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               落穂集第七巻

      7-1 家康対四大老、五奉行の確執(p193)
慶長四年(1599)正月元旦は秀頼卿が家督相続して初めての儀式であり、在京(京都)の
諸大名や小身の面々も共にそれぞれ伏見城に登り秀頼卿へ新年の挨拶を述べた。 
その時前田利家卿は上段へ上り、秀頼卿を自分の前に座らせ、時々は膝の上へも抱上げ、
その威勢は格別に見えた。 家康公が着座に続き毛利、浮田、上杉の三大老も順に着座し、
その末座の方には前田玄以法印、浅野弾正、増田右衛門尉の三人が列座し、石田三成、
長束大蔵の両人は儀式全体を取仕切っていた。 

その時同じ五大老の人々の中でも内府公(家康)は秀頼卿の名代で且つ後見である事から
誰が指示した訳でもないが、本丸(p194)で新年出仕の儀式が終わると直ぐに家康公の屋形
へ皆が参上して年始の祝賀を述べた。 利家卿を始外の大老、奉行衆へ正月二日か三日に
自由に挨拶するのが常であり、家康公の威勢を外の大老の面々は妬ましく思っていた。

同月六日、五奉行の面々より家康公へ申し入れがあり、秀頼卿の大坂城への引越しは貴殿
からの御指示で旧年中は取りやめましたが、この伏見城は秀頼卿の成長のために良いとも
云えず、前の大地震の時には大勢の女中が押しつぶされました。 又太閤が薨去した場所でも
あり、不吉が重なっています。 この事を北の政所(秀吉正妻)や淀殿(秀頼生母)が気にして
居られ、一時も早く大坂の城中へ引越したい意向を伝えた。 家康公は、昨年にも各位に云った
通り、故太閤の一周忌後にしたいのだが、 女性方より熱心に言われるのであれば、駄目とも
云えないと云う答えであり、来る十日引越しと日取りも決まった。 秀頼卿移動に伴い、前田利家
を始め諸大名は皆従い大坂に引越した。

家康公も見送りとして大坂へ下り、 片桐市正の屋敷へ泊まり十二日に舟で伏見へ帰館した。
その時迄は北の政所、松の丸殿なとも伏見の城中に住居があったが、 北の政所は京都へ出て
上立売に居住した。 又松の丸殿ハ当分大津の城中へ移り、その後は彼女も上立売辺に居住
した。
註1 松の丸 京極龍子(?-1634)、秀吉側室で淀に次ぐ地位、 大津は実家
註2 片桐市正(旦元1556-1615) 元は浅井長政家臣、豊臣家臣

同月十九日 家康公は有馬法印方を訪問、 饗応として能興行が催された。 其日の晩方になり
井伊直政も参加して暫く閑談した。 直政が帰宅した後家康公も、何時もなら夜中迄も(p195)も
付合うのだが、用がありお暇すると云い立上り帰館した。 そこへ籐堂髙虎の訪問があり暫く閑談
して帰っていった。 その夜中より伏見中が何となく物さわかしくなった。
註1 有馬則頼(1533-1602)播磨出身、20代で剃髪、秀吉の武将、江戸初期摂津三田藩主

同廿一日四大老、五奉行中からの使として安国寺瓊長老、生駒雅楽頭、中村式部、堀尾帯刀
の四人が家康公の館へ参上して、内府公は先君の御遺言の趣旨に違反された。 私に婚儀を
結んではならないのと第一条にあるにも拘らず、伊達、蜂須賀、福島なとに内々で縁組を許す事
はとんでもない事である。 この様な事がこのまま見過ごされると思われるべきでないと云う。
家康公は、私は先公(秀吉)の遺言の趣旨に違反したとは思わない。 その様に云う各位こそ
秀頼卿の後見に先公が遺言した私に対する違背と見え、最近にあり得ない事と私には思える。
縦令私の政務の執り方が悪く、秀頼卿の為には良くないと云う事であれば、先公の遺言もあり、
余り目立たぬ方法で内談の方法をとる事も幾らでもできる筈なのに、 何故各位を使いとして表
立って意見を述べるなどは秀頼卿の事を大切を思う大老や奉行達のやる事とは思えない。 

どうしても受け入れないと云うのであれば、私は隠居して関東へ帰り、代わりに武蔵守(秀忠)
を当地で勤めさせる考えである。 その時私の隠居願は誰に出すのか、幸い各位は今度の使いを
する位であるから御存知と思うので、どのようにでも指示して欲しい。
それから家康公は安国寺へ向かい、 貴殿はいつから三人と(p196)同職(中老)になられたか、 
この私は全く知らない事である。 一般に老中とか奉行達から私へ用事があるのは政治向きの
事である。 その職にもなく出家の者が三人の中老同様に行動する事はとんでも無い事である。 
今日の所は目こぼしをするが、二度とこの様な事で私の前に出たら、それなりに処罰するので
覚悟する様にと厳しく言渡した。
著者注 これらの事はその時代の事を書いた書物にも概略は載っているが、 家康公が安国寺を
  叱ったという事は見当たらない。 この咄は堀尾吉晴が当日家康公の館へ参上した時、 様子
  を心配した吉晴の家来達が屋敷に詰めて待っていた。 帯刀は戻ると外の話はせず安国寺
  長老が我々と共に内府へ面会したが、用が終わった後内府が機嫌を損ない安国寺を厳しく
  叱り付けられた。 長老はどうした事か真っ青になってわなわな震えるという体たらくで本当
  に長老かと少しあわれにもなった。
  又おかしく思ったが、我々が同時に座を立って門外へ出ると、安国寺が我々三人の側へ寄り、
  皆さん御覧の通り内府はあれですと囁いた。 それを中村式部が聞いて、我々は我々の立場
  があるので嫌でもやらなねばならぬ事もある。 貴殿は僧体なのだから縦令誰に頼まれよう
  とも断れば良いのに、無用の事に出しゃばるからこんな事になる。 私なぞは初めから余計な
  事と思っていたと云われ赤面して帰った。 彼は大変な知識人と聞いていたが道義は少しも
  無く見えたと語った。。   
  この話は速水咄斎が若い頃、出雲の松江で堀尾吉晴時代の老人達の雑談で聞いた由である。
註1 安国寺長老(恵瓊?-1600) 毛利家の外交僧、此の時は輝元の指示か、関が原役で斬罪

