卿を大坂の城へ移すと言い、大坂城中の修理や掃除等の指示が
あり、諸大名の居屋敷もその支度で多忙である。 十二月になって五奉行の面々が家康公へ、
故太閤様は常々のお考えもあり、当月中に秀頼様を大坂の御城へ入れたいと北の丸並び淀殿の
お願いですと言う。 家康公は前から聞いてはいたが、知らない立場で五奉行衆へ向って、夫は
余りにも急な事ではないか、故太閤の薨去から日も経ず諸国への聞へも良くない。 仮令大坂へ
移られるにせよ来年八月迄は延期するのが自然ではないかと私が言ったと伝える様にとの事で
この件は中止となった。
註: 秀吉遺言時の政権幹部の年齢
五大老 徳川家康 55歳 前田利家 60歳 浮田秀家 26歳 毛利輝元 45歳 上杉景勝 42歳
五奉行 浅野長政 51歳 前田玄以 59歳 石田三成 38歳 増田長盛 53歳 長束正家 36歳
三中老 中村一氏 不明 堀尾吉晴 54歳 生駒親正 72歳

落穂集第六巻終
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