その頃榊原式部太輔は井伊直政と交代で伏見在番のため江戸を出発し、交代の侍達も連れて
伏見に向かっていた。 近江国瀬田辺りで上方の騒動の事を聞き、それからは早馬に乗かへて
昼夜の別なく走り通して直に参上し乱髪の侭で御前に出たところ、 家康公はその様子を見て
たいへん喜び手ずから熨斗目(小袖)を康政に与えて、前述の大老、奉行からの申入れの概略を
話し、早々帰宅して休息する様にと云った。 
その時本多佐渡守正信にも内意があり、伊那熊蔵忠正、大久保十兵衛、長谷川七左衛門等と
同道して伏見へ登る事になっていたが、伏見の変を聞て各々が一騎かけに馳上った。 夫までの
在番の面々も其侭居残る事になり、上下の屋敷内だけでは居場所がなく近辺の町屋や近在の
民家を借りて宿泊した。 そのため巷では何と大勢の人数だと噂になった。

家康公に三老中が申入れた時、伊達正宗、福島政則、蜂須賀主鎮の三人の方へも縁組の咎め
があった。 正宗は、内府公の息男上総介忠輝へ私の娘を欲しいと云うのは、堺の町人今井宗薫
と云う者が私の家老達に相談が有った事で私ははっきりは知らないと答えた。
蜂須賀は小笠原兵部太輔秀政の娘と縁組決めたとそのまま答えた。
福島政則は、 牧野右馬丞康成の娘と縁組するのは、私は秀頼卿の縁故の者と関係もあるので
内府公が親になるのは秀頼卿の為にもなるかと思うので縁組を進めたと答えた。(p198)
著者註 秀頼卿の縁故の者との関係とは、福島政則の父は尾張国二寺と云う所の住人であり
   新左衛門と云ったが、是は秀吉卿の父、木下弥右衛門と腹違いの兄弟との説がある

この様な状況で大坂と伏見の間で様々の情報が乱れ飛び、四大老、五奉行それに西国大名等も
加わり、近い内に内府の館を攻撃するという噂迄あり世間は騒然となった。 そこで日頃家康公に
親しく出入りしている織田有楽、京極高次、福島政則、池田輝政、黒田如水、同甲斐守、藤堂高虎、
羽柴右近太夫、有馬訪印、金森法印、新庄駿河守、浅野左京太夫、細川越中、大谷刑部、その外
の小身の面々は内府公の館へ集り、昼夜の別なく詰めていた。
著者注 この時新庄駿河守屋敷は家康公の館の隣だったので、 前述見舞に来た人々の供の
  者達を夫々の主人から頼まれ、屋敷内に収容したので長屋から座敷、書院、勝手迄も活用して
  屋敷内は隙間がない程であったと駿河守代の家来が越前守に語り、越前守が中西与助へ度々
  雑談していた由を与助が作者(友山)に語ったが、この時の騒動に間違いない。
註1 新庄駿河守(直頼1528-1613)常陸麻生藩初代、越前守(直定1562-1618)
註2 羽柴右近大夫(森忠政1570-1634) 江戸時代信濃川中島藩主
註3 織田有楽斎(長益1547-1622)信長弟、茶人

その頃堀尾、中村、生駒三人の中老は集って、我々も故太閤の遺言を預かった身として今度の
騒動に無関係とするのは本意ではないし、外から批判される事にも成りかねず、調整できず
とも一応やる事はやろうと相談した。 中でも堀尾帯刀は特に尽力して、井伊直政を招いて、
三人が相談して(p199)解決の為に努力する心積もりだが、内府卿のお考えが分からないので
御内意を伺いたいと云えば直政は、皆さんがその様な相談をされていると内府が聞けばさぞ
喜ぶでしょう、  私共としても有りがたい事です、お考えの様に内々で解決する様にお取計らい
下されたくと云うので吉晴は、貴殿がその様に思われるなら猶更内府卿にお伝え下さいと云うと
直政は、その件を内府へ伝える必要はありません、 先日皆さんがお出での時以来、内府が思う
のは太閤様が薨去して間も無い上に御幼君の時代であり気の毒とは思いますが、向うは四大老
と五奉行が同盟して、こちらは内府一人ですから、公義の為に大切とは思っても降参した様な
口上を内府が云う訳はありません。 この上は止むを得ないと覚悟を決めております。
皆さんのご尽力で無事解決すれば内府は喜ぶ事は間違いなく、それはこの直政が請負いますと
答えた。

それではと三人の中老は相談して大坂へ下り、四大老と五奉行列座の中で三人は以下述べた。
先日大名衆の縁組の件に付き、 皆さんが相談の上で私共が内府卿へお使いとして上がって
以来、 ここ大坂は勿論、京伏見共に大変な騒動となっており又諸国の噂になっています。
これに付いて私共は故太閤の遺言を承っている立場であり、双方の間に入り解決に尽力したい
との気持ちから失礼を省みず一通りを述べます。 
太閤様薨去後間も無く、その上秀頼様は御幼君ですから、天下が静謐に治って物静である様な
政治こそが肝要と云われるべき時に(p200)、縁組程度の軽い事を咎められ、御幼君の後見と先公
が定められた内府卿と今後皆さんが話合いもされなくなれば、どんな不都合が起るかと三人共に
気づきました。 しかし既に皆さんが一決した事であり、我々がとやかく言う事もできず、取り合えず
お使いとして行き、内府卿からの御返答も報告致しました。 
前にも述べました様に、時節柄の事ですから、これ以上は何事もなく和睦なされ、世の中が物静
にあって欲しいと私共は考えます。 この事に皆さんがご同意頂けるなら、私共は太閤様の遺言
の通り仲介に力を尽したく存じます。

この時前田利家は病気の為出席しなかったが、その外の三大老と五奉行は三人の中老の意見に
同意するので、その通りに解決する様にとこの評議は終わった。
尚五奉行列座の中で石田光成が申出たのは、三人の方が円満に解決したいと云われるのは結構
であり我々もその意見に任せたい。 しかし問題が是ほど迄大きく成り、更に先日内府の答えにも
自分の誤りという口上は全くなく、これを其の侭にするのは我々の本意ではないと云う。 すると
同役の増田右衛門尉は、そこの所だが、先日大谷刑部少輔が私の所へ来て云った意見は、
一般に婚姻を行う時は身分が高くても低くても先ず事前に十分話合いを行って後に公儀へ届ける
ものです。 又内々で打合せを行うにしても今度の三家の縁組は内府卿の承諾が無ければ進まぬ
事ですから指示は必要なものです。 その上内府卿は秀頼卿の御名代で有る以上、外の大老
や奉行に相談しなければならない事でもありません。 縦令内府卿に誤りがあったとしても三中老
(p201)を使いとして表向に責める様な事とは思われず、私(長盛)が止めなかった事は油断だと
大谷は云っている。 貴殿と大谷は親しい様だが彼の意見も聞いてはどうかと増田長盛は答えた。
著者註  この時の事を記した書物等では石田一人が同意せず、是非伏見へ上り家康公の館を
   攻めようと云ったが、増田右衛門が強く反対して押さえたなどとあるのは恐らく前述の事を
   書記したものと思う。 私の考えでは若しや浅野長政が云ったのではないかと、徳永如雲覚書
   から読取れる

さて堀尾、中村、生駒は大老、奉行の和睦の趣旨を纏めて、三人同道して伏見へ上り井伊直政
及び榊原康政の両人へ伝え内府卿に報告したところ、前に直政が請負った様に三人衆の尽力
を感じて家康公は四大老及び五奉行宛てに三ケ条の誓文を渡した。 そこで早速三人は大坂へ
帰り、四大老五奉行から連判の誓文を受取り、堀尾吉晴が伏見へ持参した。 双方の誓文は
三中老の手元に預り問題は解決し、以後世上も物静かになった。

内府卿の誓文の書出しは、今度の縁組の事については御断の通り承りました、以後は遺恨は
ないとあり、 九人衆からの誓文は、今度縁組に件に付き御断申入たところ、早速御同意戴き、
以後遺恨はありませんと認め、四大老の名は二字上って五奉行と共に九人連判との事である。 
これ以後五奉行の面々は以前の様に一人宛交代で伏見へ詰める事になった。

この時本多佐渡守正信が家康公との閑談の序に、浅野長政(p202)とは今でも替わらず親しく
して居られますかと尋ねた。 家康公は、私の気持ちは何も替わっていないが、長政の気持ちは
何か前と違って見えるぞと云われるので佐渡守は、他の人は兎も角、長政に限りその様な事は
ないと思います。なにか理由があると思いますので私が尋ねて見ますと云い、その晩正信は
長政方を訪問した。 長政は、貴殿よく聞いてくれ。 私の気持は神に誓って前と少しも替わって
いないが、この頃内府公は何となく私を避けている様子なので私も遠慮していると返答した。

佐渡守は、その様な状況を引延ばすのは良くない。 貴殿は月番でこちらに来ており、一方私が
上京した事も幸いである、早速今晩私と一緒に行こうと連立って家康公に面会した。 
家康公は対顔して雑談の中で長政に、 以前貴殿の家人五十貝の諌書の事で秀吉卿の機嫌を
損ない危難が迫ったとき、私が夜中に貴殿を訪ねて対策を立て無事に済んだ事を忘れられたか
と尋ねると長政は、縦令幾年過ぎてもその時のご恩は忘れるものではありませんと答えた。
その時家康公は、貴殿は口ではそう云っても心の中はそうでもなさそうである。 その理由は
去年秋に先公が薨去した時、日頃は夫ほど親しくない石田から八十島道与と云う家来を遣して
密かに薨去の事を知らせて来た。 一方貴殿からのその知らせもなく、太閤の指示と云い手紙を
添えて生鯉なとを持たせて(p203来た事は全く納得できないと云われた。 長政は大いに困惑
して御腹立は当然です。 それについては色々理由があるのですが、今それを申上げると申訳
の様にもなりますので申上げませんが全くの不手際でした。 太閤が他界されて間もないのに
こんな世の中になってしまいましたと云い頻りに落涙した。

家康公は長政の落涙を見て話題を替え大谷刑部少輔について、貴殿は奉行職を長く一緒に
勤めていたが、彼の人となりは如何かと尋ねると長政は、大谷は元大友宗麟の家来でしたが、
大友家が亡びて浪人となり姫路へきた時、石田光成の世話で秀吉卿の奉行に採用され知行は
百五十石で大谷平馬と名乗っていました。 非常に能力があり秀吉卿の意に叶い、次第に出世
して敦賀の城主を任され、秀吉卿から吉の字を戴き吉継と名乗り私共と一緒に勤めました。 
しかし近年悪い病気に罹り役職も辞退しましたが、その人柄は正直な性質で智恵才覚も備わり、
私共同役の中でも随一でしたが病気のため退職した事はたいへん残念な事です。石田とは一身
同体と云う程ではありませんが、親しくせざるを得ない事情もあるようだと周囲は言っておりました。
近く手が空いた時訪問し目をかける様に云われましたので詳しく申上げましたと答えた。
著者註 この話は世間に流布する書物には見当らないが、徳永如雲斎覚書に有るので書留めた。

             7-2 前田利家との関係修復
縁談騒動が円満解決し、四大老の中病気の前田利家を除いて(p204)三大老と五奉行は
伏見の家康公館を訪問し対談した。 これで完全に物静かになったと思えたが、又色々風聞が
流れた。 この対談に前田利家は夫ほどの病気でもないのに大病の様に言いふらして伏見へ
行かなかったとの事である。 そのため内府卿(家康)も疑心を持ち大坂を訪問しなかった。
残った大老達は、利家は利家、我々は我々なのに内府らしくないやり方だと非常に不満を持ち、
折角三中老の斡旋で双方が取交した誓文も反古と成りかねず、又大騒動になるのではと風説
専らだった。

その時細川越中守忠興は前田利勝を訪問し閑談の上で、先般の騒動の時は三中老の面々が
早く気付き仲介に尽力し騒動も静まったのに又色々風説があります。 但し今度は当家(前田家)
と内府卿の間で問題が起こっている様に聞きます。 理由は先般和談の時三大老は早速伏見へ
行ったが、利家卿は病気で行かなかった為内府卿も返礼として大坂へ下る様子が無く、三老の
面々や奉行衆が不快になっているとの事です。 この事を私なりに考えてみると今度内府卿と
九人の人々が和睦して双方が契約を交わし、御幼君の為に宜き様にと云う事は天下の大事でも
あります。 それなら大納言殿(利家)が病気で出られないなら、名代として貴殿が伏見へ行き、
内府卿と対談を持てば今度の風説は無くなりましょう。 つまりこれは御家の不手際から起こって
いると私でさえ思うので他人は更にそう思うでしょう。 大納言殿は御高齢(p205)の上、最近は
御病身でもあります。 御役目等も辞退され貴殿に家督を譲り、後々迄も内府公と親しくされれば
御家の為にもなるのではと私などは縁者としてこれを願っています。 十分お考えの上大納言殿へ
お伝え下さいと忠興は言葉を尽して説得した。
註1 細川忠興の長男忠隆(1580-1646)の正室千世は前田利家の娘
註2 前田利勝(利長1562-1614)前田利家長男、初代加賀藩主 

利勝は大いに忠興に同意してこの趣旨を父利家へ話したところ利家卿も、忠興の誠実な意見は
ありがたい事だ、幸い今病気も少しは小康を保っているので、この際伏見へ出かけるので宜しく
調整されよとの事だった。 忠興は喜んでその趣旨を伏見へ報告し、加藤清正、浅野幸長とも相談
して日取りを決め、二月廿九日利家卿は川船で上った。 清正、幸長、忠興も同じく船をならへて
登る。 伏見近くなると家康公は川御座の小船に乗って下り利家へ対顔の上、病中に遠方より
来られ満足の旨延べ、先ずは貴殿の屋敷へ落着かれた後お出で下さいと云ったが、直ぐに伺うと
の事なので、家康公はそれではお待ちしますとの事で帰館した。

利家卿は船から揚り家康公屋敷へ向かう乗物の両脇に三人衆が付添って雑談した。 門前には
結城秀康公が出迎え、利家卿は御病中ですから門内まて乗物で行かれる様と挨拶があったが、
利家は歩いて行くと家康公も出迎え座敷へ通し自身が相伴で饗応が行われた。 三人の衆は
別席で井伊、榊原が相伴した。 酒席で家康公は利家の家老神谷信濃守を呼び盃と刀を与えた
(p206)。御膳が済んで後利家は、今度各々が打合せて申入れた事は少しも私恨はなく、偏に
秀頼公の為と思いやった事であり気にされない様に、但しこの館は端に近く貴殿の居城される
場所ではない。向島の屋敷が上(秀吉)の用が無くなり明いているので、早速引移られるのが
良いでしょう。 私から云った事を他の衆中に伝えておきますので相談はいりませんと云うと、
利家は自分の屋敷にも立寄らず直に乗船して大坂へ帰った。

三月九日伏見で島津忠垣の家臣、伊集院右衛門大夫入道幸侃と云う者に不届があったとの事
で忠垣が彼を殺害したので幸侃の家人等が騒いでいた。 家康公は伊那熊蔵を派遣して忠垣方
に伝えた事は、伊集院の家来達が貴殿に対して若しも反抗するようであれば、その誅罰を行う時
に人数が不足するなら徳川家から加勢をするので、早々通知するようにと口上を伝えた。
伊集院は島津家来とは云え故太閤も知己の者であり、公儀を憚らず殺害した事は軽率だったと
忠恒は自分でも高尾寺に入て閑居していた。 家康公の指示もあり伏見に帰宅して間もなく
伊集院の家来達は話合って大坂へ下り日向国へ帰った。 そこで大坂在勤の四大老、奉行へも
通知し、忠垣は御暇を給り薩摩へ帰参する様にと指示した。

その後家康公は細川忠興を呼んで、老体の利家が病中にも拘わらず遠来頂いた事でもあり、
返礼として私も大坂へ下るので、貴殿より連絡して欲しいとあり、忠興が早速伝えると利家は
たいへん喜び、(p207)接待の準備を進めた。 
三月十一日 家康公が船で大坂へ下る時、屋形船の次の間に細川幽斎が居るのを見かけ、貴殿
は何故ここにと尋ねれば幽斎は、今日大坂へ下向なさるので息子越中守(忠興)がお供する予定
でしたが、先に行かざるを得ない用事があり昨夜出発しました。 その時船中でお相手のため私が
お供する様にと言残しましたので先ほどからお待ちしておりましたと。 家康公は、船中退屈と
思っていたが良く出て来られたと喜んだ。

大坂に午後二時前に着岸すると揚り場なとの掃除も利家方より手配されていた。 そこに古乗物
が一挺据えられ側には人もなく,供と思われる侍が七八人通りの道脇に下座しており、御供の
人々は皆不審に思ったが、家康公が船から揚ると古い乗物の中から藤堂佐渡守が這出して、
今日は日和も良く着岸なされ喜ばしい事です、 是より加賀屋敷迄の道筋の御用心のため
家来達に御案内を指示しておきました。 今晩は私宅でごゆっくりお休み下さいと云えば家康公
も満足の様子だった。

利家の屋敷へ着くと利勝と利政兄弟が共に門外で出迎えた。利家は痔病が発病ししたので、
事前に断り、式台の上に虎の皮を敷いて座り浅野長政と共に待っていた。 家康公の到着が
見えると式台の下へ下りて、遠来の所お出で頂き忝いとお礼を述べ、屋内では浅野長政が先導
して書院の脇にある小座敷で暫く対談した。 それが済み料理の時は、病気のためと断りを云って
利勝と長政が相伴した。 饗応の次第も利家が伏見を訪問した時は目通りする小姓衆(p208)だけ
が長上下だったが、今回は給仕の小姓は勿論、目通りする面々は全て長上下を着用しており、
格式ある接待だった。

それから饗応も終わる頃、石田三成が訪問して来たので御供の人々は勿論、玄関に詰めていた
利家の家来も驚いた様子だったが三成は式台で、今日は珍客を迎えられ御取込と察します。
ここで失礼しますと口上を述べて帰った。
著者註 この事に付いて今世間で流布する記録では、三成は黒衣を着て座中へ出たなどして
   いるがその様な事はない。 理由はその頃浅野長政に供した若侍の中に関蔵人、徳永
   太郎作と云う二人がいるが、 この日二人を連れていたので石田が訪問した時の様子を
   見ており、その時の太郎作が老後如雲斎と称したが、その覚書に記されている。

その日の夕方家康公は利家の屋敷を後にして藤堂高虎方へ入ったが、日頃親しくして出入り
する人々が先に到着して待っていた。 これらは織田有楽、池田輝政、福島政則、細川忠興、
浅野幸長、黒田長政、加藤清正、その外堀尾信濃守、有馬法印、金森法印、山岡道阿弥、岡
江雪、新庄法印等である。 但し新庄は伏見の屋敷から幽斎と同じ船で乗り下り、直接高虎宅に
詰めていた。
夜に入り利家からの使者として徳山五兵衛に浅野長政が付添ってきた。 徳山の口上は、今日は
お出で頂き忝い次第です。 参上してお礼を申上げたいところですが、(p209)御覧の通りの病気
で思うに任せず先ずは使者を通じて申上げますとの事である。 その後徳山は、今日も直にお話
した通り、いよいよ利勝の事を宜しくお頼みします。 それ付いて願わくば利勝を疎略にしない旨の
御一筆を下されると有りがたいのですがと云う。 

家康公は、先ほど榊原式部太輔を遣わし述べた様に、ご叮嚀な接待に預り有り難く存じます。
そこで私が利勝を疎略にしない旨の一筆を進上する事は、縦令貴殿から言われずとも
その積もりで居りました。 しかし明朝は早朝に伏見へ出立するので彼地から一筆認め進上
するのでよくよくお伝えに願いたいと答えた。 そこで浅野長政が、利家は御覧の通の病中です
から、一時も早く頂きたいと云うのも事実でしょうというと、徳山はそれを捉えて再度願うので
家康公の顔色が替わった。 有馬法印は中座して徳山に向って、貴殿は余計な事を言う、今まで
内府卿が一度申された事を違える事は前より決して無かった。 伏見から遣わすと云われる
以上はそのお考え通りにして置くのが良いと苦々しく云ったので、徳山もそれ以上言わずに
長政と共に帰った。
その後伏見より誓文を遣わし、利勝が私に対して別心が無い以上は云々と云う文言だった。

翌三月十二日早朝、高虎の屋敷を出立して伏見へ帰館する時、先には榊原康政、後には井伊
直政の供の人数があるので全体の数が非常に多く、行列を見物した人々は何時の間にあんな
大勢が大坂に入っていたのかと驚いた。
著者註 家康公が藤堂宅に一宿の時、石田三成は利家宅へ行き口上を述べたが、其後直ぐ
  小西摂津守行長方へ向かった。(p210) 事前の廻状により、毛利輝元、浮田秀家、上杉
  景勝三人の大老及び、五奉行の中浅野長政は当日利家方へ内府卿を迎える御相伴を
  頼まれて不在だが、その外の四奉行が集った。 そこで石田三成は、前田利家は長煩い
  で公儀の勤めもせずに最近伏見へ登り内府卿の饗応に預ったが、その時向島の屋敷へ
  住居を移される様と指示し、内府もその返礼ととして今日利家方を訪問した。 これは内府
  と利家は完全に癒着している様に見えます。 その上我々同役の中にも内府と親しいものも
  あるようですから、 この座の三大老及び我々奉行役はいずれ立場を失うのは明らかです。
  
  今宵藤堂宅へ内府が宿泊している事を幸い皆さんと相談したいと、三成が言終わらぬ内に
  小西が進み出て、大体において皆さんの先般の評議の趣旨を聞いて居りますが、全体に
  手遅れを感じます。三成が云う通り、内府が高虎宅に宿泊しているのは天が与えた機会
  ですから、一気に押寄せて内府は勿論、亭主の高虎も全て討ち果たすのが良いでしょう。
  その場合私が先手を受け持ちますと云う。 しかし輝元始め三大老は無言であり、増田長盛
  と前田玄意法印は三大老の方へ向かって、今両人の意見に我々は全く同意していません。
  その訳は今宵藤堂の屋敷へ押寄せて一戦に及び、縦令勝利を得たとしても、もし内府を打漏
  した場合、 公儀の指示でもないのに御幼君の御膝元で私に争い、(p211)上を恐れぬ狼藉者
  となるのは明らかです。 皆さんはどう思われますかと云えば三老の面々も無言で、長束大蔵
  等も増田、前田と同意見の様なので、石田と小西の企ては中止となった由
  以上を書記した書物等もあるが人々の伝聞には全く無い。 その上この時代に三大老、五
  奉行に廻状を回覧し、外様大名の小西の家に呼び集めるというのも考えられない。 従って
  これは虚説と思われる。

その後向島の屋敷の修復等が完了したので三月六日に引越の時、伏見在勤の奉行も豊後橋
へ出向き挨拶し、その外伏見の屋敷に居合せた大名方もお祝いとして向島の屋敷へ参上した。
日頃親しく出入りする人々が訪問し連立って帰るが、何故か有馬法印只一人が内証へ通
り御相伴をした。夜更け迄お相手をして帰る時、どの様な配慮か近習衆の中でも指名して法印を
宿迄送り届けさせ、その時も提燈を点さぬ様にと直接指示があった。

慶長四年(1599)閏三月二日加賀大納言前田利家が卒去、行年六十二歳だった。
著者註 ある説では前田利家は尾張国荒子の住人前田讃岐と云う地侍の六男に生まれ、
   織田信長卿の児小姓となり食禄三十石を給り勤めていた。 しかし信長卿の同胴十阿弥を
   手打にした為勘気を蒙ったが、二度に渡り信長卿の先手に加わり手柄を立てたので
   前の罪を許されて初めは知行百五十石を給わった。 以後段々と出世し、越前府中の城主
   となり、秀吉卿と柴田勝家の戦いの(p212)頃から秀吉卿に随った。
           
          7-3 石田三成と七人の外様大名との喧嘩
その頃大坂在住諸大名中で加藤清正、同嘉明、浅野幸長、福島政則、池田輝政、細川忠興、
黒田長政の面々が申合せて石田三成方へ使を立て申入れた、 我々は故太閤の命令で朝鮮国
へ渡って戦い、所々で軍功を上げ本朝の武威を振るったが先公御在世時是と云った褒賞も
無かった。 中でも一昨年の冬明軍は七十万の大軍で浅野幸長が守る蔚山の城を取囲んだ。 
その頃加藤清正は機弘と云う所に在陣していたが、蔚山の危難を聞き、兵船二十艘程に乗組み
蔚山へ漕渡り、明勢数百艘の軍船の中へ乗入れ、全て追散らして即時に蔚山の城に入り、浅野と
一手になり明勢を追崩した。 その時黒田長政も梁山に在陣していたが蔚山の後詰として急行
して大敵を追払った。
この三人の働きは人々が知っている事でたいへんな誉れであるが、福原右馬助、垣見和泉、熊谷
内蔵、大田飛騨、早川主馬の五人の目付達は口裏を合わせて疎略な報告をしたので、我々は
御褒美にも預からず心外千万である。 この侭で済ます訳には行かぬ故、厳しく審判してごの
五人全員に切腹を申付けられたいと。

その時三成の返答は、申入れの趣旨は全く同意できません。 何故なら各位に限らず朝鮮に
おいて戦功の有った人々へは先公御在世の時に夫々御感状を下され、その働き次第を書加えて
夫々褒賞されて済んだ事です。 主計殿(清正)、甲斐守殿(黒田長政)、左京殿(浅野幸長)
等は特別に厚く御褒美もある筈ですが、それが無かったのは先公のお考えであり、私なぞが知る
ところではない。朝鮮征伐に限らず、御用がある時は五奉行の仲間が集り相談の上決定(p213)
するので、私一人へ申入れられる事も理解できませんと返答して使者を帰した。

これに対して再び七人衆は使者を立て、戦いをして来た我々が一致して申述べた事を聴き捨てに
するとは無礼である。 全体朝鮮征伐については五奉行が各々立会い評議するのに、貴殿一人
の失策の様に我々が考えるのは理解できぬとあるは一応もっともに聞こえるが、先公が病気に
なられた後は、朝鮮関連に限らず全てに渡り貴殿一人が仕切る様になり、外の奉行方は殆ど
知らされていなかった事が我々の帰朝後詳しく知った事である。 其上前述五人の中で福原は
貴殿の近い縁者であり、残る四人も常々貴殿と親しいとの事であるから貴殿一人に報告したと
思われる、 この五人の輩を踏殺すのは実に簡単であるが、先公薨去の後間もない事と御幼君
を軽く見るような事にもなるので、審判の上処罰される様に申入れる。 これらの趣旨を十分に
思案され必ず返答されたいとの事である

この喧嘩の情報が佐和山(三成本拠)へも聞えたので、大山伯耆、高野越中等の頭分の者を初め
侍足軽共に至る迄続々馳上ってくると云う情報もあり、その様に人数を呼集めると一触即発になる
ので何れも伏見の屋敷に留まる様に指示した。 三成方では大坂在勤の人数計で何事も無い
様子で対応していたが、七人衆の夫々の屋敷では皆人数を呼集め、乗馬等にも鞍を置、今にも
三成の返答次第で馳出す支度をして不穏の様子であり大坂中が大騒動となった。

折しも秀頼卿の近習の侍に葉島(p214)治右衛門と云う者がいたが、彼は元来三成の部下の縁者
で日頃親しく三成方に出入りしていたが急に駆け込み、七人の面々が今日の夜中頃当屋敷へ
押寄せて必ず三成を打果す相談が一決したと確かに聞きました。 それなのにこの様に油断は
なりませんぞと云うので三成も当惑して、自筆に書状を認めて宇喜田秀家と上杉景勝方へ持せた
が、承ったと返答はあったが緊急の事で当座の策もなく何も返事が来ない。 三成は家来を呼
集めて評議したが夫々色々な事を云い結論が出ない。 そこへ佐竹修理大夫義宣が、伏見で
今度の騒動を聞き、日頃三成と親しくしているので見舞いの為大坂へ下向してきた。 義宣は
召連れた人数は森口辺に留めて置、手廻りだけで三成の所へ見舞った。

三成は今度の喧嘩の一分始終及び葉島の情報を述べて義宣の意見を求めた。 義宣は、葉島の
云う事は必ずしも真実とは思われません。 理由は七人の面々が今宵夜中に攻める事が本当なら
深く秘匿する筈で、この様に噂が出るとは考え難い事です。 だからと言って貴殿がこの屋敷に
その侭住むのは、どちらにしても好ましくありません。 病気と云う事にして在宅の様に見せかけ、
当分の間外に住居するのがよいと思いますと云う。 三成は兎も角宜しくと云い義宣と同道して
宇喜田中納言の中島の屋敷へ行くと、秀家、景勝両人も参加して義宣と三人で相談となった。

景勝が言うには、私が七人の立場で考えれば、最初から申出なければ其の侭だが、一旦世間に
話が広がってしまった以上この侭では済まされない事です、 これ以上は内府卿が納得され七人
の面々を(p215)説得する以外なく、他が仲裁して済むものではないと思います。 この時義宣も、
私も貴殿と同じ考えです、そこで今度私が帰宅する時三成も伏見へ行くのどうかと云えば、秀家、
景勝両人もそれに賛同した。 しかし三成を同道するとなると貴殿の部隊だけでは不安もあるので
我々の方からも見送り人数を加えようとあったが義宣は、皆さんの云われるのも当然ですが、
それは三成のために良くありません。私に案がありますのでこの義宣にお任せ下さいとの事で
秀家、景勝両家の見送りは取り止めとなった。

さて義宣の計略として三成は女乗物に乗り義宣の家来に混じって大坂を出、道中は何の問題
もなくその日の夕方伏見の屋敷に着いた。
義宣は直に向島の屋敷へ参上して家康公と対面し大坂騒動の次第及び帰宅の際に三成を
同行して来た事を詳しく報告した。 家康公は、この喧嘩の事は私も聞いており、時節柄軽率な
行動があってはならぬと内々で和解する様に池田輝政に再三云ったが、決着が未だ付かないと
云うので心配していた。 都合よく貴殿が下向され三成を当地へ同行した事は喜ばしい。 三成
が当地に居る以上、そのほうが良いでしょうとの事だった。

石田三成が伏見へ到着した日の夜、本多佐渡守が向島の屋敷を訪問すると小姓衆が薬を煎じて
いるので、殿様はと尋ねれば、少々お風邪の様で今寝室に入られました、この薬(p216)ができ
次第召上るとの事で未だお目覚めですと云う。 それでは佐渡守が来た事を申上げてくれと
云えば直ちに呼ばれた。 家康公はふとんの上に座り、其方は夜中に何事で来たのかと云われ
佐渡守は、別の事ではありませんが石田三成をどうするお積りですかと問うと、されば、その事を
色々思案していると云わたので佐渡守は、御思案中との事であれば私が申上げる事はあり
ませんといって帰った。
著者註 この件はある時土居大炊頭殿が寺田与左衛門、大野仁兵衛などへ雑談したとの事で
   大野知石が私へ話した事を書留めた。 今その時代の事を書記した書物の中には、
   その夜佐渡守が家康公に申上げた事は、若し天下を御望みであるならば、三成を助け
   置かれます様にと云ったと記し、又ある本では今度三成を彼らに思うように殺させますと、
   この七人の大名に奢り心が出て扱い難いものになるでしょうと諌めたとする本と許容した
   とする本もある。 何れが正しいか分からない。そこで大炊頭殿が云った事を書留めた。

その頃大坂の七人衆は佐竹義宣の世話で三成が大坂を忍び出て伏見へ立退いた事を聞き、
事態を引延ばして討漏した事は残念として夫々が伏見へ馳上った。大坂から人数を呼寄せ
各居屋敷へ取籠り、是非にも三成を討果そうと云う雰囲気で伏見中の騒ぎとなった。
この時池田輝政も一緒に伏見へ移動したが、(p217)向島の屋敷へ使者を遣わし、私は用があり
御当地へ来ましたが道中より気分が悪くなり、当分お見舞いは出来ませんと云う口上だった。
家康公は詳しく聞いていたが、知らない立場で通り一遍の返答をした。 その後伊那図書を呼び
口上を含めて輝政方へ遣わした。 輝政は図書へ、この事に関しては大坂でも二度に渡り、
ご意見を頂いているが、同列中に対して遠慮もあるので、幾ら内府公の指示でも私の立場上
応じられない。 幸い明日夜七人衆が私の屋敷に集るので、その時に来られ皆が聞く前で口上
を述べられるのが良い、と輝政は云うので図書はその日は帰った

翌日夜中になると図書は輝政方へ来て、口上の件を伝えると皆が列座する中へ出る様にとの
輝政の指示で、図書はその中に出て輝政に向かい、内府があなた様へ言われるのは、前にも
大坂で申入れた通り、今は御幼君の代でもあり、世の中が物静な事が私や人々の願いです。
中でも各位については先公の厚恩を蒙った方々ですから、特に天下が静謐である様に願うべき
にも拘わらず、今度の騒動を起こすとは私の思いとは違う様に思われます。 その上三成は各位
に敵対する事を避けて大坂を退去して当地へ来た以上は、もうそれ迄にすべきところ各位共に
追ってきて、是非とも三成を打果たすとの事で当地の騒動と成りました。 但し各位も一度口外へ
出された以上、そのままにしては置けないのは分かります。

しかし私も故太閤の御遺言により秀頼卿の後見を勤める以上、公儀の為と思い二度に渡り考えを
(p218)各位に伝えましたが許容がなく、かと云って三成を各位の思う様にさせては私の立場が
ありません。 この上においても許せないと云う事であれば各位の返答次第で結城秀康を迎えに
遣して三成を私の手元へ引取る外はありません。 その途中でも又私が引取った後でも、人数を
向けて三成を打果すのは各位の勝手次第と、図書は言葉を尽して口上の趣旨を伝えた。

一座の人々は一言もなく当惑の様子だったが、輝政は図書に向って、必ず皆が相談の上で
御返答するので、其方は先ずは勝手へと云うので図書が立上った後で皆が相談した。 
その後で図書を呼び加藤清正と福島政則の両人が中心に座り返答したのは、今度私共の喧嘩
の件で大坂へも二度に渡り御内意を下さり、又今度お考えをお聞かせ頂き承知しました。
私共は三成に対しての恨みは決して浅くはありません、その上世間に流れた事をそのままにして
置くのは心外です。 しかし今公儀の御名代である内府卿の仰に違背する事も出来ず曲げて
御指示にお任せするのが皆の意見であるので宜しく申上げられたいとの返答で静かになった。
著者註 その時代の事を記した書物の中にも大筋はあるが、詳しいものは無いので徳永如雲斎
  覚書の通りを書留めた。

          7-4 石田三成の佐和山蟄居
この時中村式部と生駒雅楽の両人同道して向島へ参上して、今度の喧嘩について大坂で
宇喜田秀家(p219)、上杉景勝が同役の堀尾帯刀へ云われた事は、今度の事は双方の為にも
中老三人が相談して何か良い解決が出来るよう仲裁する様にとありましたが帯刀は、我々共三人
は五大老と五奉行の皆さんの間で何か異変があれば仲介する様にと先公からの遺言です。
今度の事は七人の外様大名と石田三成との私怨に基づくものですから、私共が介入する筋では
無いと答えたので私共両人もその積もりで居る様にと帯刀が言っておりました。 ところが石田が
大坂を立去り御当地へ上ったので相手の面々も後を追い掛けたと聞きました。 それでは今度
御当地の騒動となるので、若し私共の方へ御指示もあるかも知れぬから三人で参上しようと相談
しましたが、帯刀は病気になり快復次第参上するとの事で私共両人が先に伺う事になりました。

本件は中々簡単には解決しそうも無いと思って居りましたが以外に鎮静したのは、石田を内府卿
が引受けるとの御口上の趣旨に沿い、七人衆は大いに感じ入り早速御指図次第との返答で事が
鎮まったと聞きました。 それはたいへん良い事だと私共両人は話しておりました。 
家康公は、今度の喧嘩は縦令石田にどんな誤りがあったとしても、先公の代から五奉行の重職に
任じられた者であり、七人の面々が私怨により討果そうとするのをその侭見過ごしては公儀の立場
が成り立たず、これは石田は勿論、七人衆の為でもあり、私の考えを伝えたものですが、皆が納得
して事が鎮まり、私も喜んでいます(p220)

ところでご両人は今後もこの侭で済むと思われますかと尋ねれば両人は、七人の面々もあなた様
からの口上の趣旨に違背はし難いので止む無く我慢した様子ですが、 本心は中々和らく様子は
ありませんので今後の事は予想できません。 その上石田は大坂を退去する時、七人の面々へ
敵対出来ないので、あなた様の御膝にすがる事を考えて大坂から忍んで御当地に逃登ッた事など
から考えるとと今迄の様な重職を続ける事は無j理ではないでしょうかと答えた。

家康公はそれを聞き、皆さんもその様に考えられるか。 それではご両人同道して三成方へ行き。
今度の喧嘩騒ぎは鎮まったが、貴殿がこの際世間に出ると又どんな事になるか予想できず、
御幼君の時代と云い世上が物静でなければ公儀の為にも宜しくないでしょう。 ここは理を非に
曲げて今は佐和山へ行かれるのが良いでしょう。 この以後直に隠居などの願いがあれば全て
首尾よく相談します。 御子息の隼人正に付いては内府に任せて置けば良いと、よくよく言い
聞かせる様にと云えば両人も委細承知した。 併し出来れば御家来中の内一人私共へ添えて
欲しいとの事で酒井河内守を副使とした。 
三人同道して三成方へ行き、内府卿の意見や又七人衆へ伊那図書を遣わしての口上の次第
等を詳しく両人が伝えた。 三成もたいへん喜び、この上は内府卿の御差図次第にしますが
返答は一両日過ぎてから皆さんに連絡しますとの事で(p221)三人共に帰宅した。
著者註  この三成の返答引延ばしは中老両人と酒井を添えての家康公からの口上の趣旨を
  宇喜田秀家、上杉景勝、小西行長の三人と相談する考えで即答しなかったと思われる。

それから一両日過て三成は中村、生駒両人を招いて、この間内府卿より各位を通じての御意見
に任せて近く佐和山へ行きます。 この件内府卿へお伝え下さいとの事だった。 
両人は向島へ参上して報告したが、家康公は、七人衆はこの間私の方への返答では大坂に
帰る事になっているが、私の縁者の輝政を始め皆未だこの地に逗留しているとの事です。
多分問題は起きないと思うが、佐和山へ帰る時の見送りとして結城三河守秀康を派遣するとの
事を両人も承り、それは良いお考えです。その際私共両人も、三河守殿の道中相手に同道
しますと云えば、それは各位ご自由にとの事だった。

閏三月十三日の早朝に三成は伏見を出発し、秀康公及び両中老も伏見を出発したところ、醍醐
山科の辺に来ると三成の家来高野越中、大山伯耆、筧兵庫なとと云う者が騎馬の士を大勢連れて
あちらこちらから出てきて三成の手廻りの者に混じった。 三成は関寺の辺に来ると高野越中を
通して秀康公へ、御覧の通り私家来共も迎として佐和山より来て人数も多くなりましたので、ここ
から御帰宅下さいと断ったが、秀康公は承引せず瀬田迄来たところ佐和山に残っていた三成の
家来(p222)大場土佐、柏原彦右衛門なと云う頭分の者が侍、足軽を連れて迎えに来た。

三成は瀬田の大榎木の下で秀康公が来るのを待ち、是迄御見送り頂き忝い次第です。 御覧の
通り私の家来共も段々人数も多くなりましたので是で御帰り下さいと云えば秀康項は、私は佐和山
の切通し迄貴殿を見送る様にと内府から命じられていますので、そうは行きませんと答えた。
そこへ両中老も来たので三成は、私の家来も多くなったので御見送りは不要と再三御願いしたが
少将殿(秀康)は了承ありません。 私の家来達も来ているのに猶も御見送りとあっては私の男が
立ちません。 それでも帰れないと云われては私はこの場所に幾日も逗留する事になりますと云う
両中老も、三成の強い御断わりの上は是で御帰りになるのが良いでしょう、我々も是で帰宅します
と云う。 そこで秀康公は帰る時、土屋佐馬助と云う者を佐和山の城迄見送る様にと指示した。

三成もそれを見ていたので佐和山近くになると、侍二名に命じて必ず城内に誘う様にと指示した。
左馬助は切通しの少し手前で帰ろうとするのを両人の接待役の者が、城内へ御同道する様に
主人三成から堅く命じられて居りますので、是より帰路に就かれては私共の手落ちになりますと
強く言うので左馬助は仕方なく城内へ入った。 三成は式台迄出て左馬助を書院へ通し叮嚀に
接待した。 その上自身で刀を持出して左馬助へ向って、この刀は故太閤より拝領した私の秘蔵
だが貴殿へ送ります。 若しも三河守殿が御覧になり指料等にも(p223)なれば私の大慶ですと
手づから渡した。 この刀は今でも石田村正として松平越前家の重宝との事である。
著者註 三河守へ三成が刀を贈った事は世上に流布する記録では瀬田での事の様に書記して
  いるが、その説は間違いで私が書記したのが事実である。 その訳は三河守は天正十八年
  以後は結城の名乗りだが、それ以前は秀吉卿の養子であり、近江中納言秀次の舎弟である。 
  故に三成等も深く世話した人であるので、軽々しく瀬田の海道で刀など進上する筈はない。
  
さて中村、生駒両人は瀬田より帰り、翌朝に向島の屋敷へ参上して三成が伏見を出発し、瀬田
迄同道した報告をした。 その上で、結城殿は召連れた足軽共が所持する鉄砲五挺の内一挺宛に
火縄に火を付けさせて、家来衆も胴丸腹巻等を着る様にに指示した様子でした。 三成が瀬田で
強く断り、私共の考えも申上げて御帰りの節、 家来の土屋左馬助に佐和山迄の見送りに
遣わされた事など、未だ年若なのに良く気の付く事と両人話して居りましたと云ったところ、家康公
は皆さんにその様に思われとは少将にとっても光栄だと云った。

          7-5 内府卿、向島屋敷から伏見城本丸へ
その頃四奉行の面々が相談して三大老方へ伝えた事は、内府卿は今向島御屋敷に居住されて
政務の執行をされているので、全ての公事、訴訟人は向島へ集まるので京伏見に滞在する諸
役人も裁許の日には夜中より出張し日暮になり(p224)帰宅するので皆疲労しています。 私共
も伏見へ交代で御城番を勤めていますが、決済日には夜中より向島へ出勤し、決済が済んでも
内府卿への報告、相談等があり、夜になり御城へ帰る状態が毎回です。 これでは城内の取締り
も宜しくありませんので、内府卿が伏見の御城に居住される様にしたいのですがと奉行衆全員で
申述べた。

三老中もそれが良いと云う中で上杉景勝は、伏見の御城では同じ事だから此大坂城内西の丸
へ内府卿に移って頂いてはどうだろうかと云う。 四奉行の中から浅野長政は、前に秀頼様が
御当地(大坂)へ御引移りの時、 加賀大納言殿が私に云われた事は、内府卿は今迄大坂に
屋敷も無いのでどこか屋敷地を申請して、御幼君の御膝元で後見するの良いとの事で私がその
事を申上げましたが内府卿は、私の居屋敷を作る事はどの様にでもなるが、家老の居屋敷を始め
藤の森の下屋敷に置く家中の者の居所も建築するのは簡単ではない。 その上今京都に決まった
所司代も無い状態では禁中守護のためにも私は当地に残って政務を行うので、五奉行の内から
一人宛交代で御城代を兼ねて詰めれば良いのではと言われ利家卿もそれが良いと決しました。

今度も内府卿だけは西の丸に居住されても、家中の者の居所が無いので、心得ましたと云う返答
は無いとおもいますと。 その時秀家は、内府卿が納得しない事を言っても仕方ないので、伏見の
(p225) 御城に居住されるのが良いと皆が思っていると伝えようと三中老を招いて、内府卿が向島
の御屋敷に居られ、諸役人を始め公事訴訟人等に至る迄困窮していますので、伏見の御城本丸
に御移りになられてはどうかと私共及び奉行衆が考えている旨伝える様にとあった。
三中老伏見へ上り向島の屋敷へ参上して伝えたところ、 家康公は、私が当所へ移ったのも各位
が御存知の通り利家の指図によるものです。 今又三大老、奉行衆が云われるなら兎も角そう致し
ましょうと云う事で、閏三月十三日伏見の城へ移られた。
著者註 この咄は徳永如雲斎覚書による。 浅野長政はその時の奉行職でもあるので実説と
   思われる。 
   この時代の事を記した書に黒田長政が家康公に伏見の城へ移ってもらいたいとの思いから
   堀尾吉晴と示合せて三中老が相談して四奉行の面々に合意させて三大老へ伝えたと書記
   したものもあるが、それも一理ある。 伏見の城へ入る事が関東へ聞こえ、秀忠公から黒田
   長政への書状が黒田家に伝わるとの事である。 しかし奉行の面々が三大老へ伝えた事は
   如雲斎覚書の通りではないだろうか。 又御城入りの事は堀尾吉晴の密通により。徳善院 
   玄意法印の当番日に伏見の城へ移ったと書いた本もある。 この文書を考えて見ると何か、
   才覚か手段を使って移った様に聞こえるが、(p226)三大老、四奉行が相談の上で伝えた事
   は間違い

   早水独斎と云う老人の咄を以前聞いた事がある。 この通り三大老より三中老へ伝えた時
   宇喜田秀家が堀尾帯刀へ向って、内府卿が伏見の御城へ移られても本丸と大手の門番
   は御当地(大坂))より物頭の面々が交代で勤める様にと云うので堀尾が伏見でその事を
   徳善院へ伝えれば、それは大老職の差図とは思えません、 その訳は以前内府卿が
   向島の御屋敷へ移られる時、向島御屋敷付の諸役人は一人残らず退去し、諸門の管理は
   内府卿の家来が勤めました。 そこで当御城の本丸、大手の番人だけこちらからと言う事は
   どうかと思います。 私の考えもありますが、内府卿が御城へ移られる日にちは決まっていた
   のに、私の方への通達を引延ばして二三日も前に連絡があり、来る十三日に御移りになる
   との事です。 その当日には諸門の鍵を残らず徳善院方より井伊直政へ渡したので、本丸、
   大手の番等は徳川家の物頭衆に替わった。 この事の次第を聞誤って堀尾吉晴と徳善院が
   密通と書記したものと思う。

   落穂集第七巻終
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